妖魔世界図   作:オンドゥル大使

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第7話「ゼロから始まるもの」金海怨神篇

 退学届けというのは今更古めかしいと感じる。

 

 それでも、必要なのだから仕方がないとレンは特筆すべき事項を探したが、こちらから歩み寄らなくても向こうから退学にしてくれるに違いないと、適当なことを書いた。書き終わる頃には昼前になっていた。

 

 レンは元々、文字を書くことがあまり好きではない。仕方がなく、昼食を部屋で取ってから学校へ出ることにした。当然ながら既に西垣は学校に行った後で、通学路には制服姿の人間はレンしかいない。退学届けを手にしながら、どこへ出すのだったかと思い返す。

 

 そもそも転入して一週間と経っていないのに、退学することは可能なのだろうか。できなければその期間が来るまで休めばいいとレンは考えていた。

 

 学校に着くと、俄かに騒然としていた。どことなく生徒たちの落ち着きがないように見える。自分の気持ちのせいだろうと思っていると、担任の教師がレンの視界に入った。呼び止めようとすると、担任の教師からレンに駆け寄ってきた。レンは少し驚いて身を引こうとすると、教師はレンの腕を握った。

 

「帷。話があるから、生徒指導室まで来なさい」

 

 いつになく硬い声音で発せられた言葉に、レンは自分の退学届けのことを言いそびれた。そのまま教師に引っ張られ、レンは生徒指導室という殺風景な部屋に案内された。向かい合った机以外、何もない。取調室のようだ、とレンは思った。椅子に座った教師は、しかしレンに座れとは言わない。教師の手には何かの紙があった。気になっていると、教師が口を開いた。

 

「帷。先日の暴力沙汰の主犯はお前だな」

 

「主犯も何も、俺は暴力を受けたから正当防衛しただけですが」

 

「あれは明らかに過剰防衛だ。あのグループの一人は全治二週間だそうだ」

 

「治療費を払えと?」

 

 レンが先回りして発した言葉に、教師は机を叩いて、怒鳴りつけた。

 

「そうじゃない! あれだけならまだ謹慎で済んだ。問題はこれだ!」

 

 教師が手に持っていた紙を叩きつける。レンはそれを見た。そこには見覚えのある不良の写真があり、その能天気な笑みを上書きするように赤い文字で「粛清した」と書かれていた。

 

 昨夜見た四人の内の二人だ、とレンはすぐに分かったが、口にはしなかった。

 

「これが、どうしたんです? 随分と物騒ですが」

 

「今朝方から校舎のそこらかしこに貼ってあった。暴力事件に次いでこれとなれば、庇いきれなくなる」

 

「俺がやったって言うんですか」

 

「他に誰がいるんだ」

 

 レンは自身を擁護するつもりはなかったが、頭から決め付けてかかる教師の態度には反目したい気分になった。

 

「俺は確かにこいつらの仲間を病院送りにしました。でも、こんなビラを貼った覚えはありません」

 

「だが、この写真に写っている生徒は昨夜から行方不明だ。こいつらの仲間にも話を聞いたし、別れる直前の行動も洗ったが。帷。お前、こいつらがコンビニに入る直前に同じコンビニに行っていたそうじゃないか。店員が言っていたぞ。同じ制服だからよく覚えているって」

 

「それだけで俺を疑っているんですか?」

 

「それだけ? 充分すぎる理由だと思うがな」

 

「理由?」

 

 レンには彼らを襲う理由などない。どう考えたら、レンが彼らを襲ったと判断できると言うのだろう。教師はまるで刑事のように、立ち上がってレンの周りを歩きながら話し始めた。

 

「お前はこいつらにいじめられていた。暴力も受けていたんだろう。それはこいつらも認めている。しかし耐えられなくなって仕返しをした。だが奴等が報復をしてこないとも限らない。不安で仕方がないお前は、逆に彼らを仕留めようと目論んだ。前の学校でも暴力事件を起こしているお前ならば、そこそこ腕はたつが、四人全員を一気に仕留めるわけにはいかず、夜の闇に紛れてまずは二人を片付ける。さらに彼らの恐怖心を煽るために、そして自身の復讐心を満たすために、こんなビラを作った」

 

