夏休みは始まる直前が1番楽しいというのが少女の持論だ。夏休みに突入するとアルバイトをしたり、塾に通って学力を上げたりする学生もいれば、少女のように時間を持て余している者も多い。少女は暇な時間にゲームをしたり海に泳ぎに行ったりとある意味夏休みを堪能していたが今年はいつもと違う。午前中は机と椅子に挟まれる日々が続いていた。
しかし少女も少しは学習している。宿題をさっさと終わらせてしまえば後の日数遊び呆けることができるのではないか。そう思い至ると丸4日かけて数学の問題集を終わらせる。エンティティ様は少女の突然の行動に戸惑い体温を測ったり冷えピタを少女のおでこに貼りつけたりと心配していた。
徳島県西部に位置する剣山は標高1955mで石鎚山に次ぐ西日本第2の高峰だ。しかし山の中腹までリフトで上がることができるため登山初級者でも安心だ。節約のためにエンティティ様に山頂まで連れてきてもらった少女はその眺望に歓声を上げた。天気もいいためか、山頂からは淡路島や石鎚山も見える。
剣山の山頂から見晴らしの良い稜線が遠くの山まで伸びている。高い木々もなく、青々とした平原が広がる風景は息を飲むほど美しい。
稜線を1時間程歩くと
剣山が山岳信仰の霊峰でありいくつかのパワースポットが存在する。平家にまつわる伝説や、ソロモンの秘宝にまつわる話も残されていたりとミステリアスで、少女も大剣神社と剣山本宮宝蔵石神社にお参りしておいた。
道の途中には休憩用としてベンチが用意されており、少女もそれに腰掛ける。見渡す限りの絶景を楽しみつつ持ってきた物を取り出す。
フィッシュカツやかつ天という名前の揚げ物は徳島県内のどのスーパーでも取り扱っている。魚のすり身にカレー粉などで味付けし、コロッケやとんかつのようにパン粉をまとわせて揚げている。少女が立ち寄ったスーパーでは丁度揚げたてが売られており試しに買ってみた。
作っている店によっては楕円形や四角をしていたりするらしい。中のすり身は肉厚ではなく薄く平べったい。その分サクッとした歯ごたえが際立ち、カレー粉のスパイシーな香りも相まってジャンクさが感じられた。おやつにもおつまみにもピッタリだろう。そのままでも十分美味しいがフライパンで炙り香ばしくしたり、フィッシュカツにソースや醤油を付けてもおいしい。エンティティ様は七味マヨネーズ派らしい。
少し油っぽくなった口の中を飲み物でさっぱりとさせる。ザすだちと渋い字体で描かれた缶は売場でもよく目立った。少し酸っぱくてほんのり甘い。柚子を使った飲み物は多いがそれとは違うすだちの特有の爽やかさを感じ、暑い夏にはうってつけだ。後味のすがすがしさと平原の草を優しく撫でていく風がどこかマッチしていた。
スーパーで衝動買いしてしまった鳴門金時が若干重いがベンチから腰を上げ、意気揚々と歩き出す。鳴門金時は8月から9月が収穫の最盛期だ。10度から17度の風通しのいい冷暗所で保存しておくと秋ごろには水分が抜けて甘みが増す。マップの中で保管しておき、落ち葉を集めて皆で焼き芋パーティーをしてもいいだろう。店の人によると栗のようにホクホクとした食感と上品な甘さが鳴門金時の特徴らしい。少女とエンティティ様はジャガイモも一緒に焼いてじゃがバターにしようか、他の品種のサツマイモも買っておこうかと次郎岌の山頂に着くまで話し合った。
男はコンビニの前で煙草をふかしている。ポケット灰皿にはもう何本もの吸殻が入っていた。蝉の声が男に降り注ぎ男の頭の中で反響している。汗が滲む男の額を気紛れに風が撫で、天高くのぼる煙を乱した。道端に停車していた車のエンジンが唸りを上げる。昨日一昨日と失敗続きだったがようやく決心がついたらしい。運転席では肌の色がどす黒い男が両手でハンドルを握りしめる。車は急発進した。ブレーキランプは一度も点灯することなく、ぐんぐんとスピードを上げる。交差点に進入していた別の車の側面に槍のように突き刺さった。雷が落ちたような轟音。先ほどまでの休日特有ののんびりとした空気が凍り付く。
