妖魔世界図   作:オンドゥル大使

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第26話「心の求める理想」怨霊調伏篇

 

 レンが電球を買いに行っている間、ミヤビは事務室のソファに寝転がっていた。対面のソファに座ったミャオが、「お行儀悪いよ」と注意する。ミヤビは起き上がって、ミャオへと頬を擦りつけた。

 

「ミャオちゃんも可愛いなー。ねぇ、私とデートしない?」

 

 ミャオはミヤビから身体を離し、身の危険を感じたのか猫の姿に戻って毛を逆立てさせた。猫の姿のミャオへとミヤビがにじり寄ると、ミャオは威嚇した。

 

「それ以上近づくと、爪で引っ掻いちゃうんだから」

 

 前足を振るって主張すると、ミヤビはしまりのない笑みを浮かべながら、「えー。それでもミャオちゃんを抱き締めたいしー」とゆっくりと近づいた。ミャオが慌てて駆け出し、ちょうど急須からお茶を入れようとしていた春日の足元に隠れた。春日が微笑んでミヤビをいさめる。

 

「その辺にしておいてください。見境がないと嫌われますよ」

 

 その言葉にミヤビはむすっとしてソファに座り込んだ。

 

「見境ないわけじゃないけどね。可愛い子だけ狙ってるし」

 

「それはそれで問題ですね」

 

 春日が湯飲みをミヤビの前に置く。ミヤビはお茶を一気に飲み干して息をついた。春日が執務机の前に立ち、湯飲みを口に運びながら尋ねる。

 

「ミヤビさん。本当にこの決断でよかったんですか?」

 

「この決断って何? 私、そんな大層なことをした覚えはないんだけどー」

 

 おどけるようなミヤビの言葉に春日は僅かに目を細めた。全てを見通している瞳に、ミヤビはため息をついて頭を掻き毟った。

 

「……春日さんには、嘘つけないか」

 

「雇い主ですから。その辺りはしっかりとお聞かせ願いたいですね」

 

「大丈夫よ。金海神社に挨拶していたおかげで巫女として雇ってくれることは決まったし、今までみたいな生活はできなくても貯金もあるし」

 

「そうではなくって」

 

 春日が執務机に湯飲みを置いた。その音が静寂の事務室の中へと波紋のように響き渡る。ミヤビは少しだけ沈黙を挟んでから、一つ頷いた。

 

「そう、ね。私はレンと一緒に戦った時に決めたの。これからは桐宗の巫女としてではなく、桐坂ミヤビとして生きるって。大人なのに、今の今まで決断ができなかったことは悔やまれるわね」

 

「だから、髪を切ったんですか」

 

「ああ、これ?」と自嘲気味に笑いながら、ミヤビは思い返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「桐宗の巫女を辞める?」

 

 本気で言っているのか、と問いかけるマネージャーの声にミヤビは頷いた。あの場では気を失いかけていたのに、今は強気にミヤビへと言葉を投げてくるマネージャーを真っ直ぐに見据えた。ぐっと握り締めた拳に力を込める。金海市のホテルの一室で薄闇の中、相容れない者同士が向かい合っている。

 

「もう、決めたことだから」

 

「馬鹿な。桐宗の巫女でいればいつまでも地位も名誉もあるっていうのに、それを自ら捨てるって言うのかい? 失敗を恥じているのか? 前回の撮影は洋館の安全点検の不備が原因だ。君が原因じゃない」

 

「そういうことじゃない」

 

 呆然とするマネージャーへとミヤビはもう一度、同じ言葉を告げた。そういうことじゃない。心の奥深くに根付いている迷いから己を解き放つには自分から踏み出すしかないことをレンと春日に教えてもらった。

 

 ――それに。

 

 ミヤビの脳裏にあの洋館に住まっていた座敷わらしの姿が思い起こされる。座敷わらしは、鬼を浄化した後、ミヤビの前に姿を現した。ミヤビにはその表情こそぼやけていたものの、赤い着物姿はしっかりと映っていた。春日が屈んで、「依頼は終わりました」と告げると、座敷わらしがミヤビへと目を向けたような気がした。ミヤビはどきりとして固まっていると、不意に頭へと声が響いた。

 

 ありがとう、という言葉だった。

 

 今までも幾度となくかけられてきた言葉ではある。しかし、偽りの上で救ってきた人々ではなく、本当に自分が目の前で救った存在に礼を言われるのは初めてだった。

 

 座敷わらしはそれだけ言って消えていったが、ミヤビはその言葉が今の自分を動かす原動力になっていることを感じていた。ならば、行動で示すしかない。その覚悟を。ミヤビはキッとマネージャーに視線を据えた。マネージャーが怯むように後ずさるが、まだ諦めているわけではなかった。

 

「……桐宗の巫女がいなくなれば、それだけでも打撃は大きい。君は自身の価値を過小評価している。もっと、組織に対して自分がどんなポジションなのか自覚すべきだ。君は――」

 

「マネージャー」

 

 遮った声にマネージャーが声を詰まらせた。「な、なんだい?」と尋ねる声に、ミヤビはゆっくりと言い放った。

 

