半分だけ焦げた腕がガンジス川にぷかぷかと浮かび、犬がそれを銜えてどこかに走っていく。ガンジス川の河岸にある火葬場ではよくある光景だ。男の鼻を人間の髪が焼けるときの独特の臭いが掠めた。
旅行代理店が組むツアーではめったに案内されない場所だが物好きな観光客が時々やってくる。観光客の中には稀に尊大かつ勇猛な者もいて、火葬場で働いている者に罵倒の言葉を投げつけていく。
一応カーストによる差別は国としては禁止しているが身分制度の問題は現在でも深く根付いている。火葬についてもそれは同様で、身分によって火葬場が違う上に、金持ちが死体を燃やす時にはたっぷりと白檀などの高級な香木を使い、骨が灰になるまで燃やし尽くす。しかし金が無いと火力が足らず生焼けのまま、棒で上から何度も叩かれた後ガンジス川に放り込まれる。火葬後の灰を流したガンジス川には生活用水も工業用水も流れ込む。それだけでない。多くの者はその川の中で沐浴し、時には飲み水にもなった。
男はここにきてもう数年経つが火葬場から漂う独特の臭いにまだ慣れない。日本で激化していた呪詛師狩りの目をどうにか掻い潜り、ここ数年は貯金を切り崩しながらこの地で暮らしていた。金を積めば大抵のことはどうにかなるが、逆に言えば金が無いとどうにもならない。大抵の問題を金で解決し、呪詛師時代の豪遊を忘れることができなかった男の懐は既に心許ないものになっている。
ただの置物になっていた携帯電話が久しぶりに鳴る。電話を寄越したのは昔利用していた仲介人だった。粘着質な話し方は何年経っても変わらない。電話越しでも興奮しているのがわかる。冷静沈着で知られている奴がそんな調子で話すのは初めてのことだ。多少の違和感を覚え、男は少し迷ったが仕事を受けることに決めた。チーズがたっぷりと使われているインドの料理に飽きていたことも一因かもしれない。
男が日本を離れている間に呪術界は大分変化したらしい。呪詛師の中には男のように海外に逃げた者も多い。大概アジアかアフリカ辺りだろう。カトリック圏内で呪術関連の騒ぎを起こすとヴァチカンの奴らがすっ飛んでくる。マゾヒストでもないならヨーロッパなどは避けるのが吉だ。
日本に到着し、その足で伝えられていた場所に向かったが依頼人とは顔を合わすことはなかった。その代わり袈裟を纏った女に当日の説明を受け、前金と呪物や帳の基を渡される。悪くない額だ。渡された呪物は厳重に封印されていた。何かが封印の中で蠢いている。余計なことに首を突っ込むと長生きできないという先人の言葉を思い出し、懐に呪物をしまった。
女と別れると目的地を目指し車を走らせる。まだ夕方と言ってもいい時間帯だが日は沈み、辺りはぼんやりと薄暗い。着いたのは慰霊塔だ。この時間になると誰も訪れる人はおらず静まり返っている。男はそこに商売道具ともいえる呪具を隠していた。
貸金庫に預けるという方法もあったが金が惜しく、長期間放置する予定だったため、いつ取り壊されるかわからない場所に置いておくことはできなかった。しかしこの慰霊塔のようにめったなことが無い限り動かされることはない場所ならばその心配は薄い。
視線を感じ、床のタイルを剥がそうとしていた手を止めた。振り向かず気配を探る。古びた電灯はLEDではないらしく、チカチカと点いたり消えたりを忙しなく繰り返す。
少し冷えた風が木々を揺らし音を立てる。松虫が遠くで微かに鳴く。何度かその声は反芻するが、興が冷めたかのように一斉に静まった。音が消えると風もピタリと止む。
静寂が耳に痛い。じっとりとした嫌な雰囲気が漂っている。視線を遣るが辺りには何もおらず、再び足元に視線を落とす。タイルを剥がすとぽっかりと穴が現れた。穴の中に肘まで入れると何かに触れる。引っ張るが中で引っ掛かり、力を入れると少し嫌な音が聞こえ舌打ちをした。
