妖魔世界図   作:オンドゥル大使

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第5話「鏡面世界の処世術」金海怨神篇

 

 初めてこの体質が発現したのは記憶を辿れば、六歳の頃であった。神社の境内でなにやら奇妙なものが見えたのだ。金色の狐に見える何かだったが、街中の神社にそんなものがいるはずもない、と思った。

 

 しばらく境内で遊んでいると、そちら側からしきりに呼びかけられる。レンは歩み寄り、見やると狐が二足で立って喋っていた。

 

「お前、見えるのかエ」

 

 そう言われた時にはどういう意味だか分からなかったが、狐が喋るものではないと知っていた六歳の頃のレンは気味が悪くなって逃げ出した。それ以来、妙なものが見えるようになった。

 

 取り憑かれたりすることがないのは〝体質〟なのか分からなかったが、そういったものが存在する世界が自分たちの普段生活している世界と地続きだという事実を知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼いレンは恐怖し、慄いたが、恐怖したのは何も見えるからではない。他人と違うという事実に恐怖したのだ。他人に悩みを打ち明けても理解されない、程度ならばまだよかった。

 

 レンの場合は、自身の恐怖が他人にとってレンという存在自体への恐怖に繋がったことが苦痛だった。他人はレンが見えるものよりも、レンを恐れるのだ。レンは誰かと悲しみを分かち合うこともできないことを成長するに従って知った。加えて、レンはよく転校したために理解も得られなかった。

 

 レンを分かってもらう前に噂だけが先行して、全てをぶち壊しにしてしまう。レンは自身の〝体質〟に価値がないことを知った。これはただの疫病神だと。神が与えたのだとしたら、神はなんと意地が悪いのだろうか。

 

 それでもレンは一線を越えて不良になることもなかった。両親という歯止めがあったからだ。しかし、その両親も今やいなくなってしまった。歯止めの消えたレンにとって、苦痛を生み出すだけの世界などに価値を見出せなかった。

 

 いっそのこと全てを忘れて、暴力に走れればと考えていた時に、以前の学校で問題を起こした。レンの〝体質〟を聞きつけた生徒がからかい、いじめの対象にした。最初のうちは気にしなかったが、レンにある一言が投げかけられた瞬間、理性の歯止めが消えた。次の瞬間には、相手の鼻の骨が砕けるまで殴っていた。

 

「馬鹿だよな、俺は」

 

 呟いても見えている彼らから答えは返ってこない。彼らに基本的に話しかけてはならないのだということをレンは経験から学んでいた。なので、今の言葉はレンの独り言として、曇り空に吸い込まれていった。

 

 雨が降りそうだった。今にも泣き出しそうなほどに立ち込めた重い曇天は、レンの瞼に覆い被さった。眠ってしまいたい。それで全てが忘れられるのならば。だが、それも叶わぬのだろう。眠っても、起きても、同じ世界の繰り返しだった。

 

 レンが天を仰いでいると、ぽつりと雨粒が一滴、レンの眼前に落ちてきた。手で眉間に落ちた雨粒を払っていると、ぽつりぽつりと雨音が木霊する。レンは屋上にいるのはまずいと感じて、屋上に続く非常階段に向かった。非常階段には庇があるので雨をしのぐことができた。

 

 あっという間に視界を灰色に染める豪雨が降り出した。トタン製の庇を雨粒が激しく叩く。レンは踊り場に寝転がって時間を潰すことにした。今更教室に戻ることもできない。アカリにどう顔を合わせたらいいのか分からない。どうしてアカリは覚えていたのだろう。

 

 どうして転校初日から話しかけてくれる気になったのだろう。今頃に気になることが山積したが、それを片付けるには脳内がこんがらがっていた。文庫本の一つでも持ってくれば、もう少し苦痛を和らげて時間を潰すことができたのに。時間は過ぎれば過ぎるほど、重く凝りのようにレンの身体にわだかまる。

 

 自分の重心が分からなくなるほどだった。どこに重きを置いて生きてきたのか。何を信じるべきだったのか。何もかもを眠りの向こう側においていけたらどんなにいいだろうと感じたが、生憎、今は眠くなかった。何度も顔を拭い、雨音に耳を澄ませる。

 

