SAO/UNLIMITED プロジェクトSAO 作:牢吏川波実
メインシナリオ 第三章 第五十九話
記憶の奥底に封じられていたネット世界へとつながる窓。それが、色鮮やかな色彩とともに自分の前を空化していくのを見て、どこか懐かしさを覚えた桐ケ谷和人、いやキリトは身を引き締めた。そう、望郷の念など抱いている場合ではない。ここから先は、βの時とは全く勝手が違うのだ。
デスゲーム。これまで経験したことがない命を懸けたゲームをする。その世界に降り立つ。それは、おのずとβの時とは全く違う景色を己に見せるはずだ。
見慣れたモンスターであっても、凶悪なソレに変わるし。綺麗なグラフィックに彩られた仮想世界も、見とれる暇もないのかもしれない。自分には、常に死の恐怖という感情が押し寄せる事であろう。
βの時のようにちょっと無茶をしてレベルの高いモンスターに挑んでヤラレチャッタなどでは済まない。そんな戦いが待っている。瞑想するかのように目を閉じて、深呼吸をしたキリトは≪前まで≫と同じようなログインを済ませて、そしてついに旅立った。
「なんだ、ここ……」
幻惑、そして当惑の世界の中へと。
キリトは、その様を見て目を白黒とさせていた。当然だ。彼が足を付けたのは、己のよく知る≪はじまりの街≫の景色ではない。いや、そもそも景色でもなんでもない。ただただ真っ白くて広い空間があるだけの、寂しい場所だったから。
手を伸ばしても、何もつかめない。歩こうとも、当然景色が動くはずもない。そんな虚空に、キリトが恐怖と不安を覚えた。
「ここが、SAO?」
「え?」
背後から、とてもかわいらしい声が届いた。ハッと我に返ったように彼がその方を向くと、そこには緋色髪の少女を先頭に、四人の少女と一人の男性の姿があった。いや、彼女たちだけではない。他にも、次々とβ時代に見覚えのありすぎたログインエフェクトとともにプレイヤーが現れ、空間を埋め尽くしていく。男性から、女性。大人から自分のような子供まで千差万別に現れたプレイヤーたち。
まさしく、βの時と同じ光景だ。ソレを認識したキリトは、一応の安心を覚えて、胸をなでおろした。どうやら、ちゃんとSAOの世界に入れたようだ、と。
そして、それは。
「……」
そんな彼の事を望んでいた特定の人間たちもまた、同じ想いであった。
それから、十数秒間ログインエフェクトは終わらず、プレイヤーたちが集って来た。幸か不幸か、遠近の距離が掴むことのできない空間であるが故に手狭であるとは感じることはなく、冷静に現状を再認識する余裕をもたらす。
この空間は一体なんだ。バグで発生した空間、あるいはデバッカー用のスペースに飛ばされたのか。現実とも、虚構とも隔離されてしまった自分たちは、果たしてどうなるのか。
「あ、アレを見て!」
「え?」
不安を一掃するかのように、誰ともつかないような女性の声が鋭く耳に突き刺さった。見ると、その女性は天高くを指さしており、キリトはまるでそう指図されたかのようにその指先を目で追った。果たして、その先にあったのは周囲の白い下地と比べれば禍々しいと言えるくらいに真っ赤な文字である。
「ディレイログイン受付終了までの時間?」
端数を除けば、残り時間は六分。どんどんと減っていく秒の項目を見ながらその状況を理解したキリトはため息にも似た安堵の息を吐いた。
「これも、公平を保つための手段か……茅場」
思い返してみると、例の自分たちをこの世界にいざなった茅場晶彦の挑戦状には、ディレイログインは受け付け開始から十分で締め切るという旨の言葉が書いてあった。つまり、ここは普通のMMORPGなどで共に戦う仲間を待っている間の空間としての意味合いで使われる単語、≪ロビー≫であるのだ。ソレを理解し終えたキリトは、周囲を見渡し、これから自分とともに戦う≪仲間≫とも、あるいは≪敵≫ともなりうるプレイヤーたちを観察する。
おおよそ、茅場晶彦がこのような処置をとった理由については見当がついている。ディレイログインのプレイヤーの中でも優劣をつけないため、早い者勝ちというルールに記載されていないルールを阻止するための事なのだろうと。
しかし、自分は知っている。SAOの中がどのような構造をしているのか。どのような敵がいて、どこで効率的に経験値を稼ぐことができるのか、立ち回ることができるのかの情報を頭の中にインプットしていた。
多少βの時とは違うところがあったとしても、基礎自体はβ時代と対して変わらないはずだ。つまり、その情報は己に対して有益となる。他のゲーマーたちにとっては妬みや嫉妬の原因となる。
そう、自分はあえて素人のフリをしなければならないのだ。ひっそり、隠れて、彼女と会うせめてその時までは、大きく目立つことはしてはならないと、キリトは肝に銘じた。
「あれ? 君は……」
「え?」
ふと、優しい男性の、しかし今度は聞き覚えのある声が聞こえた。三度目線を変えた彼の目の前に立っていたのは、自分と同じ初期装備に身を包んだ、一回り、いや二回りほど年上のような朗らかな笑みを浮かべている男性だった。
