草原を駆ける騎馬の群れ。壮観としか言いようがない光景だった。
漢人と匈奴だけでなく、烏桓や鮮卑といった異民族も集い、戦をするのではなく、馬術自慢が揃って競走する。夢のような出来事だった。
騎馬の群れから、一騎、二騎と少しずつ抜け出していく。赤兎馬に乗った呂布。白馬、白龍に乗った趙雲。黒狐に乗った李岳もだ。そして、もう一騎。白馬に乗った、呂布とはまた違った色合いの赤髪の女性。
ハッと、李岳は瞳を開いた。
見慣れてきた天井が見えた。逗留している、長安にある宿の一室である。
雨音が聞こえてくる。今日も雨のようだ。
長安に逗留して、ひと月近く経つ。李岳たちが長安に着いてからほとんど間を置かず、雨が降りはじめたのだ。それから長雨が続いている。幸いにも、いまのところ大きな水害は起こっていないのだが、この中を無理に進むのは危険だと思う程度には降っていた。
追放処分を受けているといっても、即刻国外退去を強制されているわけでもなし、天気が落ち着くまで滞在してください。赫昭にそう言われた。
お言葉に甘えながらも、漫然と過ごしているのもどこか落ち着かないため、滞在中は呂布とともに名を変えて、宿の一階にある飯店で働くようにした。李岳は厨房、見目麗しい女性である呂布は給仕である。間違いなく美女と言える容姿に、無口で無愛想ながらも真面目に働く呂布の評判は悪いものではなく、店への客の入りも増加しているようだ。李岳も料理の腕を買われたようで、二人でこのまま正式に働かないかと誘いを受けたりもしたが、それは丁重に辞退させてもらった。
「起きた?」
囁くような声が耳元で聞こえた。顔を向ける。一緒に
「おはよう、恋」
「ん。おはよ、冬至」
「うん。どうかした?」
「なにか、変な夢、見た?」
心配そうな声音に、目を瞬かせた。さっきまで見ていた夢を思い出し、苦笑しながら首を小さく横に振った。
「いい夢だったよ。起きちゃったのがちょっともったいないな、って思うような」
「どんな夢?」
「草原で、匈奴と漢人だけじゃなく、いろんな民族のひとたちが馬に乗って競走する夢」
「楽しそう」
「うん。それで、馬群から抜けたのが、俺と恋と星と、あと、白蓮殿」
言うと、呂布は一瞬だけ眼を見開いたあと、残念そうに微笑んだ。
「一緒に同じ夢、見れたらいいのに」
「そうだね。ああ、いやでも、そうなったら逆に困るかも」
「どうして?」
「たぶん、起きたくなくなる」
李岳の言葉に呂布はキョトンとしたあと、納得したように小さく頷いた。
「そうかも」
寂しそうな声音に聞こえた。公孫賛を思い出しているのだと、李岳は思った。李岳がそうだったからだ。
縋りつくように、彼女を抱き締めていた。ちょっと驚いたようだったが、彼女も抱き返してきた。いつかにも感じた、かすかで優しい力強さに、涙がこぼれそうになった。
ぬくもりがあった。愛しいぬくもりだった。
俺はきっと、このぬくもりを失いたくないがために、あのどこか頼りなくも心優しい姉のような人を犠牲にしてしまったのだ。
そんな自責の念が襲ってくるが、その痛みに甘えてはいけないのだ、と思う。
公孫賛は、ほんとうに普通の人だった。いつだって普通に人を思い遣れる人だった。そんな普通の、だからこそ、きっと誰よりもすごい人だった。
己を責める李岳を公孫賛が見たら、きっと困ったように笑うだろう。自分が死んだのはまいったけど、おまえたちが無事でよかったよと、やらなきゃならないことをやったんだから、おまえが自分を責めることなんてないよと、そう言ってくれるだろう。そう確信できる。それを疑うことは、かえって公孫賛を冒涜することになるのだと、そう言い切れる人だった。
それでも、感じる罪の重さは消えない。一生を懸けて償うものなのだ、と思う。一生懸命に生ききってこそ公孫賛の、そして失われていった命に報いることになるのだと、そう信じた。
どちらからともなく、抱き締め合っていた力を緩めた。離れることはしない。同じ布団に入ったまま、互いの吐息、ぬくもりを感じる。互いを交感する。この国で李岳が作ってきたさまざまなものは、この手から失われた。それでも、すべてが失われたわけではない。友や仲間たちとの絆がそうであり、この傍らに寄り添う伴侶もそうだ。すべてを失ったわけではないのだ。
それが、ひどく罪深いことに思えてしまう時がある。罰は充分に受けたと言っていいはずなのに、まだ足りないのではないかと己を苛んでしまう時がある。
呂布が、李岳の頭を抱くようにして引き寄せた。彼女の豊かな胸に顔が埋まる恰好になる。李岳の頭を、呂布が慈しむように撫でた。
「いいこ、いいこ」
優しい声だった。子ども扱いしないでくれと反撥する気は、起きなかった。
安らぎを感じた。心を蝕む黒い澱のようなものが李岳の中から消えていき、代わりに力が湧き上がってくるような気がした。
しばらくして、李岳は呂布の胸から顔を離した。
「元気出た?」
「うん」
「ん」
李岳の返事に、彼女は満足そうに頷いた。安心したように見えた。
俺は弱いなと、李岳は思った。同時に、以前にも思ったことであるが、自分がこんなにも極端な性格だということには呆れるしかない。
自分を責め過ぎるな。いずれ、他人のことも許せなくなる。
そう言ってくれたのは、ほかならぬ公孫賛だった。それを思い出せるようになったのは、受け入れられるようになったのは、つい最近のことだ。
李岳は罪人だ。だが、罰は充分に受けたと言っていい。司馬懿が、李岳からあらゆるものを奪ったのは、つまりはそういうことなのだ。
