エンティティ様といく!   作:あれなん

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【23】ツインズ

 

 

 

少女はエンティティ様に肩を揺すられて目を覚ました。中学生になってまでまだ自力で起きれないのも情けない話だが、まだ朝の5時だ。目覚まし時計の音で他の家族を起こしてしまうと不味い。そのため昨日布団に入る前に時間になったら起こしてとエンティティ様にお願いしていた。

服を着替え、昨日こっそり自室に持ち込んだ運動靴を新聞紙の上で履く。そしてエンティティ様に用意ができたことを告げると次の瞬間には目の前には棚田が広がっていた。

 

そこは「丸山千枚田」という、1340枚の規模を誇る日本最大級の棚田だ。るるぶの写真を一目見て少女とエンティティ様が気に入った場所だった。山の傾斜を利用して作られた棚田郡には田植え直前のため水が張られており、その水面に東の空からじわじわと昇りだした陽が映る。墨を塗り込めたような夜を陽が力強く押し上げていく様は息を潜めてしまうほど繊細かつ雄大だ。陽が昇り切り空が青さを取り戻す頃、少女は自身の腹の虫が鳴いていることに気が付いた。慌てて家に帰り何事もなかったかのように朝ご飯を食べた後は、遊びに行くと告げ、今度はちゃんと玄関から出る。

 

三重の観光地と言ったら伊勢神宮やナガシマスパーランドが有名だ。少女が見ていたるるぶでも何ページも使って丁寧に説明されていた。その他にも、三重県の伊賀市に拠点を持っていた忍者の体験施設、伊賀流忍者博物館もある。その中で少女が選んだのは熊野古道だ。些かチョイスが渋いが、入園料があるところは懐事情により除外せざるを得なかったのだ。熊野古道には複数のコースがあるが、るるぶに載っていた美しい石畳の写真に魅かれ、今回は松本峠道に行くことに決めた。

 

松本峠道は比較的短いコースで、距離としてはJR大泊駅からJR熊野市駅の約4㎞、時間にすると2時間程かかるが、道には苔生した石畳が引かれてまだ歩きやすく初心者向けのコースだ。石畳は全て同じ時に作られた物ではない。その違いを探しながら歩くだけでも楽しい。松本峠には、建てられてすぐに妖怪と間違えられ鉄砲で撃たれた大きなお地蔵様もあった。お地蔵様の近くにあったベンチで休憩を挟みつつ昔の人もこの道を通っていたんだなあと思いを馳せる。もうちょっと行った先に東屋もあり、そこでは熊野灘や七里御浜海岸が一望できた。打ち寄せる白波とそよそよと吹く風は気持ちがいい。

 

エンティティ様に連れてきてもらったスーパーで本日のおやつは何にしようかと物色する。やはり伊勢うどんは売られており、他にも伊勢たくわんに伊勢かまぼこと伊勢の名を冠する商品は多い。他にもうつぼやシイラ、鮫の干物もあり、どんな味なのかちょっと気になった。

不思議なことに餅の特設コーナーがあり、様々な種類の餅が並んでいた。三重ではあられに熱いお茶やお湯をかけて食べるあられ茶漬けという食べ方をすることもあるらしく、あられもすぐに食べられる状態のものから電子レンジやフライパンで炒って自分で作る、生あられまで販売されている。

 

少女が今回選んだのは「お福アイスマック」というアイスだ。1本150円程で財布に優しい。石畳とはいえ2時間歩くと流石に疲れる。アイスを食べてクールダウンが必要だった。マックとつくがマクドナルドやMacとは何の関係もなく、むしろこちらの方が歴史がある。Merchant Azuki beans Candy(商人のあずきキャンディ)の頭文字を取って「マック」とつけたらしい。御福餅本家という創業約300年程の和菓子店が夏に好まれる商品を、と開発した商品で、使われているこし餡がおいしいのも肯ける。

