SAO/UNLIMITED プロジェクトSAO 作:牢吏川波実
昨日は左足が痛い。今日は右足。その前は右腕と、和人は一日ごとに異なる身体の部位を痛めていた。
無理もない。本来ならば、運動などとは無縁の存在であったはず肉体で、ゲーム世界の動きを再現するように操っているのだから。
それでも、一日両日中に身体の四肢全部に筋肉痛が出なかったのだけでも運がいい事だと思う。
いや、違う。きっと身体の動きが悪かったのだ。だから、無作法に身体を動かしている部分から痛みだしている。体のバランスが悪いと言った方が分かりやすいのかもしれない。もしもこれが剣の達人であったとすれば、逆。均等に筋肉痛になっているはずなのだ。と言っても、剣の達人が身体がそこまでなまるとは思えないのだが。そう、彼は心の中で自嘲する。
「和人、どうしたの?」
「あ、いや……」
と、その時だ。目の前にいる≪母≫からそう声をかけられた。
もっと早く、もっと強く。そう願って数日目の朝。彼の目の前には、極普通の家庭的な、ツンとたった白ご飯の乗った茶碗と、夕暮れを少し濃くした感じの色合いの味噌汁、そしてとても綺麗な目玉焼きが並んでいた。
彼の母である桐ケ谷翠は何も知らない。和人が、SAOをプレイするための試練に立ち向かっていることを。毎晩遅くまで帰ってこないムスコを心配し、そしてデスゲームの世界に送られた一人娘を心配する。極々普通の主婦だ。きっと、この朝ごはんの後片付けをしたら、今日もまた直葉の眠る病院へと行くのだろう。
和人はそう考えつくと、すぐさま目の前の彼女の重しになっている物を片付けようと躍起になる。けど、そんな彼の思いとは裏腹に、その手は数十キロの重しでも付けているかのように重く、彼の手の動きを阻んだ。
筋肉痛の影響、なのだろうと思いたかった。でも、現実逃避には、余りにも辻褄の合わない事象に嫌になってしまう。
「あ、あの、母さん……」
「なに?」
和人は、翠に声をかける。だが、その後の言葉が出てこない。出てくるはずがない。そう、何故なら彼は怖かったからだ。恐れていたからだ。これ以上、彼女の心労にたたる行動をすること、≪ソレを恐れる事≫が怖かった。
もしそうすると、自分は二度とSAOをプレイしようと思えないような気がしたから。
「俺、実は……」
「……母さんね」
「え?」
和人が越冬する燕の様に思考の中でさ迷っていた時だった。翠が、先手を取ったのである。彼女は、肘をテーブルに置き、手を組むと、祈りをささげるかのように、そして苦しむかのような―少なくとも和人にはそう聞こえた―声で小さく呟いた。
「直葉がゲームの世界に閉じ込められたって聞いた時、すごくショックだった。母親だから、当たり前なのかもしれないけど」
痛々しい、健気に笑う翠をそう思ってしまったのは、和人の失態だったのかもしれない。彼女はさらに続ける。
「でもね、それと同じくらい和人がプレイしなくてよかったって、思ってるわ」
「母さん……」
「だから、和人……無茶だけはしないで。私も、貴女のお父さんも……そして……」
その時だ。和人は見てしまった。祈るようなその顔の向こう側に、苦々しい思い出を蒸し返すような顔をして苦心している彼女を。そして、聞いた。
「私の姉さんも、そう、願っているはずよ……」
「……」
和人は、その言葉に何も返すことができなかった。
きっと、返してしまったとたん自分の進路が無くなってしまう。そう思ってしまったから。
どちらにしても、結局は誰かを悲しませる道を選ぶと、そう思ってしまったから。
我ながら、何とも自分勝手な人間であろうかと、そう思ってしまう。
そう、何とも自分恋しい人間なのだろうかと、和人は思って、再びご飯に口を付けた。
不思議なことに、食した無数の白い粒から味を感じなかった。
残念なことに。
「なるほど、つまり桐ケ谷和人という人間は、SAOクリアのために必要な人間の一人、そう言いたいのか?」
『らしいよ、彼女の言う事が本当なら。まぁ、最もこの世界でも、そうだとは限らないけどね』
その日、夜間救急を担当していた飛彩はある男性からの連絡を受けていた。
ICPOのノエル捜査官である。双方ともに面識はないし、何なら≪これが初めての会話≫だ。突如として外線でかかって来た電話に若干驚きはしたものの、彼に関しては互いに世間的にはヒーローと言われている種類の≪副業≫をしていることから、いつかは会う事があるだろうとは思っていた人間であると、飛彩は認識していた。
そして、そんな彼から伝えられた情報、それが≪彼が向かった学園都市≫で聞いたという≪SAOに置ける桐ケ谷和人の重要性≫だった。
なるほど、話は大体わかった。しかし、だ。
「だが、どんな事情があろうと、策を弄せずしてデスゲームの世界に向かわせるのは反対だ」
そう、例えゲームクリアの立役者であっても、未来では英雄であると言われていても、だ。今の桐ケ谷和人はただの一般人、普通の中学生なのだ。そんな人間を、デスゲームの世界に向かわせるだけなんて、一般常識を持った人間ができるわけがない。それは、ノエルにも分かっていた。
『だろうね……人伝に聞いたけど、彼にかなりの難易度のシミュレーションをさせてるらしいね』
「あぁ……」
人伝、か。一体どこから情報が洩れると言うのだろうか。そう飛彩は思っていたという。
情報が漏洩したのか、それとも彼が盗み出したのかはともかくとして、だ。和人にはるかに難しい難易度のシミュレーションをさせているのはたしか。現に今日も≪和人自身はレベル四程度≫と思っているシミュレーションをギリギリクリアした程、普通の人間であれば更なる時間を要するであろうソレをクリアするのは、並外れた精神力ではなしえないことだと、そう飛彩は思っていた。
そう、精神力だけで見れば、和人という人間はタフと言えるだろう。彼の、思いとは裏腹に。
『難易度を高くしているのは、彼をリタイアさせるためかい?』
「それもある、が。あの程度をクリアできない人間が、デスゲームの世界で生き残れるとは思えない。それだけだ」
『オララ~、手厳しいね。天才外科医さん』
「例えいかなる天才であろうとも秀才であろうとも、努力家であろうとも、事前の準備なしに癌の切除はできない。それと同じだ」
『なるほど、今はソレを試している。そう言う事だね』
「……」
試している、というよりも鍛え上げていると表現した方がいいのかもしれない。それほどまでに飛彩から博多南を通じた教えは実践的であり、それでいて桐ケ谷和人という一人間の力を底上げしながら、≪彼に欠けている物≫を覚え込ませるのに徹底した物だったと言ってもよいだろう。
ノエルは、何か不思議なものを感じ取った。
『一人の少年にずいぶんの入れ込みようだね、もしかして……私情でも挟んでいるのかな?』
「関係ない切るぞ」
のべつ幕なしに、飛彩は電話を一方的に切ると明日以降に予定されている手術の内容の最終確認に入る。
まるで、逃げるように。
図星だったから。ノエルの言葉が、当たっていたから。
この時、もしかしたら彼は気がついていたのかもしれない。
自分には、桐ケ谷和人を止める≪権利≫はないと、そう知っていたのかもしれない。
知っていたからこそ、彼は―――。
ふと、飛彩は机の上に置かれている写真立てを持ち上げた。まるで、自分がどうすればいいのか、ソレを≪彼女≫に問いかけるかのように写真の向こうで笑っているその人を見つめ、そして目を閉じた。
まるで、心の中にいるその人と対話するかのように。