少女たちはあっちへふらふらこっちへふらふらと彷徨っていた。テレビで放送されていた吉田のうどんを食べにいこうと思い立ち、意気揚々と山梨まで来たまではよかった。山梨と聞くとほうとうも郷土料理として知られているが吉田のうどんも有名だ。昔はほうとうは日常的に食べられ、吉田のうどんはハレの日の食事、と線引きがあったらしい。因みに吉田うどんではなく吉田”の”うどんだ。富士吉田市内には吉田のうどんを提供する店は約50店舗ある。”吉田のうどんナビ”という吉田のうどんを出す店を記した地図も用意されている。ワンコインで食べることができる店も多く、どの店にしようかと少女たちは迷っていた。たっぷりと時間をかけて店を決めると中に入る。
吉田のうどんの特徴はなんといってもごりごりと評されるほどうどんのコシが強いことだ。江戸末期から昭和にかけて養蚕や機織で忙しい女性に代わって男性が炊事を受け持ち、男性の強い力で打たれたためそのコシが生まれたらしい。そのコシと硬さは啜ることが難しいほどで、柔らかいうどんに馴染みがある人はびっくりするだろう。しかしただ硬いだけでなく噛めば噛むほど小麦の旨味が出てくる。手打ちし乱切りしている店も多く、長さや太さにばらつきがある。どこか温かみがありそのばらつきも楽しい。
吉田のうどんのスタンダードな具は馬肉と茹でキャベツらしく、少女もそれに倣って注文した。不思議な取り合わせのように思えるだろうが一口食べれば理由がわかる。甘辛く味付けされた馬肉は噛むとじゅわりと旨味が出、味噌と醤油をブレンドした汁とよく合う。キャベツも茹で加減が絶妙でサクサクとした食感を残していた。
うどんを食べていると、多くの人がテーブルに置かれた小さな壺に手を伸ばしている。壺の中を見れば赤黒いものがたっぷり入っていた。それはすりだねという赤唐辛子をベースに山椒やごまを油で炒った調味料らしい。その赤さに少女とエンティティ様は怖々とそれをうどんに入れた。汁が想像以上に赤くなり掛け過ぎたと焦るが、戻すことはできない。意を決して汁を啜る。辛いが旨い。香ばしさの後にふっと山椒のあの清涼感がやってくる。少女たちも周囲の人たちと同様に一心不乱にうどんを食べた。
店を出て、視線を上げると富士山が目前に迫っている。その覆い被さってくるような姿に圧倒された。”富士”吉田市という名の通り、富士山のすぐ傍に位置している。あまりに近く、街のどの場所にいても富士山を見ることができるらしい。特に少女たちがいる本町通りは観光客に人気の撮影スポットのようで多くの人がカメラを構えて富士山を見上げている。古くからの商店街が軒を連ね、真っ直ぐに伸びた道は富士山に向かっているように見えた。富士山の山肌まではっきりと見え、その存在感にしばらく魅入った。
塩気があるものを食べるとなぜか甘い物が食べたくなる。少女たちもそれに抗えず、しばらく富士山を眺めた後スーパーの銘菓コーナーを物色する。
信玄餅と聞くと風呂敷に包まれている餅を想像するだろう。実は山梨県内では2つのメーカーから販売されしのぎを削っている。駅によっては改札内と改札外で取り扱うメーカーを変えているところもあるらしい。少女は少し迷い4つの菱形が目立つ方を購入した。
カップの中にはたっぷりのきな粉に包まれるようにしてお餅が入っている。透明の上蓋を開けるだけできな粉の少し香ばしい匂いが漂う。付いていた楊枝で慎重に1つ餅を持ち上げ口に含むときな粉の風味が口いっぱいに広がった。きな粉はきめ細かく、口どけがいい。餅はふんわりと柔らかで、甘味があるため単体でも楽しむことができる。空いたスペースに付属の黒蜜を垂らす。餅にとろりとした黒蜜が絡むと更に甘くなるが、気にならないほどおいしい。
メーカーの公式HPでは風呂敷を広げた上にお餅ときな粉を載せ、黒蜜をかけ、風呂敷を包むようにお餅を揉んだ後食べる方法が紹介されていた。しかしあの小さなカップの中できな粉や黒蜜がこぼれないように慎重に食べる方がどこか趣がある気がする。少女とエンティティ様もカップの中で全てを完結させたい派で、ちまちまと餅をつつき回していた。
必死の思いで3級から準2級に昇格したはいいが、上には上がいる。それも山ほど。準2級に上がるだけでも根回ししたり、難しい任務を無理して受けたりと並大抵ではない努力が必要だった。しかし呪術師である親兄弟からは、”あの家の子はもう1級なのに…”と言われ、心がぽっきりと折れた。
呪術師なんてやめてしまおうか。しかし職歴どころかアルバイトの経験さえない者を誰が雇ってくれるだろう。補助監督や窓に転向しようにも呪術師であることにプライドを持っている親の耳に入ると縁を切られることはわかりきっていた。