 その時、雨音に混じって砂利を踏む音が聞こえてきた。瞑りかけていた目を開いて、その音に意識を集中させる。複数人のものらしく、非常階段を上ってくる。レンは身構えかけたが、誰が来ても構うことはないとそのまま踊り場に寝転がった。しばらくして足音がやみ、影が差した。

 

 レンが薄く目を開けると、レンよりも頭一つ半ほど高い男子生徒が三人、立っていた。レンは目を擦りながら、上体を起き上がらせる。昨日見た新山と共に帰っていた不良だった。彼らの一人がレンへと歩み寄ったかと思うと、屈み込んでいやらしく笑った。歯を剥いて笑う様は猿のようだった。

 

「よぉ、転校生」

 

 ヤニ臭い息を間近に感じ、レンは顔をしかめる。下階に降りる階段へと視線を向けると、しっかりと一人が階段を塞ぐように立っていた。どうやらレンを逃がすつもりはないらしい。レンは首を傾げて、「なんだよ」と尋ねる。

 

「転校した次の日からさぼりとはいいご身分じゃねぇか」

 

「俺がどうしようとお前らには関係がない」

 

「それが関係あるんだよなぁ。この非常階段、俺らの場所なんだよ」

 

 レンは時間を気にした。この時間帯だということはまだ授業中だろう。彼らとて授業をボイコットしてここに来ているというわけだ。それで自分たちの居場所とは見当違いも甚だしい。レンは鼻で笑った。

 

「お前らの場所って何だよ。名前でも書いてあんのか――」

 

 その言葉尻を腹に叩き込まれた衝撃が消し去った。レンは腹腔に痺れるような痛みを感じながら、仰向けに倒れ込む。蹴り飛ばされたのだと認識した時、痛みが全身に毒のようにまわって顔をしかめた。

 

「生意気言ってんじゃねぇぞ、チビが」

 

 レンを蹴った不良が歩み寄り、髪の毛を掴んで引き寄せた。レンは拳を握り締めたが、ここで振るえば居場所が本当になくなる。学校にも行かず、自分は何をするのだろうか。そう考えると振るう気にもなれず、結局、意気地がない自分が嫌になって顔を背けた。

 

「猿みてぇな赤い髪しやがって。これ、黒に染めてこい」

 

 突き飛ばされ、レンは鉄柵に背中を打ちつけた。掴まれていた頭部に触れる。赤い髪は生まれつきだった。何度も黒に染めろと言われたが、一度も染めたことはない。

 

「……なんで、てめぇらの言うこと聞かなきゃならないんだよ」

 

 搾り出した声に不良の一人が胸倉を掴んでくる。レンはその手首を掴んで強く握った。不良が僅かに呻き声を上げる。

 

「猿はてめぇらのほうだろうが」

 

 怒りを滲ませた声に、不良は惑うような挙動を見せた後、振り払うように拳をレンの頬に叩き込んだ。レンは踊り場に身体を打ちつける。鈍い痛みが背中から同心円状に広がった。

 

 手を振るいながら、「いい気になってんじゃねぇぞ、チビが!」と罵声を浴びせかける。レンは頬に手を当てる。焼けたように熱い頬の痛みに怒りよりも悲しみが勝った。何もかもうまく回らないものだ。アカリのことも不良のことも。どう立ち回っていいか分からない。

 

 レンは虚脱感が身体を包んでいくのを感じていた。不良に無理やり立たされ、ふらふらとよろめく。その身にさらに一撃、拳が振るわれる。レンは夢の中を彷徨っているような心地で外側からそれを見ていた。身体と心が切り離される。殴られているのが自分だと思わなければ、身体の痛みも心の傷も感じずに済む。

 

 ひとしきり殴って気が済んだのか、不良たちは行ってしまった。レンは再び一人になり、今更に痛み始めた節々の傷を感じた。

 

 踊り場で寝転がり、感情が身体の底に沈殿して腐敗していくのを感じた。何かを感じる心が麻痺していく。自分のことなのに、本気にもなれずかといって全く別のこととも割り切れない。

 

「……結局、中途半端か」

 

 呟いた言葉は誰もいない非常階段の鉄筋に吸い込まれた。断続的に降りしきる雨が無感情に庇を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼過ぎになってもまだ雨はやんでいなかった。レンは傘立てに置いてある傘を無作為に取って、家路につくことにした。

 

