真剣で私に恋しなさい!S ~無冠の弓聖~   作:霜焼雪

1 / 19
白藍

 

 

 

 錆びつきによりするりと開かなくなってしまった重圧な引き戸が、ガリリッ! と耳障りな音を悲鳴として発し、眼鏡をかけた少女によって無表情かつ力任せに抉じ開けられた。神聖なる空間への門番を気取っているかのように、鉄錆と砂埃が塊となって扉の開閉を妨げ、入室者を堰き止めていたようだが、彼らの努力は常に無駄骨だ。

 

 その門番を捻じ伏せ侵入した少女の眼鏡の奥からのぞく警戒心の弱い薄い目は、力任せに扉を引き明けたようには思えない。反抗、軽蔑、不快、苛立ちの感じられない、気怠さや眠気を帯びているような半開きの目だ。

 

 気怠さを帯びた双眸と快気を体現した口元を伴った奇妙な表情を浮かべ、少女は脱いだローファーの踵を持って手早くつま先を扉へ向けて直ぐに女子更衣室へと向かう。女子更衣室の扉に掛けられた時代の流れを感じさせる青錆塗れ、高麗納戸(こうらいなんど)に染まった南京錠を外し、引き戸の取っ手に手をかける。

 

 バンッ! という激しい音が波となって伝わっていく。

 

 先程の扉の詰まり具合を経験してしまったこともあり、女子更衣室の引き戸を勢い余って壁に叩きつけてしまったようだ。どうやらこちらの神聖な空間は警備が甘いらしい。少女は扉が壁に激突した音に肩を竦ませて苦笑いを浮かべ、そそくさと更衣室に入って扉をゆっくりと閉める。

 

 和菓子のあんこを彷彿とさせる茄子紺(なすこん)に染色された鞄を肩から下ろし、扉を背に後ろ手で内鍵を閉め、制服のリボンを片手で外し首元を緩めて少女は一息ついた。激しい衝突音に飛び跳ねた心臓を宥めるため、高山病対策でもする様にゆっくり、極めてゆっくりと深呼吸をする。

 

 鼓動を落ち着かせることに成功し、長い年月熟成された深みのある葡萄酒のような葡萄色(えびいろ)に塗られた縁の太い眼鏡を適当に鞄の上に投げ捨て、両腕を交差させながら制服の裾を掴んで一気に脱ぎ散らかした。少女の乱れた濡羽色(ぬればいろ)の髪の毛が制服と言うトンネルを飛び出し、生き物のように開放感を顕に大きく揺れさらに無造作な形を作る。

 

 パサリ。少女の服が床に積まれていく。

 

 スカートのチャックを下ろし、靴下も乱雑に脱ぎ捨てる。片足ずつスカートから取り出し、下着だけの姿になる。制服を適当に投げつけているようで、確りと自分の鞄の上に乗る様にしている器用さは、この着替えのズボラさが手慣れたものなのだろうか。その結果の非常に露出度が高い装いも、他人の目がない以上実に堂々としたものだ。

 

 ふと、更衣室の中の全身鏡に移る自分の姿に少女の意識が移った。ぼやけている輪郭線を明確にするため、投げ落とした眼鏡を拾って視界を明瞭とさせる。はっきりと見えるようになった瞳が映し出したのは、ほんの少しだけ主張した胸と、小ぶりなお尻を包み込む清潔そうな白藍(しらあい)の下着を着た自分自身の、貧相な体型。

 

 少女はその姿を見て、視線を下に落とす。ほんの少しの膨らみしか視界を妨害せず、自身のつま先がしっかりと見えてしまっている。

 

 ペタペタ。少女の肉体の乏しさが擬音となって露呈する。

 

 自分の胸を触り、その大きさや感触を確かめて、歯を軋ませる。ほんの少しだけ不機嫌に傾いた少女は大きく溜め息を吐き、勉学道具の詰まった鞄とは別の、月夜に照らされた海面を切り取ったような褐返(かちかえし)の風呂敷を勢い良く広げる。現れたもう一つの制服に、少女は躊躇いなく手を伸ばした。