居場所や気力がなくとも、嫌味や見下されるような視線を向けられたとしても嫡男のため家々の集まりなどには顔を出す必要がある。簡単に挨拶だけ済ました後、周囲の視線から逃げるようにその空間から出た。
身を隠せるならどこでもいい。喫煙所の端。駐車場の隅。庭の木の陰。何度もそんなことをしているとあの居心地の悪い空間から逃げているのは自分だけではないことに気が付く。
その男については以前から知っていた。あの中村家の嫡男にも関わらず実力もない上に女遊びが激しく、当主である父親は別の者を跡取りにしようとしているという噂もあった。
初めの数か月は顔を合わせては会釈をするだけだ。しかしそれが数年単位になると自然と言葉を交わす関係になる。
自分だけで会場を抜け出したとき、行けたのは最寄のコンビニまでだった。それでも呼び出しの電話が鳴らないかハラハラとして気が休まらず、週刊誌でも立ち読みしていても目が滑った。しかし男と共に時間を潰していれば、電話を気にすることも、自尊心を傷つけられることもない。抜け出して木屋町のキャバクラやの上七軒の茶屋にも行った。傷の舐めあいをしているだけだとわかっていたがなぜか安心できた。
その男が入院したという話を聞いたのは池の水面に氷が張るような寒い日だ。
”怪我したと聞いたが大丈夫か”とメールをしても一向に返事は来ない。そんなに容体が悪いのかと心配しつつ出席した会議で男は皆の中心にいた。
その次もその次の次の集まりでもそれは変わらず、次第に男を慕う者が徐々に増えていく。男は遂に中村家の当主になり、あんなに金食い虫だと、失敗作だと男のことを言っていた罵っていた者たちは称賛の言葉を口にする。
男の様子を遠目に眺めた後、他に誰もいない喫煙室で煙草をふかす。その夜思い出したかのように突然男からメールが届き、どこか安堵した自分に嫌悪感が増した。
「ちょっと手伝ってほしいことがある」
席に着くなりそう切り出した男は親友のお前にしか頼めないことだと更に言葉を付け加える。神妙な面持ちとその言葉に二つ返事で引き受けたが、集合場所にいた面子を見て、この仕事を気軽に受けたのは失敗だったと後悔した。
動物園の猿山のような騒がしさがワンボックスカーに満ちる。男に頼まれたのは廃墟に行く一般人を案内することだった。元々男がネットで参加者を集い行っていたが、今回急用ができ代理を探していたという。小遣い稼ぎとして家の許可なく行っているため家の者に代理を頼むわけにもいかず、困り果てていたらしい。
男がどのような言葉でこの者たちを集めたのかは不明だが、格好を見れば大体分かった。皆数珠やらパワーストーンを腕にはめ、これまでどんな心霊体験をしどのように祓ったのかを嬉しそうに話している。どの者も術師ではない。目の前にいる低級呪霊にも気が付いていないし術師ならあんな呪具でもなんでもないものについて誇らしげに話したりしないだろう。
目的地は既に決まっている。男からは定期的に呪霊がいないか確認しているため大丈夫だと聞かされていた。もし新たに呪霊がいたとしても低級のため十分対処はできるだろうと心配もしていなかった。
着いたのは倒産した証券会社の元保養地兼寮だ。連れてきた非術師たちはなぜか自分の腕に自信があるようで躊躇わず中に入っていく。白い壁にはいくつもの落書きがあり、硝子は割られているが廃墟にしては比較的綺麗なほうだろう。白装束の霊が見えたなどと興奮気味に言うのを鼻で笑う。
問題が起こったのは離れを見学している時だった。中の空気は滞留し湿っていたが特に呪霊の姿はない。一般人の話す、よくわからないカタカナの羅列を聞き流していると突然空気が重くなった。その空気に耐えられなかった非術師たちが埃が積もった畳に倒れ込む。
倒れた者を端に寄せ状況を確認する。その呪力は禍々しく格上だとすぐにわかった。逃げるにしても一般人をこのまま置いて行くわけにはいかない。1度に2人運べたとしても何往復かする必要がある。戦闘を避けるためにもどんな呪霊か確認するべきだろう。じりじりとにじり寄る様に進む。夏でもないのに体中の毛穴という毛穴から汗が吹き出した。
それに気付けたのは落葉が擦れる音にも警戒していたからだ。鎖が風に揺れた時のようなほんの小さな音がした。宙に小さく浮いた穴から鎖が男目掛けて伸びる。その場から飛び退き躱す。見つかってしまったなら離れに戻るのは悪手だと判断し駆けだした。
呪霊の気配は移動していない。物陰から呪霊がいる部屋の様子を覗き見、思わず声が出そうになるのを押し止めた。呪霊はしきりに身を捩る。宙から伸びた何本もの鎖がそれに合わせて鳴った。鎖の他にも拘束具が呪霊の身を捕らえている。喚く呪霊に向き合うように何かが立っていた。一見すると人間のようだが顔中に針が刺さり、その肌はコンクリートのように無機質だ。
