ジャンキーじゃなくてマニアなだけだ、とダイが言っていたのを思い出した。“試してみなよ”という言葉と共に手渡された小さな錠剤はラムネ菓子のように見える。マニアだと自称するだけあって、奴は新しいものが出れば手当たり次第試し、粗悪品を掴まされることさえ楽しんでいる気がある。マゾヒストかと揶揄すると、冴え冴えとした表情でチャレンジャーと呼んでくれと反論してきた。
今回の依頼はやはり断った方がよかったかもしれないなとフロアで身体を揺らしている男を見ながらそう思う。3人の仲間と共に始めた逃がし屋は少しずつではあるが軌道に乗っていた。軌道に乗っていると言っても明日の飯には困らず、事務所が維持できるぐらいの利益だ。
依頼人は案外多く料金も高い。“訳ありの方、ご相談に乗ります”と広告を出せば、普通の引っ越し業者では引き受けないような依頼が自ずと集まってきた。DV夫から逃げる妻や借金で首が回らない債務者、更には術師家系の出だが家と縁を切りたいと思っている者からの依頼があった。同業者もいるため、差別化として依頼に応じては、弁護士を紹介したり、他人や架空の名義で契約された携帯電話や住居、時には戸籍すら用意した。
4人の持つ術式もあり、何とか依頼を達成できているが一番大変なのはスケジュールが立てにくいことだった。突然依頼が舞い込み、休みの予定がなくなることもザラだった。
今回依頼してきたのはまだ20代の男だった。ダイと名乗る男は元々ジャンキーで、様々な薬を集めるうちにいつの間にか周囲の
逃げる時に大切なのは、その人が突然消えたかのように見えることだ。そのため、普段と同じ行動をしてもらっている。しかし連日連夜こんなクラブ通いをしているとは依頼を受けた時には誰も想定していなかった。
毎日交代で1人、ダイに付いていたが他の3人からすぐに白旗があがる。3人とも「パリピ怖い…」やら「爆音で耳がおかしくなった」と口ぐちに言い、仕方なく他の事前準備を3人に任せ、まだ耐性があった男が警護としてダイと共に行動することとなった。
掌に掻いた汗で少し湿り始めたそれを男は飲むつもりはない。既にげんなりとした気分になっている男が飲めば高揚感を感じるどころか奈落の底に真っ逆さまに落ちていってしまうだろう。
クラブは週末のためか深夜より明け方が近い時間に差し掛かっているがまだ人は多い。どこもかしこも薄暗く、レーザービームのように鋭く射し込むライトに目が眩みそうになる。潜水艦の中にいるような閉塞感に何度きても未だに慣れない。フロアででたらめにリズムを刻む者、初心者なのか周囲を見渡している者など様々だ。誰かと絡みあっている者は軟体生物を連想させる。誰かとすれ違うたびに付けている香水や汗の臭いが漂い、時々青臭い雑草やバニラのような臭いが混ざり鼻を衝く。流れる大音量の重低音が腹を底から揺さぶる。その音を全身で受け止める度、男は頭を殴りつけられているような気分になった。
朝日を浴び、クラブを出てもダイは興奮している。フロアで出鱈目な速さで踊っていたというのにまだ瞳孔が開いている。周囲にいる女全員にナンパをし、目についた人たちにハグを求め、地面が膨らんでいると言い、ゆっくりと雲が流れていくのを見てすごい速さだとヘラヘラ笑っている。これもあと数日で終わるはずだと痛むこめかみを押さえた。
駅までぶらぶらと歩いていた男とダイの傍で数台の車が止まる。早朝のさわやかさに似つかわしくない物々しさだ。車から出てきた男たちに瞬時に囲まれる。ダイを逃がそうとすると背中に打撃を食らった。きっと伸縮式の警棒か何かだろう。痺れるような痛みが走る。その隙に結束バンドで拘束され、頭から袋をかぶせられた。荷物でも放り込むようにトランクに詰められるまでに3分も掛からなかっただろう。ダイはまだ状況がわかっていないのか楽しそうに笑い声を上げている。大人の男2人が詰め込まれたトランクは狭い。トランクから脱出する方法は知っている。しかし身動きするだけで結束バンドが手首に食い込む状況ではどうにもならない。
何時間経っただろうか。こうなった原因を考える時間に充てたが答えはすぐに出てしまう。狭いトランクには饐えた汗の臭いと土臭さが満ちている。大量の汗がシャツを濡らす。殴られた箇所が熱を持っていた。トランクからの脱出方法はいくつかあるが、1人なら兎も角、ダイを連れて脱出するのは難しいだろう。ダイは暑い暑いと繰り返し呟いている。薬の副作用かもしれないが実際にトランクの中は暑いのでしょうがない。
舗装された道路から外れたのか車が石を踏む。その振動はトランクに押し込められた男たちにも伝わってきた。目的地に着いたのかゆっくりと車がスピードを落としていく。トランクが外から開けられる。ひんやりとした空気が皮膚を撫でた。少し油臭さが鼻を衝く。引き摺り出されると地面に転がされ背中に石が刺さり痛みに呻いた。