もし、自分と同じ立場で同じ罰を受けた者がなおも罰を求めているのを見たら、もう充分だと言うだろう。これ以上の罰が欲しいなどと甘えてはいけないのだ。それは、みんなの思い遣りを無碍にすることと同じだ。そんなもの、ただ周りの人を悲しませるだけの、意味のない自己満足でしかないのだ。
誰よりも大切なこの
「大丈夫、冬至?」
「うん。心配かけてごめん」
「白蓮のこと、思い出した?」
「うん。恋は、寂しくなったりしないかい?」
「なる。でも、恋は、大丈夫。あの時、いっぱい泣いたから」
呂布が微笑んだ。寂しさを含んだ、それでもなお輝きを感じさせる、力強い笑みだった。
「恋は、強いね」
「冬至がいるから。恋だけだと、きっと弱い。闘えば、恋は大抵の人に勝てる。でも、それだけ。冬至も同じ。ひとりじゃ、弱い。二人だから、強くなれる。それでいいと思う」
甘えていいのだと、そう言ってくれている気がした。
俺は弱いなあ、と今度は苦笑しながら思った。その弱さを、恥ずかしいものとは思わなかった。
自分ひとりでは、きっと生きていけない。二人でなければ生きていけない。それでいい。ひとりでは弱くても、二人ならどこまでも強くなれる。それでいいのだと思う。
李岳がほんとうに恥じなければならなかった弱さとはきっと、己を許すことができなかったこと。自分が幸せになることを受け入れられなかったこと。周りの人たちを、そしてこの伴侶を悲しませ続けたその弱さこそ、李岳が省みなければならないものだったのだろう。
二人で身を起こすと、話は終わりましたかとばかりにセキトが近づいてきた。実に空気の読める犬になったものだ、と苦笑しつつ二人で愛犬を撫で回す。
ひと頻り戯れると、二人で身支度を整えた。
「よし、今日も頑張るか」
「がんばれー」
呂布がいつもの優しい無表情で、気のない応援をした。なんだかおかしくなって、李岳は笑ってしまった。
「そこは、一緒に頑張ろうじゃないの?」
「恋は、なにかと頑張ってる。考えすぎて別に背負わなくていいことまで勝手に背負って結局押し潰されそうになってる旦那の世話」
「返す言葉もございません」
彼女らしからぬ長台詞に、苦笑しながら頭を下げた。そう言われると、なにも言えない。まったくもってその通りである。公孫賛のことだけでなく、ふとした瞬間に気持ちが沈みこむことがあるのだ。彼女がいなかったら、ろくなことになっていないだろうことは想像に難くない。
「嘘」
「ん?」
呂布が李岳の両頬に手を添え、こちらが反応する前に顔を近づけてきた。温かく柔らかいものが李岳の口を塞ぐ。
少しして、顔が離れた。不意打ちであった。呂布の顔が赤い。李岳の顔も熱い。
「一緒に頑張ろ」
優しく微笑む呂布に、返事代わりに口づけを返していた。意識してのものではなかった。可愛らしすぎて、躰が勝手に動いてしまったのだ。すさまじい破壊力であった。仕事がなければ、このまままぐわいをはじめていただろう。
朝食を終え、愛犬と愛馬の世話を済ませると、頃合いを見て仕事に入った。
店は繁盛している。給仕をする呂布に手を出そうという輩はほとんどいない。働きはじめてすぐのころはいたが、彼女自ら軽く捻っているうちにいなくなった。怪我をさせるわけではないが、ほんとうに軽く捻るため、これは敵わんとみんな諦めるのだ。酔った客が手を出そうとすることは、いまでもある。変な趣味に目醒めた者が捻ってもらおうと来ることもある。そういうのは叩き出される。
昼の忙しい盛りを終え、ちょっと遅めの昼食を終えると、夕飯時になるまで一旦休みとなる。雨がやんでいれば愛馬を駆けさせるところだが、あいにくの天気だ。軍務に就いていたころは雨中訓練として駆けた時もあったが、すでに李岳も呂布も軍属ではない。雨の日に無理に駆けるのもどうかといった具合である。
いずれにせよ愛馬、愛犬の世話をしたあとは、二人でまったり過ごす。雨が弱ければ日課の立ち合い稽古といくところだが、やはりそういう気になれない程度には降っていた。
特になにをするわけでもなく、二人寄り添い合っていれば、それだけで時間は過ぎていく。それだけでも、不思議と満ち足りた気持ちになる。
時間になると、再び仕事だ。忙しくはあるが、だいたい要領は掴んできているので特に大きな問題が起こることはないし、これといった事件が起きることもない。せいぜいが、酔っ払いが暴れたら呂布が速やかに鎮圧する程度だ。
忙しい時間を越えると、李岳と呂布は仕事上がりとなる。それから夕食だ。そのあたりで、見慣れた人物がやってきた。
「冬至さ、ん。これから夕食ですか?」
やってきた人物、赫昭が言った。様づけはやめてくれと頼んでいるのだが、いまだに慣れない様子だった。敬語もこの際だからやめてもらおうと思ったのだが、私なりのケジメですので、それだけは絶対に聞けませんと固辞された。
赫昭の問いに、ああ、と頷く。
「ご一緒しても?」
「もちろん」
「ん」
隣の呂布も頷いていた。
「今日は、鍾繇殿たちは?」
「今日は二人で食事されるそうです」
「そっか」
夕食は赫昭のほかに、長安に赴任している鍾繇、張既と一緒に摂ったりする時もある。もっとも、赫昭も毎日ともにするわけではなく、五、六日に一度といったところだ。ほかに長安に赴任している李確と郭祀の涼州組とは、李岳たちが長安に来てすぐ、赫昭が一席設けた場でともにしただけである。
李確からは、旅先で不幸に遭ったみたいな、董卓様を悲しませるようなことはしないでくださいよ、と言われた。それに頷き、月を助けてやってくれと返した。当然っす、と力強く頷いて返された。
郭祀からは、特にこれといったことは言われなかった。李岳も殊更になにかを言うことはなかった。お互いに、元気でな、相方を大切にな、といった程度のことだ。大切な仲間ではあるが、お互い、特に嫌ってはいないが親しくもない間柄であると考えれば、こんなものだろう。