「貴方は……確か」
そう、知っている。この男性は、確か自分が―――。
それは、キリトがディレイログインをしようとしていた時の事だった。数名の男女が眠っている聖都大学附属病院の特別室。そこに、自分の足でたどり着いた彼は、自分の寝床に一直線に向かった。自分の、永遠の寝床となる可能性がある場所に。
そうはなりたくないとは思いつつも頭の中に浮かび上がる最悪な結末に対し、首を振って否定した彼は、自分を繋いでいるいくつかの管を少し邪険に思いながらそのベッドに座った。
その時だった。自分と同じように自動ドアから一人の男性が現れたのは。一目見て分かった。その男性もまた、自分と同じくSAOに向かうのだと。
「キミもSAOに?」
「あ、はい。えっと貴方も、ですか?」
随分と当たり前の質問をしてしまった者だと双方ともに笑い合った。この場所に、こんな格好をしているのならば先も言ったように一目でわかってしまうと言うのに。けど、和人はその一目の瞬間に気がつくことができなかった。男性の、少し異様な部分に。恐らく、彼と自分との共通点を探していたが故に盲点となってしまっていたのだろう。徐に、和人はその≪腕≫に対して言う。
「その腕は……」
骨折、しているのだろうか。見たことがないほどに包帯でぐるぐる巻きとされている右手。腕の半分から、手先までを完全に覆う様にしているソレは、はたから見れば大けがを負っていると勘違いしてしまう物だった。
すると、それに気がついた男性は今にも燃え尽きそうな儚げな笑みを浮かべた後、≪左手≫を伸ばす。
「伸ばせば誰かを助けることのできる。そんな手だよ」
「え?」
微妙に答えになっていないような、でも誇りのこもった声に和人が困惑しているのを見て、男性は更に言う。
「初めまして。俺の名前は、火野映司。向こうの世界でも、よろしく」
「あ……はい……」
和人は、おっかなびっくりに自分もまた左手を出すと彼の手を握り返した。すると彼の、映司の手はとても暖かくて、大きかった。まるで世界全部を包み込めるんじゃないかと思えるほどに、何とも頼もしい手に、和人は薄っすらと笑みをこぼした。
「それと、こっちの手は……ちょっとした保険、かな?」
「保険?」
「そう、もしも俺の身に何かがあっても、一つの命を救う。そのために、今の俺の右手があるんだ」
どういう意味なのだろう。和人はよく分からなかった。しかし、これからゲームの中で戦っていく中で仲間という物は一人でも多い方がいい。性格上βの時は基本的にソロでプレイングをしていた和人であったが、この状況でそんなこと言っている場合じゃないのは重々承知。この人と一緒なら、そう思わせるには十分すぎる出会いであった。
そして、今度は≪右手を伸ばした≫握手をしたキリトは問う。
「映司さんのプレイヤーネームは? 俺は、キリト、ですけど……」
自分で言っていておかしくなって苦笑いを浮かべてしまった。映司の顔を見てすぐに理解できたように、この世界はもうβの時とは違う。キャラメイクの必要もなく、現実世界の顔や体長がそのまま適応されている。まさしくネットリテラシーに配慮が一切ない世界。であると言うのに、自分は前の時と同じように≪偽名≫を使ってしまっている。
ゲーマーの性、なのかもしれない。どこまでも利己的な人間だと、そう自嘲するキリトに対して、映司は晴れ晴れとした笑顔で、力強く答えた。
「俺はオーズ。よろしく、キリト君」
「え?」
「どうかした?」
「いや、自分で言うのもなんですけれど……本名でプレイするわけじゃないんですね」
「まぁ、オーズって言うのも、俺のもう一つの名前みたいなものだからね」
「もう一つの名前?」
「そう。それに、俺の仲間も、たぶん同じだと思うから……」
そう言った映司、いやオーズは自分の右手を見つめていた。それを見て、自分以外にも奇特な人間がいるのだなぁと感心してしまったキリト。だが、彼は知らない。己らだけではなく、この場所にいる他の面々もまた、その多くが実名プレイをしていないと言う事に。
既に自分たちの身分を隠す方法を奪われているこの状況に置いて、あえて名前だけを守ろうとする行為に果たして意味があるのだろうか。
いや、意味はある。それは、覚悟だ。現実に帰って、本当の名前を取り戻すのだと言う、その決意。キリトは、操舵とは知らずにその道を選んだ。そこには、利己的な思想など存在しないのである。
それから、自分がβであると言う事を悟られない程度にオーズと情報を交換したキリト。どうやら、オーズは世界中色々な国を周って仕事をしていたりボランティアで人助けをしていたりするらしく、その話はかなり面白かった。立ち寄った国で食べた料理や、出会った人たちの話、もっともっと話していたかったと、そう思えるほどに。
だが、空の数字が0を指し示したとき。
「ッ!」
その楽しい時間は終わりを告げた。懐かしく心臓に響く、大きな鐘の音と共に。