 

 デコルテを強調するように大きく首元が開いた白い無地のTシャツに袖を通し、陶器のような美しい白磁(はくじ)に輝く上着を上から羽織る。

 

 キュッ、と上着に着いた二組の紐をしっかりと結び、小さな桜の刺繍が宝石のように鏤められた紫紺(しこん)の帯を手慣れた手つきで腰に巻きつけていく。空気の澄んだ夜空が描き出すような黒紅(くろべに)の袴を脚から通し、袴の前面にある紐だけを持ち上げ体に巻きつけるように縛り上げ、帯と共に丸め挙げて固定する。後ろ腰に付いている紐をまた体に巻きつけ、袴で隠す様に帯下できつく結びあげ、鏡で乱れた個所を修復して完成した。

 

 僅か数分で神聖な空間に立ち入るための正装に身を包み、真新しい朱肉に含まれたような映える深緋(こきひ)の手拭いで跳ね放題の髪を後頭部で一つにまとめ、少女は気合を入れた。

 

 気怠さを帯びた瞳は沈み、熱の籠った瞳が台頭する。まとめた髪の束は馬の尻尾や高級な筆のような清らかさを表すかと思いきや、毛並みの整っていないファーのように爆発してしまっている。散らかってしまっている髪さえ綺麗であれば、完璧な容姿であったことだろう。

 

 更衣室に錠をかけ直し、少女の身長を裕に超える長さの何かを包んだ大きな袋と、少女の頭程度の大きさの比較的小さい袋の二つを手に取った。大きな袋は首里城に塗られている赤目の塗料のような濃い目の弁柄色(べんがらいろ)に染められ、小さな袋はくすみ気味な小豆色(あずきいろ)に塗りたくられている。少女はそれを手に持ったまま、別室に入るための三つの扉の内左端の扉の手前で立ち止まる。

 

 長い袋に包まれた得物を肩に掛け、扉を両手で抉じ開ける。引き戸の程よい砂埃の詰まりは、少女を宥めるかのように力を調整してくれた。

 

 

 

 そこに広がるのは、切り離されたように開け放たれた道場の外。

 

 

 

 多少の振動や衝撃では崩れることのないほど固められた土の山、それを雨風から護る様に長めの屋根に垂らされている幔幕は白み始めた空のような紺青(こんじょう)に色づけられている。道場から土の山に至るまでの敷地に敷かれた芝、その上空に掛けられた薄い網。

 

 屋内に作られた屋外のような奇妙な空間は、弓道場以外にありえない。

 

 

 

「――――おはようございます」

 

 

 

 神聖な空間である弓道場に、少女の澄み切った声が響き渡る。

 

 朝日すらまともに差し込んでいない道場を、少女の声が覚醒させる。その掛け声を起点とし、雀たちが目を覚まして地鳴きを響かせ飛び立っていく。道場の中で暮らしている道具たちが、少女の声を目覚まし代わりとし、気怠そうに震えて準備を始めたようだ。

 

 少女は道場前で一礼し、左足を一歩前に出し、雑音を立てることなく静かに入場した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「相変わらず早いな、藤巴(ふじとも)

 

 

 

 少女が道場にやってきて一時間が経過した頃、道着姿の女性教員が長い弓袋を抱えて顔を覗かせていた。教師は道場の三つある入口の一番左の道場から入場し、持って来ていた荷物を壁に寄せるように置く。弓袋を開いて弓を取り出し、弓の頂点である末弭(うらはず)に輪っかになった弦の先端をひっかけて弓置場に立てかけた。

 

 一方、声をかけられた少女はと言うと、道場の最も奥、神棚が設置されている方へ向かって正座をし、目を閉じたままピクリとも動かなかった。声も上げず、姿勢を崩さず、童謡に出てくる眠り姫のように美しく沈黙を纏って座していた。

 

