生まれて初めてシフォンケーキを食べた時、あんまりにもふわふわだったから雲で出来ているのだと思った。子供の私はマシュマロも綿菓子も、ふわふわしたものはみ~んな雲で出来ていると信じていたらしい。
そして雪は雲がぷちぷち千切れて落ちてくるものだと認識していて、初シフォンケーキを食べた翌日に雪が降った時は大いに喜んだものだ。
またあの美味しいものが食べられるぞ! と。
(あの子も雪のシフォンケーキが食べたいのかな? ……なんてね)
雪でシフォンケーキを作ってくれと駄々をこね、大いに母を困らせた幼少時の記憶。それを思い出しながら、私はぼんやりと薄青く光る雪の中うずくまって、一心不乱に雪細工を作っている子供に声をかけた。
少し時間を遡る。
カシュっと手慣れた動作で、器用に片手でビールのプルタブを持ち上げる。弾けた泡と苦い液体を一気に喉に流し込んで、長時間の立ち仕事で痛む足首を引きずりながら歩くのは帰路の道。かーっ! 熱燗飲みてー!
ぎりぎり終電には間に合ったが、自宅最寄り駅につくころにはすっかり町は喧騒を顰める時間帯となっていた。
住宅街ならなおさらで、道行く人はおらず代わりに家々から団らんの光が零れている。それもやがてまばらになっていくのだろう。
「まったく、な~にが「お前の構成は重い」よ! そりゃ、コース料理のあとに出す物ですもんね? どんなに美味しくても、胃に重かったら食べられないわ。しかもクリスマスディナー! いつもより豪華! ……だけどそれならそれでって、ムースとかジェラートとか、いろいろ組み合わせ考えて……なのにこのダメ出しの回数はどういうことよ! ええ!? 仕込みやら材料の発注やら考えたら、もうぎりぎりだっていうのに……! きいぃ!」
人が居ないおかげで歩きながらの飲酒も盛大な独り言も、冷たい視線に晒されることは無い。だけど微妙に声を潜めているあたり中途半端に理性が残っていて嫌だ。いやまあ明日も仕事だし朝早いしで、完全にへべれけにはなれないからね……。
でも! 吐き出さずには! 飲まずにはいられない!
居酒屋でも自宅でもなく、帰路を飲み屋にしているわが身の時間の無さが悲しいけれど!
「くっそ~! あのこだわり屋め! メニューをひとつ任せてくれたことは嬉しいわよ? 嬉しいけど! もうちょっと妥協ってもんを知りなさいよあの馬鹿! だからスタッフがコロコロ変わるのよ! でもそういうところ好き! 職人! がぁぁぁ!」
人に聞かれたら憤死ものの独り言が止まらない。我ながらこの勢いで喋っていたら不審者も近寄ってこないだろうなって思う。いや今は私が不審者か。自分だったらぜってー近寄んないわこんな女。
せめて通勤の時ぐらいはおしゃれしてもいいじゃないと、半ば意地で履いているヒール付きのブーツが鉛のように重かった。多少の飲酒でふらついてもいる。……これは家に着くころには日をまたぐなと、乾いた笑いが出た。ははっ。……はあ。
そんな帰路の途中、公園の近くを通りかかる。
「……え?」
いつもなら気にもかけずに通り過ぎるだけだったが、今日はありえないものが見えて足を止めた。
今朝がた降り積もり、丸一日の曇天のせいで溶けなかった淡雪の中。……公園の街灯に照らされた、小さな背中が見えたのだ。
「え、嘘。こんな時間に子供?」
キョロキョロ顔を動かしても、周りに保護者らしき姿は見えない。ふと顔を上げれば性懲りもなく積もろうというのか、ちらちら舞い始めた白い影。……しかもふわふわぽってりとした、牡丹雪だ。マジか。明日の朝辛い奴じゃん……積もるかな。
私は深く溜息をつき、ぎゅっと雪を踏みしめて公園の中へと入っていった。
「こんばんは。どんなケーキを作っているの?」
声をかける。出来るだけ怖がらせないように柔らかい声色で。
……思ったけど缶ビール片手に赤ら顔の女が話しかけるのはどうなの。でもこんな時間に子供一人ほっぽって帰るわけにもいかないしな~。
なんだ、家出か? 迷子か? ……小さい。小学校に入るか入らないかくらいの年齢じゃないかしら。
私の問いかけに雪で作った土台に、何処から拾ってきたのか木の実や山査子の実、柊の葉っぱを飾っていた子供が振り返る。
「……!」
睫毛なっが。
最初の印象は陳腐なもので、しかしすぐにその異様さに視界のすべてが捕らわれた。
絹糸を思わせる滑らかそうで真っ白な髪の毛に、まるでダイヤモンドを砕いてちりばめたか、氷の結晶が連なったかのようなキラキラと光る睫毛。付け睫毛や化粧の類ではない。それほどに自然だ。しかし自然だからこそ、一気に現実味が遠ざかる。
心なしか降り始めた雪のカーテンが厚くなり、周囲の景色が曖昧に霞んだ。
「よくこれがケーキだとわかったね」
「……だって、美味しそうに飾り付けてあるもの」
この年頃の子供にしてはひどく落ち着いていて明瞭な声。不思議なことに声に重なって、しゃらしゃらと音が聞こえる。
「ふぅん? でもリースかもしれないよ。真ん中に穴が開いている」
「……おお」
言われてからその形を改めて見てみれば、なるほど。平たい雪の円柱。それの真ん中にはぽっかりと穴が開いていて、円を彩る飾り達を見れば、なるほど。クリスマスリースと言われた方がしっくりくる。
いや、その穴が見えてなかったわけではないのよ。ただ。
「完全にシフォンケーキで考えてたわ……」
考えていることがそのままポロリとこぼれ出て、子供……中性的で女の子か男の子かも分からないその子が目を見開く。
瞳はぞっとするほど綺麗な紺碧だ。射すくめられたように体が強張る。
「大正解! そうだよ、これはシフォンケーキ。シンプルなのが好きだしどうせ切って横に倒してしまうから、飾りは控えたかったのだけどね。町の飾りにあわせて、気分で」
「はあ」
強張った体から気が抜けたような返事が出る。この子供、まるでそれが本物のシフォンケーキだと言わんばかりの口ぶりだ。
「シフォンケーキには、たっぷりのクリームよね……」
「そうそう! 僕もそう思う!」
僕。男の子だろうか?
