沖縄は暖かくてどこか時間の流れがゆったりとしていた。出会った人たちの大らかな人柄や、語尾が伸びる独特な方言がそれを作りだしているのかもしれない。
しかしそんなのんびりとした空間の中にいたせいか、家に帰る頃には陽は落ちかけていて母親は少女を探しに行くところで、遊ぶことに集中していて5時に流れる町内放送が聴こえなかったと必死に誤魔化すこととなった。
「エンティティ様、今日はどこいく?」
エンティティ様が影からいつもの公園の遊具を指した。今日はどこにも行くと決めていなかった。るるぶもテレビの旅番組も見ていない。テレビの番組でやっていたダーツの旅というものを見て触発されたのだ。行先が決まっているいつもの時とはちょっと違った楽しさに心を躍らせた。
遊具の中に入る。遊具の中から明るい方向に歩いた。
目を開けるとそこはスーパーでも何かのお店の前でもなく駅の前であった。
北陸新幹線開業のためリニューアルされたばかりの金沢駅はどこもかしこもぴかぴかだ。
鼓門はフォトジェニックで観光客がその姿を写真に納めようと足を止めている。柱は螺旋状に組み上げられており威風堂々とした風格の中に繊細さが感じ取れる。真下から鼓門を見上げると色味といい綺麗に等間隔に並んだ正方形といいどこかワッフルみたいだと少女は思った。
駅の中には飲食店や土産物屋があり、目を奪われるものはいくつもあった。加賀茶を使ったパフェ、金箔が載せられたソフトクリーム。8番ラーメン、おでんにゴーゴーカレー。美味しそうな匂いが漂っている。
入りたくなる気持ちをぐっと堪えて銘菓を取り扱っていそうな店に入った。金箔があしらわれたカステラ、あめの俵屋のじろ飴という水飴のようなものもある。しかしお金が足りなかったりその場で
しかしそれもまた仕方ないと諦め、試食があるものを片っ端から試し、充分楽しんでいた。
しかし、人が多い駅の中を彷徨いているだけで段々と体力が奪われてきた。時折休憩を挟みながら駅の中を見まわす。駅には至る所に金箔があしらわれていたり、加賀友禅や和紙が散りばめられている。芸術作品の良し悪しは少女にはまだわからないが綺麗なことはよくわかった。
早く買うものを決めないといけない。頭脳パンか白えびビーバーあるいはすゞめの塩豆大福のどれかにしようかと考えていた。そこに目を引くものがあった。行く人行く人皆がそれを手に取っている。
それは茶色の竹皮に包まれており、箱にも入っていない。ポップには園八のあんころ餅とある。消費期限はなんと当日らしい。これは買わねばならない。価格も手頃で丁度少女の貯めたお小遣いで買える。段々と買われて少なくなってきているそれを少女も慌てて買い求めた。
ベンチに座ってそれを開く。竹皮を捲ると黒い塊が現れた。ポップの見た目とちょっと違うがどうやら積まれていた重圧でこんなにぺしゃんこになってしまったらしい。
中に入っていた爪楊枝で救出を試みる。餡子を掻き分けていくと白いお餅が見えてきた。それを楊枝で刺し口に含む。
想像以上だった。
見た目は餡子を纏ったお餅だ。しかし驚くほど餡子はさらさらと舌触りがいい。雑味がなく、あっさりとしていて丁寧に作られていることがよくわかる。竹皮に包まれていたせいかほのかに竹の香りが鼻をかすめた。お餅は餡子同様押し潰されていたにも関わらず、程よくふわふわで餡子と上手い具合に調和が取れている。
1つだけ食べてエンティティ様と交互に食べようと思っていたのに、いつの間にか2つ3つと口にいれてしまっていた。おそろしやあんころ餅。食べてしまった3つ分エンティティ様にもあげたが、大好評だった。売店のポップには9つ入っているとあったのでこの黒い餡子の塊の中にまだ3つあるはずだ。