 その寂々たる姿に微笑を浮かべ感嘆の溜め息を吐き、教師は立てかけておいた弓を手に取った。道場の壁にある窪んだ穴に弓の先を押し当て一気に弓をしならせ、弓の末端である本弭(もとはず)に余った弦の輪っかを引っかけ、弓に弦月を描かせる。

 

 しかし、その形に満足のいかない様子の教師は弓から弦を取り外して弦を弄り始める。弦の輪を解いては縛りを繰り返して調整していたところ、ようやく少女の目がゆっくりと開けられた。

 

 

 

「……あ、せんせー。おはよーございます」

 

 

 

 先程までの眠り姫のような美しさを消し飛ばすように、少女は恬然たる態度で女性におざなりな挨拶をした。ボンヤリとした様子で首を傾げてうつらうつらとしているようだが、意識ははっきりしているようだ。このふわふわとした雰囲気が、彼女の素なのだろう。

 

 その態度の豹変ぶりに、教師はまたしても大きく溜め息を吐く。今度の溜め息は呆れと言う意味合いが多いようだ。

 

 

 

「藤巴。お前な、もう少し普段の態度も淑女らしくならんのか?」

 

「これ以上淑女らしくって、どーすればいーんすかね」

 

 

 

 からかうように小首を傾げる少女。

 

 

 

「まず、その気怠そうな話し方はいつになったら治る」

 

「自分のアイデンティティーすよ、これは」

 

 

 

 もうどうにもなりません、どうにもしたくありません、そう告げて少女は徐に立ち上がって弓置場から黄金にも見える金糸雀色(かなりあいろ)の弓を取り出した。教師が使っている弓とは違い、竹のような目が弓の表面に浮き彫りとなって表れている。この模様が魅惑的な煌めきを浮かべているせいで、金色に輝く黄金のように錯覚されたのだろう。その竹の模様を人差し指でなぞりつつ、少女は淑女らしさについて思案してこう口にした。

 

 

 

「自分、淑女らしく二十分も瞑想してたんすよ? これは立派なお淑やかというものっす」

 

「瞑想が長ければいいと言うものではないと、前にも言った筈だがな?」

 

「……はて、何のことっすかねー」

 

 

 

 少女はヘラヘラ笑いながら教師の追撃をごまかし、何十何百と矢が立てかけてある一角にいそいそと足を運んだ。その雑音を立てない美しい足運びだけ見れば、淑女と言う枠だけでは伝えきれない少女の淑やかさが如実に滲み出ているが、教師はそれ以前の問題だと声には出さず頭を抱えた。

 

 少女は夕焼けに飛ぶ鳥の羽のような烏羽色(からすばいろ)に染められた羽のついたアルミの矢を四本取出し、右手でしっかりと握って道場の奥に移動する。道場の奥へ歩を進め、射場の最奥に至る。道場の最奥、最右端。最も神棚に近い位置で少女は弓と矢を持った両手を腰に据え置く。弓の弦が外を向いたまま動かないよう堅固に、矢は羽が擦りあって傷つかないよう繊細に握り、踵を揃えてその場に佇み、目を閉じる。

 

 目を閉じて二秒、三秒。四秒に達するかどうかというところで、少女は滑らかに目を開けた。薄らとしか見えなかった筈の瞳は、抉じ開けられた目蓋からその全貌を明かす。

 

 小金(こがね)(くれない)の溶け合う神秘的な瞳の深さに、教師は思わず息を呑んでしまう。少女の射を邪魔することは許されないと、見えない何かに首を絞めつけられているような感覚に襲われる。しかし、それは教師だけが感じる感覚ではない。少女の周囲の空間が静まり返り、空中に浮いていた目に見えないような極小の塵でさえも戦慄してその場に硬直してしまう、そんな錯覚を引き起こしてしまう粛然たる覇気を纏って、少女は左足を前に進める。

 

 一歩、少女の歩みの入りがあまりにも滑らかで、床が歩かれたことを気づかなかったのか、ッギッギッ!、と音が遅れてやってくる。二歩、三歩、四歩と、凝りを解されるように力強く、患部を摩られるように優しい矛盾した足運びに、ギギィッ、と心地良さげに気の抜けた声を上げる。五歩、超重量の力士の四股のような踏込みに、気を抜いていた床が激しい激痛に見舞われ、ギギィッ!! と叫び声をあげて軋む。