 雨が黒い傘の表面を叩く。二階にある教室を見上げるが、何をやっているのかは分からなかった。分かったところで、という感情が湧き立ち、レンは校門をくぐった。

 

 真っ直ぐに帰ろうかと思ったが、今日の夕食の買い物をついでに済ませたほうがいいと考え、レンはそのまま街中へと向かった。この時間帯に制服の人間はもちろんいない。目立つことは確実だったが、レンはそういったことに頓着しなかった。前の学校でも似たことがあったので、慣れていた部分もあったのかもしれない。

 

 ただ腫らした顔だけは隠すことも誤魔化すこともできず、レンは消毒液と絆創膏を買った。食材と間食の菓子を籠に入れ、レジへと向かう途中、主婦たちがレンを見てなにやら囁きあっているのが目に入った。

 

 顔のことや制服のことについて話しているのだろう。高校生がどうしてこんな時間に、ということを話題に上げているのかもしれない。レンが一瞥を向けると、主婦たちは視線に入らないところへと移動した。檻の外から猛獣を眺めているような気分なのだろう、とレンは想像した。

 

 買い物を済ませ、いつもと違う道で帰ることにした。下校する生徒たちと会いたくなかったのもあるが、気分転換のつもりだった。金魚の提灯がぶら下がっている街の中心部から少し離れ、ジャングルの奥地に分け入るように静かな場所を探して歩き出す。

 

 金魚を模した提灯や街灯がある大きな道から徐々に小さな道に入ると、人工的なデザインの街灯が多くなってくる。金魚が御神体であるこの街のイメージ付けを表でしてはいるが、裏までは気が回らないということなのだろうか。それとも街の表層だけを飾り立てるのがうまいだけなのだろうか。裏通りに入れば湿り気も強くなったような気がする。雨は相変わらず降り続いていたが、狭い路地なので空を小分けにするように幾筋もの電線が走っている。

 

 それを眺めていると、不意に小さな声が聞こえた。そちらに身体を振り向けると、一匹の猫がじっとレンを見ていた。胡桃色の毛並みをした猫である。小柄で、今日の雨のせいか薄汚れていた。レンは無視しようとしたが、その背に小さな鳴き声がまたも降りかかった。振り返り、猫へと歩み寄る。屈んで目線を合わせると、金色の眼がじっとレンを見つめている。

 

 飼い猫なのだろうか。人間を怖がる様子はない。レンは猫の頭を撫でてやった。気持ちよさそうに喉を鳴らして、猫が首を振る。首筋を撫でてやると、くすぐったそうに前足を払った。レンは首輪があるかどうか確認をしたのだが、首輪はどうやらついていないようだった。

 

「野良猫なのか、お前」

 

 尋ねても猫は欠伸をするだけで答えようとはしない。万が一答えられても猫の言葉など解せるわけがない。聞いてみただけだった。

 

「汚れてんぞ。ほれ」

 

 レンはポケットからハンカチを取り出し、猫の顔を拭ってやった。猫は目を閉じて首を振ったが、レンから離れようとはしなかった。その場に縫い付けられたかのように、猫は動かない。本当に縫い付けられているのか、と疑って足を見てみたが、もちろんそんなことはなかった。

 

 汚れを拭いてやった後は、何かやろうかと思ったがそもそも猫にやっていい食べ物が何か分からず、レンは「ちょっと待ってろ」と告げて近くにあったコンビニに入り、猫缶を買ってやった。

 

 戻るともういないかと思われたが、猫はその場で行儀よく待っていた。レンは猫缶を開けて、猫の前に差し出す。すると、勢いよく食べ始めた。

 

「お腹空いてたのか?」と尋ねるが、もちろん答えは返ってこない。食べるのに夢中な猫を眺めながら、レンは小さく呟いた。

 

「お前はいいな。自由に生きられて」

 

 猫の世界をレンはよくは知らないが、人間社会のようなしがらみはないのだろう。同族から忌避されることも、暴力を振るわれることも人間に比べれば少ないのだと想像できる。

 

「どう生きるべきか、か……。自由気ままに生きてみたいけど、そうもいかないんだろうな。お前らみたいにその辺で寝ていても、しがらみがついてまわるんだから」

 

 頬の痛みが再び戻ってきて、レンは奥歯を噛んだ。再び問題を起こして、また居場所がなくなれば次はどこに行けばいいのだろう。アカリは居場所をくれようとしていたのかもしれない。

