気温がぐっと低下し、手足の先が何もしなくても冷たくなる頃、少女の家では炬燵が導入された。炬燵には不思議な力があると少女は秘かに思うのだ。はじめは足だけ炬燵布団の中に入れていたのにいつの間にか寝そべり、足先から肩まですっぽりと入ってしまう。
炬燵で蜜柑やアイスというのもいいが、この時期は餡子系の御菓子が無性に食べたくなる。それもまた不思議で仕方がない。
そんなことを考えていると頭が餡子で支配される。蒸したてでふかふかのおまんじゅうに、ぽってりとした大福、粒がつやつやと輝く善哉。エンティティ様のご飯のついでに、餡子の御菓子を買えるところに連れて行ってとついついお願いしてしまった。
目を開けると駅の雑踏の中に立っている。スーパーやどこかの店の前を想定していたので少しばかり驚き、人の流れの邪魔にならないように慌てて道の端に寄った。近くのガイドマップによるとここは名古屋駅というところらしい。いつものように駅の売店や駅近くの百貨店の食べ物のフロアを散策する。
「ゆかり」というえびせんべいや赤福、なごやんにうなぎパイ、小倉トーストラングドシャという商品など沢山の種類があり、どれもよく売れている。しかし全て箱入のもので少女のお小遣いでは手が伸ばせず、泣く泣く諦めるしかなかった。
その中で少女が目を付けたのは「しるこサンド」という御菓子だ。これは1袋200円もしない。しること名を冠するからにはこの一見ビスケットにしか見えない中に餡子要素があるのだろう。これを第一候補に決めて他の場所を見てまわる。
駅の中や付近の商業施設を足が棒になるまで歩いた。丁度空いたベンチに座ってリュックから買った物をいそいそと取り出す。
1時間近く歩き回って結局購入したのはしるこサンドと生ういろうだ。
しるこサンドは初めから買おうと決めていたが、生ういろうは実演販売をしている大あんまきにしようか、それともこし餡を生麩で包んだ餡麩三喜羅にしようかぎりぎりまで迷った。
しかし生ういろうの賞味期限はその日限りで、職人の手作りかつここの店と直営店でしか販売していないと言われるとついつい買い求めてしまったのだ。金額は1つ150円程で懐にも優しかった。
しるこサンドは売店のポップの説明では名古屋の老若男女に愛されるソウル菓子らしい。サンドとはつくがビスコのようにクリームが挟まれているわけでもなく、見た目は普通の素朴なビスケットだ。
こんがりと焼かれたそれを一口齧り首を捻る。餡子の存在感をそこまで感じない。しかし3枚程食べ進めると口の中にじんわりと餡子の甘さが広がってきた。ビスケットのほのかな塩気に餡子の甘さが丁度いい。
1口食べただけで餡子の存在感が出てしまっては、きっと1枚や2枚で満足してしまうだろう。そんな風にすぐに飽きられないようにしっかりと考えられている。練った餡をビスケットの生地で挟んで焼き上げているのもいい。サクリとしているが、油っこくもなく食べ始めると手が止まらない。エンティティ様の催促の手も止まらなかった。
生ういろうの包みも開く。ひとくち生ういろうという名の通り、大きくはないが少女にはちょうどいい大きさだ。
お餅とは明確に違うもっちりとした食感に米粉の香りがふんわりと漂う。さくらやおいも、宇治しぐれといくつか種類があったが和三盆味にしてよかった。つるりとした白い表面が美しい。どうやら普通のういろうとは蒸し方が違うらしい。確かに生地のきめが細かく口にいれるとそのなめらかさにうっとりとした。
そこは元旅館だった場所だ。廃業後、何度も放火されもう当時の面影さえ感じ取ることはできない。
焼け落ち、崩壊しかかっている場所もある。外壁に設置された非常階段は風雨に晒され錆びが目立ち、少し触れるだけで今にも崩れそうだ。建物に扉はあるが、既にその機能は果たしておらず、新たに設けられた頑丈な柵だけが立ち入ろうとする者を固く拒絶している。