お多福が描かれた包装を取ってみると棒が斜めに刺さっていて手作り感がいい。サクッと一口齧ると体温でとろりと溶け、すぐになめらかなこし餡になる。小豆の豊かな風味を残しつつさっぱりしていて食べやすい。エンティティ様にも好評で、ひんやりと優しい甘さのアイスは疲れた体を十分に癒してくれた。

 

 

 

女は廃校になった小学校の職員室ににいた。

肝試しや廃墟巡りをしに来たわけではない。出張でやってきて、次の日が休みのため観光でもしようとビジネスホテルの宿泊予約をしたのだ。予定よりもその日の予定が早く終わったためホテルのチェックインを済ませたが、まだ空は明るく、ふらふらと周囲を散歩していたときその建物が目に留まった。

 

そこは自分が通っていた小学校とは似ても似つかないがどこか懐かしさを感じる小学校だった。全てが身長の低い子ども用に作られているからか自分が巨人になったように思える。見学してもいいか訊ねようと職員室のプレートが掛かっている部屋に入ったが、案の定誰も居らず、埃を払うこともせずにそこにあった椅子に何となく腰かけていた。その椅子の上で考えこんでいると不思議な気分になる。この時を止めてしまった空間がそう思わせるのかもしれない。椅子の座面に行儀よく置かれていた石は十字に結ばれ、となりのトトロに出てきた包みのようでかわいらしい。それを掌で転がしながら思い起こす。

 

女の花盛りは24歳だと職場の上司は言う。女は言い返し場の雰囲気を壊すことを恐れ何も言えず、同僚ははじめは嫌悪感を露わにしていたが、それがその上司の口癖とわかると次第に聞き流し、いまでは苦笑を浮かべるようになった。その笑みを見た上司はまるで鉄板ネタのように事あるごとに口にする。

その言葉はきっと薄められた毒だ。飲んでも死にはしない。ただ苦しくなるだけ。そしていつの間にか耐性ができて段々と飲める毒の濃度と量が増す。その耐性がまだ自分には十分に備わっていないのだと女は考えていた。営業先で結婚はしないのかと言われる度、弟にさっさと相手を見つけないといき遅れになるぞと揶揄される度、鉛を飲み込んだように胃は重くなる。早く耐性がつくことを女は願っていた。

 

何故か女の人生が走馬灯のように駆け廻る。取り立てて悲壮で辛い過去ではなく、むしろ有り触れた平凡な人生だ。理不尽に殴られたこともない。それなのにこの椅子で考えているとすべてが憎く思えてしまうのだ。

黒のパンプスの先で床に転がっている小石を蹴った。校舎の玄関でスリッパか何かに履きかえるべきかと思ったが、既に誰かの靴跡があり、廊下も土埃が溜まっていたため土足のままでも大丈夫だろうと靴のまま上がった。黒のパンプスでヒールの高さ3㎝以上8㎝以下、膝丈のスカートにベージュのストッキング。それは就職してから職場の先輩から職場の規定ではないが昔からの慣習で女性はそうなっていると聞かされた。おかげで時折靴の中で踵と爪先が擦れて血が滲む。

 

目の端で何かが動いた。それは廊下を駆け抜けていく。女の膝よりも低い影だ。きっと雨風を凌ぐために入り込んだ猫か犬だろう。

 

少ししてホテルに戻ろうと思ったが、折角なのだから校舎内を見て回ろうと決め職員室を出た。廊下を歩きながら教室を1つ1つ覗く。小さな机には誰かの苗字が掘られていたり、鉛筆で落書きをした跡までまだ残っている。それは女が施したものではないが、どこか心の奥に仕舞い込んだ懐かしさを擽られているような気分になる。美術館で作品を眺めているようにゆっくりとした足取りで歩いた。

 