 

 余していた右足を弧を描く様に広げて体勢を整えた少女は、一度も的から目を離さずにこれをやってのける。足場を整えた後に的からゆっくりと目を離し、右手に持つ四つの矢の内二本を足を曲げることなく腰を曲げ床に置く。

 

 腰に当てた左腕に握られた弓の先端は、決して地面に着くことなく、かと言って離し過ぎることもなく絶妙な位置を維持している。さらに、右手で握られた矢の先端の延長線と弓の先端の交点が、少女の正面から見て正中線と同じ位置に固定されている。

 

 この体勢を維持することの美しさを知っている教師は、その震えのない姿勢に目を見張る。

 

 少女は弓を握っていた左手の力を緩め、敷かれたレールをなぞる様にぶれなく弓を正面に起こした。その弓を包み込むように右腕を伸ばし、矢を一本だけ弦に嵌め、もう一本の矢を左手に持たせて二本が平行になる様に構えて、弓の末端を左足の膝の上に添えた。

 

 二本の矢が絡まったり、矢を嵌めるのに時間がかかってしまうと醜いと判断されるが、少女にそんな澱みは存在しない。ただただ、美しい。

 

 ここで持たせたばかりの二本の矢の内、弦に取り付けていない方の矢を右手の小指で持ち替えた。右手を再び腰に添え、視線だけで弦を辿り弓の頂点を確認し、切り替えし弦をなぞり弓の末端を視認し、再び切り替えし矢をなぞって首ごと動かして的に意識を集中させた。

 

 (あづち)と呼ばれる土の山に押し込まれた的の状況、的との距離と角度、的から道場までの開け放たれた空間の天候、それら全ては少女の意識から――――除外される。ただ、そういう儀礼であるから見つめただけ。少女にとって重要なのは、弦と矢の確認だけだった。

 

 そんな形式的儀礼を終わらせて、右手に付けられた(ゆがけ)と呼ばれる手袋の親指の内側にある窪みに弦をひっかけ、中指と人差し指で親指を覆うように指を絡める。ギリッ、と(ゆがけ)から音が響いたのを合図とし、少女は首をぬるりと動かし的を見据える。

 

 的を見据え、少女がほんの少しだけ腕を上げる力を加えた瞬間、摩擦のない氷上に放られた鉄球のように鮮やかに両腕が挙がった。腕にかかる抵抗が霧のように消え、弓の重みすら感じさせない奇妙な現象。

 

 その光景に、教師は思わず肌を粟立たせた。

 

 少女が入学してから一年弱、教師は少女の射を何度も何度も見てきた。それでも、少女が弓を打ち起こすこの瞬間、少女以外の全てが落ちていくような奇妙な感覚に苛まれる。少女の腕が挙がったことを、教師はハッキリと認識ができた(ためし)がなかったのだ。全ての抵抗を無視したように摺動する少女の腕は、教師ですら再現はできない。

 

 ギリリッ、と少女の左腕が回り弓が引っ張られ、弓と弦が互いに引き離されることを拒絶する。弓の末端と先端が、弦の二つの輪を繋ぎ止めているその様は、二度と離れないと誓った恋人が両手をグッと握り締めているようで、実に滑稽だ。その滑稽さを強調するように、少女の両腕が羽ばたき、ギリッ、ギリリッ! と少女の右手の(ゆがけ)が唸る。

 

 ぶれることなく弦を引き、震えることなく弓を抑え、両手の位置の高度を等しく保つ様に均等に下ろしていくこの技術もまた、教師には不可能な技巧だ。その両腕は速度を維持して降ろされ、矢が口の高さまで降りた瞬間に腕の下降移動が停止する。その姿勢は、絵でそれを映したり写真に収めてしまえば美しさが失われてしまう、その刹那にしか現れない究極の美。この一瞬を内包した空間こそが、語り継がれるべき芸術と言えよう。