呪霊に気を取られている今なら逃げることができるかもしれない。1人だけでも逃げようと車に向かうが透明の壁に阻まれる。戦うか隠れるか。その2択なら隠れるしかない。しかし先ほどから一定の時間ごとに鎖が飛んでくる。これでは隠れても意味がない。逃げることも隠れることもできない。立ち向かうにはまだ決心がつかなかった。
どうするのか迷っていると箱が転がっているのが目につく。入ってきたときにはなかったはずだ。試しに足元に転がっていた石をそれに当ててみるが何も起こらない。もしかするとこれが透明な帳の基なのか。ルービックキューブのような立方体だ。パズルのようになっている。これを解くと帳も解ける仕組みだろうか。罠や呪具の可能性も捨てきれない。しかし選択肢が無いに等しい中では唯一出来ることでもある。
腹を括りパズルを解く。ひっそりとした空間にその音だけが響いた。そこまで難しい物ではない。あっという間にパズルは解けた。慎重に透明な壁に触れるが変化はない。希望があっという間に消え失せる。思わず悪態を吐いた。
鎖の音が再び聞こえた。鎖を避けようと振り返る。針が刺さった顔がすぐ傍にあった。
「……これって事故だよね……?」
鎖が刺さり宙吊りとなった男を見て、少女はそうセノバイトに確認をした。
少女が今日新たにノートに張り付けた写真を見て、取敢えずノートを閉じた。拷問機具のようなもので囚われている男は確か何かの集まりの時に見たことがあるので呪術師だろう。本来であれば即座に各所に確認の連絡を取るべきだが気が進まず、固定電話の受話器を取り損ねた手は空を切る。少女が書き残した「故意じゃなくて事故…なはず」という言い訳にも受け取れるコメントに脱力したからかもしれない。
そのノートの表紙を見ながら夜蛾は職員室のデスクでひとり黄昏た。日も暮れかけ、赤みがかった陽の光が夜蛾の横顔を照らす。湿っぽい空気は柄ではないが、数年に1度はそのような気分になる日もある。
夜蛾に傀儡術式のいろはを教えてくれた師の訃報は届いていた。師と呼んでいるが夜蛾の5つほど年上の男だ。術式の扱いは周囲より抜きんでており、同じ術式を持ちながらもまだ上手く使いこなせていなかった夜蛾が教えを乞うたのも当然のことだった。師は厳しくも温かく、夜蛾が結婚を報告した際には「術師はいつ死ぬかわからない。だからこそ2人でいい思い出を残せ」と言ってくれた。まぁ数年もせずに離婚したのだが。師とは喧嘩別れをしたため葬儀には足を運べず、考えあぐねて弔電を送るに留まった。
もう関わることはないと思っていた。しかし呪具を保管している家が次々に襲われる事件が頻発し、師がいた寺もその被害に遭ったことを知ると居ても立っても居られず無理やり時間を作り車を走らせた。
寺を継いだ子は師とは似ても似つかず、むしろ任務で命を落とした師の友人に似ていた。話を聞くうちに子は呪霊が見えてないことを察す。師の友人は呪術師家系出身だった。なぜ師が突然呪術界を離れる決心をしたのかようやく理解ができた。
呪術界を離れてからの師は随分と穏やかな毎日を送っていたらしい。堪忍袋の緒が切れると他の呪術師に羽交い絞めにされるまで止まらず、狂犬1号と秘かに渾名が付けられていたあの頃とは全く異なっていた。因みに師の作った柴犬の形をした呪骸が狂犬2号だ。その狂犬2号も角が取れたように丸くなっており、時間の流れの早さを改めて実感してしまった。
これまで死と隣り合わせの毎日を必死に過ごしてきた。師のように呪術界から離れ、穏やかな日常を送っていたならば、戸籍にもバツはつかずもしかすると子どももいたかもしれない。啜っている珈琲が今日はやけに苦く感じる。
「―――学長!!」
釘崎が職員室に転がり込んできたと同時に校舎中に割れんばかりの轟音が響き渡る。1拍おいてアラートが木霊した。
「何があった」
「夏油先生とパチンカスがまた喧嘩しはじめた!」
「…悟はどうした」
「ポップコーン片手に観戦してる!」
傑と伏黒は特に生徒のことになると途端に仲が悪くなる。生徒思いの夏油と基本放任主義でむしろ生徒に世話を焼かれている伏黒だ。それも仕方がないのかもしれない。
もし自分に子どもがいたとして、呪術界きっての問題児3人のようになってしまったらどうしようか、とありもしない未来のことを一瞬考え更に頭と胃が痛くなる。夜蛾はコップの底に残った苦い珈琲を気付け薬代わりに一気に飲み下し、3人の頭に師譲りの拳固を落とすべく重い腰を上げた。