厳顔や魏延、法正などの益州組もこちらに赴任しているのだが、この面子は現在、益州の方に行っているため会っていない。無理に呼び寄せることはしていない。雨が続いているというのもあるし、新年直後の李岳の送別会で話すことは話したつもりだからというのもある。縁があれば出立前に会うこともあるだろうと、そう思う程度である。
長安に赴任していた李儒は、長安でやることの大部分が終わっているため、洛陽に戻っている。今後は、暗闘における司馬懿の片腕として身を尽くすことになるだろう。当人の意思はともかく。とはいえ、口ではなんのかんのと言っても、仲間や家族のために闘える乙女である。心配することはないだろう。
鍾繇と張既は、涼州の馬騰と交渉を締結したあと、しばらくしてから婚姻を結んだ。鍾繇からは、求婚しようと決意し、場を整えたものの、いざ本人を前にして頭が真っ白になってしまい、その場で張既から逆に求婚されるという顛末になってしまったと無念そうに言われた。それは無念だろうと、李岳も同情した。そんな会話がきっかけで、真名こそ交わしていないが相当に仲良くなった。
呂布と張既もだいぶ打ち解けたようで、ともに食事を摂る時は男性陣、女性陣という組み合わせで会話することもあった。呂布の口数は相変わらず少ないが、張既はさほど気にしていないようで、一緒に女子なりの話で盛り上がっているようだった。
ただ時々、赫昭が気まずそうに黙りこんで視線を泳がせる。最初に食事をともにした時は、李岳にもの問いたげな視線を向けてきた。なんなのかと呂布と張既の会話に耳を澄ませてみると、
冬至様も、ちゃんと男の方だったのですね。
さまざまな気持ちが入り混じったような、なんとも言いがたい複雑そうな笑みとともに言ってきた赫昭のそんな言葉に、李岳は視線を逸らすことしかできなかった。
ともあれ、今日は李岳と呂布、赫昭の三人だけである。
「長雨だけど、水害は大丈夫かい、沙羅?」
「ええ。いまのところ大きな被害は出ていません。そろそろやむ時期のはずですし、このまま大禍なく終わってくれればいいのですが」
「そうだな。助けがいる場合は言ってくれ。軍は関係なく、友人として力になるよ」
「ええ。ありがとうございます、冬至さ、ん」
ちょっと複雑そうではあったが、それでも嬉しそうに赫昭は笑った。
長安での滞在については最初、軍の宿舎を使ってくださいと赫昭の方から申し出があったのだが、断らせてもらっていた。ただの旅人として滞在したかったのだ。そう言うと、赫昭は納得してくれたようだった。
夕食を終えると赫昭と別れ、雨具を着て二人でセキトの散歩に行く。雨空で星は見えない。そのことにちょっと残念な気持ちになりながらも散歩を終えるとセキトの躰を拭き、部屋に向かった。
支払いはちょっと多めにしてあり、セキトを部屋に入れる許可も得ている。李岳が用意したセキト用の寝床と用足しの場を部屋に置いてあることもあって、セキトが粗相をしたことはない。最近は店の看板犬のようになっているようで、李岳と呂布ともども売上に貢献しているかたちらしく、犬が泊まることに最初は警戒していた宿の主人もいまではご満悦である。
そういった事情もあって、李岳と呂布は宿の主人に相当気に入られたようで、よほどひどく汚さなければ、部屋は好きに使って構わないと言われていた。
部屋に入り、扉を閉めると、呂布が抱きついてきた。躰が熱くなる。口づけを交わした。互いの熱を交感する。
雨音のほかに聞こえるのは、お互いの吐息だけ。
見えるのは、愛しい伴侶だけ。
***
槍の穂先が迫る。趙雲が繰り出すその鋭い突きを、関羽は弾くようにしていなした。趙雲は驚くことなく態勢を立て直し、間合いをとった。関羽も反撃することなく、相手を見据える。
やはり、強い。笑みを浮かべる。趙雲もまた楽しそうな、獰猛なものさえ感じさせる不敵な笑みを浮かべていた。
元号が『泰平』となって、半年が経った。そろそろ夏が来るなというあたりで、洛陽で軍務についていたはずの趙雲が、ふらっと冀州に現れた。暇を貰って幽州に里帰りだという。どうせだからとこちらにも顔を出そうと思ったらしい。相変わらず自由なやつだと関羽は苦笑した。
ならばと、手合わせを願った。趙雲もまたそれを予想していたのか快諾した。
強者との手合わせは、張飛以外とでは久しぶりだった。劉備配下の者で、これはと思う者はそれなりにいるが、それでも関羽と互角に打ち合えるほどの猛者は義妹である張飛しかいない。ずっと同じ相手と手合わせするというのも少し飽いてくる。やはり時には別の相手と仕合いたいという気持ちはあった。
大きな戦は終わった。関羽が武を振るう機会もめっきり少なくなった。平和なのはいいことだが、たまには思いっきり躰を動かしたくなるのも武人の
勝ったり、負けたり、引き分けたり、時に張飛も交えて立ち合ったりと、久しぶりに武人として充実した時を過ごすことができた。
ひと頻り仕合い、満足すると、劉備も交えて歓談に入った。
「久しぶりに仕合ったが、さすが、腕は衰えておらんな、星」
「そちらこそ、鈍ってはいないようだな、愛紗。鈴々も」
「当然なのだ!」
「ところで星ちゃん。暇を貰ったって、大丈夫なの?」
「許可はちゃんと貰っておりますよ、桃香殿。ちょっとばかり、やっておきたいことがありましてな」
「里帰りと言っていたが」
「一応、それも目的ではある。ま、なんだな、ちょっと報告しておきたくてな」
趙雲が遠くを見た。どこに行く気なのか、なんとなくわかった、という気がした。
「桃香殿」
遠くを見たまま、趙雲が呼び掛けた。
「うん。なに、星ちゃん?」