不意に右肩に軽い衝撃を受けた。肩が燃えるように熱い。フードを被り、おもちゃの仮面を付けた顔が男を覗き込んでいる。身を捻ると肩に痛みが走るが刺さっていたナイフは抜けた。硬質な音が耳に届く。持っていた呪具を振り回すがその者は地面に落ちたナイフを拾い、横に振るう。躱し損ねた刃は横一文字に皮膚を裂いた。傷口から腸がこぼれ落ち、慌てて手で押さえる。僅かに生まれた隙をその者は逃さない。背後に回り込むと引き倒し、何度も攻撃を浴びせかけた。身を裂く音と振動が伝わる。ナイフが骨に当たり、殺しきれなかった叫び声が漏れ出る。多くの血を失い薄れゆく意識の中で電灯とは違う光を感じた。
「“ここに棲む白蛇を見たものは財を成す”……」
少女は看板に書かれている文字を読み上げた。その東屋のような建物は
少女たちは筑波山に紅葉狩りにきている。いくつもあるコースの中で少女たちは初心者向けの白雲橋コースを選んだ。周囲には木々が生い茂っているが道は整備され初めは歩きやすい。地元の小学校では遠足として筑波山に登るらしい。
このコースの見どころはやはり”弁慶七戻り”だろう。頭上の岩が今にも落ちそうで、弁慶がここを通る際、躊躇して7回後ずさりしたという話からその名前がつけられた。実際に見てみると風が吹いただけでも岩が落ちてきそうだ。少女たちも急ぎ足でその下を通る。弁慶七戻り以外にもおもしろい形をした岩は多く、1つ1つ確認しながら進むとあっという間に時間が経ってしまった。
筑波山の標高は877mで、日本百名山に選ばれている中では最も低い。しかし周囲に高い山がなく関東平野が一望できるとあって人気があり、ロープウェイやケーブルカーも運航しているため老若男女関係なく皆その景色を楽しむことができる。特に赤や黄色に色付いた山々は美しく、11月に開催されるもみじ祭りではライトアップもされている。
腰を落ち着ける場所を見つけると少女は買ってきたものを取り出す。透明のパックに入ったそれは一見みたらし団子のように見えるがみつだんごという大洗地区のご当地スイーツだ。
1本60円と財布に優しく、団子にはたっぷりの蜜とそれを覆い隠す程のきな粉がかけられている。それを絡めて頬張ると優しい味が口いっぱいに広がった。小麦粉で作られている団子は普通の団子とは一味違う。上新粉で作った団子やホットケーキともどこか異なる食感で、冷めてもふんわりと軽く、ぱくぱくと食べることができる。蜜はみたらし団子に使っているものよりも甘いが甘党の少女たちには丁度いい。素朴だがどこか安心する味だ。店によって蜜に醤油を入れたり、砂糖だけで作ったりと違いがあるらしいので1本ずつ買って食べ比べてみるのも楽しいだろう。
みつだんごを食べ終えると山頂から少し下ったところにある売店を物色する。少女たちはガマの油という商品に興味を持った。真っ赤な色をしている軟膏で、もともとは江戸時代に傷薬として用いられていたものらしい。
因みに現在はガマ成分は入っていないが、昔はガマガエルの皮膚腺などから分泌される
薬を使ったことは無いが、ガマの油売りの口上を無意識の内に見聞きしている人は多い。時代劇の中で道端で刀で半紙を切り刻み、紙吹雪にして客寄せをしている香具師が映ったときには注目してほしい。
半紙で刀の切れ味を証明した後、自分の腕を切り傷をつけその傷にガマの油を付けると忽ち血が止まるという芸だ。もちろんタネも仕掛けもあるが、もし目の前でそれをされると興味からついつい1つ買い求めてしまうかもしれない。ガマの油売りの口上は現在伝統芸能として継承されており、つくば市認定地域無形民俗文化財になっている。
御祭りやイベントでガマ口上保存会の人たちによってその芸が披露されていることもあるらしく、少女たちは見てみたいねと言い合った。
「神サマと呪霊の違いってなんだと思う?今日30日だから…出席番号1番!悠仁!」
生徒が3人しかいない教室で出席番号などあってないようなものだが、五条は元気よく虎杖を指名した。
「えっ?なんで俺?……いいことしているのが神様…?」