 

 それでも、その気持ちを真っ直ぐに受け止めることができなかった。受け止めるには、歩んできた道がもう捻じ曲がっている。

 

 捻じ曲がった道を矯正しようにも、どうすればいいのかレンにはまるで分からなかった。手に視線を落とし、拳に変える。力を振るえばいいのだろうか。しかし、それで本当に居場所が手に入るのだろうか。答えは出ずに呻くように目を閉じると、猫が前足で拳に触れていた。

 

 一瞬、慰めてくれているのかと思ったが、どうやら猫缶がもうなくなったらしい。猫は正直だと思いつつ、レンは猫の頭を撫でた。

 

「明日また来てやるから。今日はこんだけだ。じゃあな」

 

 レンは立ち上がり、歩き出した。猫が声をレンに投げて、踵を返したのが気配で伝わった。次に振り返った時には猫はもういなかった。電線から伝った雨粒が猫缶の底に落ち、鈍い音を立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴッと鈍い音が眼前で弾ける。レンは突き飛ばされ、屋上の鉄柵に背中を預ける格好となった。

 

 震える視界の中、目の前にいる不良たちに目を向ける。重たく沈んだ薄曇りの下、レンはよろめく身体を支えるように鉄柵を掴んだ。不良の一人がレンに歩み寄り、髪の毛を掴んで顔を引き寄せた。整髪剤の臭いとヤニの臭いが混在して、鼻をつく異臭となっている。

 

 レンが顔をしかめると、不良はレンの腹に膝蹴りを打ち込んだ。一瞬意識が遠のき、肺の中の空気が一気に吐き出される。

 

「田中から聞いたぜ、帷。お前、前の学校で暴力沙汰を起こしたんだってな?」

 

 田中、というのは担任教師の名前だった。教師に裏切られることは何度もあったので特別ショックではなかったが、それが不良に知れ渡っていることに疑問を感じた。

 

 彼らは体制に反抗しているというのに、その体制と情報を共有している。その在り方がレンにとっては滑稽に映った。その感情が表に出ていたのだろうか。「何笑ってやがる!」という怒号と共に、頬を殴りつけられた。視界がぶれ、レンは口中に鉄の味を感じた。

 

「その理由も聞いたけど、何、お前ってユウレイとか見えんの?」

 

 不良の一人がさもおかしそうに笑いながら言った。レンは顔を伏せ、奥歯を噛み締めた。これだから嫌なのだ。蔑視の対象になるか畏怖の対象になるかしかない。不良たちに知られているということはクラス中に知れ渡っていると見て間違いないだろう。

 

 レンは舌打ちを漏らすと、髪を掴んでいた不良がレンの頭部から手を離して突き飛ばした。フェンスがなければ落ちているほどの強さのせいか、一瞬浮遊感が襲った。くらくらする思考を繋ぎとめるように、レンは陰湿な笑みを浮かべている不良たちを睨み据えた。

 

「なんだよ、その目は。赤毛猿の分際で、人間様をそんな眼で見てんじゃねぇぞ!」

 

 振るわれた拳が頬を捉え、レンはその場に転げ落ちた。それを見た不良たちが興ざめしたように、「行こうぜ」と屋上から出て行った。

 

 レンは鉄柵を支えにして、起き上がった。口の中が切れているせいか、唾を吐くと血が混じっていた。よろよろと歩き出すと、痛みが鋭く傷口から滲んだ。レンは今にも萎えそうな気持ちに喝を入れようと、膝頭を力いっぱい叩いた。拳を振るえばこの状況を打開できるのかもしれない。

 

 しかし、自分は不良になりたいわけではない。全てを諦念の向こうに捨て去って、何もかもを消し去れたらどれほど楽だろうか。レンは教室に戻る勇気もなく、かといって不良たちへと報復する度胸もなかった。どっちつかずの身を持て余し、今にも泣き出しそうな空の下、痛みだけがわだかまる身体の足を進ませた。

 

 せめて雨が降る前に帰ろう。そう思い、レンは屋上の隅に置いてあった鞄を手に取った。昼食を食べる前にレンは学校を後にした。昨日の焼き増しのように絆創膏と消毒液を買い、買い物を済ませた。昨日と違うのは、予め猫缶を買っていることだった。

 