「もし私が、北斗七星を掲げるのをやめていただきたいと言ったら、どうされますか?」
趙雲が、劉備を見た。常に浮かべている飄々とした笑みは鳴りをひそめ、神妙な顔つきになっていた。
劉備は一瞬、眼を見開くと、趙雲の眼を真っ直ぐに見つめ返した。
「ごめんなさい、ってお断りします。白蓮ちゃんを追い詰める一因になった私が背負っていいものじゃないかもしれない。それでも、私はこれを掲げたい。掲げるのをやめたら私は、白蓮ちゃんの友だちだって、胸を張って言えなくなる気がするから」
言って、劉備が微笑んだ。寂しそうな笑みだった。しかし同時に、確固たる意志を感じる強い光が、その眼に宿っている気がした。
趙雲はしばし劉備を見つめていたが、やがてフッと笑い、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「言ってみただけです。そもそも、私にそんな権限はありませんからな」
「権限はなくても、資格はあるよ。星ちゃんだけが、それを言う資格があると思う。白蓮ちゃんの一番の親友だもん」
趙雲がちょっと眼を見開き、少ししてはにかむように笑った。照れくさそうだった。
「一番の親友ですか。まいりましたな、白蓮の一番の親友である桃香殿にそう言われるとは」
「違うよ。一番は星ちゃんだよ」
「いや、桃香殿でしょう」
「星ちゃんだよっ!」
「桃香殿ですよ」
「二人とも、張り合う方向が逆ではないか?」
呆れながら関羽が言ったが、劉備と趙雲はどちらも一歩も退かないと言わんばかりだった。飄々とした趙雲がこんなふうに退かないのも珍しい、と関羽はちょっと愉快な気分になった。
「相手の方を一番だって言うなら、どっちも一番ってことにすればいいと思うのだ」
饅頭を囓っていた張飛が、呑気にそう言った。
劉備と趙雲の動きが止まった。義妹の言葉に、関羽はちょっと呆れた。
「一番が二人とは、またおかしなことを」
「でも愛紗。世の中には、天下無双って呼ばれるやつが何人もいるのだ。だったら、一番の親友が二人いたっておかしくないと思うのだ」
「言い得て妙なことを」
愛紗が苦笑すると、劉備と趙雲が笑い声を上げた。
「確かに。そう言われれば、一番の親友が何人いたって構いませんな」
「うん。星ちゃんも私も、白蓮ちゃんの一番の親友だね」
「ええ。しかし、さっきのやり取りを白蓮が見たら、そんなに私の一番の親友になるのが嫌か、あ、うん、嫌だよな、ハハハ、って勝手に早合点して落ちこむでしょうなあ」
「アハハ、白蓮ちゃんならほんとに言いそう」
関羽と張飛も揃って笑い声を上げた。みんな、どこか寂寥を含んだ笑い声だった。それでも、それだけではなかった。悲しみに暮れていたら、公孫賛はきっと困ってしまうだろうから、それを乗り越えるために笑うのだ。
公孫賛を失って、四年以上の月日が経つ。悲しみや寂しさは少しずつ癒えても、いまだに心のどこかに忘れがたいという思いがある。関羽以上に、劉備や趙雲が、そしてきっと呂布や李岳がそう思っているだろう。
この悲しみが癒える日が来るのかと、そう思ったこともあった。そう思えるようなことでも時は癒す。癒してしまう。優しく、残酷である。それが生きていくということなのだと、そう思い定めるしかないのだろう。
「皆さん、そろそろお食事ができるそうです」
「話の続きは、食事しながらでいかがでしょうか」
呼びに来たのは、諸葛亮と鳳統だった。張飛が眼を瞬かせた。
「ごはんなのだ!」
「おう。では、ご相伴に
「あわわ、星さんがいらっしゃったということで、もちろんご用意させていただきました」
「はわわ、お口に合うかはちょっとわかりませんが」
「なあに。突然押しかけてきた身だ。文句はそれほど言わんよ」
「はわわっ。た、多少は言うんですね」
「あわあわ、お、お手柔らかにお願いします」
張飛が真っ先に向かい、趙雲、諸葛亮、鳳統が連れ立っていくようにして続く。
「愛紗ちゃん、行こ」
その場に留まったままだった関羽を待つようにして、劉備が呼び掛けてきた。
「はい。あの、姉上」
「なあに、愛紗ちゃん?」
「星は、北斗七星を下ろしてほしかったのでしょうか」
関羽の言葉に、劉備はゆっくりと首を横に振った。
「違うと思うよ。重かったら下ろしても構わないのですよ、って言ってくれたんだと思う」
関羽は天を見上げた。星が瞬きはじめた。北斗七星も、すぐに見えてくるだろう。
「そうですね。あの旗は、とても重い。最初にあれを掲げた時、旗とはこんなにも重いものだったのかと、私は思いました」
「私もだよ。すごく重く感じた。私ひとりじゃ、きっと掲げられなかった。でも、ひとりじゃないから大丈夫だって、みんなが居るから頑張れるって、そう思った。だから、これからも頼りにさせてね、愛紗ちゃん」
劉備が、優しく笑った。関羽の胸に、温かなものが宿った気がした。
何度も宿ったものだ。この人の笑顔を見るたびに、それは確かな力となって関羽を動かしてきた。心の拠りどころであり続けた。
道を間違えたこともある。過ちを犯したこともある。誓い合った理想すら
それでも、劉備の『夢物語』を現実にしたいという想いだけは、ずっと胸にあった。その『綺麗言』を信じ、関羽と張飛は彼女の妹となり、多くの人がついてきた。
そしていま、ここにいる。彼女の目指した理想にはきっとまだ遠いけれど、少しずつ進んでいく。
人は間違える。時に道を見失う。過ちを犯すこともある。人は、どこまでいっても、人でしかない。それでも、歩みを止めることだけは、してはならないのだと思う。そうすればきっと、死しても誰かにその理想は受け継がれていく。人は忘れられても、掲げた志はかたちを変えながらでも、どこかで受け継がれていく。
