人は誰もが皆、自分という物語の主人公だという。
だが伊予島杏には、どうしてもそれを実感することができないでいた。
杏は幼い頃から体が弱く、病気がちな少女だ。
彼女が通院する病院は、もはや第二の実家と言ってもいいほどの、行きつけの場所となっている。
小学三年生の時は、特に体調を崩しやすかった。
一年の内のほとんどで学校に通うことが叶わず、家か病院で過ごす日々が続いていた。
そのため杏は、わずか十歳の身で留年を経験する羽目になったのだ。
小学校の三年生をもう一度体験する。周りの生徒はみんな自分より年下だ。
たった一歳だが、その一年の差が子供にとってはとてつもなく大きい。
教室にいる時の杏は、一面の花畑の中でただ一本だけ朽ちた老木のような、場違いな居たたまれなさをいつも感じていた。
周囲の生徒からからかわれたり、イジメられたりといったことがあった訳ではない。
逆に、杏の周りのクラスメイトたちはみんな、彼女を気にかけてくれていた。
しかし、その気を使われているという空気がまた、少女を苦しめていたのも事実。
杏が周りから距離をとり、誰とも関わらず独りきりで過ごすようになるまで、そう時間はかからなかった。
「……しつれいします」
小さく挨拶して、扉を開ける。
杏が入ったのは、彼女が通う小学校にある図書室だ。
周囲と壁を感じ孤立していた杏は、休み時間などになるといつも図書室へ逃げ込むのが当たり前になっていた。
ここなら本を読むという行動のため、一人でいても不信な目では見られないから。
少女は定位置である、人目につかない一番奥の日の当たらない席へと向かう。
そこは暗がりになっているため誰も寄り付かない、杏にとっての聖域だった。
ここなら人目に触れることなく、安心して読書に集中できる。
杏は一人、この席で小説や絵本などの様々な種類の本を読み漁った。
元より読書は好きな質であるため、どれほど時間が経ってもなんの苦にもならない。
色々なジャンルの本を読みふけるうちに、杏は特に『恋愛小説』というジャンルにハマっていった。
囚われのお姫様を救い出してくれる白馬の王子様が現れるような、そんなおとぎ話。
孤独な少女がそのような救いの存在を本の中に求めるのも、無理からぬことだろう。
学校の図書室にある本はあらかた読み終わった杏は、次に書店に並ぶ小説にも手を広げていった。
「学校には置いてない本って、いっぱいあるんだなぁ」
図書室には必然、小学生向けの児童文学などの、低年齢層の読者を対象とした本が置かれている。
だが書店には当然、それ以上の年齢向けのものがある。
杏は対象が上の年代に向けられた本にも目を通し、自分の知りえない未知の世界を大いに楽しんでいった。
空想の世界という花畑を舞う蝶のように。
だが、病弱で人と距離をつくってしまう杏は蝶ではなく、ただの地を這う芋虫かもしれない。
そう思うと、自分は本のような憧れの物語の主人公にはなれないだろう、ということも少女は自覚していた。
それでも、遠い海の向こうを夢見ながら旅立てない老人のような人生だとしても、杏は本を読むことをやめられなかった。
そうして購入した恋愛小説が彼女の部屋の本棚を埋め尽くし、さらには床にもあふれ返ったころ。
「…………」
杏は自室でパソコンに向かい、黙々とキーボードを叩いている。
一人きりでの読書に明け暮れていた彼女は、しだいに誰かと、自分の好きなものについての想いを共有したいと思うようになっていった。
だが病弱な体のこともあり人見知りする質の少女は、気軽に誰かに小説の感想を聞いて回る、ということは難しい。
そのため杏がとった方法は、インターネットに自分のサイトを立ち上げ、そこにこれまで読んできた本たちの感想を公開する、というものだった。
「うわぁ、返信が沢山来てる!」
杏の作った感想、レビューサイトは、少女の想像を大きく上回るほど好評だった。
子供ながらに長い間いろいろな本を読みこんだ経験が、文章を書くということでも生かされたのだろう。
杏の書く感想文はとても分かりやすく、なおかつ作品への興味を引くように凝らされており、普段本を読まないような人間にもその魅力を伝えるのに十分なものである。
友達付き合いのない杏には時間がたっぷりあったので、彼女は本を読むのと同様に、その楽しさを広める作業にのめり込んでいた。
そんな日々が続いた中で、少女のサイトに似たような返信が何件かつくようになった。それは
「私も、小説を書いたらどうかって……」
杏の文章は読みやすいので、小説を紹介するだけでなく自分でも物語を作ってみたらどうか、というものだ。
恋愛小説が好きで、そのジャンルを読み漁った結果、杏の中にも自分の理想とする恋愛観はしっかりと構築されている。
「……よし!」
メッセージの後押しもあり、杏は頭の中にあったアイディアを注ぎ込んだ恋愛小説を書き上げた。
それを自分のサイトに投稿する。
沢山の感想が送られてきたのは割とすぐだった。
どのメッセージも、大好評の好意的なものばかり。