 

 少女の大きな動きが止まって一秒、少女は弓の強さに負けることなく、動かない。 二秒、少女はこれ以上狙いを変えようとせず、動かない。 三秒、少女はその姿勢が固定された瞬間から、動かない。四秒――――に達する寸前に、少女の右腕が後方へ落下した。

 

 ガィン!! と激しい音を立てて弦と弓がぶつかり弾け、タァン! という小気味のいい音と共に矢が的に、いや、的が矢に吸い込まれるように、中心を穿った。

 

 それでも、少女の顔色は一切の変化を見せない。的に命中したという歓喜、自身の射に納得のいかない不満、その他諸々の感情全てが少女から消え失せたように思えてしまう。ひょっとすると満足しているかもしれない、もしかすると鬱憤があるかもしれない。それを少女は表に出さないようにしているだけかもしれないが、人間として極めて不自然なほど表情を変えず、足場を作ってから瞬き一つしない少女に異常性を覚えても仕方がないことかもしれない。

 

 矢を放ったままの姿勢で五秒経過、織鶴は再び弓の先端が地面に接するかどうかの高さに

下ろし両手を腰に添える。初めに足場を整えた体勢と全く変わらない。ほとんど同じ動作で二本目の矢を弓に取り付けるが、同じなのは動作だけではない。

 

 矢が一本しかないことによる変化を除けば、腕の角度、視線の方向、息遣いから何までほぼ同じ。四肢を動かす信号を送る脳が精密機器のように誤差を許さないように、少女の一挙手一投足を操作する。

 

 カリッ、と心地よい音を立てて矢が弦にはまった。弦に矢をはめる部分は、蚕のような糸を吐く幼虫が繭を形成するように、艶やかで美しい膨らみをもってほんの少しだけ太くなっている。弦とは性質が違うもので巻かれているようで、右手の(ゆがけ)との擦れにより僅かに黒ずんでいるが、その汚れが固まっていることもまた、少女の射の精密さを物語っていることだろう。

 

 親指と人差し指と中指の三本で弦を包み込むようにして、再び(ゆがけ)の窪みに弦を引っかける。ここから先の射法は先程と何も変わらない、変わってはいけない。全ての抵抗を打ち消したように両腕を上げ、左手の掌を捻じ込む様に開き、両腕を羽ばたかせるように下ろして弦を引き、四秒弱の間自信を外界から乖離させるだけ。全く同じように弓を引けばよい、それだけだ。

 

 それができないから、弓は極めることができない。

 

 しかしそれは、何も弓に限った話ではない。空手や柔道といった格闘技も、野球やサッカーといった球技も、陸上や水泳といった競争も、書字や描画といった美術も、果ては演説や演奏まで、練習通りに完璧な反復ができないからこそ極めることは困難なのである。極めるという言葉の解釈はそれぞれであるが、極めるということを完璧と言い換えてしまえばその難度は急上昇することであろう。

 

 ところがどうであろうか。教師の目の前にいる少女の姿勢や首と腕の角度、呼吸のタイミングや指先の向きという細かなところまでもが一射目とほぼ同じではないか。相違点を敢えて述べよと言うのであれば、握っている矢の本数が違うとしか言えないような複製。

 

 しかし、ここで新たな相違点が生まれてしまう。その相違点は、少女から放たれた二本目の矢がガキンッ! と金属音を立ててしまったことで発覚する。

 

 

 

 的に刺さっていた少女の矢に、二本目の矢が綺麗に突き刺さってしまったのだ。

 

 

 

 先に的に刺さっていた矢は四散しなかったものの、矢の末端に取り付けられていた弦に嵌めるための部分である(はず)は押し込まれ、綺麗に二本の矢が一本のアルミ棒となってしまった。ただ矢を二本的に中てることよりもはるかに高度で、狙ってやるようなことではない。

 

 そんな結果になりながらも、少女の表情は一切崩れない。異質な少女はこの結果を偶然と受け入れたという訳でもなく、矢を狙ってやったのだから当然だと思っている訳でもない。