 教師はビラの置かれた机を再度叩く。レンは奥歯を噛んだ。とんだ妄想だ。しかし、教師から見える事実は全て列挙されている。レンのことをよく知らない人間ならば、それで結論をつけてしまうのが妥当だろう。レンが教師の立場でも、そう思うに違いない。

 

「でも、俺は何もしていない」

 

 搾り出したレンの言葉に、一喝するような教師の声が響く。

 

「嘘をつくな! しらばっくれても意味がないことが、まだ分からないのか。できれば警察沙汰にしたくないというこっちの気持ちにもなれ。今なら、認めれば退学処分だけで許してやろうというんだ」

 

 何だそれは、とレンは拳を握り締めた。端から信じる気などないではないか。レンの意見などこの場では関係がない。ただやったと一言、言わせたいだけだ。なら、自分がここにいる意味は何だ? どうしてこんな目に遭ってまで、自分はここにいなければならない。

 

「何とか言ったらどうなんだ!」

 

 耳元でがなる教師に、レンは睨む目を向けた。教師が指差しながら「何だ、その反抗的な目は」と言う。レンは燻る怒りを押し殺して言葉を発した。

 

「先生。先生ですよね、こいつらに、俺が前の学校でどういう風に言われていたのか話したのは」

 

 不良たちの言っていた言葉を思い出す。すると、教師は急にばつが悪そうに顔を背けた。「今はそういうことを言っているんじゃ――」と開かれかけた口を制するように、レンが続ける。

 

「それが教師のやることですか。他の場所から来た問題のある生徒は厄介だから、まだ自分の知っている厄介者に任せればいいって? そんなの、何の解決にもならないじゃないですか。あんた、結局、自分の手を煩わせるのが嫌なだけだろう! 何も見ていないじゃないか!」

 

 レンの言葉に気圧されたように教師は一歩下がった。レンは握り締めた拳から力を抜いて、教師の横を通り過ぎた。

 

 静止の声がかかる前に、生徒指導室から走り出す。生徒たちの視線が矢のようにレンを突き刺す。小言が耳に絡みつく。レンは耳を塞ぎ、学校を飛び出した。どこをどう走ったのか、まるで分からないが、いつの間にかレンは街中へと出ていた。

 

 雑踏に紛れれば、嫌なことに惑わされずに済むと思ったのか。力ない足取りからは、全てが抜け落ちていくように感じられた。学校にもいられない。それどころか、噂が広まればこの街にもいられないだろう。

 

 どこに行けばいいのか。どう生きればいいのか。判然としない頭を持て余し、レンが俯きながら歩いていると、「おい」と声をかけられた。振り返ると、そこには不良の仲間の二人がいた。

 

 彼らに引っ張り込まれるように、レンは裏通りに行き、壁に背中を打ちつけた。昼間だと言うのに、雑多な街並みと廃ビルが人目から隠す。人通りもないこの場所は、私刑にうってつけだった。

 

 不良の一人がレンの胸倉を掴む。レンは抵抗しなかった。放たれた拳が頬を捉え、視界がぶれる感覚と共に身体を地面に打ち据える。立ち上がる気力もなく、レンはそのまま蹴りつけられた。腹腔に鋭角的な痛みが走り、息ができなくなる。咳き込むレンを見下ろしながら、不良は仲間の名前を言った。

 

「何しやがった!」

 

「……何も」

 

「嘘つくんじゃねぇ!」

 

 ここでも嘘か、と思いながらレンは頭部を蹴りつけられた。咄嗟に目を瞑ったが、それでも視界が白んだ。額から生温いものを感じる。血が出ているのかもしれなかった。確かめる前に、レンは襟首を掴まれ、無理やり立たされた。

 

「言え!」

 

「……知らねぇって。何で知らないことまで言わなきゃならないんだ?」

 

「この野郎!」

 

 不良が拳を握り締める。

 

 次にまともな一撃を食らえば昏倒するな、と他人事のようにレンが感じた。拳が頬を捉えるであろうと思われたレンは、目を閉じていた。しかし、いつまで経っても拳は振るわれない。どうしたのか、と薄目を開けると、不良二人は、レンとは反対側の方向に目を向けていた。

 