「みんな、私のお話を楽しんでくれてるんだ」
杏は本の感想を共有しあえることと同等の喜びを、この時感じた。
さらに驚きのメッセージが送られてくる。
なんと、ビブリオユートピア出版という出版会社から、杏の書いた物語を書籍化したいというものだった。
これには少女も心底驚いた。まさかそこまでの評価を得るとは思わなかったのだ。
「ごめんなさい」
悩んだ末、この申し出を断った。
あまりにも話が急すぎることと、自分の書いた話が自分のサイトを見てくれる者以外の、大勢の人たちを喜ばせることができるのか。
生真面目な杏には、どうしてもその自信が湧かなかったのだ。
逃げるように書籍化の話を断ってからというもの、杏はサイトを更新する手もすっかり止まってしまった。
勇気を出せなかった自分を悔やみ、心は再び病室にいた頃の孤独な時に戻っていた。
本の楽しさを知っているはずの杏が、初めて読書をしたいとう気持ちさえ失ってしまったのだ。
輝いていた少女の日々はすっかり色をなくし、味気ないものへと変質していた。
まだ目を通していない書物はそのまま手を付けられることなく、部屋の隅でホコリをかぶるに任せている。
外出しても新しい本を買うこともしなくなり、書店からも足を遠ざける有様だ。
「やっぱり私、なにも変われないよ……」
ネットを通して人との繋がりを得たはずだったのに……。
杏は自宅にいても暗い表情で、両親もそんな彼女を心配していた。
だから休日には、家族そろってよく外出をした。少しでも娘の気分を紛らわせようという、親の心遣いだ。
そんな中、杏は奇跡的な出会いを果たす。
杏が両親と出かけたデパート。
その中にある小さな書店。
蝶が花の香りに惹かれるように、不思議な引力によって杏はフラッとその本屋に入った。
店の最奥、陽の当たらない本棚の中に
「これは」
ポツンと置き去りにされたように残されていたのは、一冊のハードカバーの本。
杏はその本を手に取った。
表紙は全体が赤く、表には一匹の、これも赤い竜のイラストが描かれている。
タイトルは独特の書体の英語で記されていたが、杏には読み取ることができた。
「題名は……ブレイブドラゴン? 作者の名前は、
飛羽真はファンタジー小説専門の作家であり、さらには過去の一部の記憶がないという異色の人物だ。
自身の記憶喪失をテーマに書いた小説、『ロストメモリー』は彼の代表作となっている。
杏が手に取った『ブレイブドラゴン』は、ロストメモリーでヒットを飛ばす前の飛羽真が自費出版で書いた、知る人ぞ知るという逸品だった。
恋愛小説を好む杏だが、ファンタジーというジャンルにも興味があり、恋愛が主なテーマとなっているファンタジー作品は何冊か持っている。
だが彼女は、この飛羽真の初期の頃の作品のことをまったく知らなかった。
そのためだろうか、杏はブレイブドラゴンの内容にとても興味が湧いた。
ハードカバーのため、表紙にあらすじは書かれていない。
立ち読みするのもためらわれたので、少女はこの日、思い切って久しぶりに本を購入したのだった。
家に帰った杏は、早速ブレイブドラゴンに目を通す。
ストーリーはこういうものだ。
かつて、全てを滅ぼすほどの偉大な力を手にした神獣がいた。
神獣──赤き竜はその力を使い世界を支配していた。
だがある時、赤き竜以上の力と悪の心を持つ、邪悪な暗黒竜が現れる。
暗黒竜は世界を暗闇で包み込み、死と滅びをもたらした。
この様を見た赤き竜は、かつての自分の横暴な行動を反省し、世界を救うため仲間と共に暗黒竜を倒す旅に出る──。
とても王道な、ファンタジー冒険小説だ。
生半可な作家では、このような単純なストーリーには満足せず、もっといろいろな要素を付け足したくなるだろう。
だが飛羽真は、余分な物語を極力排除することで、赤き竜と仲間たちとの友情や、暗黒竜の悪辣さをこれでもかと魅せつけてきた。
このシンプルなストーリーラインを魅力的な物語に昇華できたのは、なによりも神山飛羽真という一流の物書きの手腕があってこそだろう。
杏はブレイブドラゴンを読み終わる頃には、すっかりこの物語のとりこになっていた。
そして彼女がもっとも心惹かれたのは、劇中のとある台詞である。
暗黒竜と戦う赤き竜と仲間たち。
しかし暗黒竜の力は強大で、赤き竜たちはその前に力尽き倒れてしまう。
──世界が終わる──
止めを刺されんとした時、仲間の一人が身を挺して赤き竜を庇ったのだ。
その仲間が、くじけそうになっていた赤き竜に言った一言。
『覚悟を超えた先に希望はある』
仲間からの励ましの言葉によって、赤き竜はついには暗黒竜をうち倒し、世界に真の平和を取り戻すことができた。
「覚悟の先の希望……」
覚悟を超えたその先に、本当に希望と呼べるものが待っているのか……。
少女にはまだ分からないことだった。
しかし、この言葉が杏の心に小さな光として宿ったことも確か。
彼女はいつか出会えるかもしれない希望という明日を夢見て、再び部屋の中で眠っていた本のページを開くのだった。