 

 ただ弓を引き、矢を発しただけ。驚愕も歓喜もない、不変の感情。冷淡、平静などという言葉では表現しきれない異常さを少女は身に宿している。的に中ることよりも射の美しさと反復だけを重視した、老人のような弓道を魅せる。

 

 

 

 ――――やはり、コイツだ。

 

 

 

 それを見ていた教師は、あまりの感動に全身の弛緩を感じながらも、確かな確信をその胸に刻んだ。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

「天下五弓、すか……?」

 

藤巴(ふじとも)織鶴(おりづる)、天下五弓の候補生としてお前を学長に推薦したい」

 

 

 

 教師が道場を訪れてから一時間ほどが経過した頃、少女、藤巴織鶴は教師と向き合う様に正座していた。先程まで的の設置されている(あづち)の横にある看的所(かんてきしょ)という矢除けの空間で、何十本もの矢についた泥を拭い、使い古した的の張り替えを行っていたところ、教師に道場に来るように呼びかけられた。

 

 箒を使って(あづち)の整理を終えた少女が制服に着替え、無理やり縛って抑えていた乱雑な髪を全方位に散らかして気が抜けている状態を見計らって、赤褐色というには暗めの黒鳶色(くろとびいろ)のスーツに着替えた教師が提案したのだ。道着を脱いで気が抜けてしまっているからか、今こうして向かい合っている光景を傍から見れば、教師の方が立ち振る舞いは美しく見える。

 

 しかし、少女も神棚を前にして背筋を曲げる、という愚かなことはしている訳ではない。ただ、先程のような覇気が全く感じられないせいなのか、幾分か貧弱に見えてしまっている。

 

 

 

「何なんすか、その、天下五弓って」

 

 

 

 質問を投げかけた織鶴だが、何かを察したように気怠そうな表情を浮かべていた。自分に対しては面倒事であると、織鶴の短い人生で培われた直感がそう告げている。

 

 

 

「天下五弓と言うのは、世界にいる若い弓使いから選ばれた五人を指す新たな肩書だ。恐らく来年の初夏には正式に発表されることだろう。五人を選ぶにあたってだが、一人だけは既に内定してしまっているのだが、何分世界中の選抜は難しい。そこで候補生をリストにして募り、一次審査ということで武の頂点とも言える大御所からの所見が与えられる。その一次審査にお前を――――」

 

「ちょ、ちょっとタンマっす」

 

 

 

 ささっと話を進めてしまっている教師に対し、織鶴は待ったをかけた。面倒事に巻き込まれると分かっていて、そうそう簡単に見過ごすことはできない性分なのだろう。

 

 

 

「その、武の頂点だの一次審査の内容だのはすっ飛ばさせてもらうっすけど……。まず、なんで自分なんすか……?」

 

「卓越した集中力、弓道の基本概念であり終着目標である「真善美」に最も近い人間だと、私が独断で判断したからだ」

 

「いやいやいやいや、冗談キツイっすよー?」

 

 

 

 ジョークは勘弁してほしいだの、嘘吐きは何とかの始まりだの、教師の言葉を何とかして躱そうと思いつく限りの言葉でその提案を回避しようとしたが、教師の視線は織鶴から外れない。大げさに振る舞う織鶴の姿が滑稽に見えてしまうほど、教師の視線や態度は一切揺るがない。

 

 何の反応も示さない教師の顔色をちらっと窺うと、怒りに近い何かが籠った鋭利な眼光が織鶴の目をギラリと突き刺し続けていた。矢の先端のように鋭い殺気のような気迫に、織鶴は思わず肩を大きく震わせてしまう。

 

 眼鏡もその気迫に思わず飛びのいてしまったのか、突然視界がぶれてしまったことにより織鶴はさらに慌てふためいてしまう。先程何事にも動じないような不動の精神を見せつけていた人間とは思えない憐れな行動だ。

 