3年生の教室がある階に行ったとき女はその光景を見る。

廊下で赤子程の大きさの生き物が何かに張り付いている。張り付かれている者は剥がそうと必死にもがくが、バランスを崩し倒れるまでそれは離れなかった。その傍に立っていた者もいるが、助け起こすこともなく、倒れたそれに更に鎌を振り下ろしている。何度も下ろされる凶器を女は呆然と見続けた。

我に返り後ずさったのが悪かった。ヒールが床に当たり音を立て2対の眼が女を捉える。赤子程の化け物は女に向かって歯を剥き出しにし威嚇をする。鎌を持った者は人間のように思えたが腹には大きな穴が開いており、その異様さを際立たせた。

 

走る。

脇目を振る余裕すらなく足を動かした。

 

背の低い化け物は足が速く、女に向かって飛び掛かる。反射的に躱すことには成功したが、女の進行方向を阻む形になってしまう。反対の方向に走ろうと踵を返す。しかし後ろからは先ほどの化け物のこちらに向かってくる足音が響いていた。咄嗟に手に持ったままだった石をそれ目掛けて投げつける。当たったのを確認し、化け物の横を通り過ぎ階段を駆け下りた。

 

階段を下りた先で、ヒールが床板の隙間に引っ掛かり勢いよく前に倒れる。頬を床に強かにぶつけ、視界が涙で歪んだ。

隙間に深く刺さったヒールを外そうと無理に引っ張ると、軽い音をたてヒールは根本から折れる。膝と掌は擦れて熱を持っている。遠くから聴こえてくる足音にもう片方の靴も急いで脱ぎ、慌てて近くのロッカーに入った。

何年も使われていないであろうロッカーの中は黴と埃の臭いが鼻を衝く。荒くなる息を必死に抑える。女が倒れた音が聴こえたのだろう。鎌を持った化け物が辺りを見回している。

 

女は化け物が早く立ち去ってくれるよう祈ったが、化け物はロッカーを順に確認しだした。錆びた扉が独特の金属音を立て開く度、体中の毛穴から汗が吹き出す。女は恐怖に慄き蹲ることも、発狂し泣き喚くこともできた。しかし不思議なことにこんな状況になって頭の中が冴え冴えとしてきているのを感じてた。化け物が女が身を隠すロッカーに近づいてくる頃、女の意思は1つに決まっていた。

 

ロッカーの扉に化け物の手が伸びた瞬間、勢いよく扉を開け放つ。当て身に近い。油断をしていた化け物が怯んだ隙に廊下をがむしゃらに走った。入ってきた玄関どころか、学校の敷地の外に出た後も後ろを振り返るどころかスピードを緩めることさえできなかった。

 

少女はその姿を校庭のブランコに揺られながら見ていた。近づいてきた者に言う。

「ごめんね、さっきのお姉さん、悪い人じゃなさそうだったから外に出しちゃった。あの人裸足だったけど大丈夫かな」

鎌を持った者が少女に先程の石を見せた。

 

「またこの石かぁ。大物が見つからないのってやっぱりこの石のせい?」

軽く肩を竦めた少女はブランコから飛び降りると影に溶けるように消えた。

 

女が飛び込むようにして入ったホテルの従業員は目を白黒させている。従業員がこわごわ差し出してきた真っ白いタオルを受け取りながら、女は自分の格好を確かめた。ポケットに入れっぱなしの財布とスマホが無事だったのは不幸中の幸いだ。

シャツとジャケットは汗でじっとりと濡れ、背中に張り付いているのが気持ち悪い。顔に張り張り付いた髪を雑に掻き上げる。裸足でストッキングは破れ、膝からは血が流れていた。足裏が焼けるように熱い。片方の靴をまだ手に持ったままであったことを思い出すと、なぜか無性に腹が立ち、近くのごみ箱に勢いよく投げ捨てる。ガラスに映った自身の目が鋭く光っていることに気が付いた。

 

休み明け、女が自分のデスクにつくと周囲は驚いた様子だった。伸ばしっぱなしで一つ結びにしていた髪をすっぱりと切り落とし、パンツスーツに、ヒールの無い靴を履いていたからかもしれない。いつものように上司が失恋したのかと、24までに男を見つけないと、とにやけながら言ってくる。

