妖魔世界図   作:オンドゥル大使

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第9話 アカリ灯るところ

 退学届けを提出された担任教師は目を丸くしてレンを見つめた。

 

 先のビラ事件の責任か、と思ったのだろう。考えていたよりも簡単に受理された。正式な執行は後日になるらしい。その時は書面にて報告する、と言われた。

 

 教師はどこか名残惜しそうに、職員室から出て行くレンの背中に声をかけた。

 

「帷。あいつらは見つかったという報告も受けたんだ。何も、その……、世間様の目を気にする必要はないからな」

 

 レンは視線を振り向けたが、首を横に振った。

 

「そういうわけじゃないんです。俺は別に無実の証明とか、償いとかで学校を辞めるわけじゃない。俺が自分でよく考えて決めたことなんです。世間の目なんてはなから気にしていませんよ。失礼します」

 

 扉を閉めると、教師の視線も遮られた。レンは学校を去る前にもう一度だけ教室に立ち寄ってみようかと思ったが、やめておいた。そんなことをして何になろう。未練があるわけではない。

 

 一週間と通っていなかったのだ。

 

 しかし、せいせいした、というわけでもない。校門から見上げた教室の廊下を生徒の姿が行き交う。その中に本来ならば自分もいたかもしれないことを幻視するのはいけないことだろうか。

 

「たら、れば、の話をしたってしょうがない、な」

 

 その一言で未練を打ち消し、レンは踵を返した。

 

 その足で街へと向かい、レンは表通りの喧騒を抜け、裏通りに入った。

 

 気配をほとんど感じさせない路地裏に佇む事務所の扉に手をかける。嫌な感覚は訪れず、レンは二階の事務室へと向かった。事務室へと入るのに、レンは一応ノックをした。

 

「どうぞ」という言葉を確認してから、レンは扉を開けて入る。初めて会った時と同じ、ソファに寝転がっている春日の姿が目に入った。

 

 執務机の上でミャオが人間の姿で足の指のネイルを塗っている。意味があるのだろうか、と問いかけようかと思ったがやめておいた。春日は上体をすくっと起き上がらせ、レンの姿を認めると眼鏡のブリッジを上げた。

 

「こんにちは、レン君」

 

「おう。昼間っからやることねぇのか、お前ら」

 

「その言葉、そのまま返しますよ。学校はどうしました?」

 

「辞めてきた。正式に辞めることになるのは少し先だけど、退学届けは出した」

 

 レンはそう言って春日の対面のソファに腰を下ろした。春日は目を瞑ってふんふんと頷いた。

 

「まぁ、それも一つの選択でしょうね。一昨日の夜にレン君がしたのと同じように」

 

 その言葉にレンは一昨日の夜を思い返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 如意棒を振り下ろした。

 

 しかし、新山の頭上にではなかった。如意棒は新山の頭部の数センチ横の地面を抉った。

 

 新山は短い悲鳴を発する。レンは息をついた。春日とミャオはその様子を黙って見つめている。咎めるわけでも、褒め称えるわけでもない。レンはしばらくそうしていたが、やがて左手で顔を押さえた。

 

「……格好つかねぇな。戻れ」

 

 如意棒が光に包まれて元の拳二つ分程度の長さに収縮する。新山は鼻水と涙にまみれた顔を上げた。

 

「殺さないのか?」

 

「俺はお前をさほど憎んでねぇ。それにお前を裁く権利なんてないだろ。正義のヒーローじゃねぇんだから。裁くとしたなら、お前にそんな妙な力を気まぐれでやった神様のほうだ。お前は苦しんだ挙句にその力にすがっただけだし。ただ、一つだけ言っておく」

 

 レンは一歩踏み込んだ。新山が慄くように後ずさる。

 

「その力を自分のものみたいに過信して、もう一度同じことをしてみろ。その時は迷わず頭かち割ってやる」

 

 レンは身を翻した。新山がその場で緊張の糸が切れたのか、崩れ落ちる。レンは春日に言った。

 

「お前なら、治療くらいできるんだろ。朝まではせめて死なないようにしてやってくれ」

 

