都内でトラッパーがハッスルするより少し前の話である。
少女にとって校区の外は未知の世界だった。別の校区と自身の校区の境目にただ線路が引かれているだけなのに、恐る恐る一歩線路を越えただけで、うんざりするほど見飽きている空や田んぼに植わっている稲の青ささえ新鮮に思えた。
片手の指の数をほんの少し超えたばかりの齢の少女には、まだ脳に明確な日本地図はインストールされていない。沖縄は暖かく、北海道は寒いという認識がつい先日できたばかりだ。文字ばかりの本を読むより、ブロック塀の上によじ登り、いつもより高い視界で綱渡りのように歩く方が好きだった。
ジョシコウセイというものになり、黒髪から針のような金髪にメタモルフォーゼした近所のお姉さんが、東京がどんな素晴らしい所か、池袋で買ったものを自慢するために懇切丁寧に説明してくれた。少女には厚底の靴もフリルが層のように重ねられた服も興味はなかったが、お土産にくれる東京ばななとごまたまごのためにぼんやりと話を聞いていた。
少女の最近あった重大事件は近所の地域密着型のスーパーで全国銘菓フェアをし始めたことだ。食べられそうなものであればとりあえず口にいれてみる派の少女としてはこれは大変なことだった。いつもスーパーで買ってもらっていた駄菓子に目もくれず、真っ先にその銘菓が並ぶワゴンを覗き込む。
今週はエイのような形の場所の銘菓が並べられているらしい。
まだ難しい漢字は読めないが、これは何となくわかった。ほっかいどうはでっかいどう。近所のお姉さんがそう言っていた。
近所のおばちゃんたちがワゴンの反対側で話し込んでいる。
「私、このバターサンド好きなのよー、見つけるといっつも買っちゃう!」
そう口にするおばちゃんは夕方の半額セールとなると真っ先に飛び込んでいき、商品を掻っ攫っていく猛者である。そのおばちゃんが割引にもなっていないのに購入するとはそんなにそれはおいしいものなのかと興味を持った。一緒に買い物に来ていた母親にワゴンの中にあるバターサンドを強請る。
「高いからだめ、いつものお菓子にしときなさい。それよりお父さんが好きなイカの塩辛買って帰ってあげようか」
決定権は財布の紐を握る母親にあった。このときは自分のお年玉を使うという発想もなく、泣く泣くいつもの駄菓子を手に取った。
その晩もその次の晩も布団の中で考えるのはあの白と赤の包装の中身のことだ。スーパーで銘菓のワゴンの前を通り過ぎるたびにまだ売れていない箱の数を数えていたが日を追うごとに段々とその箱が減っていく。
ここで箪笥の上に鎮座する貯金箱の存在を思い出す。三日坊主ですぐにやめてしまったが、お年玉をもらってすぐの気前がいいときに始めたからきっと1000円ぐらいはあるはずだ。
手を伸ばして取った貯金箱を振る。少し重い。
ひっくり返してゴムの蓋を取って床に硬貨を並べた。
100円玉 6枚、50円玉 4枚、10円玉 19枚、1円玉 7枚。
やはり昔の自分は気前が良かった。これだけあるならきっとあの箱も買えるだろう。
硬貨をポケットに押し込んでスーパーに向かう。少女としては大金だ。途中で落としてしまわないようにポケットの中で握りしめていたため、スーパーに着く頃にはぬるい温度になっていた。
ワゴンの中をいそいそとみる。
ない。
あの箱がひとつもない。
固まっている少女に恰幅のよい店員が話しかける。
「お使いできたの?…あのバターサンド人気でね、もう売り切れちゃったのよー」
いつもの御菓子を買う気にもならずにとぼとぼ帰路に就いた。
天啓がひらめいたのは湯船に浸かっているときだった。
ほっかいどうにいこう。
きっと校区をいくつか越えるとたどり着くだろう。少女の中ではまだはっきりとした距離感がなかった。
「えんてぃてぃ様!あしたほっかいどうにいこう!」
そう自身の影に向かって言う。波紋ができる。肯定の合図だ。
そうと決まると少女はリュックサックを出して、必要なものを詰める。お金にハンカチにティッシュ。おなかが減ったときのためにいつもの駄菓子と水筒も入れた。
まだ早い時間に母親に友達の所に遊びに行くと告げ、家を出た。エンティティ様もやる気の様で、道を教えてくれた。しかしたどり着いたのは公園のコンクリートで作られた遊具の中だった。中はトンネルのような作りになっている。エンティティ様はそこを通れと指示した。少女は頭に疑問符をつけながらそこを潜った。
ここまでこの空間は広かっただろうか。
そう思っていたがそのまま明るい方を目指して進む。通り抜けた先は知っている景色ではなかった。
気温は先ほどとそこまで変わらない。しかし空気感が全く違う。
周囲を見渡しながら歩く。エンティティ様が示す方向に進むと繁華街に着いた。すぐ横の店の看板を見るとあのワゴンに並んでいた箱に書かれていた店の名前だ。
少女は迷わず店に入り、目当ての箱を見つけると店員にお金を渡した。
手に入ったものを胸に抱えて歩く。ベンチかどこかで食べようとしていたが、エンティティ様はまたどこかに行かせたいようだった。
繁華街でもしばらく歩くと少し寂れたビルに行きつく。ここはもともと飲食店がいくつも入っていたようだが、今は誰もおらず窓ガラスは埃と汚れでくすんでいる。
管理地とだけ書かれている素っ気の無い張り紙を横目に中に入る。
