平安時代に生きた
和歌は苦手であったが、管絃の名手で博雅が笛を奏でると、周囲にいるものは時を忘れ聴き入るほどであった。ある日、博雅の屋敷に盗人が入り、屋敷中の金品を盗んでいった。その後、屋敷の中に隠れていた博雅が出て、唯一盗られなかった笛を吹くとその笛の音に感動した盗人は盗った物をすべて博雅に返しに来たという逸話もある。
平安時代中期の天皇・醍醐天皇の第一皇子である克明親王の長男、簡単に言うと天皇の孫という高貴な血を継いでいたが、権力争いは決して好まず、笛を奏でたり、季節の移り変わりに心を添わせ、桜の散る様子に涙を流すことを博雅自身は好んだ。権力を欲する者からは「博雅の如きは
博雅には友人がいた。
不思議な術を使い、博雅によく難しいことを言って混乱させる
あの男の屋敷で野をそのまま持ってきたかのような庭を眺め酒を酌み交わした。会話はまばらであったが、梅雨の前のしっとりと水けを含んだ空気や冬の終わりに薄く積もった雪の下から芽を出す草花の力強さなど、生きとし生けるものをそのままに感じとれる庭が好きであった。博雅はその愛しさに笛を吹くこともあった。
晴明と一緒にいると様々なことが起こった。
丑の刻参りの末に女が般若になった
虎杖から見て、
決して性格が暗いわけではない。むしろその真逆で博雅の周囲には温かく穏やかな空気が流れている。
博雅にとって現代の生活はとても不思議なものだった。
平安の頃とは、生活の仕様がまるっきり変化していた。幸い、平安の記憶を急に思い出したというわけではなく、じんわりと時間を掛けて馴染むように思い出したため、戸惑うことはなかった。
名前が変わらなかったと言うことも一因かもしれない。もしかして自身の子孫かと思い調べたがそうではなく、偶然の様だった。
平安では所謂貴族であったため、民草の生活がどんな生活を送っていたのか詳しくはないが、現代で子らがグラウンドで好き勝手に駆け回り遊ぶ姿に顔が綻んだ。自身が平安の頃に作曲した長慶子が音楽の時間に流されると、現代まで残っていることが嬉しくもあったが、少し気恥ずかしかった。
花や草木を見るたびに簀子の上に座り、晴明とほろほろ酒を飲みながら眺めた庭が思い出され懐かしく思った。少しネットで調べてみたがあの屋敷についてはどこにも載っておらず、もうあの庭が見られないのかと思うと寂しく感じる。
博雅は今の両親はいい人たちだと思う。サラリーマンと専業主婦で、今は父親は単身赴任しているが毎日母親と連絡は取り合っているようだった。以前は通い婚が当たり前で、平安の頃の両親も仲は悪くなかったが、現代とはやはり夫婦間の雰囲気が確実に違う。
以前の貴族の生活では、官位の高さもあり一人で出かけることに家人たちに反対され、しぶしぶ牛車で移動することもあった。まぁ、それでも晴明の屋敷に行くときには勝手に出歩いていたのだが。
現在の博雅に平安の博雅の記憶が大分馴染んできたころ、笛が恋しかった。学校で習うリコーダーも面白くはあったが、やはり自身が死ぬまで何十年も奏で続けてきた笛が懐かしかった。
お年玉や小遣いを貯めて、ネットで念願の笛を買った。 笛の音を聴いていた周囲の人からすごいと称賛されたが、やはり平安の頃に朱雀門の鬼にもらった名笛の
いつかお金を貯めてもっといい笛を買おうと決心した。また旅費も貯めて京都にいきあの頃とどう変わったのか見てみるのもいいだろう。やりたいことはたくさんあった。
単身赴任の父親に会いに東京まで来たときであった。父親と一緒に外出していたが、取引先からトラブルの連絡があり、急遽父親に仕事が入った。スマホも持っているため父親に遅くならないように戻ると伝え、ひとり観光をしようと考えた。
ガヤガヤとしたビル群も住んでいる宮城でも見ないため目新しかったが段々と疲れてきた。平安では琵琶の名手の蝉丸のもとに秘曲を聞くため逢坂に3年間も通い続けたというのに、ビルが林のように立ち並ぶ都会ではぶらぶらと歩くだけでひどく体力が削がれた。
人ごみを避けるようにあまり人通りのない道に入ってしまったことが全ての原因だった。
どこからか啜り泣く声が聴こえた。
博雅は怖がりではあるがそれ以上にお人よしであった。その気質は今も昔も変わっていない。頼まれるとなかなか断れないし、そうでなくとも困っている人を見ると手を差し出してしまう。
その音は古ぼけたビルから聴こえていた。窓は割られ落書きもされている。
危なそうなところにうかつに踏み入るなと言っていたのは晴明だっただろうか、あるいは晴明の式神の蜜虫だったかもしれない。その言葉が平安だけでなく現代にも通じる言葉であると身を持って知ることとなる。
いまにも崩れ落ちそうな階段を慎重に上った。日の光も入らない薄暗くひんやりとした場所に蹲る女性の姿が見えた。
「もし、なんでこんなところにいるのだ。こんなところから出て話を聞かせてくれないか?」
博雅は声を掛ける。緊張しているせいか言葉づかいが平安のそれになっていることにさえ気が付いていない。
女の顔がゆっくり博雅の方に向く。女の目があるところには口しかなかった。歯は人のものではなく、剣山のように尖っている。
