獄門彊は開いている。誰も動こうとせず、沈黙が耳に痛い。
「あ、そうだ。ホントの最後の最後にもう1つだけお聞きしたいんですが」
「……まだあるのか」
同感だ。右京さんでもここまでしつこくはない。こんな状況でまだ訊くことがあるのかと偽者も少々、いや大分うんざりした顔をしている。
「いいじゃないですか、どうせ死ぬんですし。冥途の土産に教えてほしいんです」
「じゃあ、何?」
「僕、偽者さんは繁殖が目的だと思ってたんです。けど先ほどその事実はなかったとおっしゃられていたので、余計に目的がわからなくなりまして…」
”繁殖”と言われるとどこか実験用のラットになった気分になる。
少年の言葉に偽者は溜め息混じりで面倒くさそうに答えた。
「―――呪霊について君は何を知ってる?」
「人間の負の感情で発生するものだとこの前教えてもらいました」
「正しくは非術師が発する負の感情だよ。だからこそ私は人類を1つ上の段階に進める。非術師も術師も呪霊も超えた、新しい人間の可能性に到達させること、それが目的だ」
「……つまりは人間を進化させたいと。それなら五条さん封印する必要なくないですか?」
「その可能性は混沌の中で起こる。平安時代のような呪術全盛の世のようになるんだ。だから五条悟は少々邪魔でね」
「”進化”で”平安時代のような呪術全盛の世”……進みたいのか戻りたいのかイマイチわかりませんね」
『しっ!』
思わず咎めた。
「そもそも呪霊が生まれることが原因なんですよね。それなら別に偽者さんが考えているような方法を取らなくても可能じゃないですか」
偽者は不愉快そうに眉を顰め、続きを促す。
「非術師が負の感情を発することによって呪霊が生まれる。それならば物理的に負の感情を発さないようにすればいいんです」
『どういうこと?』
「ロボトミー手術って知ってますか」
嫌な予感しかしない。
「左右のまぶたの裏からアイスピックのような器具を刺しこんで、手探りで前頭葉をかき切る手術です。
モニス医師はこれで1949年にノーベル生理学医学賞を受賞しました。手術自体10分程度で終了するため重篤な精神病患者や痴呆症の患者などに施術され、患者の中にはケネディ大統領の実の妹もいます。その後多くの患者が症状の軽減と引き換えに感情や意欲といった人間性をも失ったため非難を受け、現在では公式的には行われていません」
「それがなに」
「つまるところ、日本国民全員に施術すればいいんですよ。日本精神神経学会はロボトミー手術を自主規制しているだけで禁止してるわけではない。今現在においても”治療行為” として健康保険の対象なんです」
少年の言葉はK点を軽々と越えて行った。思わず少年から半歩距離を取る。
「…何言ってるかわかってる?」
尤もだ。
「偽者さんが今日のように呪術師と呪霊を戦わせるように仕向けるより、約10分で完了する手術の方が呪術師の数も減りませんし早いと思いますよ。単純計算で1人がぶっ続けで手術しても1日144。日本で1番人口が少ない自治体は伊豆諸島の青ヶ島村の167人。つまり28時間、1日と4時間ですべてが完了するんです。執刀する人の数が100人いれば20分も掛かりません」
『そんなことしたら社会が回らなくなるだろう!?』
「どのみち平安時代に逆行するんでしょう?社会も糞もないじゃないですか。さようなら水洗トイレ、おかえり
遂にどちらが敵かわからない事態になってきた。
「……別に文明を平安時代に戻すという意味ではない」
『そうそう!ちゃんと使える奴は生かしておく予定だったし!』
つい11ヶ月前、非術師皆殺し計画を企てた責任者としても反論する。
「しかしどう転んでも労働生産性が減少することは確実です。かといって文明の利器は手放す予定はないと。そうすると呪術師の皆さんで農業、畜産はもちろんインフラの整備・保守をしてもらうことになります。年単位で見れば居住地の経年劣化問題、現在あるダムやらエネルギー施設の保全も考えておかないといけません。何か資格はお持ちですか?」
中学の時に取った英検3級で太刀打ちできるだろうか。
数秒何とも言えない沈黙が続いたが、話をしても無駄だと思ったのだろう偽者が何体もの呪霊を出す。それに呼応するように呪具を構え、少年は空気が変わったことに気が付いたのかやっと口を閉じた。