それがきっと、生きていくということなのだ。
劉備の言葉に、関羽は頷いた。
「ええ。もちろんです。しかし、それはそうとして、姉上もちょっとは鍛えた方がよろしいのではないでしょうか?」
「えっ」
劉備が顔を引きつらせた。
「な、なんで?」
「
笑顔でそう言うと、劉備の顔の引きつり方がすごいことになった。いまにも逃げ出したい、と全身で訴えているようだった。
「無理っ、勘弁してっ、二人の特訓なんて受けたら、髀肉より先に命を落としちゃうよ!?」
「なあに、人間、死ぬ気になれば大抵のことは乗り越えられます。ぜひとも死域に踏みこんでみましょう」
「死ぬ気にならなきゃ乗り越えられないようなことさせるの!?」
「どうしたのだー?」
やいのやいのと騒いでいると、張飛が戻ってきた。
劉備が必死な様子で張飛に説明すると、彼女はため息をついて
「愛紗。姉ちゃんに無理なことはさせるものじゃないのだ。時間の無駄なのだ」
「うんうん、そうだよね、鈴々ちゃん。なんだかすごく失礼なこと言われてる気がするけど」
「どうせちょっと肉が落ちたって、その反動で食っちゃ寝するに決まっているのだ。姉ちゃんは結局、豚さんになる運命なのだ」
「だから人をすぐ豚さん扱いするのやめて!?」
「豚さんは豚さんなのだー!」
今度は張飛と騒ぎ出す。笑いがこみ上げてきた。堪えきれず笑い出した。二人がキョトンとし、少しして二人も笑い出した。
我ら三人。
姓は違えども、姉妹の契りを結びしからには。
心を同じくして助け合い、みんなで力なき人々を救う。
同年、同月、同日に生まれることを得ずとも。
願わくば同年、同月、同日に死せんことを。
三人でそう誓い合ったのは、何年も前のこと。
劉備の夢を聞き、姉妹となることを決めた。
喧嘩してお互いの本音をさらけ出し合い、ほんとうの姉妹のようになった。
死にたくない、敵も味方もなく、みんなに死んでほしくない、みんなで幸せに笑い合いたいという子どもじみた願いを、夢を、彼女は泣きながら叫んだ。欺瞞と誹られても否定できない身勝手な、しかし誰もが願うわがままだった。
それをみんなと一緒に分かち合いたいのだというこの乙女の言葉を、願いを、夢を、わがままを、誰が誹れるというのか。理不尽に人が死ぬことのない世の中を願って、なにが悪いというのか。矛盾していると言われることであろうとも、悲しみ傷つきながらも戦をなくすために闘うことを選んだこの乙女の選択の、なにがおかしいというのか。
ならば、それをほんとうのものとしてやると、改めて誓った。これからも、その夢のために、その願いを叶えるために闘うと誓った。道の終着点はいまだ遠くとも、光が見えているのならばそれを目指して進むのみ。劉備は、その光を掲げてくれたのだ。
彼女が掲げてくれた光を守るためなら、関羽と張飛は、諸葛亮と鳳統は、劉備と同じ夢を見て生きる者たちは、どこまでも強く在るだろう。何度でも立ち上がるだろう。
無敵の龍にも最強の虎にもなろう。天地に轟けとばかりに咆哮しよう。
我ラニ敵ナシ、と。
***
趙雲も交えて食事しながら歓談している最中、劉備の頭にふと気になることが浮かんだ。
「あ、そうだ。天下無双といえば、恋ちゃんと冬至さんは旅立ったんだよね?」
「ええ。だいぶのんびりと旅しているようで、ちょっと前に長安に着いたと、沙羅の方から洛陽に連絡が来ました。知らされたのは一部の者だけですが」
「そっか。うん。無事でなによりだね!」
「はわわ。でも、そこから先が大変なところです。西涼はまだともかく、じきに砂漠となります。見渡すばかりに砂だらけの過酷な土地が続くと」
諸葛亮の言葉に、劉備だけでなく関羽、張飛も目を瞬かせた。
「す、砂だらけ?」
「はい。作物もろくに育たず、水場も乏しいところだと聞いています」
「そ、そんなところ、行けるの?」
「行き来はできます。ただ、たやすく行ける道ではないと思います」
「あわわ、ですが、冬至さんたちなら大丈夫でしょう。砂漠の過酷さを侮る気はないと、入念に準備していくつもりだそうです」
鳳統が言うと、劉備たちは軽く息をついた。
「うん、そっか。うん。冬至さんたちなら大丈夫だよね。恋ちゃんもいるし。でも」
腕組みし、うーん、と声を洩らす。
みんなが顔を見合わせ、劉備に眼をやった。
「まだなにか心配なことでもあるのですか、姉上?」
「そういうのじゃなくって、最後に会った時にも思ったけど、あの二人って、まだ友だちって関係なのかなあって」
「ああ、なるほど」
関羽が頷いた。
「そうですね。わざわざ報告にということで、二人の仲が進展して、式にでも御呼ばれするものかと思っていたのですが」
「そうだよね。期待してたのに」
李岳と呂布が一緒にいるのを見ると、不思議と心が温かくなったものだった。それは同時に、なぜか切ない胸の痛みを覚えるものでもあったが、それ以上に二人が一緒にいるのを見るのが好きだった。
呂布が、どれだけ李岳を愛しているのかを知っている。李岳もまた、そんな呂布を大切に想っていると、見ただけでわかる。二人の間に立ち入ることは誰にもできないだろうと思えるほどだった。
戦は終わったのだから、もう結婚してもいいのではないか、と最後に会った時も思ったものだった。
「あの二人、関係が発展したりしないのかなあ」
「さて。案外、もうすでに関係自体はいくところまでいっているやも」
「へ?」
趙雲を見ると、彼女はニンマリと笑っていた。
「いえね。すべての実権を奪われたあと、冬至はそれまで住んでいた屋敷から、あずま屋に移り住んでいるのですよ。恋と一緒に」
「それって、同棲!?」
