吉野はこの状況をどうにか打破できる方法がないかと思考を巡らせる。
都内にやたら店舗がある喫茶室ルノアールの店員が吉野の前に置いたアイスコーヒーは一口も飲まれることはなく、氷がじんわりと溶けコーヒーに層ができる。吉野の心境を表すようにガラスの表面から汗がふつふつと吹き出し、流れ落ちたそれを薄っぺらなコースターが吸い取った。
テーブルを挟んで向かいの席にはインテリヤクザと男の子と武闘派ヤクザが陣取り、隣には女の子2人が吉野を奥に押し込むようにして座った。不運なことに一番奥の隅の席に案内され、吉野の背後と左には壁が迫っている。窓でもあれば
誰かに助けを求めようと視線を遣るが、隣のテーブルではスーツの男がテーブルに並べた情報商材の良さを声高に演説している。横文字を羅列しマシンガンのごとく撃つだけで内容など皆無だが、相手を思考停止に陥らせることに成功しているようだ。
インテリヤクザと男の子の隙間から見えるテーブルではウインナーのような指に幾つもの金色の指輪を付けたご婦人を相手に男がマンション経営の話をする。ご婦人の少し鼻にかかった甲高い相槌が空間によく響いた。
傍から見れば自分がついているテーブルも不思議な集団に見えるだろう。ヤクザ2人に男の子に女の子2人そして自分。客観的に考えてみる。オレオレ詐欺の出し子の面接かヤクザの事務所にいたずらした馬鹿な奴か。マシな答えは一つも出ない。
日曜日の穏やかな午後。どうしてこんな混沌を極めた空間にいるのだろうか。
テストと耳にするだけでげんなりしてしまうのは日本人の性かもしれない。しかしその分それを終えた時の反動は凄まじい。中学に上がってまだ1年も経過していないが、この解放感は癖になりそうだ。 2学期の中間テスト終わってすぐの日曜日。吉野はその清々しさに包まれつつ都内に足を運んでいた。
わざわざ都内まで出てきたのには理由があった。映画好きが集うネットの掲示板で中野ブロードウェイの映画グッズ全般を扱っている店に、吉野が欲しがっていた映画のパンフレットがあったと書かれていたのだ。そのパンフレットは随分と昔のもので、全財産をかき集めてきたが足りなければ母親に小遣いの前借りを交渉するのも吝かではない。吉野の胸は熱望していた物が手に入るかもしれないという高揚感で満ち溢れていた。
都内には何度か来たことはあるがいつでも人が多い。人にぶつかることなく縫うように進むことができるのはちょっとした吉野の特技だった。
交差点で横断歩道の信号の色が変わり歩こうとした瞬間、吉野の襟首を誰かが掴む。急なことで息を詰め、しゃっくりに似た声が出た。振り向こうにも身動きが取れず足が浮く。
「おい、親父。何やってんだ。その人離してやれよ」
「なんかイヤな気配を感じた…」
男の子の言葉で襟首を解放される。掴んでいた人物を見るが見覚えもなく、掴んでいた当の本人も困惑しているようだった。体格がいい。どうりで宙吊り状態になるわけだ。文句の一つでも言ってやりたかったが、口元の傷跡が威圧感を放ち、吉野を委縮させた。
「――こんな往来でなにしてるんだ」
横から声を掛けたのは上から下まで黒づくめな男だ。その長髪の男はこれまた身長が高く、吉野はほとんど見上げる形になる。柔和そうな口調をしているが、どこか怜悧さがある。きっとインテリヤクザだ。男の傍には女の子が2人立っていた。
「夏油さん、親父の様子が変なんです」
「?、貸した武器庫呪霊が合わなかったのかな」
「うるせぇ。おいガキ、オマエ何か呪具持ってんだろ?」
「…ジュ、ジュグ?」
「こんな道のど真ん中じゃなくてどこかのカフェで話したら?」
淡い髪色の女の子の一言で、近くにあったルノアールという喫茶店にはいった。そして現在に至る。
「君の身の周りで奇妙なことが起こったことはあるかい?」
宗教勧誘だったか。壺か水晶玉を買わされるのか。たとえ生還できて友人にこの時のことを話しても、ネタとして流されるんだろうな。事実は小説より奇なり。
「……ないですけど……」
「オイ、カバンの中見せろ」
「やめろよ、失礼だろ」