 レンもそれを視界に捉える。そこにいたのは見覚えのある学生服に身を包んだ男子生徒だった。小柄で痩せ型の、虚弱そうな顔立ち。転校一日目に見たその顔を、レンは覚えていた。

 

「新山。何のつもりだ」

 

 不良がその名を呼ぶ。新山はふらりと不良へと歩み寄った。

 

 レンを掴んでいない不良が掴みかかろうとすると、新山の手がその手を逆に掴んだ。その瞬間、レンと不良はぎょっとした。新山の手は人間の手ではなかった。五指はあるが、赤い鱗に覆われている。

 

 湿った皮膚は水棲生物のそれに近かった。不良が短い悲鳴を上げて後ずさろうとすると、新山は不良の首根っこへと手を伸ばした。新山はさほど手が長いほうではないはずだったが、この時はまるで間接がないかのように伸長した手が不良の首に絡みついた。不良はそれを引き剥がそうとするが、その前に新山が青白い顔で言葉を発した。

 

「粛清する」

 

 その瞬間、新山の前髪から鼻の辺りにかけてどろりと溶け出した。

 

 爛れたように見える皮膚の下から何かが這い出してくる。

 

 不良は思わず叫び声を上げた。皮膚の下から現れたのは巨大な眼だった。電球のような形状の眼がぐるぐると回転しながら、不良をその視界に捉える。口が裂け、厚ぼったい唇を開いた。

 

 奈落に通じているのではないかと思われる常闇がその先には広がっていた。レンももう一人の不良も見ていることしかできなかった。新山は口を大きく開いたかと思うと、頭から不良を食らった。

 

 暴れる不良を鱗の浮いた手で押さえつけ、踊り食いのように口の中へと不良の姿が押し込められていく。レンを掴んでいた不良はその手を離した。レンが膝から崩れ落ちるのも構わずに、悲鳴を上げながら一目散に表通りへと逃げていく。

 

 不良を呑み込んだ新山の顔には赤い表皮が浮き上がっていた。金色の目玉が昼間でも煌々と輝く。厚ぼったい唇は僅かに紫がかっており、髪の毛は全て退行していた。喉が膨らんでおり、袋のようになっている。それは全体的なシルエットで言うのならば、巨大な金魚を人間の上半身と無理やりくっつけたような形をしていた。

 

 レンが片手をついて立ち上がると、新山はごくりと喉を鳴らしてから、急激に収縮していった。赤い表皮が消え、髪の毛が戻り、鱗が消えていく。後に残ったのは人間の姿の新山だった。レンは言葉すら忘れてその様子に見入っていた。新山は青白い顔に引きつった笑みを浮かべる。

 

「どうだい? 帷君」

 

「新山。お前……」

 

「何も言わなくていい。君を助けようと思ったわけじゃないからね。ただ単に社会のゴミが許せなかっただけだよ。それとも、さっきの姿のことを気にしているのかな」

 

 レンは春日の言っていたことを思い出していた。金魚の神と取引した人間がいると。まさか、新山がそうなのだろうか。だとしても、何故、という問いが浮かんだ。

 

「新山。さっきの姿、人間じゃないな」

 

 その言葉に新山は場違いな笑い声を上げた。澱んだ川底から浮かぶ泡のような、聞いたものを不愉快にする声だった。新山は呼吸を落ち着けながら言った。

 

「人間じゃない、ねぇ。そりゃ、そうだろうさ。僕は契約したんだ。この街の神様とね。どうやったのか、気になる?」

 

「……別に」

 

「強がることはないよ。僕はね、いつもあいつらにいじめられていたんだ。あいつらっていうのはつまり、さっきの不良たちだね。君も標的にされていたんだろう? 君は暴力という手段を持って彼らを封じようとしたようだが、僕は腕力に自信がなかった。だから、いつも願っていたんだ。帰り道の神社の神様にね。あいつらを懲らしめたい。力をくださいって。話は逸れるけど、僕の家は信仰心の強い家だったから、昔から神様仏様は大事にしていたんだ。それにね。君にだけ言うけれど、僕がいじめられていた理由。それは君と同じなんだ」

 

 新山の眼がレンを捉える。レンは背筋にぞわぞわとした悪寒を覚えた。先ほどまで金魚の眼だったその眼が、自分を見つめている。それだけではない。新山は自分と同じと言った。それはつまり、