顔に被せられた袋を取られると眩しさに目が眩む。土を踏みしめる音に顔を上げた。周囲には錆びた廃車が積み木のように積まれている。どこか山中の工場だろう。
最近のヤクザの幹部は
目の前の奴は目つきはヤクザの
喉を潰したようなざらついた声が響いた。
「どっちがダイだ」
「こいつです」
その回答は後ろから聞こえた。声の持ち主は全身黒い服を纏い、一切の個性を消している。男たちを道端で襲撃した奴らの1人だ。ダイをトランクから引き摺り出しながらそう口にした。ダイは薬の効き目が切れてきたらしく少し俯いている。
ダイは倒れ込むように男の横に転がった。
「お前がこの
そう言い小さい透明の袋に入れられている粒は、クラブに入る前にダイから渡されたものと同じだった。同じ刻印が押されている。
ダイが恐る恐る頷くと、ヤクザは表情を変えた。口は笑みの形になっているが目は一切笑っていない。
「お前これ数人にしかわたしてネェだろ。探すのに手間取ったせいでうちの奴ら苛ついちまってナァ」
苛ついているだけで殴ってもいいならきっと通勤ラッシュの電車内は地獄絵図になる。
「いい儲け話がある。これを大量に用意しろ。ちゃんと仕事してくれるならタンマリ払ってやる」
「俺、信用してる奴にしかそれ渡すつもりないから」
「これから俺とお前は一蓮托生、つまり運命共同体になるんだ。オトモダチだろ」
「オトモダチになりたいなら生まれ直してきなよオッサン」
ダイがそう言うと背後に立っていた奴に2人とも蹴られる。前に倒れ込むといくつもの拳や足が降ってきた。1対1ならまだ分はあるが、袋叩きにされるとどうにもならない。ましてや拘束されていると痛みに耐えるしかない。サッカーボールにでもなった気分だ。後頭部を蹴られるとぐわんと視界が歪み、一瞬体が弛緩する。
男を蹴っていた奴らの1人を何かが突然襲う。襲われた奴がその場で叫び顔を押さえていた。土の香りに鉄錆のような臭いが混じり、場の空気が凍る。背は男よりも低いがその姿は異様だった。目は窪み鼻は削げ落ちている。皮膚は土色で、人というよりも木の呪霊のように見えた。
呪霊であれば非術師である周囲の男たちにも見えないはずだが、男たちはその呪霊に向かっていくため見えているのだろう。男たちはアーミーナイフやら警棒やらで戦おうとしている。しかし呪霊はダメージを受けておらず、その鋭い爪で薙ぎ払われていく。その雰囲気にどこか既視感を覚え鳥肌が立った。
「…もしかして俺まだキマッてる?なんで?ヤベー幻覚みえるんだけど」
「早く逃げんぞ!」
半グレたちが呪霊と戦っている間に結束バンドで拘束された両手首を左右に引っ張り、そのまま勢いよく結束部分を腰にぶつける。すると音を立ててバンドが千切れた。
「やば、ゴリラじゃん」
そう呟いている奴を殴りたくなったが隠れるのが先だ。ダイの腕の結束バンドも取ってやる。
周囲に隠れる場所が多くあったのが幸いだ。見つからないように中腰になる。息を潜め、耳を欹てる。時折、奥の方から叫び声と何かが爆ぜるような音が木霊する。あの気配は特徴的だ。先ほど立ち向かっていた男たちは1人2人仲間が倒されると散り散りに逃げだした。
「ヒロさん、あの車」
ダイが小声でそう言う。
窓から中を覗くと鍵が付いたままだ。慌ててドアを開こうとするダイを捕まえ、口を強く塞ぐ。男は術式を発動した。
15秒間自分と自分が触れている者の気配と音を消すというちゃちなものだが、無いよりはマシだ。軽い足音が車を挟んだところで聞こえた。もうあれほど騒がしかった半グレたちの気配はない。呪霊は耳を欹て人間を探しているようだ。時折風が吹くと木葉が擦れ、不安定に積まれた廃車の部品がキイキイと音を立てる。呪霊が車の周りを1周するのに合わせ、男たちも慎重に移動する。1歩ずつ、足音を立てないよう神経をすり減らし、ガラスに映らないように身を屈める。その15秒間は1時間のようにも思えた。
呪霊の足音が遠くに去ったのを確認し車に乗り込む。行きはトランクに詰められ乗り心地は最悪だったが、流石ドイツ車、運転席のシートは座りやすかった。
ようやく2人が人心地つくことができたのは他の車とすれ違い、人の姿を目視できた後だった。
「…お前もし俺が半グレに殴られ続けてたらどうするつもりだったんだ」
半グレたちに捕まったとき財布と携帯を抜かれたので無一文だったが、車のグローブボックスに一万円札が入っていたのは不幸中の幸いだった。コンビニで電話を借り仲間にSOSの連絡をした後、水や茶を何本も買い込み浴びるように飲む。ふと思い出し、甘そうなジュースを飲んでいるダイに訊く。
「ヒロさんがキレて暴れ回ってる間に車ゲットする予定だった」
「お前マジでふざけんなよ」