男の子が武闘派ヤクザを再び諌める。どことなく似た顔に、血縁者かとぼんやり眺めていた。逃げることができないなら早く解放してもらうしかないと決心し、カバンを恐る恐る差し出す。ひったくるように男はカバンを掴むと、中身をテーブルにぶちまけた。コーヒーの表面にさざ波ができた。
大したものは入っていない。財布、スマホ、携帯用充電器、単行本1冊。それとティッシュとICカード。
武闘派ヤクザが真っ先に財布に手を伸ばす。全財産持っていかれるのか。せめて帰りの交通費だけは勘弁してほしい。
「――ッ!」
突如武闘派ヤクザが立ち上がり、椅子の背が床に強かに打ち付けられ、大きく響いた音に店中の視線が集中した。武闘派ヤクザは倒れた椅子さえそのままにトイレに駆け込む。
財布から飛び出たチェキをインテリヤクザが拾って吉野に見せる。
それは色褪せないようにわざわざラミネート加工まで施した吉野の宝物だ。吉野と女の子と映画「スクリーム」のマスク姿の男の3人が小さな画角に納まるようにぎゅうぎゅうになって写っている。男はカメラを両手で持っているためポーズはなくマスクで表情もわからない。しかしその腕の間で吉野と女の子は満面の笑みでピースを作っていた。
コスプレしていただけなのだと後になって理解できた。それでもあの時の興奮と感動、頭上で渦を巻くレールに、ひとりでに動く観覧車、雑草が生い茂ったメリーゴーラウンド。あの不思議な空間は今でも思い出す度にノスタルジアに浸らせてくれる。
「……それは、昔、一緒に撮ってもらったやつです」
「いつ、どこで撮ったんだい?」
「随分昔に潰れた遊園地なんですけど、奈良のドリームランドってところで、数年前に…」
「……この子、知ってる!」
その声は吉野にとっては天の助けのように思えた。明るい髪色の子が放った言葉に続けて、もう1人の女の子がぽつりと呟く。
「牛乳パンの子」
「牛乳パンって2人が時々取り寄せてるやつか?」
男の子の言葉に切りそろえられた黒髪がさらさらと揺れる。
「あの子も美々子たちと同じ村にいたのか…」
インテリヤクザが考え込むように呟いた。
「でも、それまで村で1度も見たことない…」
そこで話の勢いはなくなり、再び沈黙が落ちる。その時やっと武闘派ヤクザが席に戻ってきたがコピー用紙のように青白い顔だ。
「もっと詳しい話訊きたいから、一緒に来てくれるかい」
その言葉に吉野は心の中で十字を切った。
少女は早朝から張り切っていた。少し肌寒くなってきた頃の日曜日、いつもであれば時計の短針が8を指す頃までは布団の中でぐうたらしているが、その日、少女はなんと5時に起きた。朝食を作っていた母親は驚いたが、少女の遊びに出掛けるという言葉に、友達と約束でもしていたのかと納得する。
少女はそこに行こうと決めた前日の晩からわくわくしていた。3月から12月の毎週日曜日にそれは開かれる。るるぶの情報によると朝3時から始まり朝9時には終了してしまうらしく、絶対に寝坊するわけにはいかなかった。大急ぎで朝ご飯を詰め込んで出発する。
その場所にはすでに大勢の人が詰めかけている。
売られているパンフレットには「館鼻岸壁朝市」と大きく書かれ、渋いゆるキャラが添えられていた。高知の朝市も賑やかだったが、それにも負けないほどの盛況ぶりだ。全長800m、約300店のお店が立ち並び、1日だけで数万人もの人々が訪れるという。
事前に食べたいものをるるぶで決めていたため、目当ての店を探して人を掻き分ける。
小さなころりとした揚げ物は「八戸サバめしコロッケ」と言うらしい。1個100円と手ごろなためか既に列が出来ている。店員が目の前で揚げており、その香りと音は、列に並び自分の番を今か今かと待っている少女にも届いた。朝ご飯はしっかり食べてきたというのに、不思議と食欲が湧いてしまう。
鯖めしで、コロッケというのはあんまり想像がつかない。あつあつの出来立てを受取り、冷めないうちに食べるとびっくりする。サバの混ぜご飯だ。それだけではなく中に入れられた大葉とチーズが一種の清涼感とまろやかさを出し、全体を一つにまとめている。揚げられカリッとした外側と中のご飯のもちもちとした食感の差が楽しい。