 

「――それ、クッソキモいんで止めてもらえません?」

出た声は自分で思っていたものよりもドライアイスのような冷気を帯びていた。

 

 

 

吉野が持っていた写真によって少女の捜索が進むかと一時は思われていたが、それほどの進展を見せなかった。

非術師の成人の場合であっても、前科や前歴がない限り、顔写真のみでの捜索は難しい。警察が出す指名手配は殺人やテロなどの凶悪犯罪の被疑者に対してのみ出されるわけではなく、詐欺・横領の被疑者であっても逃亡すれば出される。各捜査本部が独自に指名手配でき、また検挙や解決などが日々繰り返されるためはっきりとした数は断定できないが日本全体で500人を超えると言われている。交番の壁に貼られているポスターの数人だけが指名手配されているのではない。知らないうちに指名手配犯と日常生活の中で関わっている可能性だってあるのだ。

 

非術師の成人の捜索でもそんな状況なのだ。特に強い術式を持つ子どもの場合、その力を恐れられ育児放棄を受けたり、無戸籍児で学校に行っていないことも多い。問題の少女に関してもその可能性が高いと高専側は判断していた。

小学校の集合写真と照合しようにも、全国に小学校は約1万9000校ある。生徒数は約640万人、女児に絞っても半分の320万人。これを高専の職員約100人足らずで行うのは無謀だった。それに加え、2003年に改正された個人情報保護法の壁は高く、また建前とはいえ、高専が宗教系の学校であることを電話口の相手に伝えると「上のものと相談します」と遠回しに断られることも多かった。

 

呪術師としてもアプローチを掛けた。呪霊や呪詛師の足取りを追う際は残穢と言われる残り香のようなものを追跡するのが定石だが、転移をされてはこの方法は使えない。探索を得意とする術師に写真から少女の居場所の特定を依頼したが、その術師は姿を消した。突然連絡が途絶えたことを不審に思った高専の職員が術師の住居を訪ねたが、誰も居らず湯呑が床に転り残されているだけだった。その一件があり、少女の捜索はより慎重にならざるを得なかった。

 

「夏油さん…最近親父が変なんです」

 

「?、職員室ではいつも通りだよ」

式神の訓練後、恵にそう相談された。夏油はその日の伏黒の様子を思い出すが、いつも通り椅子に踏ん反り返り、机に足を乗せて競馬雑誌を見ていたはずだ。

 

「夜中に女の子の写真見ながら「オレは大丈夫だ」って何度も繰り返し呟いているんです」

健全な中学生男子である恵にとってそれは衝撃的な光景だった。普段なら五条と父親が戦っていようが、父親が夜蛾に怒られていようが気にも留めないが、あの異様な様子を見てしまっては心配せざるを得ない。

 

「……女の子の写真って前に順平が持ってたやつ?」

恵は頷く。

 

「――大丈夫。君のお父さんは決してそんな性的嗜好があるわけじゃない。自身のトラウマと戦ってるんだ。温かく見守ってあげて」

五条はここぞとばかりにやるだろうが、夏油は純粋に父親のことを心配する恵をからかうほど外道ではない。その言葉に恵はほっと安心したようだった。

 

 

 

 

男は身長さえ高くも低くもなく、その他にもこれといった特徴さえない。しかしうちに秘めた仄かな渇きを持っていた。男は細々と続いてきた呪術師の一族の長男だった。相伝の術式ではなく使えないと評価され捨て置かれたが、案外男は自身の術式を気に入っている。

男は生来人の表情を観察することが好きで、あからさまに人の顔をまじまじと見つめ気味悪がられたり、気に喰わないと殴られることもあるが人間の作りだす表情が好きだった。花壇の隙間に作った巣に蟻が一生懸命蛾や蟋蟀の死骸を運んでいるのを無心で見ているときのようなひどく穏やかな気持ちにさせてくれるのだ。