「ぶっぶー!良し悪しなんて立場や主義、その時代の常識によって変わる。ドラえもんはのび太にとっては心強い味方だけど、秘密道具のバイバインで増殖し続けてどうにもならなくなった栗まんじゅうを宇宙に不法投棄したりしてるから宇宙にとってはドラえもんは悪者でもあるんだよ」
例えが微妙すぎて虎杖はぴんと来ていない。
「うん、わからん」
「じゃあ次、出席番号3番!恵!」
1ときたらそのまま素直に2に続けないのは五条の性格が捻くれ返っているからだろうか。指名された恵は大きく溜め息をついて答えた。
「……神として意識されているかどうか」
「半分ピンポーン!正解した恵には僕のポケットに数か月入れっぱなしになってた黄金糖をあげよう」
「いりません」
拒否する恵の言葉さえ聞かず、五条は恵の机にひと夏を高温多湿な場所で過ごし少しねっちょりとしている飴を置く。
「そんだけ?」
大した差ではないように感じ、虎杖は首を捻る。
「大したことないように聞こえるけど、結構大きいんだよ。呪霊って非術師の負の感情の塊で、更には非術師に見えないでしょ。“こんな呪霊になってほしい”とか全く意識せず、“くっそだるい”とか“怖いなー”なんて漠然とした感情によって呪霊が生まれる」
それは夏油に渡された“サルでもわかるじゅじゅつかい”という本にも書かれていたので虎杖も理解できている。
「反対に神社とかでお参りする時ってとりあえず手を合わせて一応神サマを意識するでしょ?“神サマ神サマ、どうかあの糞ハゲぶち殺してください”っていう具合にお賽銭入れてさ」
例えが些か乱暴だが虎杖にも何となくわかった。
「そこにいるのが神様だってことを意識して、崇めて、貢物を奉げてることが違う?」
「案外その違いって結構大きくてね。傑の術式でも神サマって取り込めないんだよ」
「……もしかして試したことあるんですか」
五条たちの高専時代のヤバさを近くで見ていた恵は想像がついた。
「あるよ!…っていってもやる前から傑には無理って言われてたし、学長にばれて怒られたけど」
「罰当たりもいいとこね」
思わず野薔薇はそう口にする。
「でも罰として真冬に滝行ってヒドすぎない?校舎の裏山にある滝で1ヶ月間、朝3時から7時まで4時間みっちり滝行させられてさぁ。サボろうにも学長の呪骸を監視役につけられた挙句、術式使うなっていうからクッソ寒いしだるいのなんのって…」
生徒たちの塵芥を見るような眼差しに気が付いたのか五条が話を変える。
「なんでこんな話したかっていうと、時々神サマだったものが呪霊化することもあるからなんだよ」
「呪霊化?」
「特に地方に多いかな。普通は信仰されなくなると消えるんだけど、時々悪意に晒されたり歪んだりして呪霊っぽくなるやつもいる」
そんなのは普通の呪霊よりずっと強いから大体1級以上だね、と更に五条が付け加えると同時にチャイムが鳴った。
少女は両親が数日間不在ということに内心心躍っていた。懸賞で旅行が当たったらしく月曜の朝出発し金曜の夜に帰ってくる。最近の懸賞は景品が豪華だ。出掛けに「頼むから家は燃やさないでくれ」と父親に言われ遺憾の意を表しつつ両親を見送った。
母親は1人残していく少女のために沢山の惣菜を作り冷蔵していたが、少女がそれを大人しく食べる訳がない。ここぞとばかりに、8番ラーメンやら日生のカキオコやらを食べ歩くつもりだ。冷蔵庫の惣菜は証拠隠滅としてキラーたちに食べてもらおうと既にエンティティ様に渡し済みだ。
学校からの帰り道、自転車を漕ぎながら夕飯はどこに行こうか、骨付鳥も食べたいしデミカツ丼も捨てがたいとぼんやり考えていた。特に今日は全校生徒の前で表彰されたこともあり腹が減っている。授業で書いた作文がたまたまコンクールで入賞したのだ。少女は数学は壊滅的だが、もともと国語の能力は悪くない。さらにエンティティ様たちの努力もあり磨きがかかっていた。
自然とにんまりとなる顔を押さえつつ家路を急いでいるとある子どもが目に留まる。着物を着ているため七五三でも行った帰りなのかと思ったが、その子どもの周囲には保護者の姿はない。