海の傍だからか、名物のウニがたっぷり入れられたウニ飯にウニまんなどが売られ、それを多くの人が買い求める。軽トラの荷台に囲炉裏を設置し炭火焼きにして販売している店もある。
海鮮を取り扱った店も多いがそれ以外の店もある。手作りの豆腐に味噌をつけ串に刺して焼いた田楽やくしもち。焼きたてのパンに小龍包。焼きそば詰め放題350円や揚げたての塩手羽先。変わり種は幼虫を模したグミもある。さすが林檎の名産地。見たことのない品種の林檎も沢山並んでいる。
初めて見る物もあった。一見お餅のように見える緑色の物体は「豆しとぎ」と書かれている。青森県南部と岩手県北部の郷土菓子で、潰した豆に米粉と砂糖等を混ぜて作る。しばしば冷害に見舞われ米が貴重だった地域で、かさましのため豆を使ったのが始まりらしい。そのため米粉よりも豆の割合が高く、青豆を使って作れば薄緑色の豆しとぎができる。
店員が説明をしつつ試食を勧めてくれたので有難く頂いてみた。
豆の風味が一気に口の中に広がる。しっとりとしていてほろりと口の中で解けた。お餅とは確実に違う食感だ。そのままでもおいしいが蒸したり焼いたりすると食感もまた変化するらしい。
食べ物以外にも、花や鎌、骨董品にミシンも売られている。今ではなくなったらしいが昔は車も売られていたそうだ。
少女が次に財布を開いたのはせんべい汁の店だった。1杯200円で懐に優しく、せんべいがどんな味なのかるるぶで見た時から気になっていた。
野菜やきのこ、鶏肉からでた出汁を醤油でまとめていて、あっさりしている汁がじんわりと体に染みる。使われてるせんべいは鍋用に作られているのか、汁に浸っても溶けてなくなることはない。
お麩ともお餅ともいえない独特な食感でもちもちしつつも歯ごたえがあった。
空いた椅子に座ってせんべい汁を食べていると、横にいたおばあさんに話しかけられた。早起きして来たことを伝えるとラップに包まれた物をくれる。
それが朝市で「やすみっこ」という名前で売られていたのを少女も覚えていた。やすみっこの他にも赤飯せんべいやせんべいおこわとも呼ばれているらしい。文字通り赤飯が南部せんべいでサンドされている。
一口食べて脳がパニックを起こした。赤飯が甘い。青森の赤飯は昔から甘く味付けされているらしい。塩気があるせんべいが赤飯の水分を吸ってしっとりと柔らかくなり、甘い赤飯と絶妙に合っていた。
エンティティ様は塩気がある赤飯より甘い方が好みらしい。
伊地知は呪術高専の補助監督だ。
ひよっこで慣れないこともあるがなんとか踏ん張っている。伊地知は術師を目指していたこともあり、五条と夏油の2つ下の後輩にあたる。そのためなのか2人のサポートとして付けられることが多く、夏油は兎も角、問題ばかり起こす五条に伊地知の胃は痛んだ。
慢性胃炎を患っていても頑張れるのは五条を諌めることができる夏油や夜蛾がいるからだった。
それはさておき、補助監督という仕事は呪術師のサポートだけだと思われがちだが、窓から挙がってきた情報を取りまとめるという大切な業務もある。まとめた情報は実際に現場に赴く呪術師に渡されるため慎重にならざるを得ない。補助監督同士でも様々な情報共有はされ、常に情報は更新されている。その日、共有された情報の中で、気になるものが1つあった。
「――すみません、その現場に石はありましたか?」
その一言に場が静まり返る。
「……発見できませんでした。しかし被害者の友人から被害者が「いいアルバイト」をはじめたようだったと証言は取れています」
「この事件もですか…」
近年このような事件が多発している。その石には負の感情を集める力がある。石は日本全国の廃墟や心霊スポットで発見された。当初、それを置いたのは
それは若者中心に流行っているアルバイトだった。預かった石を心霊スポットに置いておき、回収して依頼人に渡す。大した労力もいらず大金が稼げる。金額はまちまちだったが金に困っている者ならすぐに飛びつくだろう。
石とアルバイト。その2点で再度行方不明者を調べ直すと、50名以上の行方不明者がそれらと何らかの関わりがあったことが判明した。