一気に食べてしまうのもなんだかもったいない気がした少女は後でゆっくり食べようと考える。残りのあんころ餅をリュックに入れ、立ち上がった。
加茂憲紀は必死だった。
自身に加茂家相伝の術式があることで、嫡男として加茂家に迎えいれられた。厳しい稽古も何度も逃げ出したいと思った。風呂に入れば体中に青あざがあり、いつもどこかが沁みる。それでも歯を食いしばって耐えているのは母親のためであった。母親は側室で家では「爛れた側妻」として冷遇され、遂には家を追い出された。憲紀は母のため、家の者どもを見返し、次期加茂家当主になる必要がある。だからこそ憲紀は死に物狂いで腕を磨くしかなかった。
相伝の術式は自らの血液を使うものだ。そのため腕や指は切り傷だらけで、献血の要領で血を抜いていつでも使えるよう保存しておりいつも貧血気味だ。血を増やすため、好きでもないレバーやらほうれん草が食事の度に出された。
その日は自身の術式を使いこなすために実地稽古として石川に来た。次期当主をみすみす死なせないために家の者が何人もついている。車内からは手を繋いで楽しそうに観光をする母子が歩いているのが見えた。ふと、最後に握られた母親の手の感触を思い出す。体温の低いひんやりとした手。それは布団に入った憲紀の頭をよく撫でた。まだ母親と離れて1年も経たないはずなのに、もうずっと遠い過去のように思える。
実地稽古は順調だった。朽ちた日本家屋に巣食う呪霊と戦うのは憲紀で、周囲の者に手を出す隙も与えなかった。敷地は無駄に広く東側から祓い始めてもう30分程経過したというのにまだ敷地の真ん中辺りまでしか進めていない。
雰囲気が変わったのは、3級呪霊を難なく祓った憲紀を家の者が媚び諂い褒め称えているときであった。
これで加茂家は安泰だ、さすが次期当主様。しきりにそう言っていた男が突然絶叫しその場に倒れる。全員の視線が倒れた男の背に集まった。
斧だ。肩に深々と斧が刺さっている。男からは止めどなく血が溢れ床を濡らす。
優しい鼻歌が耳に届く。
その鼻歌は斧が飛んできた方向から聴こえた。目を凝らしてその者を見る。大柄だ。兎の仮面をつけている。手には大きな斧が鈍く光っていた。
肌が粟立つ。それは先程祓った呪霊など比にもならない。特級だ。
周囲の者は腰が引け、後ずさりしている。女が鼻歌を歌いながら近づいてくると蜘蛛の子を散らすかのようにその場から逃げた。憲紀を置きざりにして。
その光景に驚いたのは女ではなく憲紀であった。あれほどまでに自信満々に言っていた男たちが我先にと逃げ出したことに呆気にとられた。
憲紀は術式を使い、女に攻撃をしたが痛くもかゆくもないようであった。先ほどまで呪霊を祓った自身の術式が効かないとなると憲紀には打つ手がない。体術も磨いてきたが、この状況で足が竦んだ。女が近づくにつれ自然と息が浅くなる。心臓が大きく早く脈打った。手足がひどく冷たい。打つ手もなく垂れ下がった両手の先が
女は倒れている男を簡単に肩に抱える。次は自分の番かと思ったが、女は憲紀に見向きもせずに、男たちが逃げて行った方向に歩いて行った。見向きもされずにというのは若干の語弊があるかもしれない。女は憲紀を
女の鼻歌が遠くなるにつれて、憲紀は自身の体温を取り戻した。その場に座り込んだ憲紀を呼ぶ声が聴こえ、取り戻した息を再び詰める。しかしその声はどこか聞き覚えのある男の声だ。しかも床下から聴こえる。
「憲紀様、5m先にある扉から外に出てください。今はあの女はいません」
あの女に傷さえつけられなかった憲紀に怒るでも急かすでもない声の通りに外にでる。耳を澄ます。鼻歌は聞こえない。