救急車を呼べという怒号や音に驚いて出てきたコンビニの店員たちを余所目に男はその場の写真を撮ると立ち去った。少し離れた場所に停めていた車に乗り込むとエアコンを効かせる。暑がりには厳しい季節だ。ひんやりとした空気に一息つくと車を走らせた。
男は電話で依頼人に報告を終えると、ネクタイを緩める。なんでこんな仕事をしているのかといつものように頭を悩ませるが答えは一向に出てこない。呪霊を見ることはできるが、術式を持たない男は以前まで依頼人と呪詛師を繋ぐ仲介人をしていた。しかし呪術界の呪詛師狩りが行われ、馴染みの呪詛師が悉く捕まると多くの仲介人は足を洗うか、違うコミュニティーに移った。
男はコミュニティーを移ることを選択した1人だ。殺しを依頼する者とそれを請け負う者の仲介という点ではあまり変化はない。しかし請け負う者が呪詛師ではなく非術師がそれを行うという点では以前と大きく異なった。
”悪い奴ら”は契約書も結ばず、民法で言うところの信義則さえない。互いの弱みを握り合うのが普通だ。それに失敗し脅される者や、口封じに殺される者も多い。皮肉なことだがこの業界では信用が最も重視される。呪詛師同士であれば縛りを結ぶことでその関係は保たれるが、非術師同士ではそう簡単には行かない。だからこそ仲介人という存在が必要なのだ。仲介人の仕事は依頼人と請負人を繋いで終了というものではない。依頼人が”本当に”依頼人なのか入念な調査から始まり、請負人が仕事を履行したかどうか確認するまでが仲介人の仕事だ。
男が指定されたのは県庁所在地の隣の市にある廃ビルだ。この場所を指定してきたのは古株の者だった。まだ男はそのコミュニティーに入って日が浅い。このコミュニティーは狭く、悪評は瞬く間に広がる。暗黙の了解も多い。特に新参者である男はまだ警戒されている。新たな依頼人を紹介するという名目で呼び出されたが、どうせまともな話ではないだろう。約束の時間より10分前に着く。自身の律義さに嫌気がした。
念の為車のダッシュボードから呪具を取り出し懐に仕舞う。それは長年この世界の水を啜り、自然と身についた癖でもあった。扉の蝶番は錆びつき、独特な金属音が鳴る。奥の暗がりを覗き込むが人影すらない。がらんとした空間に本日何度目かになるため息が出た。念の為1部屋ずつ確認していくがこのビルにエレベーターなんて文明の利器はない。
1階と2階の階段の途中に折りたたみナイフが落ちている。刃は剥きだしで鈍く光る。ここに男を呼びつけた者の護衛たちが落としたのだろうか。いや、そんなヘマはしないはずだ。慎重に2階に足を進める。ドアを開くと微かに吐息が聞こえた。消え入りそうなその声は聞き覚えのあるものだ。部屋の隅に1人横たわっている。部屋に入ると辺りに赤い飛沫が散っていることに気が付いた。何があったのか訊こうと頬を強く叩く。薄く開いた眼は宙を彷徨い、男を通り過ぎた。その視線の先を辿ると男の顔に何かが飛びつく。必死に剥がそうとするがそれは金切声を上げ皮膚に爪を立てた。身体ごと壁に何度もぶつかり力が弱まった瞬間を見計らい剥ぎ取る。赤子程の大きさの”なにか”は鋭い爪と歯で男に飛びつこうと足掻く。咄嗟に呪具で殴りつけ給湯室の暗がりに投げつけた。
荒い息を吐いていると肩が熱湯を浴びせかけられたように熱くなる。肩に鎌が埋まっていた。誰かが湾曲した形状のそれの柄を握り、外そうと動かす。その振動だけで身は抉れ、電流のように痛みが走った。溢れた血がスーツに染み込み生温い。刃が散々肉を裂き、男の額には汗が迸る。最後に男の目に映ったのは憤怒を浮かべた2つの眼だった。
その視線に身を強張らせていると給湯室から少女が出てくる。その腕には先ほど投げつけたはずの”なにか”が抱かれている。抱えたものに大丈夫かと心配そうに訊ねる少女が男にはひどく恐ろしいものに見えた。