「あわわっ、お二人はすでに、大人の階段を!?」
「うむ。それはもうきっと、自由になった二人は毎晩のように想いのまま、情欲のままに互いを求め合い、まぐわい、好きだの愛してるだの、言うだろうか、いや、さすがに言っているだろう、うむ」
前半は謳うようにして言っていたのが、後半は自信なさげに、自分に言い聞かせるようにして趙雲が言った。
「それはそうと、聞いておりませんでしたかな?」
「はわわわ、李岳さんと恋さん、珠悠ちゃんからもなにも聞いてませんっ。愛紗さんと鈴々さんは!?」」
「鈴々も聞いてないのだ!」
「私もだ。まったく。それぐらいは教えてくれてもいいだろうに」
キャーキャーと騒ぐ劉備、鳳統、諸葛亮に、ただただ朗らかに笑う張飛、ちょっと拗ねたように言う関羽と反応はさまざまだが、みんな、言いたいことはたぶん一緒だろう。
水臭い。関係はともかく、同棲していることぐらい言ってくれてもいいだろうに。
「もー、ほんと、関係が発展したように見えなかったから気を揉んでたのに、裏切られた気分だよっ!」
プンプン、と劉備が言うとみんな、うんうんと一斉に頷いた。張飛はなんだかよくわかってないように見えたが、気のせいだろう。
劉備も含めてみんな、心配していたのだ。いつか再会したら、文句を言ってやらなければ。そう思いながら劉備は笑った。よかった、と思った。
劉備が笑うと、みんなも笑い出した。心配が払拭された、安堵の混じった笑い声だった。
「まあまあ。あくまでも私の憶測ですから」
「でも、同棲していたのは事実なんだよね?」
「ええ」
「それぐらいは教えてほしかったなあ。ああ、冬至さんは大丈夫なんだ、って思えたし」
劉備が言うと、ちょっとだけ空気が神妙なものとなった。
「冬至さん、自分が許せないんだろうな、って感じてたから。私以上に、白蓮ちゃんの死に責任を感じてる気がした。白蓮ちゃん以外にも、戦で犠牲になった人たちみんなの分も、って感じた。だから、恋ちゃんとの結婚とか考えられないのかなって、心配してたんだ」
「そうですね。実のところ、式を挙げる話は、出ませんでした。まだ冬至は、自分を許せていない。祝福されることを、彼はまだ受け入れられないだろうと、私たちは思いました。冬至も、言い出すことはなかった」
「でも、そうやって恋ちゃんと一緒にいることを受け入れてる。だから、大丈夫だって、そう思った」
「はい。少しずつでも、冬至は自分を許していけるでしょう。恋を、もう放しませんと、あやつは言いました。ねねからも、恋を泣かせるようなことはしないと冬至が約束してくれたと聞いています」
「なら、大丈夫だね。でも、やっぱり、二人のこと、ちゃんとお祝いしたかったなあ」
「ええ。それで、我々もひとつ決めたことがありましてね」
「なにを?」
「二人が帰ってきた時、盛大に二人の式を挙げてやろうと」
趙雲が、いたずらっぽく笑った。
「何年後になるかはわかりませんが、皆でそう決めました。李岳の名前は出せませんが、皆で祝ってやろうとね。そのころにはきっと冬至も、恋と一緒に幸せを享受できるようになっていることでしょう」
みんなでポカンとしたあと、誰ともなく笑い出した。
「うん。いいね、それ。その時は、私たちも一緒に祝わせて貰うね」
「ええ。一緒に盛り上げてやりましょう」
「うむ」
「派手にやるのだー!」
「あわわ。その時までに、みんなで守ったこの国を、作り上げた泰平を盤石のものとしなければなりませんね」
「はわわ、まだまだやらなければならないことは多いですけど、一歩一歩確実にこなしていけば、きっと大丈夫です」
「うん。でも、きっとじゃなくって、絶対に大丈夫、だよ。みんなと一緒なんだから、絶対に大丈夫!」
簡単に言い切れることではない。火種と言えるものはまだまだある。諸葛亮と鳳統にも言われたことだ。それはわかっている。
それでも、それがどうしたと
李岳と呂布がいつか帰ってきた時、おかえりなさいと言ってやるのだから、おめでとうと祝福してあげるのだから、弱気なことなど言っていられないのだ。背負った北斗七星に懸けて、公孫賛をはじめとした乱世で失われた命に報いるためにも、この国を、平和を守り抜く。それが、劉備の為すべきことだ。
「うん。頑張る理由がまた増えたね」
「重いですか?」
「うん。重いと思う。でも、なんていうか、気持ちのいい重さだと思う。やらなきゃならないことをやるんだっていう使命感、かな?」
趙雲の、軽口のような、どこか推し測るような言葉に劉備は、笑顔で返した。
趙雲が、満足そうに微笑んだ。
ふっと目が醒める。暗い。月明かりが射しこんでいる。まだ夜更けのようだ、と劉備は思った。身を起こすと、かかっていた毛布がずれ落ちた。誰がかけてくれたのだろうか。
周りを見ると、ともに呑んで食べていたみんなが思い思いに寝転がっていた。みんなにも毛布がかかっている。関羽、張飛、諸葛亮、鳳統。
「あれ?」
趙雲がいない。
どこに行ったのだろうか、と辺りを見回し、立ち上がる。
夜の散歩がてらに探してみよう、という気持ちで歩き出した。
探していた人の姿はすぐに見つかった。夜空を、瞬く星を見て呑んでいた。
北の空。北斗七星。
寂しそうな背中に、見えた。
「星ちゃん?」
「おや。どうかされましたか、桃香殿?」
ふり向いた趙雲は、いつもの笑みを浮かべていた。とても強い、しかしどこか寂しさを感じさせる、そんな飄々とした笑みだった。
「起きたら星ちゃんがいなかったから、ちょっと散歩がてらに探してみようかなって出てきたの。すぐに見つけちゃったけど」
「そうでしたか。一杯いかがです?」
「うん。いただくね」
「はい」