 

「見えるのか?」

 

「そう。僕には見える。人ならざる者たちが。君がターゲットになってくれた時、悪いけど少しほっとしたんだ。ああ、これで僕もいじめから解放されるだろうって。でも、あいつらは僕をしつこく追い回した。標的が変わったけれど、君は狩られる獲物じゃなかった。むしろ狩る側だったんだね。だから、すぐに標的は僕へと戻ってきたよ。僕は君を一瞬、恨んださ。でも、それはお門違いだってことは分かっていた。君を責めるわけにもいかない。堂々巡りの末に、神様が僕に語りかけてくれたんだ。そんなに力を欲するのかって」

 

 レンは陶酔したように話す新山の姿に、一種の狂気めいたものを感じていた。

 

 新山と話すのは席が隣になった転校初日の時と今とで二度目だが、正反対の印象だった。そんなレンの思考を他所に、新山は続ける。

 

「神様は僕の身体を借りる代わりに、それ相応の力をくれると言ってくれた。そして手に入れたのがさっきの姿ってわけさ。最高だよ。味はしないけどね。と言ってもあいつらは不味そうで食いたくもないんだけど、神様が言うんだ。神饌を用意しろって。神饌って言うのは神様に供える飲食物のことさ。ほら、僕の復讐を果たせて神様のお腹を満たせる。これって一石二鳥じゃないかって思ったんだ」

 

「それで、あいつらを食ったのか。昨日の夜も」

 

「ああ、学校に貼っておいただろう。悪いことをすると粛清されるって分からせるために貼ったんだけど、なんかまずかったかな?」

 

「おかげで俺のせいにされた」

 

 レンの言葉に新山は手を叩いて笑った。「ゴメンゴメン」と笑顔で言うが、その笑顔もどこか作り物めいている。本心ではそれを狙っていたことは、容易に分かった。

 

「でも、これで分かったと思うんだけどね。学校の連中も。今まで見て見ぬ振りをしていた奴らもね。僕は最後の一人を食ったら、この力を公表しようと思うんだ」

 

 新山の言葉にレンは目を剥いて驚いた。

 

「馬鹿な。そんなことをして何に――」

 

「何にもならないよ。けどさ、分からせてやったほうがいいだろう。僕に逆らえば、命はないって」

 

 新山の言っていることは破綻している。そんなことを言っても信じる輩などいないし、信じたとしても既に復讐の意図からは外れている。

 

「君もだよ、帷君」

 

 新山の眼がぎょろりとレンを見据えた。レンは身体が硬直するのを感じた。

 

「僕に逆らえば命はない」

 

 レンと新山との間に緊張が降り立つ。

 

 新山は紫色の舌で唇を舐めた。

 

 レンはじっと新山を視界の中央に据えたまま、動かなかった。動けなかったというのもある。どこからか鈴の音が聞こえる。昨夜の風鈴と同じ音だった。その音が急くように響き渡り、鼓動の音と同期する。早くなっていく脈動に合わせて、鈴の音がレンの思考を逸らせる。

 

 どうするべきか。ここで逆らってみすみす食われるか、それとも命乞いをするか。新山の眼は既に正気を失っているようにレンには映った。命乞いをしても助かる保証はない。ぐっと息を詰めていると、新山が不意に笑みを浮かべた。

 

「冗談だよ。同じ境遇の君の命を奪ったりするはずがないだろう。君になら、僕の気持ちが分かるはずだ。そうだな、君には協力してもらおう」

 

「協力だと?」

 

 新山は顎に手を添えて考えながら、頷いた。

 

「そう、協力だ。最後の標的が逃げたろう? 彼を夜までに捕らえて、僕の前に差し出して欲しい。その後も、君は僕に仕えるんだ。なに、悪いように使おうっていうんじゃない。神饌を供える役目をして欲しいと言っているんだ。腕がたつ君にとってしてみれば簡単な仕事だろう。反逆者を捕らえる役目だ。とても神聖な役目だよ。この条件を呑むのなら、君の身の安全だけは保障しよう。それに君の大切な人の命も」

 

 その言葉で真っ先にアカリの姿が浮かんだが、レンはその像を振り払った。しかし、新山は全て心得ているかのように口にした。

 