男の声が聴こえていた方に急いで向かう。先ほどまで憲紀がいた場所の床下だ。縁側の沓脱石の陰になってわかりにくかったが、図体が大きい男が床下の小さい隙間に挟まっていた。
「お怪我がなく安心いたしました」
その言葉の通りに心から安心したのか、男はもともと垂れている目を更に垂れさせた。
男の名前を憲紀は知らない。
他の者に
聡い憲紀はそれは名前ではないことはわかっている。困っている憲紀に男は自ら鈍亀とお呼びくださいと告げた。目を丸くする憲紀に「うさぎとかめ」のようで案外その名を気に入っているのだと茶目っ気がある笑顔で言う。
憲紀も鈍亀と同じように床下に身体を滑り込ませた。鈍亀は憲紀を奥にやり、自身が盾になるような体勢になる。床下は暗く湿り気があり蜘蛛の巣が張っていた。この状況下では文句は言えない。
女の鼻歌が聴こえないこともあり、情報を共有する。女に術式が効かないこと。なぜか憲紀だけが見逃されたこと。
鈍亀も言う。離れていたためか女の鼻歌と男の叫び声しか聞こえず何が起こったのかわからなかったこと。他の者が逃げようとして一番扉に近いところにいた自分の方向に津波のように押し寄せてきたこと。他の者は散らばって逃げていること。自身の術式を使い、憲紀があの女に攻撃されそうになったら床を破って盾になろうと思っていたこと。
気になってなぜ鈍亀は逃げずにここにいたのか憲紀は訊ねた。鈍亀は案外足も速い。その脚力でこの場所から逃げ去ることも可能であっただろう。鈍亀はその問いに不思議そうに言った。
「憲紀様は御強いですが、まだ子どもです。その子どもを置いて私だけ逃げる訳にはゆきません。大人が子どもを守る。それは呪力も術式も関係ない、世の
その言葉に憲紀はなぜかひどく安堵した。
そんなことを話していると叫び声が聞こえる。誰かが見つかったようだ。それは次々に耳に届いた。声が聴こえるたびに身体を強張らせる憲紀の耳を鈍亀は塞ぐ。その手は戦う者特有の皮膚が厚く、肉刺があるものだった。
鼻歌が聴こえる。ここに近づいている。叫び出しそうになる自身の口を両手で押さえた。
女は何かを引き摺っている。呪霊だ。おそらく2級程度だ。ここに巣食っていたものだろう。両手を斧で落とされたようで肩と思われる部分からは液体が滴っていた。
女は呪霊の脳天に手に持つ大斧を振り落す。それは呪霊の頭の中心部まで深く沈みこむ。それを簡単に引き抜く。そして脳からの情報が途絶えて痙攣する体に何度も何度も斧を叩き込んだ。女が斧を振り下ろすことを止める頃には、それはただの肉片となって周囲に散らばっていた。鼻歌はその間も絶えることはない。
涙は疾うに零れていた。下穿きが濡れている。悲鳴が漏れそうになった憲紀の口を鈍亀が塞ぐ。落ち着かせるように背中を擦られた。
他の家の者たちも、自分も、あんな風に肉片になるのだろうか。
「ねえ、ハントレス。もうかえらないとまた心配されちゃう」
あの女の声ではない。柔らかい声が聴こえた。
見つからないように鈍亀の間から覗き見る。女の子だ。その子があの女と一緒にいる。
「そういえば、ハントレスもこれたべる?すごくおいしいの」
そう言うと女の子は黒い塊を取り出す。女は血まみれの手でそれを掴むと一気に口に放り込んだ。
「じゃあ、今日はもうこれくらいにしてかえろう」
そう言うとあの女の子も鼻歌を歌っていた女も闇に溶けるように消えた。そればかりか女が肉片にした呪霊も跡形もなくなっている。
鈍亀が先に床下から這い出て警戒しながら周囲を見回す。安全を確認すると憲紀に出るように合図した。
2人で慎重に敷地の中を探す。しかし初めに憲紀の前で斧によって倒れた男も、憲紀を置いて逃げ出した男たちもいない。ただ血溜まりがいくつもあるだけであった。