「あなたは一度だって私の名前を呼ばなかった。あなただけじゃない。誰一人として、桐坂ミヤビを必要としていなかった。あなたたちが必要なのは桐宗の巫女と偶像でしょう? だったら、代わりを見つけてくればいいんじゃない? 私の時のように」

 

 マネージャーが目を見開く。ミヤビは身を翻した。代わりなどいくらでもいるはずだ。また自分のように不幸な人間を見つければいい。仮初めの幸福に満足する少女も中にはいるだろう。自分には合わなかった。理由はそれだけなのだ。

 

「……駄目だ」

 

 マネージャーの呻くような声に、ミヤビは振り返った。マネージャーは懐から一振りのナイフを取り出した。震える手で突き出し、ミヤビへと焦点の合わない目を向ける。

 

「君が辞めれば、僕が責任を取らされる。桐宗の恩恵にあずかれなくなる。どうしてくれるんだ。僕はもうすぐ結婚しようと思っていたのに。お前のせいで人生滅茶苦茶だ! そんなことになって堪るか!」

 

 吐き出される怨嗟の言葉に、ミヤビは顔を伏せた。確かに、誰かの人生を滅茶苦茶にするような行動かもしれない。代わりの少女にも、マネージャーにも迷惑をかけるだろう。しかし、それ以上に我慢ならないことがあった。

 

 マネージャーが叫び声を上げてミヤビへとナイフの切っ先を向けて突っ込んだ。二つの影が重なり合う。ミヤビは突き出されたナイフを両手で掴んでいた。刃が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。しかし、その痛み以上にミヤビは苦悶に顔を歪めて言った。

 

「もう、仮面をつけるのは嫌なのよ」

 

 ミヤビの手から血が滴る。ようやく自分のやったことを実感したのか、マネージャーがナイフを握る手を緩めた。ミヤビはナイフを奪い取り、髪へと刃先を当てた。マネージャーが驚愕の眼差しを向ける。ミヤビの足元に切り裂かれた髪の束が落ちた。ざんばらの短髪をかき上げ、ミヤビはナイフを捨てた。

 

「桐宗の巫女はもう死んだわ。ここにいるのはただの人間である桐坂ミヤビよ」

 

 マネージャーは何も言わなかった。震える手に視線を落とすと両手を顔に当てて呻き声を上げた。膝から崩れ落ち、涙が数滴下る。ミヤビは今度こそ身を翻した。慟哭が響き渡るホテルの一室を、桐宗の巫女としてではなく、桐坂ミヤビは沈黙を答えにして立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「買ってきたぞ、電球」

 

 事務室に着くなりレンがレジ袋を掲げると、春日が出迎えた。お使いを押し付けた当のミヤビはソファに寝転がって高いびきを上げている。

 

「なんだよ、人に任せておいて寝てんのかよ」

 

 レンはつかつかとソファへと歩み寄ると、その腹に拳を振り落とそうとして、はたと躊躇った。春日へと視線を向け、

 

「曲がりなりにも女を暴力で起こすのは、さすがにまずいか?」

 

「まずいですね」

 

 春日が微笑みを返す。レンはため息をついてミヤビの肩を掴んで揺すった。寝ぼけ眼を開き、口からよだれを垂らしながら、ミヤビはレンの姿を認める。

 

「あれ、レン。帰ってきてたんだ」

 

「帰ってきたんだよ、今。寝るなよ、まだ夕方だぜ。あと、頼まれていた電球も買っておいた」

 

 レンが親指で示すと春日が受け取ったレジ袋を掲げた。ミヤビは、「そうなんだ」と他人事のように言って大きく伸びをした。口元のよだれはそのままで、寝癖さえも直そうとしない。

 

「ミヤビ。寝癖と口元によだれ。最悪の格好だぞ」

 

「う、うん」とようやくよだれを拭って、髪を手で解き始める。情けない姿に、「しっかりしてくれよ」とレンが口にする。

 

「これからこの事務所で働くんだろ。それだっていうのに、そんな調子じゃ困るぜ」

 

「うーん。まぁ、神社の巫女と掛け持ちだけどね」

 

 よろよろとミヤビが立ち上がる。目を擦って大きな欠伸をした。レンが呆れた様子でそれを見ていると、春日は思い出したように手を打った。

 

「そういえば、お二人に頼みたい仕事があるんですよ」

 

「なんだ、また厄介ごとか?」

 

 尋ねるレンへと春日は、「いえいえ」と首を横に振った。

 

「レン君には前から頼んでいたお仕事ですよ」

 

 その言葉に二人は顔を見合わせて、同時に首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黄金の光の軌跡が、影の動きに沿って払われる。影は六本の足をくねらせて壁をかさかさと移動した。如意棒を持ったレンが影を先回りするかのように走り込み、その眼前の床を抉った。破片が飛び散り、影が驚いて月の光の下に照らし出される。背中の部分に眼球を背負った妖怪――かげおどしは、今度は反対側へと逃げようとする。その動きは意外にも素早い。ジグザグの軌道を描いてレンの如意棒の攻撃軸をぶれさせようというのだろう。

