周りの人と自分ではなぜ見えるものが違うのか幼い時分には理解ができなかった。それらと目が合うと襲いかかってきたが動じることはない。むしろそれらを観察できるほど心に余裕があった。
少女自身の影から蜘蛛の脚のようなものがその物体を貫く。その物体は手足と思われるものをめちゃくちゃに振り回し抵抗するが、脚は動じず自身の方に引き摺る。抵抗しているものが威嚇し叫ぶが、影は底無し沼のようにゆっくりとそれを飲み込んだ。もう声は聞こえない。
少女は影に向かって言う。
「エンティティ様、それ、おいしかった?」
影に波紋ができる。それは蜘蛛の脚をもつ者からの肯定の合図だ。
「今度旅行に行くところの近くに廃墟あるみたいだから連れて行ってあげるね。そこならきっと皆楽しめるよ」
そう言って少女は微笑んだ。
初めて自身の影からそれが現れたときのことは覚えていない。それほど幼い頃から当たり前のように傍に在った。むしろそれが自身を守ってくれているため縋るしかなかった。
ずっとその脚の見た目から「くもさん」と呼んでいたが、こっくりさんで使うひらがなが散りばめられた図を使って意思疎通を試みた際に「エンティティ」という名を持つことを教えてもらった。今では尊敬と敬意をこめて「エンティティ様」あるいは「エンティティ先輩」と呼んでいる。あんな見た目の奴もぐもぐするなんてさすがですエンティティ様!
エンティティ様がお腹が減っているときには、エンティティ様がもぐもぐできるものを訪ねて三千里している。生きている人間は食べないようで、絡んできた見た目がそっちの筋の人を吸い込んだかと思ったら、緑色の粘液のようなもので全身をコーディングされて吐き出されたので、エンティティ様への尊敬の念は尽きない。キャッチ&リリースされた人はこちらを見るや否や逃げ出したのでどんな目にあったのかは不明である。R-18な目にあっていないことを祈るばかりだ。
五条と夏油はすっかりやる気がなかった。ここ最近繁忙期なのか任務がやたらと多く、今日とて3件目の任務だった。
「梯子酒のノリで任務押し付けてんじゃねぇよ」
「一つ一つの任務は大したことなくても移動が多いと疲れるよね」
車を運転している補助監督は後部座席から発せられている圧に冷や汗をかいていた。
「…っ、つぎで、本日最後の任務ですので…」
そう伝えるしかなかった。
その現場、廃校になった小学校についたときに2人は異変を感じた。なんというか空気が既に殺気立っているのだ。そして中に入ると辺り一面が血の海であった。一般人が入り込んだという報告はなく、肝試しで運悪く入り込んだにしては壁が抉れていたりと荒れている。
「なんだよこれ…」
「悟、警戒した方が良い」
夏油は使役している呪霊を出して周りを固め、五条も術式を展開する。
校舎を慎重に探索するが、どこも血が飛び散っていたり、呪霊の体の一部と思われるものは見つかったが、呪霊本体がいない。
最後に行っていない体育館の扉を覚悟を決めて開けようとした。それは内側から開かれた。反射的に2人は飛びのいた。扉を開けたのが呪霊であったからだ。しかし様子がおかしい。呪霊は傷だらけで肩には大きな穴がぽっかりと開いている。今も倒れ込み、体をコンクリートに伏していた。体育館の中は暗く、闇が続いている。そこから手が現れ呪霊の足を掴む。呪霊は叫び声をあげ、コンクリートの床に爪を立てるが、引っ張る手の力が強いのか床に爪の跡を残すばかりであった。
呪霊が闇に吸い込まれた後、夏油と五条は止めていた息を吐き、目配せをしあった。慎重に体育館の中に踏み込む。むっとした血の匂いに吐き気がした。目が慣れてくると中の異様さに目を見開いた。
先程の呪霊が体育館の真ん中にあるフックのようなものに吊り下げられている。もう叫ぶ力もないのか四肢を僅かに痙攣させていた。
その体を上から蜘蛛の足が貫き、体育館の天井に浮かび上がらせた。体育館の天井はよく見る骨組みではなく、黒い靄のようなものが固まっている。
これなら悟の術式で一度吹き飛ばした方が早いかもしれないと夏油は思い、目をやると五条もそう思っていたようで軽く頷いた。
「エンティティ様、今日のご飯はどうだった?」
その場に似つかわしくない子どもの声が聴こえた。全部消し飛ばしてしまおうとしていた五条は慌てて術式を消した。
体育館の端にいたのか女の子が一人体育館の中心に歩み寄り、天井に向かって言う。
「いつもこれぐらい皆に自由にさせてあげたいんだけどごめんね」
「――おいガキ、そこから離れろ!」
五条がそう子どもに告げた。
人がいるとはわからなかったようで、子どもは体を大きくびくつかせる。
「はやくこっちおいで!」
夏油もそう言った。
その2人が投げた言葉に固まっていた子どもが何かに気が付いたようで叫んだ。
「っ!ピッグ!だめ!!」
その言葉で夏油と五条はその場を飛びのく。背後から刃物が空を切る音が聞こえた。呪霊の気配に敏感な夏油も五条も子どもが叫ぶまで気配すら感じ取れなかった。
飛びのいた先で刃物の主を見る。それは昔観たホラー映画を連想させた。顔に豚の顔を着け、手には刃物を持っている。
子どもの指示に従っているのか、その場に立ち竦み五条たちに追撃してくる様子はない。
「ピッグ、お疲れ様。もういいよ」
子どもがそういうと天井からいつの間にかフックの場所に移動していた黒い靄に向かって、それは歩いて行った。靄に触れたと思った瞬間に吸い込まれるようにして姿が消える。子どもはその様子にほっと胸を撫で下ろしているようであった。
「お兄さんたちごめんね。急に現れるから皆びっくりしたみたい」
「お前は呪詛師か?」
「なあにそれ?」
「お前はそいつら使って人を殺したことがあるかって聞いてんだよ」
「んー、わかんない」
「ふざけんな、なにがわからないだ、はっきり言ったらどうだ」
「悟、なんで子どもに喧嘩腰になっているんだ。お嬢ちゃん、それはとても危険なものなんだ。とりあえず私たちと一緒に来てくれないかな?」
「それはだめ」
「…どうしてだい?」
「だってもう時間がないんだもん。じゃあね、お兄さんたち」
そういうと子どもは靄と共に溶けるように姿を消した。
「悟、どうする」
「とりあえず夜蛾に報告するしかないだろ。あれは特級呪霊なんてもんじゃねえ、もっとやばいやつだ」
そういうと五条は髪をかき乱した。
子どもは無事に朝食の時間に間に合ったことに安堵していた。子どもにとってはエンティティ様のご飯も大事ではあったが、自身のご飯はそれ以上に重要なことであった。
五条と夏油が目撃した子どもと特級相当の呪霊については高専内で情報共有がなされ、全職員並びに生徒にその子どもを見つけ次第確保を通達されることとなった。