 その言葉に春日は首肯してファイルを開けてレンと入れ替わりに新山に近づこうとする。レンはその背中に春日の声を聞いた。

 

「いいんですか? 僕は彼をどうにかして欲しいと頼んだ。弱っている彼を殺すかもしれませんよ。今なら、僕でもできる」

 

「知らねぇよ。そこまで見守る義務、あんのか? どっちみち、お前は殺さないだろうさ」

 

「ほう。それはどうして?」

 

 レンと春日はお互い振り返りもしない。背中を向けたままの会話に、レンは区切りをつけるように言った。

 

「殺すつもりなら、ずっと前にそうしてる。それに、お前は俺に協力して欲しいって言った。倒すだの殺すだのして欲しいとは一言も言ってねぇ」

 

「詭弁みたいですけどねぇ」

 

 くっくっと春日は笑う。レンはそれ以上言葉を返そうとはしなかった。遠ざかる足音を聞きながら、春日はゆっくりと処置に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局、レン君は彼を倒すことも殺すこともしませんでした。どうしてですか?」

 

 尋ねられてレンはハッとして春日に目をやった。ミャオもネイルを塗り終わったのかレンのほうをじっと見ている。二人相手に誤魔化しは通じないな、とレンは正直に話すことにした。

 

「……俺にはそんな権利があるとは思えないし、それに立場が逆だったら、きっと俺も新山みたいになっていた。だからかもしれねぇな」

 

 その答えに春日は自分の中で吟味するように顎に手を添えて、「ふむ」と神妙に頷いた。

 

「彼のように、レン君が、ただ見えるだけで状況を打開する力がなかったら、の話ですか」

 

「ああ。結果論だが」

 

「確かにそれは結果論でしょうね。……いいでしょう。レン君が話してくれたから正直に言いますけどね」

 

 春日はレンの目を真っ直ぐに見つめた。男に真正面から見られることが何だか気持ち悪かった。レンは思わず視線を逸らす。

 

「何だよ?」

 

「僕らには新山君を選ぶという選択肢もあったんです。もし、レン君のほうが彼のような考え方を持っていたとしたら、ですが」

 

 その言葉にレンは頬に手をやって、春日に視線を据えた。

 

「どっちでもよかったのか。傾いたほうを崩しただけで」

 

「どっちでもってわけじゃありません」

 

「あたしは最初っからレン君のほうがよかったけどね。ご飯くれるし」

 

 ミャオが口を挟む。レンは不満そうに返した。

 

「何だよ。飯くれるんなら、結局、どっちでもよかったって話じゃねぇか」

 

「違うよ。それでもレン君の味方をしていたと思う。レン君、優しそうだったから」

 

「優しい? 俺が?」

 

 西垣のようなことを言う。

 

 ミャオは大真面目に頷いた。そういえば西垣もふざけた風ではなかった。だとすれば、本気で言っているのだろうか。しかしレンには、自分が優しいという判断は下せなかった。

 

 むしろ冷酷で薄情なほうだと思っていた。むすっとして、レンは呟く。

 

「買い被るな。褒めても俺からは何も引き出せない」

 

「そうかなぁ」とミャオが首を傾げる。春日はその間中、微笑んでいた。レンにはその微笑みが不気味なものに見えて、背中に悪寒が走ったが二人の前ではそれを見せなかった。「それよりも」とレンは話を切り替える。

 

「何ですか?」

 

「今日は、その、なんつーかだな」

 

 頭を掻きながらレンは言葉を発する。いざ言葉にしようとすると喉の奥で引っかかってうまく出てこなかった。ミャオと春日は茶々をいれずに黙って待っている。レンは言わなければ、と腹を決めた。

 

「その、今更っていうのは分かっているんだけどさ。断っておいて何だし。でも、そのほら。当面俺は無職なわけでさ。多分、仕送りも打ち切られるんだ。だからってわけじゃねぇんだけど、いやないんですけど……」

 

「もう、いいですよ、レン君」

 

 春日が息をついた。ミャオは口に手をやって笑みを隠している。レンは顔を上げて言葉を搾り出した。

 

「俺を、いや僕を雇って――」

 