 

「させるかよ。ミヤビ!」

 

 その声に柱の影から躍り出たミヤビが拳を突き出してかげおどしへと突っ込んだ。かげおどしが驚いて急制動をかけようとする。反転したかげおどしの行く手を遮るようにレンの伸ばした如意棒の柄が床へと食い込んだ。再び身を翻そうとしたかげおどしへとミヤビが打ち下ろした鉄甲から迸る黄金の電流が撃ち込まれる。かげおどしが眼球の下にある唇から叫び声を発する前に、鉄拳がかげおどしごと床を抉り取った。電流が放出され、月明かりだけの廃ビルを一瞬照らし出す。ミヤビはゆらりと拳を持ち上げた。かげおどしの姿は影も形もなかった。レンは如意棒に、「戻れ」と指示して肩に担いだ。

 

「お疲れさん。依頼は完了だ」

 

「なーんか、初依頼が妖怪のゴキブリ退治って、パッとしないっていうか、格好つかないわね」

 

 ミヤビの小言にレンは、「そう言うなよ」と返した。ミヤビは汚れを払うように手を振るいながら、レンの視線の先を見た。今宵の月が廃ビルの窓枠に捉えられていた。一枚の絵画のように見える光景に、ミヤビは思わず感嘆の息をついた。

 

「月って、あんな風に見えるんだ」

 

「月も見たことないのかよ」

 

「ゆっくり見たのは子供の時以来かな」

 

 ミヤビがまだ孤児院にいた頃の話だ。それ以来、月も星もまともに見たことがない。いつだって桐宗の嫡子であるべきことを自分に強いてきた。自由になって、こうして月を見ることになるなど、思いもしなかっただろう。

 

「ミヤビ」とレンが名を呼んだので、顔を振り向けると何かを投げてきた。缶ジュースだった。どうやら画材ケースの中に入れておいたらしい。

 

「いつ買ったのよ」

 

「仕事の前にな。こんな初仕事だけど、祝杯を挙げようぜ。名月を肴にして」

 

 レンも缶ジュースを持っていた。ミヤビは、「ジジくさいわね」と言いながらも微笑んでいた。少しだけ、素直に笑える回数が増えてきた気がする。これからもっと増やせばいい。きっと、レンたちとならば失っていた自分を取り戻すことができるはずだから。

缶ジュースを掲げ、二人同時にプルタブを引いた。静寂の中に小さなその音だけが明瞭に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左手に哪、右手に仛の文字が浮かんだ時、なすべきことが脳裏に浮かんだ。

 

 世界が色を変え、青い空が暗色に沈み、月が赤い光を放って慟哭する。草木がすすり泣き、無生物が叫び声を上げる。その声は彼にのみ聞こえていた。最初は頭がおかしくなったのだと思っていたが、両手に浮かんだ文字を見れば、冷静に物事を分析することができた。今まで生きてきた全てはこの時のためにあったのだ。脳髄の奥から泡沫のように浮かんでは消える記憶がそれを物語っている。同じ血を分けた弟にはその文字は浮かばず、彼のように声が聞こえることもなかった。

 

 両親も息子がおかしくなったと思って病院を勧めたが、彼は頑として聞き入れず、ついには疑問を抱いた。この親は本当に我が父母なのかと。脳裏を掠める記憶の中に、彼は真の父母を見ていたがために偽りに甘んじるつもりはなかった。

 

 その日のうちに、家族を殺そうと思ったことに何の疑問も抱かなかった。

 

 手に刻まれた文字から流れ来る力に身を任せ、彼は今までの人生を清算する意味を込めて全てを捨てる決意をした。自分という人間がこの世に存在したことをまず消すことだ。そうしなければ何も始まらないという気持ちがあった。家は焼き払った。この世に存在した、「鈴白ソウジ」の名前を捨てるのにさして時間はかからなかった。家族の死体と共に友人の死体を混ぜておいたからだ。その友人はよく出奔を繰り返していたので、誰も疑わなかった。こうして「鈴白ソウジ」はこの世から抹消され、彼は新たなる名前を名乗ることになった。

 

 身のうちから衝き動かす使命感が両手の文字となって彼に命じる。

 

「あと、一年か。その間に全てを成そう」

 

 身体が軽くなった感覚と同時に彼は気づいた。睡眠も食事も必要としなくなっていることに。朝と夕の陽の光を浴び、月の光に身を浸せば全てが事足りた。そのような生活が一ヶ月ほど続いた後、彼はかねてより記憶が命じていたことを実行するためにある街にやってきた。金魚を御神体とする街、金海市。その神が祀られている金海神社へと赴き、彼は自分が滅ぼすべき相手の名前を聞いた。

 

「帷、レン。今回はそのような名前を名乗っているとはな。十度目か。此度は如何様になるか……」

 

 立ち去り際、本殿に祀られた神が名を尋ねた。彼は両手に刻まれた名を答える。

 

「神仙、哪仛(なた)ソウジ。全てを終わらせるため現世に参った」

 

 

第三章 怨霊調伏篇 了

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