博雅は来た方向に咄嗟に逃げた。
後ろから叫び声が聞こえる。人ではないと確実にわかってしまう声だった。階段を何段も飛ばしながら駆ける。声の主も追いかけて来ているようで、後ろの方向から声がひっきりなしに聞こえてくる。
出口までこんなに距離があっただろうか?そう思うのに時間はさほどかからなかった。
走りながら武器になりそうなものを探すが、見つからない。階の両端に階段があるつくりの建物のようで階段を上っては下りてと1階と2階を何回も走り抜けた。
帰宅部の博雅には体力がそれほどない。着ているTシャツも既に絞れそうなほど汗をかいている。息も荒く不規則になり、限界が近いことを悟った。
2階から1階に下りる階段で躓く。来る衝撃に備えて目を強く瞑った。
「――っ!、おっしゃ!ギリセーフ!」
床とは確実に違う、体温を持つものにぶつかった衝撃に驚く。
何かを切る音が聞こえ、その方向を見ると、同級生だった男が立っていた。
「………虎杖?」
「あれ?源じゃん、こんなとこでなにしてんの?」
「――おい、博雅ではないか。なぜお前が生きている」
虎杖の方向から確実に声がしたが、姿が見えず戸惑う。
「あっ!おい勝手にでるなよ」
虎杖は小芝居のように自身の左手の甲を押さえる。
「お前は疾うに死んだと思ったが。まぁいい。博雅、笛の音を聴かせろ」
その声は虎杖の頬にできた口から聴こえた。
「虎杖、それはなんだ?」
おそるおそる博雅は聞く。
「あー、腹話術!そう腹話術の練習してて!」
「腹話術なものか。おい、晴明は、あの狐はどうした?」
その物言いに博雅は心当たりがあった。
「その言い方は、…宿儺か!久しいな!息災であったか!」
久しぶりの知人に会えたかのように表情を明るくする博雅に次は虎杖の方が戸惑う。
「おーい、悠仁!なかなか外にでてこないけど、なんかあった?」
任務についてきていた五条が呪霊を切ったが出てこない虎杖を不審におもって迎えに来た。
「おい呪術師!酒を用意しろ!折角博雅の笛の音が聴けるのだ良い酒でないと殺すぞ!」
なぜかいつもより興奮している宿儺に五条と虎杖は警戒する。
「あー、すまぬな宿儺。俺はいま葉二を持っていない。だからお前の満足するような音は聴かせられぬのだ。」
博雅の言葉に宿儺は一気に沈黙した。
「…おい小僧」
「ん?どした?」
急に話を振られた虎杖が聞く。
「笛を!葉二を探せ!今すぐにだ!!」
「は?」
五条と虎杖がまだ頭が追いついていない中、博雅は苦笑していた。
3人は近くのファミレスに入り顔を寄せ合う。
「で、話を整理すると、君は昔安倍晴明と友達で、たまたま宿儺と遭遇して3人で酒を飲んだと」
その五条の言葉に博雅は頷いた。
「あの忌々しい狐め、見つけたらただではおかん」
宿儺が悪態を吐く。
「宿儺がこういってるけど?」
「襲ってきた宿儺を晴明が動けぬようにしてな。その日はそれはそれは月の美しい夜だったので月を肴に酒を飲んだのだ」
「襲われたまま酒飲むってヤバくない?」
「途中で宿儺も何故か大人しくなったから、晴明が縛を解いてともに飲んだぞ?」
「」
五条は言葉を失った。
「おい博雅、笛がないなら
先程まで黙っていた宿儺が思いついたように言う。阮咸は琵琶と同様の弦楽器の名称である。
「阮咸か!懐かしいな!」
「呪術師、俺の指が封印されている近くに螺鈿模様の入った琵琶があったろう。」
声を細めて宿儺は五条に言った。
「あれは特級呪物だ。軽々しく貸すことはできない」
「貸す?いいや違う、あれは元々博雅のものだ。此奴しか鳴らすことはできない」
「俺のもの?…宿儺のいう阮咸は沙羅のことであったか」
宿儺の言葉に博雅は昔持っていた阮咸を思い出した。
「此奴が帝から奪い取ったものだ」
「奪ってなどいない。帝から
不服そうに反論する。
「阮咸をお前以外が弾くと鳴らぬようにしておいてどの口がいう」
「それは晴明に解決してもらったはずだ」
「お前が生きている間は鳴ったが、死んだ後は鳴らなかったぞ。おかげで今では特級呪物の一つだ」
「」
その衝撃に博雅は口を閉ざした。
「埒が明かないから、とりあえず高専まで来てもらってもいい?」
会話を切ったのは五条だった。
五条から夜蛾に許可を取り、博雅は沙羅に触れることができた。
五条と虎杖が博雅をちゃんと監視するという条件付きであったが。
螺鈿で描かれた沙羅双樹が昔と変わらず美しい。博雅はいつものように沙羅を膝の上に乗せ撥を握り絃にあてる。
誰が弾いても決して鳴らず、壊そうとすると呪われる特級呪物が鳴った。
虎杖は音楽の良し悪しはわからない。しかし、博雅の奏でる音は頭から足先まで伝播し、天地まで震えているように感じた。意識をしなければ息を止めてしまうほどであった。
あぁ、沙羅よ、おまえは変わらずよい音で鳴くのだね。なんとおまえは美しいのだね。
博雅は音の美しさと自分が死んだ後ひとり残された沙羅の哀しみ、虚しさを思い、弾きながらほろほろ涙した。
虎杖が前の任務の際に負った傷が治っていることに気がつくのに時間は然程掛からなかった。