「君は孤独を愛しているのかと思ったけれど、意外と情に厚いみたいだ。彼女は大事な人なんだろう。この辺りで前に見かけたよ。猫に餌をあげていたね」

 

 以前感じた視線は新山だったのか、と思うと同時にレンは睨む目を向けた。

 

「日下部は関係ねぇ」

 

 思わず口をついて出た言葉に、しまったと思う間もなく、新山はいやらしく笑った。

 

「そう日下部さん。僕も結構、好きなんだよねぇ。彼女、綺麗だろう。だから、本当は食べたくないんだけど、おいしいんだろうなぁ」

 

 レンは拳を握り締めた。今すぐに新山に飛び掛りたい衝動に駆られたが、敵うはずもないことは先ほどの不良との一戦を見ても明らかだ。安い挑発だ、乗るな、と必死に自己を押し止める。

 

 新山はレンが抵抗できないのを知っているからか、余裕のある態度で歩み寄ってきた。レンは後退することも、殴りかかることもできずにその場で固まる。新山が耳元まで近づき、囁いた。

 

「返事は夜まで待つよ。場所はこの街の神様が祀られている金海神社だ。君は聡明な人間だから答えは分かっているけど、考えを整理する時間も必要だろう。でも、期待しているよ、帷君」

 

 新山は身体を離し、そのまま裏通りの奥へと歩いていった。その背中が見えなくなってから、レンは力が抜けたように壁に手をついた。敵わない、とはっきりと分かった。相手は人間ではない。

 

 いつの間にか鈴の音が消えており、レンの動悸もそれに従って正常に戻っていった。ぬるい風が裏通りに吹き込む。レンは思考を冷やす間もなく、次の思考に駆られることになった。

 

 不良に殴られた痛みなど、もはや消し飛んでいた。新山の力の前に、何も言い返せず、何もできなかった自分への憎悪が募り、レンは壁を殴りつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか昨日の事務所へと足が向いていた。

 

 裏通りを抜け、いつもミャオがいる場所を通り抜ける。今日は、ミャオはいなかった。レンと顔を合わせるのが辛いのだろうか。思えば、酷いことを言ってしまったと後悔したが、今更遅かった。

 

 レンも呼び止められることを心配していたために結果的に安心した。事務所は記憶していなければ、素通りしてしまいそうなほどに存在感がない。ミャオの言っていたことは本当なのだろう。この場所は普通の人間は気づかない。

 

 取っ手に手をかける。昨日のように嫌な感覚は襲ってこなかった。

 

 一度入ったからか、気を許されているのか。レンはしかし、入る前に躊躇した。春日やミャオに言ってどうなる。結果として彼らに協力することになってしまう。あれだけの言葉で拒んでおきながら、自分からすがることにレンは自尊心が邪魔をしていることに気づいた。

 

 振り払ってしまえば楽なのだが、目の前に立ちはだかる自尊心の壁は高く、どう足掻いても無視はできない。レンは扉のガラス部分に映る自分を見つめた。自分一人で何ができる。春日たちに今からでも協力を仰ぐべきだという自分がいる反面、昨日のことを帳消しにはできはしないと嘆く自分も存在し、両者に板ばさみにされたレンは低く呻いた。

 

「……どうすればいい?」

 

 問いかけたところでガラスに映る自分はただの虚像だ。

 

 答えなど何も持ってはいない。自分は何を期待しているのか。

 

 春日たちならばこの状況を打開する術を持っているというのか。胸中の答えは、否、だった。春日たちも自分たちではどうにもできないからレンに協力を申し出たのだろう。逆に自分がいれば、どうにかなるのか。取っ手にかけた指に力を込めるが、やはりもう一歩を踏み出すことはできなかった。

 

 取っ手から手を離し、レンは歩き出した。誰にも頼らないでおこう。自分で自分の進路と退路を塞いだのだ。

 

 そのけじめは取らなければならない。誰かの力を借りれば容易く乗り越えられることでも、一人でやらねばならないことはある。今までだってずっとそうだったではないか。今更、誰かの力は借りられない。

 

 暮れかけた陽の光が事務所にかかり、裏通りを朱色に染め上げる。レンは夜の到来を告げるその色を踏みしめながら、一人歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事務所の屋上でミャオはじっとレンを見つめていた。