 

男に冷ややかな態度を取る女中が父親と弟に対しては畏まり、父親は弟には甘い顔を見せ、男を透明人間のように扱う。水が氷や霧に姿を変化させるように、人間の内面の変化、所謂多面性にいつも感嘆させられてた。

 

テレビ番組でもサプライズやドッキリ企画は昔から大衆に好まれている。カメラが回っていない場所での俳優や女優の立ち振る舞いや緊急時の対応を見て、こんな一面があるのかと哂う。男もそのような番組を見て思ったのだ。普段とは異なる、更なる極限状態に置かれた人間の表情を見たいと。一族相伝の術式を継いだ弟の誕生日を祝うため男以外が宴会に参加し騒いでいる中、1人自室でテレビを見ていた男にとってそれは天啓とも思えた。

 

初めに試したのは実の母親だ。ほんの出来心で効果があるなどはなから期待していなかった。もともと父親の妾に悋気を起こし、憂さ晴らしのように男を金切り声で詰る女で、その悋気をほんの少し増幅させるよう術式を使った。

はじめは変わりなかったが、日を経ると瞼は時折痙攣し、髪は所々白が目立ちはじめた。本妻というプライドからかいつでも美しく整えられていた射干玉の黒髪は振り乱され、最後には頭皮と顔は爪で抉られ見る影も無くなった。そしていつの日か女はぱたりと姿を消す。療養と称してどこかの田舎に追いやられたと女中が話しているのを廊下で聴いた。

 

実の母親がそんな状態になって男は悲しむどころか感動していた。母親の狂う様は圧巻で、美しいとさえ感じた。これこそ人間の本質だと、自分が渇望していたものだと確信し、線香花火が最後にぱっと花開く一瞬の煌きのようなその表情に男は魅せられた。憑りつかれたといってもいい。

 

しかし人間に術式を使うのは時間も手間も必要だった。もともとそこまで強くはない術式だ。漆を幾度も塗り重ねあの深みを帯びた艶を出していくように、何度も何度も繰り返す必要があった。男を侮り、毎日のように男を詰りにくる母親であったからこそできたことだ。きっと他の術師にはすぐに気付かれてしまうだろう。

実験体ともいえる母親がいなくなると仕方なく男は術式を呪霊に使うようになった。上級は難しいが下級の呪霊であれば、手懐けることは比較的容易く、呪霊が子を守る母のように男の盾となり、時には鉾となった。

 

そんな男に呪術界の上層部と近しい者が声を掛けてくる。

その上席の者は、家の跡継ぎから外された男にとって遥か遠く雲の上にいる存在だ。そんな者が男を、その術式を認めた。男は初めは半信半疑であったが、その術式をもっと使えるようにと秘密裏に行われている研究所を直々に案内され、その研究の要ともいえる部分を男に任せると告げたのだ。

 

男は研究と実験にのめり込んだ。何体もの捕まえられてきた呪胎や呪霊に術式を使った。その中で選別を繰り返し、1級相当呪霊10、それ以下の2級3級呪霊は40を超えた頃、上席の者にいつものように報告していると、ある相談を受ける。

 

近年の呪霊の発生率の減少は呪術界の上層部も頭を抱えており、ある派閥では一般人に呪霊というものの存在を公にしようという声も挙がり始めた。元来、何故身を粉にして戦っている我々が人目を避けるように生きねばならないのか、もうその時代を終わらせるべきだ、そういった主張だった。

 

非術師と術師の関係についてはほとんどの術師がそのことは一度は思うことだ。一般人の負の感情によって呪霊は生まれる。だからこそ呪霊をこれ以上発生させないようその存在を一般人から隠す。それは呪術師としては常識であり、昔から議論の度に否定され続けてきたものだった。男は話半分に聞き流していたが、次に続けられた言葉に思わず頷いていた。

 