 昨日と同じように裏通りに入る。同じ場所にいるという確証はなかったが、何故だかあの猫が待っているような気がした。

 

 果たして、猫は昨日と同じ場所にいた。薄汚れた身体もそのままだった。猫はレンのほうに顔を向けると、一声鳴いてから視線を足元に落とした。猫缶を置けということなのだろう。

 

「太い奴だな、全く」

 

 レンは猫缶を袋から取り出し、開けて猫の前に差し出した。猫は腹が減っていたのか、すぐに飛びついてきた。レンは猫を見下ろしながらため息をついた。猫が顔を上げる。無意識的に出たため息にレン自身驚いていた。

 

「どうして。ため息なんてつくんだろうな」

 

 今の状況に満足していないからだろうか。では、どうなったら満足するというのだ。満足している人間は不満を語る。満足していない人間は、不満など語りようがない。自分がどうするべきかの指針が見えていないのだから。道標もなく、闇の中を歩き続けているようなものだ。

 

「すべきことが分からない。俺に、何ができるんだろうな。お前に相談したって仕方がないだろうけど」

 

 猫の頭を撫でる。猫は前足で猫缶を引き寄せながら食いについている。食事中にこんな話をするのも無粋か、とレンは口を閉ざした。

 

 その時、靴音が聞こえレンはそちらへと視線を向けた。その瞬間、目を見開いた。そこにいるはずのない少女の姿が視界に入り、「どうして」と呟きかけた。

目の前にいたのはアカリがだったからだ。

 

 アカリは片手に猫缶を握っている。服装は制服だった。そういえば、とレンは思い出す。今日は期末テストで半日だけで終わるのだったか。アカリはレンを見つめた後に、猫に視線を投じ、猫缶に目を向けた。レンは気まずそうに顔を背け、その場から立ち去ろうとする。その背へとアカリは言葉を投げた。

 

「待って、レン君」

 

 レンは立ち止まる。しかし振り返りはしなかった。アカリはその沈黙を必死に手繰るように言葉を発した。

 

「気にしてないから。ノートのこと。だから、さ。何て言うのかな。レン君、テストの時にもいなかったから心配したんだよ」

 

「なんで日下部が心配するんだよ」

 

 返した言葉に窮するように、アカリが「それは……」と濁した。レンはため息をついて振り返った。

 

「日下部。俺のクラスでの印象。よくないだろ」

 

「そんなこと――」

 

「嘘つかなくていい」

 

 レンの言葉にアカリは暫しの逡巡を挟んだ後に小さく頷いた。

 

「だったら、印象の悪い俺に関わるべきじゃないだろ」

 

「でも、レン君は何も悪いことしてないんだし、別に、そんな」

 

「お前には悪いことをした。それで多分、充分なんだろ」

 

「わたしは、悪いことをされたと思ってないから……」

 

「そんなんじゃ、周りが納得しねぇよ。もう関わるな。俺は帰る」

 

「でも、レン君」

 

 アカリの言葉を振り切って、そのまま踵を返そうとすると、猫が大きな鳴き声を上げた。レンが振り返ると、アカリが慌てて猫缶を差し出した。

 

「ミーコ、今食べたばかりじゃない。欲張りな子なんだから」

 

「ミーコ?」

 

 レンは猫とアカリを交互に見つつ、「こいつの名前か?」と尋ねた。

 

「うん。わたしが勝手につけているだけなんだけどね。この子、首輪付けてないから多分、野良だと思うんだけど、やっぱり名前があったほうがいいかなと思って」

 

「どうして名前が必要なんだ? 猫で充分だろ」

 

 レンの言葉にアカリは「そうなんだけどね」と言ってから曖昧に笑ってみせた。

 

「でも、それだけだとここにいる意味がないから。猫だけだとここにこの子がいる意味がないし、他の猫と一緒になっちゃう。わたしはこの子を可愛がりたいから、名前をつけるの」

 

「勝手な押し付けだろ、それ。猫にとっちゃ迷惑かもしれない」

 

「それもそうだけど。でも、呼びたい時に名前がないことって、多分寂しいよ」

 

 アカリはそう言ってから弱々しく笑った。寂しい、という感情がレンには分からなかった。何故、寂しいのだろう。名前がなくてはならないのだろう。呼ばれなくてはならないのだろう。

 

 そういえば、とレンは思い返す。

 