趙雲に近づき、隣に腰を下ろすと、盃を手渡された。ひと息に呑む。趙雲はやはりメンマを口にしていた。
「北斗七星って、なんていうか、わかりやすいよね」
なんとなく言ってみると、趙雲はちょっと首を傾げた。
「こう、なんていうのかな、ちゃんと並んでるっていうか、ああ、あれが北斗七星かって、名前を聞いて空を見ただけで、なんとなくわかるっていうか」
「ああ、なるほど」
言って、趙雲が頷いた。
「白蓮も、わかりやすい人でしたな」
「うん。そう考えると、いろんな意味で『幽州の北斗七星』って異名がピッタリだよね」
「まさしく」
二人で含み笑いを洩らす。大声で笑うのはさすがに迷惑だろう。
「そういえば、張角たちは冀州と幽州のあちらこちらへ鎮魂と慰撫に回っているのでしたか」
「うん。どこか一箇所にいるより、こちらから向かうって。変な人たちが接触しないよう、護衛もちゃんとつけてるよ。あと、ほかの州にも行くべきなんじゃないかって悩んでるみたい。星ちゃんは、あの人たちのこと、怒ってる?」
いえ、と趙雲が首を横に振った。
「なにも思うところなどないと言えば嘘になりますが、彼女たちも償うために闘い続けています。ならば、なにも言うことはありません」
「うん。そうだね」
劉備も、同じだ。だが、それでも、ふっと思ってしまうことがある。彼女たちが太平要術の書を田疇に渡さなければ、公孫賛は死なずに済んだのではないか、と。
唾棄すべき考えである。そんなことを思ってしまう自分の弱さが嫌になる。書に弄ばれたというのは確かにあるが、それは劉備に隙があったせいだ。感情に振り回されるままに行動した劉備の落ち度であり、弱さのせいだった。
「私がもっと強かったら、白蓮ちゃんは」
「桃香殿は、強いですよ」
思わず洩らしてしまった言葉を遮るように、趙雲が言った。
そんなことない、と思わず声を上げてしまいそうになったところで趙雲が、いや違うか、と言葉を続けた。
「大きい、だな。強くて、弱くて、大きい方ですな、桃香殿は」
弱いけど、大きい。
劉備が抱いていた孤独や情けなさといったものを飛び越えて、劉備の心にうさぎの足あとのような刻印を残した呂布が、言った言葉だ。公孫賛にも話した憶えがある。
「恋ちゃんや白蓮ちゃんから、なにか聞いた?」
「なにをです?」
不思議そうに趙雲が言った。誤魔化している感じはしない。趙雲が、心から言ってくれた言葉なのだと思った。
ふっと、さっき見た趙雲の寂しそうな背中が、頭をよぎった。
「ねえ、星ちゃん。お願いが、ううん、わがまま言っていいかな?」
「なんでしょう?」
「敬語、やめてほしいんだ。星ちゃんにそんな気がないのはわかってるけど、なんだか遠慮されている気がして、
白蓮の一番の親友同士として、もっと仲良くしたい。なりたい。そんな想いが湧き上がっていた。
趙雲がキョトンとした。途端に劉備は恥ずかしくなり、俯いた。
共通の親友を持つからといって、自分たちが仲良くなる理由にはならない。これはただ、甘えているだけだ。もたれかかっているだけだ。公孫賛の前で、やめると誓ったことだ。
再び、趙雲の寂しそうな背中が頭をよぎった。この人があんな寂しそうな背中をするようになったのは、自分のせいでもあるのだ。
公孫賛を追い詰める一因となった劉備に、そんな資格はない。
「ごめん、やっぱり」
「確かに、白蓮の一番の親友同士なのだし、我々が親友でも問題ないな。となれば、遠慮は抜きであるな、桃香?」
ハッと趙雲に顔を向けると、彼女はいたずら好きな猫のような笑みを浮かべていた。
劉備はなぜか、泣きそうになった。
「いいの?」
「いまさらそれはなかろう。いや正直なところ、違和感はあるのですがな。なんというか、桃香殿の雰囲気は敬語で話したくなってしまうもので」
「敬語に戻ってるよう!」
「ほら、嫌なのだろう。桃香の方こそ、遠慮はいらぬぞ?」
「う、うん。っていっても、私の方は、特に変わるわけじゃないけど。えーっと、なにを話そう?」
「ぎこちないなあ。まあ、いきなり白蓮に対するようにとはいかぬだろうが。うむ、そうだな、では、白蓮のことで思い出話といこう」
「私たち、そればっかり話してない?」
「私と桃香の共通の話題としてパッと出てくるとしたらこれであるしなあ。まあ、手探りでいこう。そうこうしているうちに、親友っぽくなっているであろう」
「適当だなあ」
思わず笑ってしまっていた。
「でも、そうだね。じゃあ、私塾に通っていたころの話をしていい?」
「なら、私の方は、客将になったころや、反董卓連合から抜けて幽州で力を蓄えていたころの話にしようか」
「考えてみると、星ちゃんの方が話せること多い気がする」
「とはいっても、必ずしも白蓮のことを話すこともないだろうさ。きっかけでいいのだ。そうしているうちに、いろいろ話も弾んでくるだろう。それに、無理に会話する必要もない。冬至と恋など、特になにを話すでもなく、隣り合って座っているだけで幸せそうな雰囲気を出していたからな。気がつくと、肩を寄せ合って眠っていることもあったな」
「あの二人はいろいろと特殊な例なんじゃないかなあ。っていうか、式を挙げてないだけで、もうとっくに夫婦だったんじゃ?」
「うむ。ゆえに我らの間では、二人の旅は婚前旅行と呼ぶべきか、新婚旅行と呼ぶべきか、真っ二つに分かれての議論となった」
「議論すること!?」
いつの間にか、李岳と呂布の話になっていた。それを皮切りにいろいろと話も弾み、気がつくとぎこちなさもなくなって、二人で笑い合っていた。
目が醒めたらしい関羽も現れ、三人で空に輝く星を見ながら歓談を続ける。
趙雲が劉備に敬語を使わなくなっていることに関羽はちょっと驚いたようだったが、特になにか言ってくることはなかった。