お前が恋焦がれている景色はそこにある。

その光景を近くで見たくないか。

 

男の秘かな渇望は既に上席に見透かされていた。いや、研究所でのおいた(・・・)に気づかれていたのか。その渇望は実験で昼夜関係なく多忙な生活を送っている男の頭の片隅で消えることはなく、今でも燻り続けていた。時折、他の実験で使っている呪霊をちょっと暴れさせてみたり、それでも我慢ができない時には術式を持たない落ちこぼれを実験と称して歪ませ、なんとか押さえつけていた。証拠隠滅はしっかりとしていたつもりであったが甘かったようだ。

 

非術師は初めて見る呪霊にどんな反応をしてくれるのかと考えるだけで心が沸き立った。錯乱するのか、放心するのか、はたまた戦おうとするのか。どのような表情であってもきっと美しいだろう。

それに丁度何年も繰り返されてきた実験に辟易していた。手元には完成した呪霊が何体も揃っており、子どもが練習したピアノをコンクールの舞台上で華々しく鍵盤を弾くように、成果物をお披露目するにはいい機会とも言えた。

 

男はたっぷりと時間を取った後、了承の意を伝えると上席はその返事が返ってくることを想定していたようだった。礼の代わりなのか呪具を贈られる。それは呪霊の封印に使われるもので実家や研究所で幾度も目にしたものだ。それに育てた呪霊を入れて研究所から引き上げろということらしい。

 

指示の通り、引き上げる時に別の実験で使用している呪霊たちを解放した。男自身は育てた呪霊が守ってくれたが、他の研究員は襲い掛かってくる呪霊に阿鼻叫喚で、久しぶりに耳にする悲鳴に上席からの電話がなければずっとその空間に身を浸していたことだろう。

 

そうして男は死人になった。実際に死んでいるわけではない。研究所で呪霊に殺されたと判断され高専の職員の手によって業務的に死亡届が出されただけだ。風の噂で聞いたところによると男の一族が皆死んだらしい。自分で死んだのか誰かに殺されたのかは定かではない。しかし父親も妾も弟も皆、あの研究所の責任を取らされたのは確かだった。

 

態々男が家から父親や弟の私物を盗んではその研究所に置き、データの節々に業とらしいほど家と実験の関係性を臭わせておいたが、それをする必要もなかったようだ。もともと蜥蜴の尻尾きりのために残されていた一族だったのかもしれない。地道な工作が不発に終わり、こんなことなら自分の手で、やっておけばよかったと今になって後悔していた。

 

上席に指定された場所に行くとそこは山奥の別荘だった。結界が張られていたが事前に男は登録されていたようで男はすんなりと中に入ることができた。テーブルに置かれている石については何も指示はなかったが、石に負の感情が込められていることに気が付くと為すべきことは自然とわかる。

 

それからは実験を繰り返していた時と代わり映えしない日々が続いた。呪霊同士を戦わせる実験が、石を呪霊に喰わせることに変わっただけだ。日を置かず届けられるそれについて報告するついでに上席に訊ねると、平和の弊害だと告げられ、首を傾げるが深く聞く必要もないことだろう。

 

『それより、予定通り順調のようだな』

 

「こんなのに順調も糞もないですよ」

ただ呪霊に餌をやるだけの単純作業だ。

 

「―――いいや、私にはある」

その言葉が電話越しではなく背後で聞こえた。背中に冷たさが走り、電流のように心臓まで駆け抜けた。それは一瞬にして熱さに変わる。だくだくと自身の拍動に合わせて熱を持った何かが溢れ迸る。手で触れてわかる。赤い。身体中が火に炙られているように熱い。

 

「お前の体は有難く使わせてもらう」

死ぬときに一番最後に残る感覚は聴力だというのは本当らしかった。

 

 





※お福アイスマックに刺さっている棒は2018年頃に斜めから真っ直ぐに変更になってますが、それ以前の話として書いているので、今話では「斜め」と表現しています。

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