 

 春日から強制はしないようにと念を押されている。レンはしばらく事務所の扉の前で動かなかったが、やがて意を決したように立ち去っていった。

 

 その背中を見ながら、ミャオは猫の姿のままでレンの名前を呼ぼうとしたが、寸前で憚られた。今のレンには誰も声をかけてはならないような気がしたのだ。

 

 ミャオはレンの姿が裏通りの中に消えていくのを確認してから、事務所の二階に降りた。人間の姿に変じ、春日を見つめる。春日は手にした本に視線を落とし、ミャオを出迎えた。

 

「ミャオさん。いかがでしたか」

 

「レン君は、もうここには来ないかもしれない」

 

 その言葉に春日は大した感慨を浮かべることなく、淡白に「そうですか」と返した。その態度が気に入らなかったせいか、ミャオが突っかかる。

 

「もうちょっと、何かないの? レン君がいないと、今回はまずいんでしょ」

 

 春日は本から視線を外さずにページを捲りながら応じる。

 

「そうですねぇ。確かに、彼の助けは必要です。しかし、無理強いするものじゃないでしょう。彼が望まなければ意味がない」

 

「でも、レン君。ついさっきまで事務所の前にいたよ。もしかしたら、少しなら手を貸してくれるかもしれない」

 

「それでも、我々が手出しをすることじゃないんですよ。僕はレン君に、取引をしたのがクラスメイトだということを黙っていた。それは彼を、内心、利用したい気持ちがあったからです。カードを隠し持つことで有利に立ちたかった。しかし、彼の前でそれは意味のないことを悟りました。レン君は、その程度で揺らぐ人間じゃない」

 

「じゃあ、余計に協力してもらうのは難しいじゃない」

 

 ミャオは唇を噛んだ。レンの協力を仰ぐためとはいえ、アカリのことを引き合いに出した自分が今更に卑怯者に思えてきた。

 

 春日は最初からレンが協力関係というものに縛られない人間であることを判っていたのか。しかし、それならば何故自分に連れてこさせたのだろう。無駄だと知っているのならば、正面から協力を申し出なくても春日ならばいくらでもやりようはあったはずである。

 

「春日さんは、レン君に期待していたの? 協力してくれるって」

 

 春日は本を閉じて、息をついた。眼鏡を取って目頭を揉み、本をテーブルに置く。

 

「彼は優しいんですよ」

 

 春日の言葉にミャオは頷いた。確かに、レンは優しいと思う。その優しさにつけ込もうとした自分たちは、やはり最低ないのではないのだろうか。春日は立ち上がり、大きく伸びをしながら、執務机へと向かう。

 

「優しいが故に、全てを一人で背負い込んでしまう。弱さと取れなくもありませんが、僕はそれこそ彼の強さだと思っています。一人で立ち向かう意志の力。それを僕は尊重したい。僕らがやるのは、あくまで手助けです」

 

 引き出しから布に包まれた物体を取り出す。棒状の何かだった。それを見たミャオが言葉を発する。

 

「レン君の力を見込んでいるの?」

 

「見込んでいなければ数珠は渡しません。彼にはこれが必要になる。これも、彼を必要としている。ミャオさん。例の件は任せます。僕はこれを届けなければならない」

 

 春日は鞄に棒状の物体と、プラスチックのファイルを入れた。窓の外を見やる。既に傾いた朱色の光が、暗く沈んだ事務所の中に差し込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レンは一度家に帰り、鞄を下ろした。

 

 時計を見やると、既に五時半を回っている。新山の要求に応えるのならば、そろそろ探し出さなければまずい時間帯だ。レンは窓を開いた。生温い風が部屋の中に吹き抜ける。その風の行方を探すように、視線を部屋の隅へと向けた。

 

 うず高く積みあがったダンボールに追いやられたように、部屋の隅に立てかけられた薙刀を見やる。

 

 ふわりと風を孕んだカーテンが揺れ、レンの髪を撫でる。レンは長く息を吐いて、目を閉じた。何をするべきか。どうしたいのか。心の中の整理されていない物事がわだかまり、胸がつかえる心地がする。しかし、それでも進まなければならない。

 

 レンは目を開いた。その瞬間、覚悟は決まった。

 

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