「愛紗ちゃんも、敬語やめない?」
「いえ、私はこのままで。口うるさい、頑固な妹がいる。そう思ってもらった方が、姉上も気が引き締まるでしょう」
「つまり、敬語をやめると甘やかしてしまいそうだから、やめるわけにはいかないと」
「おい、星」
「愛紗ちゃん、いつでも敬語やめていいからね。変な遠慮は抜きだよ!」
「いえ、ですから」
そこで、関羽がなにか思いついたような仕草を見せ、どこか意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「ふむ。わかった」
「ほんと!?」
「うむ。変な遠慮はしないことにしよう。では姉上。明日から髀肉を落とすための特訓といこう。反論は受けつけないぞ?」
「遠慮だけじゃなくて容赦もなくなった!?」
ふにゅーっ、と劉備が頭を抱えると、二人が笑った。からかわれたようだ。
もうっ、と頬を膨らませるが、二人は微笑ましいものを見るような眼を向けてくるだけだった。劉備も自然と笑っていた。
笑っていた趙雲が、不意に盃を掲げた。
「天下泰平に」
関羽がふむ、と呟き、趙雲に続いた。
「北斗七星に」
そのまま二人が、じっと待つように動きを止めた。
唐突な二人の行動に目を瞬かせていると、二人ともため息をついて
「そこはこう、なにか続けるところであろう、桃香」
「え、え?」
「なんというか、すごく残念な気持ちになりましたよ、姉上」
「いきなり無茶振りされてがっかりされた!?」
「しかし、ここは察して続いてもらわないと」
「ほんとうになあ。いつぞやの白蓮を思い出してしまったぞ、この残念っぷりは」
「ふむ。心当たりはありすぎるが、どの件だ?」
「二人は知らぬ件だと思うぞ。反董卓連合から抜け、彼女が幽州に戻る時に私もついていったわけだが、白蓮は私が桃香に臣従するものと思っていたようでなあ。どこまでついてくるつもりなんだという旨のことを訊かれた」
「それは、残念すぎるな」
「結局、心中で思っていたことを自分で説明することになったぞ」
「残念極まりないな」
「白蓮のやつ、感極まって泣いてしまってな」
「それはよかろう」
「うむ」
二人の間で、なにか感じ入るものがあったらしい。なにやら頷き合っていた。
二人が再び、劉備に視線を向けた。
「では姉上。なにかいい感じの言葉をお願いします」
「また無茶振りされた!?」
「ちなみに、残念な感じの言葉だった場合、私の言葉遣いが敬語に戻るぞ」
「私も、姉上ではなく、桃香様に呼び方が戻ります」
「なんか地味に嫌な感じの罰則!?」
なにかいい感じの言葉といきなり振られても、パッと思い浮かぶほど劉備は賢くないという自覚がある。というかこの二人、実は酔っ払っているのではないだろうかと思わなくもない。
頭を回転させる。なにかいい感じの言葉。
天下泰平、北斗七星に続く、いい感じの言葉。
天下泰平といえば、その立役者である李岳だろう。その伴侶である呂布のことも頭に浮かんでくる。北斗七星といえば、やはり公孫賛だ。
ふっと頭に浮かぶ言葉があった。
「えーと、じゃあ、旅立った友だちに、ってどうかな?」
おっ、と二人がわずかに目を見開き、破顔した。
「うむ。悪くないな。桃香らしからぬいい言葉だ」
「姉上もやればできるではありませんか」
「エヘヘ、ってなんか馬鹿にされてる気がする!?」
「気のせいですよ、桃香殿」
「ええ、気のせいですよ、桃香様」
「なんで呼び方とか前のに戻ってるの!?」
ハッハッハッハッハ、と趙雲と関羽が声量を抑えながらも笑い声を上げた。
「いやいや、すまぬな、桃香。どうにも愉快な気分でな。つい、からかいたくなってしまった」
「すみません、姉上」
「もうっ」
怒るが、やはり二人は笑ったままだ。それに釣られるように、劉備も笑っていた。不思議と劉備も、愉快な気分だった。
趙雲が、咳払いした。
「では、改めて」
趙雲が言い、盃を掲げた。関羽と劉備も倣う。
「天下泰平と」
「北斗七星と」
「旅立った友だちに」
『乾杯』
声が重なった。盃を突き合わせる。
北斗七星が瞬いていた。不思議と、優しい光に見えた。
はわわはわはわ書いてると、ハワァーっと裁きの技を放ちそうになって困る。天秤で罪を測って審判断罪する諸葛亮孔明か。
公孫賛を偲ぶ李岳、呂布、趙雲の話を書こう、というのは前話の段階でぼんやりと考えていたのですが、関羽と劉備のところが気がつくと長くなり、というかそりゃ長くなるよなと書いていたら全体がやたら長くなってしまったので、ここで一旦切ります。なげえわ、って自分でもなりましたので。というわけで次の話も趙雲殿です。すぐには投稿できそうにないけど!
髀肉というのは腿の肉のことです、念のため。『髀肉の嘆』で調べてみるか、もしくは「フトモモむっちり美少女(たぶんもう少女という歳ではない)は最高でおじゃるな!」程度に思ってもらえればよろしいかと思います。
長安に赴任している面子と李儒については、ぽーさんから教えてもらった設定を参考に書いた部分だったりします。なんでもかんでも訊いてしまいそうになるから、あまり訊くべきではないと思うのですが、鍾繇、張既、利確、郭祀の四人が途中から出番なかったからか、いまいち思い浮かばなかったもんで。鍾繇殿はまだヘタれて求婚できてないのか、それとも張既に逆レ気味に押し倒されたか、みたいな。
なお、ぽーさん曰く『まごまごする鍾繇に対し、張既からカウンター気味の逆プロポーズが鮮やかに決まりました。』とのこと。
李岳伝で書かれた描写と合わせて考えるだに、鍾繇殿は李岳伝でも屈指の萌えキャラと言っても過言ではないのではないだろうか?