「慣れないことはしないほうがいいですよ。レン君。こちらこそ、よろしくお願いします。ちょうど、働き手が欲しかったところなんですよ」

 

 遮って春日は手を差し出した。

 

 レンは手汗にまみれた手を上着で拭ってから差し出された手を握った。強く握り返し、春日は笑った。レンもつられて笑おうとしたが、どこか正直に笑顔を出すのは憚られて引きつった笑みを浮かべた。春日がミャオへと振り返って言う。

 

「ミャオさん。レン君が僕らと働いてくれるそうです」

 

「ああ、よろし――」

 

 発しようとした声を飛び掛ってきたミャオの影が遮った。エプロンドレスの姿が視界いっぱいに広がり、次の瞬間にはミャオがレンに抱きついていた。レンはソファごと後ろに倒れる。床に後頭部を打ちつけて、眼前で星が飛んだ。

 

「レン君! これからよろしくね!」

 

 ミャオが顔をこすり付けて猫のように喉を鳴らす。猫なのだから当たり前か、と考えつつ髪から漂う少女の匂いと肌の柔らかさにレンは顔を赤くして、まだ痛みの残る頭に手をやった。

 

 照れ隠しの無愛想さで「ああ、よろしく」と言うと、ミャオはさらに強くレンを抱き締めた。レンは石膏のように固まったまま、顔だけが熱くなるのを感じて動けなかった。春日に助け舟を渡してもらおうとするが、春日はただ二人のやり取りを楽しむように微笑んでいる。笑ってはいるが、我関せずというのが伝わってきた。

 

「厄介になりそうだな」

 

「楽しくなりそうですね」

 

 対照的な言葉を二人はお互いに呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事務所を後にするとミャオがついてきた。人間の姿ではなく胡桃色の猫の姿だ。ミャオは歩きながらレンに話しかける。

 

「レン君があたしたちの仲間になってくれて嬉しいけど、本当に学校を辞めてよかったの?」

 

「自由気ままな猫の癖に、そういうのは気にするんだな」

 

 その言葉にミャオが立ち止まり、レンの足を前足で引っ掻いて抗議した。

 

「猫の癖に、って何。猫でも心配してもいいじゃない。半分は誘ったあたしにも責任はあるし」

 

「心配、ねぇ」

 

 レンが中空を見上げながらミャオの言葉を咀嚼する。思えば巻き込まれたようなものだ。

 

 しかし、どちらにせよレンは選ばなくてはならなかったのかもしれない。朽ちていくばかりの日々か、苦痛が待っていても新しい日々かを。朽ちることを選ぶのは簡単だろう。だが、それでは何かを得ることなどできない。

 

「心配はいらねぇよ。俺が決めたんだ。だったら、俺の責任でどうにかする」

 

「強がりだね」

 

「強いね、じゃないのかよ」

 

 ミャオはそっぽを向いた。

 

「強がりだよ。現にレン君は本当のところでは割り切れていないんだから」

 

「どういう意味だよ」

 

 それを問い詰める前に、こちらへと駆けてくる靴音が聞こえてきた。レンが振り返ると、荒い息をついてアカリが立っていた。

 

 鞄も持っておらず、レンは時計を確認したがまだ昼前で授業も終わっていないはずである。「どうして」と尋ねる前に、アカリはつかつかと歩み寄り、レンに問い質した。

 

「学校、辞めたって、聞いたから。本当なの?」

 

 レンはばつが悪そうに視線を逸らした。アカリはそれを見て顔を翳らせる。「本当なんだ」と呟いて、アカリはその場に座り込んだ。レンが慌てて取り成すように言った。

 

「いや、でも働き先も見つかったし、そんな心配されることじゃねぇって」

 

 自分で言ってからその言葉がミャオの言っている強がりだということに気づいた。アカリには心配をかけさせたくない。

 

 割り切れいていないというのはこういうことか、とレンはミャオを見やった。ミャオは当然のことながら口を開くことなく、二股の尻尾も隠して普通の猫のように振舞っている。

 

 アカリは立ち上がり、顔を上げてキッとレンを睨んだ。

 