「どうして、俺を下の名前で呼ぶんだ?」

 

「えっ。だって、小さい頃はお互い、下の名前で呼び合っていたじゃない」

 

「もう高校生だぞ。変な勘繰りをされたら困るとかないのかよ」

 

「勘繰りって?」

 

 アカリは小首を傾げる。どうやら本当に分かっていないらしいと感じたレンは説明しようとしたが、それも馬鹿らしく思えた。後頭部を掻いて、「まぁ、どっちでもいいけどよ」と言った。

 

「レン君もわたしのこと、名前で呼んでいいよ」

 

「何で会ってすぐの奴を名前で呼ばなきゃならないんだよ」

 

「会ってすぐじゃないもん。昔、よく遊んだでしょ」

 

「昔の話だろ。もう六年も経ってるんだ。この辺の街並みも変わったし、昔遊んでいた場所なんて思い出せねぇよ」

 

 レンの言葉にアカリは「わたしは覚えているよ」と胸を張った。「えばれることじゃないっての」とレンが返すと、アカリは指折りながら遠くに視線を投げた。

 

「えっと……、確かかえる公園で遊んだでしょ。わたしがかえる嫌いだったから、レン君、わたしにかえるが寄りつかないように守ってくれたよね。わざとかえるを一箇所に集めたりして」

 

「覚えてねぇ」

 

 レンが視線を背けて頭を掻いていると、アカリは続けた。

 

「でもかえるが可哀想だからって、わたしがやめてって言って。そしたらレン君が逆に泣いちゃって。おかしかったなぁ」

 

 アカリは微笑んだ。レンはあったかどうかも分からないことで笑われていることが気に食わずに、憮然として返した。

 

「俺は多分、泣いてねぇと思うけど」

 

「泣いたよ。わたしが覚えているもん」

 

「その記憶が定かだか分からねぇだろ」

 

 アカリは立ち上がり、腰に手を当てて、「泣いたよ」と言った。レンはどうしてだかむきになって「泣いてねぇ」と返す。

 

 泣いた、泣いてないの議論が十回ほど続き、やがてアカリが不意に笑った。レンはそれを呆然と眺めながら、笑われている理由が分からずにむすっとして言葉を発した。

 

「何がおかしい」

 

「だって、レン君。急にむきになるんだもん」

 

 その言葉でハッとした。話すことなどないと思っていたのに、どうして今の会話だけでこうも熱がこもったのだろう。自分の中の制御できない部分に、レンは戸惑った。レンが言葉を探しあぐねていると、アカリが先に言葉を発した。

 

「レン君。学校でも、今と同じように喋れないかな」

 

 その言葉に、レンは胸中で急激に醒めていくのを感じた。学校であんなことをしておいて今更アカリとまともに喋れるわけがない。それよりも学校ではレンは格好のサンドバッグだ。アカリが不良たちに目をつけられないとも限らない。レンは首を横に振った。

 

「駄目だ。それはできない」

 

「どうして。ノートのことなら――」

 

「もう、そういう問題じゃねぇんだ。そういう話がしたいんなら、俺はもう帰る。じゃあな、日下部」

 

 アカリを巻き込むわけにはいかなかった。これは自分の問題なのだ。ならば自分で決着をつけなければならない。レンは身を翻し、アカリに背を向けた。アカリは言葉を発しようとはしなかった。言っても無駄だということが分かったのだろうか。それならば、レンにとっては安心だった。これ以上、その話を続ければ自分の言葉でアカリを傷つけかねない。

 

 その時、アカリが、「じゃあ」と口を開いた。レンは立ち止まらない。

 

「じゃあ、放課後にこの場所で話そう。それなら、レン君も」

 

 レンはその言葉を確かに聞いた。もうすぐ表通りに抜ける。アカリがどんな表情でその言葉を発したのかは分からない。しかし、それでも――、と惑う胸中の中で、レンは一つの結論を出した。

 

 レンは片手を上げ、振り返らずに応じた。

 

「またな」

 

 それがどういう風に伝わったのかは分からない。アカリの満足いく答えだったのかも定かではない。しかし、レンにとってはこの決断も一つの甘えのような気がしていた。最後の一線で、結局、孤独を選べない。どっちつかずの精神でいつかアカリを傷つけてしまうかもしれない。

 

 返事を聞く前に、レンは表通りの喧騒に埋没した。

 

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