中は案外広い。歩くたびに埃が舞った。
少女の影からゆっくり何かが浮き上がってくる。その身に纏うものには色彩がなく、左手には鐘を、もう片方には頭蓋骨が付いた鎌を携えている。黒の仮面をつけ表情はわからなかった。
少女は既にこの光景に慣れており、まだ綺麗そうな椅子を見つけると入口近くの隅っこに引き摺って座った。
「レイスもこれ食べる?」
少女の言葉に首を横に振ると鐘を鳴らし姿を消した。
伏黒は気分が最悪だった。二日酔いのせいでもあったが、この依頼を引き受けたことが発端だ。
いい場所なのに使用者が次々に死んでしまうというビルだ。全国展開をしている牛丼屋などのチェーンストアが店を構えたことはあったが、軒並みその店長や社長が不可解な死に方をした。現在はその噂が広がったのか借り手がだれもいない状態だ。
正式に呪術界に依頼しないあたり、どうせ依頼人に後ろ暗いところがあるか、ちゃんとした呪術師に渡す金が惜しいのだろう。そういう依頼人がいるからこそ伏黒のような者にお鉢が回ってくるのだ。
最近はなぜか依頼がめっきり少なくなってきており、それに比例して伏黒の財布も薄くなっていた。だからこの依頼を渋々引き受けたのだ。
ビルに入ると小物の呪霊を相手にせず、一番力を持っていそうな呪霊がいるフロアに向かう。天与呪縛で身体能力が優れている伏黒の相手になるわけもなく、早々に祓った。
直後、ビル内の雰囲気が一変した。自身が祓った呪霊のせいかと考えたが、自身の第六感はそうではないと、早く逃げろと告げる。しかし空気を一変させた原因は1階にあるようだ。窓から外を見る。今いる階から飛び降りても死ぬことはないだろうが、骨の数本は折れるだろう。飛び降りた後、攻撃される可能性も考えると2階から飛び降りた方が良いかもしれない。
そう考えあぐねていると気配を感じて背後を振り返った。
何もいない。しかし気配は確かにある。息を止め、見る。
景色の一部が揺らいだ。夏に現れる陽炎のようだ。
金属音。
教会で鳴らされる鐘に似た響きだ。
目の前の陽炎から男が現れる。手が2本に足が2本。見た目は人間の様だが肌が黒い。決して日焼けして成る黒さではない。呪霊であれば特級相当だろうか。しかし今まで対峙してきた呪霊とは何かが違う。
先手必勝とばかりに自身の生家からパクってきた三節棍の特級呪具「游雲」を使い攻撃を仕掛ける。
側頭部に当たった。
続けて脊髄を破壊する。
おかしい。全て手ごたえはあった。
呪霊であれば一撃で
怖いというよりもただただ不気味だった。
背筋が凍る。伏黒は下に降りるべく階段に向かって走った。
再び鐘の音が聴こえ、後ろに視線を遣ると男の姿が消えている。姿が見えないだけで後ろからついてきている。
足を止めるわけにもいかず、自身の感覚で男との距離感を測った。
男は伏黒よりも足が遅く、今どの階にいるか確認する余裕さえあった。この程度ならこのまま1階まで降りてしまってもいいだろう。
それにこの不気味な男が呪術師の術式かなにかなら
走っている後ろで鐘が鳴る。すると男と自身との距離が近づいた。はじめは間に距離があり余裕もあったが、何度もそうされ、距離が近づいてくると神経がじわりじわりと炙られている気分になる。
1階に着くと一目散に入口に向かう。
「あれ、おにいさんこんなところでどうしたの?」
子どもだ。入口の傍に子どもがいる。あの不気味なものを動かしているのはこいつかと直感的に判断した。
女子供だろうが容赦はしない。それはこの仕事を生業にしてから変わらない。伏黒は手に持つ游雲を子ども目掛けて振り下ろす。
目の前に黒い壁ができた。記憶はそこまでしかない。
急に自身の方に走ってきた男をエンティティ様は包みこみ、影の中に引き摺りこんだ。
「えんてぃてぃ様、そのひとたべれるの?」
波紋は生まれない。否定しているというよりも別のことで手がいっぱいなようだった。
「おわったらおしえてくれる?それまでこれたべてるから」
子どもの手には白と赤の箱がある。
おばちゃんの言う通りこのお菓子は美味だった。
さくりとしたビスケットに挟まれたクリーム。クリームの中のレーズンがアクセントになっている。
ついさっき買ったばかりなのに5個あった箱の中身は後3個しかない。
影に波紋が生まれる。もう終わったらしい。
影から大きな塊が吐き出された。さっきエンティティ様が影に引き摺りこんだ人のようだ。はっきり断言できないのはぬるぬるの緑のなにかが纏わりついており、呆然とした表情で床で丸くなっているからだ。この人に何があったのか少女にもわからなかったが、お洋服を汚してごめんね、という気持ちで残り3個しかないバターサンドのうち2個をお供えしておいた。
「えんてぃてぃ様、つれてきてくれたおれいにね、これあげる」
そう言って1個の包装を剥いて影に投げ入れた。いつもより波紋が大きい。大好評のようだ。
来たときと同じようにエンティティ様の指示に従うと自分がよく遊ぶ公園の遊具の外に出た。
公園の時計を見るともう4時だ。念願の御菓子を食べることができた嬉しさと満足感に浸りながら帰路につく。
「お昼ごはん食べなかったからお腹すいてるでしょ?そんなに楽しかったの?」
母親にそう聞かれ、少女は首を縦に振った。
お昼ご飯を食べ損ねるとはバターサンドはなんと罪深い食べ物だ!
少女はそう思った。