 アカリのそのような顔を初めて見たのでレンは気圧されたように後ずさる。元々アカリのほうが背も高いので、この状態だとアカリに圧倒されているように見える。

 

「心配だよ! 急に辞めちゃうなんて、どうかしてる! わたしにも言えない理由なの?」

 

 その眼差しにレンは何か言葉を発しようとしたが寸前で憚られた。聞こえのいい嘘ならいくらでも思いつく。しかし、真正面から見つめてくる視線に嘘は通用しそうになかった。

 

 だからといって本当のことを言うわけにもいかない。レンはふぅと息をついて、アカリから視線を逸らして頭を掻いた。

 

「今は、まだちょっと言えねぇ。何というか、これはあまり誰かに言いたくないんだ。自分の問題だからさ。でも、いつかは言うよ」

 

「そのいつかって、いつ?」

 

「いつかだって。絶対言う時が来るから。それまで待っていてくれ。お願いだ」

 

 レンの言葉にアカリは幾分か不服そうな顔をしていたが、やがて承服したように頷いた。

 

「分かった。待っているけど、絶対忘れないからね。これ」

 

 アカリが小指を差し出す。レンが目をぱちくりさせてそれを見つめていると、アカリは「約束」と言った。

 

「小さい頃はいつもやっていたでしょ。指きりだよ。高校生だと恥ずかしくてできない?」

 

 レンは自分の小指を眺めてから、それを躊躇いがちにアカリへと差し出した。するとアカリが小指を絡み付けて強引に振るった。

 

「嘘ついたら針千本のーますっと」

 

 指を離すとレンは先ほどまでよりも身近にアカリを感じられた気がした。きっと繋がりができたからだろう。

 

 遠ざけていた距離に橋が架かったように、アカリという存在がレンの中で形を伴っていく。

 

 それと同時にアカリだけは巻き込むわけにはいかないとレンは強く感じた。近しい人ほど遠ざけたいとは奇妙な心理だったが、アカリと自分との間には明確な線があり、その線をアカリに踏み越えさせることはあってはならない。

 

 レンはもう当事者だが、アカリはまだ境界を越えるに至っていない。ならば、自分はそちら側へと引き込まないのが自分にできる精一杯のことだろう。

 

 アカリはレンの足元にいるミャオに気がつき、「あっ、ミーコ」と言って屈んだ。ミャオは普通の猫のように振舞っていたが、その鳴き声がいつもよりも一オクターブ低いことに気づく。何か不愉快なことでもあったのだろうか。

 

「ミーコ、ちょっと機嫌悪いのかな。ご飯あげた?」

 

 ミャオの首筋を撫でながらアカリが尋ねる。

 

「いや。日下部。俺さ……」

 

 何かが口からついて出ようとする。しかしそれは形を持つ手前の喉元で霧散した。果たして何を言おうとしたのか、分からなかったが、アカリは振り返って聞く姿勢に入っている。

 

 引っ込みがつかなくなったレンは、頬を掻きながら代わりの言葉を探した。

 

「えっと……、小さい頃、お前のこと何て呼んでいた?」

 

「うん? アカリだよ。わたしがレン君って呼んでいて、レン君はアカリって呼んでくれていた。前も言ったじゃない」

 

「そうだったか? じゃあ、俺は今からアカリって呼ぶ。お前が俺のことを勝手に下の名前で呼んでいるんだから、いいよな?」

 

「うん。別にいいよ。そのほうが何だか昔に戻ったみたいだし」

 

 アカリは微笑んでミャオの頭を撫でた。レンも屈んで、アカリと同じ視点で言う。

 

「あと、こいつの名前、ミーコじゃなくってミャオっていうらしい。覚えといてやってくれ」

 

「そうなの? 誰かがつけたのかな。でもミャオって可愛い名前だし、いっか。よろしくね、ミャオ」

 

 その言葉にミャオはそっぽを向いた。アカリは目を丸くしてレンへと振り返った。

 

「嫌われちゃった?」

 

「かもな」

 

 アカリが困ったように笑ったので、レンもつられて笑った。思えば、この街に来てから笑ったのは今が初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章 金海怨神篇 了


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