私は地に足がつかないような気分のままに、一歩踏み出す。この非現実的で奇妙な子供と雪のケーキに、とても惹かれたのだ。警戒心など家出した。
心に浮かぶのは純粋な好奇心。シフォンケーキの材料が雲だと信じていた、あのころのような感覚で。
「ねえ。それ、一口食べてもいいかしら?」
気づけばそんな言葉を口にしていて、言ってから「何を馬鹿な」と大人の自分が待ったをかける。だけどすぐに子供の私が無邪気に背中を押した。
「これを? う~ん。取り分が減ったって怒られそうだけど……うん。いいよ! 交換こね」
交換こ? そう思いながらも嬉しくなって、カバンから携帯スプーンを取り出す。
ふふん、私はいつでもどこでもアイスが食べられるようにマイスプーンを持ち歩く女。木やプラスチックじゃだめなのよ。
それを見て子供は呆れたように笑った。
「準備がいいねぇ。さあ、どうぞ」
促されるままに手を伸ばし、大地を丸ごと皿にした淡雪のシフォンケーキにスプーンを差し込む。
予想通り「しゃくっ」とした雪を掘る音と感覚。……口に含めば水の味がするはずだった。普通なら。
けど。
「あっ…………ま!」
口元を押さえる。
「甘すぎた?」
「ううん」
首を振るう。……多分私の目は今、キラキラと子供みたいに輝いているはずだ。自分で言うのもなんだけど、きっとそう。ふよふよと笑みがこみ上げてくる。
口に含んだ雪のケーキは冷たくなくて、食める雲があったらこんな感じだろうかという、想像をするしかない……そんな初めての触感。ふわふわしていて、繊細で。
きっとどんなにきめの細かい小麦粉を使っても、丁寧にメレンゲを立てて上手く混ぜ合わせたとしても、こんなシフォンケーキは作れない。
でもそんな最高のシフォンケーキは知らない味のはずなのに、子供のころ初めて食べたシフォンケーキとどこか同じ味がした。
……"初めて"を口にした感動だ。
「……ちなみにクリームはなにを使うの?」
「ん」
指で天を示されてその先を求めて顔をあげれば。
「…………ミルキーウェイってか」
雪が降っているというのに、雲には円形の穴がぽっかりと。シフォンケーキの穴みたいだ。
そしてその先には幾百の光を瞬かせた星を抱く、天の河。
今まで見たこと無いくらいくっきり見えるその美しさに呆然とする。
「ちゃんとホイップできるの? 天の川のミルクって」
「脂肪分四十五%で発注済み。ちゃんとクリーム」
ぶいっと、ピース付きで頷かれてしまった。結構お茶目だな。
「発注て、誰によ。……四十五%。けっこう、こってりしてるんだ」
「僕の好み」
「そう」
この状況が酔った自分が見る幻覚なのか、それとも現実なのかはとっくに分からない。だけどこみあげてくるのは楽しい気分ばかりで、私はもっとこの美しい光景を見ようとのけぞった。
その瞬間。
「ぎゃんっ」
ぐきっと嫌な音がして、私はこんな時にヒール付きブーツの代償をはらうはめになった。
そして後頭部に衝撃、脳内で点滅する星。
「あらら」
呆れたような子供の声を最後に、暗転。
次に目を覚ました時、私は雪をわずかに積もらせて夜の公園で大の字で転がっていた。何故かひねったはずの足首は痛くなくて、体も冷えた様子はない。
「うあ~……最高に馬鹿」
自分の醜態に頭を抱えつつ体をおこすと、ふと違和感。……さっきまで握っていたビールの缶が無くなっているのだ。
あたりを見回しても転がっていないし、雪に埋もれた様子もない。
「……ははあ。"交換こ"ね」
まあ見た目通りの中身ではなさそうだったし、大丈夫でしょ。
そんなことを呑気に考えつつ体を起こして帰路につく。明日も仕事だ。
「頑張っちゃいますかね」
食べたことが無い夢のような味。でも私はもう知った。知らなかったその味を知ったのだ。
鉛のようだった足取りが少し軽い。
今はただ、これから私が作る淡雪のシフォンケーキを口にした人たちの顔を思い浮かべるのが楽しかった。