アルバイトの依頼人を割り出そうとしたが使い捨てのプリペイド携帯を何台も駆使しており、手の打ちようがなかった。
石自体は大した呪具ではないが、それが何も知らない一般人の手に渡っているなら話は別だ。ただでさえ負の感情が集まる場所には呪霊が発生し、集まる。そんなところに石を置きに、あるいは回収しに一般人が行くというのは鴨が葱を背負ってくるようなものでしかない。
何者かが何かを企んでいることは明らかだった。
如何せん全国の若者が対象となると数は膨大で、半分都市伝説のようにそのアルバイトの話は拡大しているため追い切れない。依頼人側も慎重で一度も姿を現すことはなく、囮を使ったが少しでも呪術師の気配を感じ取るとすぐに連絡が途絶えた。
補助監督は呪術師のサポート業務に加え、新たに石の回収も行うようになった。呪術師が呪霊を祓った後に建物内を探すとすぐに見つかるためさほど大変ではないのが僥倖だ。
その日はある場所に来ていた。青森にある工場跡地だ。つい先月呪術師が呪霊を祓った場所だが、丁度近くで別の任務があったため、念のために新たに石が置かれていないかの再確認のために赴いた。
石は置かれていた。それも2つ。窓枠に沿うようにきちんと並べられているそれに自然と溜息が出る。かつて工場であったここは広い敷地を有する。この調子だとあと数個は見つかりそうだ。
壁だけとなった工場には蔦が這い、破れた天井からは光が差し込む。穴が開いた貯鉄槽、茶色く薄汚れた階段。崩れそうな階段を慎重に上り2階に上がった時、それの後ろ姿と声が視界に入る。呪霊だ。
即座に踵を返し、階段を駆け下りる。咄嗟の判断で行動したが、運よく呪霊には追いつかれなかったことに物陰に隠れ胸を撫で下ろした。しかし呪霊は誰かがいたことには気づいていたらしく、工場中を移動しだした。言葉になっていない鳴き声と床が擦れる音。それはじりじりと伊地知の方に向かってくる。
階段の踊り場。通路の端。隣の部屋。
呪霊は念入りに調べる。
薄い壁一枚を隔て、呪霊は足を止めた。
見つかったか。
息を殺し、天を仰ぎ訪れるであろう衝撃に備える。
ふと廊下の先から何かが壁に当たる音が響いた。随分と大きい音だ。それは1度だけではなく何度も続き、隣の部屋の呪霊と比にもならない程の速さで近づく。伊地知は一瞬助けかと安堵の息を漏らしたが、そうではないとすぐに判り、身を強張らせた。耳に届く雄叫びは人間のものとは到底思えない。
それは隣の部屋の呪霊を見つけた。
壁越しでも伝わる威圧感に伊地知は奥歯を噛む。
それぞれの叫び声が耳を劈く。耐え切れず伊地知は部屋の隅で蹲った。その判断は正解だった。呪霊の攻撃が壁を破壊し、先ほどまで伊地知がいた場所にはコンクリートの礫が降り注いだ。粉塵が舞う中、それは目の前で繰り広げられる。
2階で遭遇した呪霊は腕を失い、何色とも言い難い液体を床に滴らせた。それと向かい合うものの姿を見た時、人間かと思った。服を身に纏い、杖のような得物を手に持つ。しかし深く被った布の奥から覗く眸は妖しく光り、口と思われる部分は人間のそれではなかった。
長く続くかと思ったその戦いは呆気なく終わる。布を被った呪霊の得物がもう一方の頭目掛けて振るわれる。容易く深々と突き刺さったそれは抉るように引き抜かれた。
平衡を乱し倒れ込んだ敵の頭に何かを刺すと途端に黄色の腫瘍が生まれ膨れ上がった。得物はそれに向かって幾度も振り下ろされ、伊地知は壁や天井に飛び散る液体を見ないように下を向き耐えるしかなかった。
細めた視界の中で足元に運動靴が見える。まだ小さく、大人のものではない。
「ねぇ、おじさん。それっておじさんが色んなとこに置いていってるの?」
柔らかい声に顔を上げる。すぐ近くに少女の顔があり肌が粟立つ。その指は伊地知のポケットから転がり落ちた石を指している。
「…ち、違う…」
丸く削った黒曜石のような目が伊地知を映す。
「ふーん、ならいいや」
「えっ…」
質問の意味を聞き返す暇もなく、少女は煙のように消えた。立ち上がり恐る恐る周囲を見渡すが、壁の残骸と呪霊が床に滴らせていた液体しか残されていなかった。