 眼鏡を両手で何とか元に戻し、教師の目を決して見ることなく肩を狭めて反論しようとする。

 

 

 

「じ、自分なんかより優秀な、そう、椎名がいるじゃないっすか。自分、椎名の下位互換すよ?」

 

「奴は既に候補生だ。椎名流弓術の若き後継者となれば選ばれるのも当然だ」

 

 

 

 待ってましたと言わんばかりに、教師の口角がくいっと上を向く。自信満々に突破口を見つけたと思い込んでいた織鶴を、きっちりと袋小路にはめ込んだが故の満足感から生じた破顔は、織鶴にとって悪魔の微笑みに見えたことだろう。

 

 

 

「お前は川神学園代表だ」

 

 

 

 たった一人の代表だ、そう付け足されたことで、織鶴の背中に吹き出している冷や汗の量はダムが決壊したように増加し、逃げられないぞと念を押されたように感じたことで乾いた笑いを浮かべてしまう。

 

 しかし、織鶴は最後の最後まで粘る。

 

 

 

「や、矢場部長はどうなんすか? それに今度の新一年生には弓道部希望の凄腕がいるとか!」

 

「その二人はお前には及ばん。安心しろ」

 

「ばっさりっすね!」

 

 

 

 弓の腕を教師に褒められたのは嬉しいのか、織鶴は顔を赤く染めつつ、先輩に対して申し訳ないという気持ちも混同しているようで、彼女の心臓の鼓動は焦りというドーピングにより加速する。その焦る気持ちを何とか抑えつつ、必死に脱出口を探ろうとする織鶴だが、恐らく最初の提案が潰された時点で逃げ道はほとんどなくなってしまったことを自覚しているのだろう。織鶴の顔色は一向に良くならない。

 

 その何としてでも天下五弓から逃れようとする様に、教師は率直な疑問をぶつけてしまう。

 

 

 

「藤巴、何故そんなにも天下五弓を拒んだ?」

 

「……なんで、すか?」

 

 

 

 教師の純粋な疑問に対し、織鶴もまた疑問を浮かべる。その疑問は自分に対する自問か、はたまた教師に対する嘲笑なのか。

 

 

 

「天下五弓はな、武道四天王に次ぐ名誉ある称号だ。選ばれただけで箔が付く」

 

 

 

 輝きが提示された。

 

 一学生が手にした瞬間、知名度も上がり技能が証明される証と名誉が織鶴を誘惑する。川神学園の代表ということに加え、世界で五指に入る弓の実力者という証明があれば、世界に彼女の名が轟くことは間違いはない。

 

 

 

「名誉なんて、自分にはもったいねーっす」

 

 

 

 その誉れ高い肩書きに相応しくないと自身を卑下し、誘惑を踏み倒した。

 

 世界中に名の知れ渡る武闘家たちに及ぶことはないと自身の腕を評価し、逆に彼らの名を汚してしまうとも取れるその言い訳は謙虚と一言で片づけられない。

 

 

 

「貰っておけ、就職にも有利で今後の苦労は少なくとも軽減できる」

 

 

 

 利益が提示された。

 

 天下五弓という称号がどのような効果をもたらすか、織鶴の未来のどれほど有利な助けになるかを囁く。武力の強さや名誉がまるで資格のように扱われる就職先が川神で横行し始めている。その最たるとある財閥の従者部隊は、武力だけを買われてスカウトされた者もいると言う。

 

 

「苦労して何ぼの人生す」

 

 

 

 織鶴は苦難な道を選び、囁きを聞き流した。

 

 必死に勉学に励み、真面目に就職活動をする未来を望んでいる。自身の弓の腕前と就職を決して繋げようとしない一種のけじめが、織鶴の中で侵食し蔓延っている。自ら選択肢を狭めているような行為を、織鶴は選択してしまった。

 

 

 

「強者と争えるぞ」

 

 

 

 強敵が提示された。

 

 織鶴を満足させるようなまだ見ぬ驚異的な実力者、好敵手とも言える未知なる強敵との邂逅が待っていると説得させられた。武芸者であれば研鑽をつむことと同様に、拮抗した実力の持ち主や遥か高みの先達との一合は甘露のようなものだ。