「あの化け物もヤバかったけどヒロさんもヤバいね。普通結束バンド引き千切れないっしょ。あれ一体どうやったの」
「そりゃァあれだよ…ハンドパワー」
流石に呪力で、と言えるわけがない。
「俺もハンドパワーやりたい。どこ行けば教えてもらえんの?」
「あー、通信教育」
「通信教育」
「まァいいだろ。とりあえずお前、今日はビジネスホテルでも泊まれよ」
「…このまま家に帰るの流石にまずかったりする?」
「そうだな」
「ヒロさんたちの事務所泊めてくれたり…」
事務所の存在はダイに知らせてないが、どこかから聞いたのだろう。
「嫌だ。ネカフェ使え」
「死線を潜り抜けた仲間だろ」
「完全に俺は巻き添えで、そもそもの原因はお前だろうが」
「俺、情報収集なら超得意。あとスケジューリングも」
「へー」
「泊めてくれるなら
「なに当たり前なこと言ってんだ。酒も煙草も禁止だ」
「あ、あと俺簿記1級持ってるし金運もある」
男が呆れた顔をしていることに気が付いたようで、証明すると意気込んだダイは、そのセンスと人当たりの良さですぐに多くの客を呼んだ。4人とも若干口下手であまり数字に強くはなかったため、ダイに押し付けることができてよかったと胸をなでおろす。しかしダイの鬼のようなスケジューリングにより馬車馬のごとく働かされることになるとはこの時点では誰も想像してもいなかった。
因みにあれほど渇望していた冬のボーナスはたんまり出た。
「……エンティティ様、ここは公平にあみだくじで決めよう」
その少女の真剣な眼差しにエンティティ様は諾と返す。休日の朝からなぜそんな神妙そうにしているのかというと、最近エンティティ様に訪れた戦国ブームが原因だった。その熱はまだ続いているようで少女はたたき起こされ、眼をしょぼしょぼさせながら付いて行っていた。
しかし今日は少女には行きたいところがある。それはエンティティ様も同じらしい。脚はガイドブックを指し示した。開かれているガイドブックを覗き込む。関ヶ原ウォーランドと岐阜城のページの端が折られていた。
関ヶ原ウォーランドは関ヶ原の戦いの様子を巨大ジオラマで再現した場所らしい。武将の等身大の模型もあるようで、大谷吉継の自害や徳川家康の首実検の場面も再現されているという。
一方で少女は長野県と岐阜県にまたがる
厳正なるあみだくじの結果、今回は少女の希望した乗鞍岳に行くことになる。
「…次は関ヶ原ウォーランドいこう」
少女がそう言うと落胆していたエンティティ様はたちまち元気になった。
少女たちは最もメジャーな、畳平から乗鞍岳の主峰である剣ヶ峰山頂へ向かうコースを選択した。登山道を歩き出すとすぐに鶴ヶ池が現れる。少し離れたところから眺めると池の名前の由来通り、確かに鶴が首を伸ばしているように見えた。標高が高いためか気温も低い。高い木々はなく、一面が開けているため時折風が通り抜け気持ちがよかった。
30分程歩いていると肩ノ小屋と呼ばれている小屋があり、休憩している人も多い。道も歩きやすい道から本格的な岩場に変わる。山頂までその岩場をひたすら歩くことになるが、途中には大雪渓や紺青色をした権現池などがあるため飽きることはない。周囲の肩ノ小屋から1時間程すれば山頂に到着する。
山頂からは槍・穂高連峰に始まり、御嶽山、北アルプスなど360度の展望を楽しんだ。山によっては紅葉しグラデーションになっている。
折角山頂に来たのだからと、岐阜県内の店で買い込んだものをリュックから取り出す。小さく茶巾のように絞られている御菓子は栗きんとんだ。お節の中に入っている栗とサツマイモを甘く煮込んだものとは別物だ。
実は岐阜県の恵那地方は栗の産地として有名だ。特に中津川市と恵那市では国産の栗に拘り、栗が収穫できる9月から1月の間だけ栗きんとんを販売している和菓子屋が多い。そのため9月になると栗きんとんを求めて県内外から人が押し寄せる。
栗きんとんは1つ250円程だ。旬のものだし、折角ここまで来たのだからと有名な2つの店で2つずつ買い求めていた。
一気に食べてしまうのももったいない気がして両方共を少しずつ齧る。
1つ目の栗きんとんは深い色味をしている。調理時に水も一切加えず栗の水分だけで作っているためらしい。食べると口の中でほろりと融け、栗の旨味が一気に広がる。栗の素朴な甘さがじんわりと伝わってきた。栗を漉すだけでなく、栗を刻んで入れているようで粒々とした食感がどこか楽しい。
2つ目のものは栗きんとんがしっとりとしている。口に入れると上品な甘さが伝わってきた。丁寧に裏ごしされており、口の中でなめらかに融けていく。かすかに栗の粒の存在も感じられるが、それ以上に押し寄せてくる栗の香りが印象的だ。
「秋だなぁ…」
流れていく雲や眼下に広がる紅葉した山々を眺めながら食べる栗きんとんは最高だった。