廃墟の中に入り術式を発動させ、ぐるりと見回す。隣の部屋に1体、上の階に2体、呪霊のシルエットがはっきりと映る。御三家のような攻撃性がある術式を持ってるわけではない。半径20m以内にいる呪霊の姿が見えるだけだ。しかし物や壁に影響されることなく、そのシルエットで呪霊が今何をしているのか、どの方向を向いているのかはっきりとわかった。男の戦い方は速さを重視したもので術式と相性がよく、呪霊が違う方向を見ているときにその首を切り落とすことができた。
1階にいた呪霊を祓い終えると術式を解いて、一息つく。術式を使っているときは緊張状態にあるため目がひどく疲れる。眉間を揉みほぐした。
上層部からの無理難題に疲れているのかもしれない。さっき刈ったばかりの呪霊の首を蹴ると、鞠のように転がった。
やっと回ってきた仕事だった。
呪霊の発生数がここ数年段々と少なくなり、特に今年は例年の半分以下にまでガクンと数を減らした。休む暇がないほど連日呪霊と戦っていた呪術師たちは急な変化に戸惑い、そのことに喜ぶ者もいれば収入の減少に嘆く者もおり反応は様々だ。価格崩壊の原因となった
その変わらぬ状況に呪術界の一部の者たちは原因が何なのか、何かの前触れではないのかと騒ぐ。湯水のように湧いていた呪霊を今では必死に取り合う姿は滑稽でもあった。しかしそのような者ばかりではない、海千山千の連中が揃う上層部がそうだ。原因を探せと指示を出す一方で、任務を巡って水面下では駆け引きが行われた。これまで上層部に胡麻を擂ってきた家は更に練り胡麻を作らんばかりの勢いになり、任務を優先的に融通してもらうため袖の下が横行する。
山吹色の御菓子を上層部にばら撒きまくった甲斐があったな。
そう思い男は溜め息を吐く。男は術師家系出身者だ。術師家系と言っても精々遡れても2、3代ほどの新興で、御三家のように何もしなくても仕事の依頼がくるような家ではない。そのため非術師家庭出身者のように高専から振られた仕事を受けていた。しかしこの状況下で頼みの綱の高専は学生に経験を積ませるためといって任務を優先的に学生に回してしまう。だからこそ上層部の連中に取り入るという手を取らざるを得なかった。同じような考えに至った家は幾つもある。金の他に、珍しい呪具や若い女を差し出した家もあると耳にした。まぁ、自分の家も似たようなことは山ほどしているので文句は言えない。
呪術界では呪術師をその術式や強さによって等級分けしている。特級を頂点として1級から4級まで。級が若ければ若いほどいい。等級を上げるのも一苦労で、まず自身より等級が上にいるものに推薦してもらう必要がある。自ずと力がある、等級が高い者の意見は尊重されるようになってくる。そんな序列がある呪術師の世界に身を浸していると、非術師出身者であっても次第に思考が変化した。
わかりやすくいうならば選民思想。ひいては優生思想。
人間は古今東西、肌や瞳の色で区別してきた。イギリス人が唱えた
呪術師と非術師。
術式を持つ者と持たざる者。呪霊を祓う者とそれを生む者。
呪術師であれば皆良くも悪くも、その差に対して何かしらの感情を持っている。尊き正義心からくるもの、あるいは自分たちがつらい思いをしているのにという憎しみからくるもの。人によって抱く思いは違うだろうが、どちらも、
そのせいか日本の民主主義と司法制度は非術師のためだけのものだと思っているようで、呪術師たちは上層部が額を寄せ合って決めただけの「死刑」やら「追放」などという言葉を当たり前のように受け入れ、その言葉に沿って動いた。
だからこそ呪術界という狭い水槽の中で優位に立つため、どの家も優れた術式を持つ者を増やそうと躍起になるのだ。
キルギスの
今の日本はクリーンな国だ、そんな野蛮な国々と一緒にするなと思っているのならばそれはひどく幸せなことだ。海外から日本は人身売買大国と批判されてることを知らないらしい。