ふと思い出して怒りを再燃させることはよくある。決して許したつもりはないがそれより先に優先させるものがあったというパターンだ。他者にとってなぜ今頃になってそんなことをと思うだろうが、当事者の怒りの炎が鎮火していない時点で現在進行形だったりする。
”復讐なんて死んだ奴は望んでいないだろう!”などという寒々しいクソのような台詞はドラマや三文小説で散々使われてきた。死んだら皆聖人になりこれまでの行いを悔い改め、全てを赦すと生きている奴はなぜかそう思うらしい。伏黒は1度死んだのでよくわかる。死んでも腹立つものは腹立つ。
伏黒は
しかし時には流れに身を任せ瞬時の判断と直感に頼ることも大切だ。
呪胎から変態した呪霊に周囲の呪術師は振り回されている。遂には術師たちは呪霊の領域展開に巻き込まれた。このまま放っておいてもいいが獲物を横取りされているようで向かっ腹が立つ。
外からでもブッ叩けば中に入れるだろと思っていると運よくぽっかりと穴が開いた。その場で軽く跳躍し、リズムをつける。静かに細胞1つ1つに酸素を行き渡らせると一気に跳んだ。
領域の中は青い海が広がっていた。皆突然現れた伏黒に戸惑っている。丁度伏黒の傍に武器を持った女がいた。その武器が目に留まり流れるように女から拝借する。手に馴染むそれに懐かしさを覚えつつ構えた。
水に足が取られるが問題ない。単純な話だ。右足を出してすぐに左足を出せば沈まない。
三節棍を振り空気を薙ぐ。呪霊の攻撃を往なし、空中に浮く呪霊の目に三節棍を突き刺した。深々と刺さったそれを更に押し込み、頭の風通しをよくしてやる。領域が解け、力を失った呪霊もろとも地面に落ちた。ずるりと三節棍を頭から引き抜き、ついでとばかりにこちらを警戒しているサングラスの男たちを蹴り飛ばす。土煙が舞う。わざと残した1人の男に声を掛けた。
「ヨォ、糞ジジィ」
「地獄から戻ってきたか…甚爾」
感動的な再会に髭が特徴的な男はまともな言葉も出ないようだ。
記憶の彼方ではあるが相手の
伏黒の視界から男が消える。
男の手刀は伏黒の首の皮1枚分掠った。火傷にも似た感覚を覚え嗤う。
「オイオイ、もう引退した方がいいんじゃねェか?」
「――ぬかすな」
男は瞬時に距離を取ろうとするが、伏黒が一気に距離を詰めた。突き出される腕を掴む。男の逆の手刀が届くより伏黒が男を蹴り上げる方が速かった。顎に蹴りをまともに食らった男は一瞬よろめく。その隙を見逃すわけもなく伏黒は拳を振りかぶった。
先程まで瓦礫の崩れる音が響いていたが、随分と周囲は静まり返っている。男を殴りまくっている間時折邪魔をしてきた奴らは遠く彼方の瓦礫に埋もれている。何発か食らわせたが恐らく死んでいないだろう。辛うじて人の形を保っている禪院家の当主を投げ捨て、伏黒はヤンキー座りで男たちから掏った財布の中身を数えていた。
「なーんでお前まで生き返ってんだよ」
耳障りな声が聞こえ目を遣る。嫌そうな顔をした五条が空中から伏黒を見下ろしていた。どうやら伏黒がこれまでの鬱憤を晴らしていた間に呪霊どもは五条によって一掃されたらしい。目が合いこいつもぶっ殺してやろうと思ったが、向こうには厄介な術式がある。流石に準備なしではきつい。さっさととんずらしようとしてポケットに突っ込んだままのクレジットカードに気づく。伏黒が指先に軽く力を入れるだけで瞬く間にその役割を放棄するであろうそれに溜め息を吐いた。
「オレも協力してやったんだから文句言うな」
「協力?禪院家の当主襤褸雑巾にしてくれてありがとうって?」
「オイ、それよりあの糞ガキの方気にした方がいいんじゃねェか。あいつ偽者のところ行くって言ってたぜ」
「糞ガキ?」
「屁理屈捏ねる糞ガキだ」
「…青のことか。1人で行くとか馬鹿でしょ」
「知るかオレに言うな」
遠くからこちらに向って誰かが叫ぶ。
「……五条先生!」
「おー恵、元気?ぼっろぼろじゃんウケる」
伏黒はその声に弾かれるようにすぐ傍の総合ディスカウントストアに並んでいるものを掴んだ。こんな季節でなければこんなもの並んでいなかっただろう。ハロウィン万歳。念の為それで顔を隠し、走り寄ってくる者の首の頸動脈に一撃入れる。この間1秒の早業だ。
「えっ……何してんの」
「…………何してんだろうな……」
五条がやや引いている。しかし、伏黒が1番自分の行動にドン引きしていた。