田舎の交通手段は限られている。自動車か自転車、偶にバイク。バスや電車は数時間に1本あればいい方で、タクシーを拾おうとしても走っているのは自家用車ばかりだ。
そんな場所で1人で歩いている子どもはよく目立った。迷子かと心配になり、自転車を降りる。交番に連れて行くなら荷台に乗ってもらうしかなく教科書を詰め込んだリュックを前に背負い直した。
子どもはぼんやりとしていて表情が読めない。どこの子かと訊いている少女に言葉も返さず、子どもは少女に向かって握りしめた手を差し出してきた。ぱっと手が開かれると目映い光に目が眩む。子どもが何か呟くと同時に少女は目を強く閉じた。
額の傷跡がよく目立つ男はそこから一定の距離を取っていた。少女たちの姿が消えているのを確認すると、先ほどまで少女たちがいた場所に足を向ける。地面に落ちた特級呪物“如意宝珠”を御符の貼られた箱で玉を掬うように拾うとその場を後にした。
棚から牡丹餅とはまさにこのことだ。まさか地方紙で少女を見つけることになるとは誰も想像しなかっただろう。何かの表彰式の集合写真で少々ぼやけていた。しかしそれを見ただけで強烈な吐き気に襲われ、男は確信を持つ。丁寧なことに写真以外にも名前や通っている高校名も記載されており探すのは驚くほど容易だった。
問題はどうやって近づくかだったが、これは与から齎された“被害者の大半が成人である”という情報が役立つ。試しに余っていた“駒”を使ったがこれほどすんなり上手くいくとは思いもしなかった。明日の懸念点が1つなくなったことに男は満足そうな笑みを浮かべ、予定の変更を伝えるため先を急いだ。
「あー、びっくりした…何さっきの?閃光手榴弾?」
少女が恐る恐る目を開けると良く知ったマップの中にいた。目をしばしばさせていると、エンティティ様がしょんぼりとしながら現れる。別のことに集中していて反応が遅れ、ぎりぎり躱すことはできたが別の世界に飛ばされてしまったという。
何も情報が無い状態で無数にある世界から元の世界を探すなら時間がかかってしまうが、幸いなことに今まで食べてきた食べ物や訪れた場所は覚えている。それに手元にはマップに保管していたさつまいももあった。それを基準に探せば問題なく戻ることができるという。
鳴門金時、安納芋、紅はるか、べにあずまにシルクスイート。
それ以外にも様々な品種のさつまいもが毎年のように登場している。その中でもほくほく系、しっとり系、ねっとり系の大きく3つに分けることができ、焼き芋にすると糖度60度になるものもある。糖度60度というと大体ジャムと同じくらいの甘さだ。
さつまいもの産地に行く度、少しずつ買い求めマップに保管していたのでもう数は20を軽く超えていた。徳島の鳴門金時に始まり、鹿児島の紅さつま、茨城の紅あずまなどが数多く揃っている。芋違いではあるがインカのめざめという品種のじゃがいもも用意してあった。じゃがバターにすると最高らしい。
さつまいものことを考えているとお腹が空いてくる。時間もあるなら焼き芋作ろうかとなるのは少女たちにとっては自然なことだった。
焚火に芋を入れ様子を見ていると、エンティティ様にタッパーをずいと差し出され少女は渋い顔を見せる。栄養が偏らないようにということらしい。証拠隠滅のために影に入れたはずの母親手製の惣菜をまさか食べることになるとはと思いつつ、タッパーの蓋を取った。
「やっば……明日の数学のテスト…忘れてた……勉強してない……」
惣菜を箸でつつきながらふと少女がそんなことを呟く。保管していたさつまいもの状態をチェックしつつ、片手間に元いた世界を探していたエンティティ様は慄いた。
それでも少女は特に慌てる様子はなく、まぁいいかなどと言いだす。エンティティ様は傍にあった椅子と机で少女をサンドし、止めとばかりに机の上に数学の問題集を広げた。少女の表情は一気にしおしおになる。
朝早く起きて勉強しようと思ってた、などと溢す少女を横目に朝イチにある数学のテストに間に合わせるため、エンティティ様は本腰を入れて探し始めた。