非術師の世界でもそう日本は言われるのだ、古臭い呪術界では今現在でもそれは当たり前のようにまかり通っているし、もはや隠す気さえない。
妻がいる者に他の女を宛がうことなど当たり前で、術式を持つ女や子どもを買うためにあの家がどれほど金を積んだなどと聞くのは、芸能人の不倫がネットニュースに載る頻度よりもはるかに多い。日常的な話題だ。誘拐話は最近は聞かないが、話題に出さないだけでいまでも行われているだろう。
休憩を終えると再度術式を使う。2階に上がるため階段に向かっていたが、違和感を覚え足を止めた。先ほどまでいた場所に呪霊がいない。移動したのかもしれない。
念の為見えていた場所に行くと、思わず鼻を覆う。
「なんだ、これは……」
呪霊はいた。正しくは呪霊
液体に毒性がある可能性を考え、靴についた液体を床に擦り付けて落とす。
他の部屋も見たが壁や扉など至る所にその液体は付着している。毒を使う呪霊であるなら一瞬の気の緩みが命取りだ。そう覚悟し3階に続く階段を上った。
上り終えてすぐ何かにぶつかる。それは筋肉質な体に跳ね返されころりと床に転がった。子どもだ。その身長は自分の背丈の半分もない。男は子どもが嫌いだ。親と離せばいつまでも泣きわめき恨みがましい目でこちらを睨みつけてくる。呪術界に身を置けばそんなことはしょっちゅうだった。
「――、俺は、敵じゃない」
武器をホルスターに戻し、少女の方によく見えるようにゆっくりと両手を上げる。
特級相当を使役する女児についての報告書は自分の所にも回ってきていた。たとえ肝試しに来ている子どもだったとしても泣かれるのは鬱陶しい。敵意を気取られないようにマシな笑顔を張り付け、その裏でどう動こうかと頭を回転させた。
報告書では高専の生徒が言葉を交わしたとあった。つまり、会話をする知能はあるということだ。
「ちょっと話をしないか」
その言葉に少女はいいよと軽く答える。術式で見れど、少女の姿しかなく思わず口から零れた。
「――使役呪霊をだしていないのか?」
「しえきじゅれいってなに?」
その反応で非術師家庭の生まれだとわかった。術師家庭出身であれば、呪霊が見えずともその存在は知っている。報告書の女児でなくともこんなところに1人でいるなら確実に
目の前ののほほんとしている子どもが報告書の女児とは思えないが、注意をするに越したことはない。報告書が正しいのであれば、転移能力を持っている。逃げられる前にさっさと捕まえた方が得策だ。報告書の女児にかけられた懸賞金は先日値上がりし、億を超えた。もし違っても術式を持つ子どもを欲している家に売ればいい。棚から牡丹餅、いや鰯網で鯨捕るといったところだろう。突如降って湧いた幸運に唾を飲み込む。
「……まぁいい。どこか座れそうな場所はないか?歩き疲れてくたくたなんだ。座って話そう」
さっきいた部屋に休めそうな場所あったよと少女は後ろを振り向きながら言う。
得物を音をたてないようにしかし素早く引き抜いた。少女目掛け振り下ろそうとした瞬間、体に激痛が走る。何が起こったか理解するよりも先に、さっき食べたばかりのカロリーメイトと浴びせられた緑の液体が床で混じった。自身の得物が床に落ちる硬質な音が耳に届く。
吐いてなおせり上がってくる胃液を押しとどめ、液体が飛んできた方向を身を捩り窺う。痛みを感じるより早く、固い物同士がぶつかる音が自身の頭蓋骨を通して伝わった。その衝撃は視界を失わせるのに十分で、気が付いた時には地面が目の前にあった。
女だ。視界が明瞭になってくるにつれ、それの異様さがわかる。その身は爛れ、手に持つ吊り香炉が女の動きに合わせて揺れる。きっとこれで頭を殴られたのだろう。息を吸うだけでも体中が引き攣れ、逃げるどころか、のた打ち回ることすら叶わない。
「あーあ」
少女はしゃがみ、目を覗き込みながらそう言った。