 

 

 

「静かに一人で矢を発することができれば、自分は満足なんすよ」

 

 

 

 織鶴は視野を広げず、説得を受け入れなかった。

 

 あくまでも弓道は個人技であるという孤独を地で行く彼女にとって、弓道による他者との競い合いは不必要だと切り捨てる。例え自身より上の弓道者がいようが、織鶴にとっては見本であり敵ではない。あくまで見稽古という名の技量の窃盗であり、競争には至らない。

 

 いくつかの甘い蜜をちらつかせようが、織鶴は一切自身の意志を揺るがせようとしない。その天下五弓への意欲のなさに、教師は違和感しか覚えなかった。

 

 

 

「他に何を嫌う。何故そこまで頑ななんだ」

 

 

 

 どうしても解消できなかった疑問を思わず声にしてしまった。

 

 はっとしたところで既に手遅れ、教師が自身の思わぬ言動に目を見開いてしまった姿、その悪意のない追及に、織鶴は苦笑しながら心内を吐露する。

 

 

 

「……椎名ほどの名手、名弓兵が候補生って時点で察したんす。嗚呼、これは弓兵の土俵なんだと」

 

 

 

 何かを諦めたわけでもない、何かを見限ったわけでもない。それでも、その伏し目がちな表情は甚く悲痛に思えてしまう。眼鏡が陽光を反射させて主の情けのない形相を必死に隠そうと必死になっている。

 

 情けのない眼鏡の主は天下五弓に、極めて無関係だと主張しようとしている。実力も劣り意志も劣る、謙遜謙虚を卓越した自らへの誹謗中傷によりその主張を通そうとしているその様は、とても見ていられない。

 

 それを理解できなかった教師は、しっかりとした意識下において言及する。

 

 

 

「弓使いの土俵じゃないか。何を躊躇う」

 

「弓兵の土俵す。弓兵と弓使いとは違うんすよ、せんせー」

 

 

 

 教師の見解と自身の見解の齟齬を指摘し、教師の過ちを指摘する。弓使いは弓兵と似て非なるものだと織鶴は仄めかしていたようだが伝わらず、痺れを切らしそれを明確な言葉として教師にぶつけた。

 

 弓使いと弓兵の根幹の違いを、織鶴は見極めていた。

 

 

 

「自分の射は、人を傷つけるために始めたもんじゃないっす。ただ、弓が好きで好きでたまらなくなって始めたっす。今もそれは変わらないっす」

 

「だったら尚更、誇りになるだろう」

 

 

 

 織鶴は首を少し下に傾けて横に振った。

 

 

 

「弓兵にとってはそうすけど、勘違いしないでほしいっす。せんせーが言った通り、最終目標は「真善美」、天下五弓の称号じゃないんすよ。道のりに天下五弓という称号があろうが無かろうが関係ないっす」

 

 

 

 自分はただ弓を引ければいい、織鶴は名誉も楽な人生も強敵も不要と切り捨て、弓への愛を唱えた。称えられようが楽をしようが競い合おうが、弓道の最終地点に届くための手助けにはならないと断言した。

 

 

 

「弓術を否定するわけじゃないっす。ただ、一緒くたにされちゃうと、弓道も弓術も悲しくて泣いちゃうっす」

 

 

 

 それが藤巴織鶴の二〇年にも満たない青い人生で固められた、既成観念。

 

 

 

「自分は、あくまで探求者、探弓者(たんきゅうしゃ)なんす。自分が貰うくらいなら、まだ伸びしろのある子にその枠を空けておいてほしいっす。候補生への推薦程度なのに偉そーに言ってますが、仮に自分が天下五弓となっても、きっと天下五弓の称号が泣いちゃうっす。すいませんせんせー、折角の申し出なのに」

 

 

 

 織鶴は両手を太腿の付け根から離し、ゆっくりと前に出して床に添え、ぐっと頭を下げた。一切の躊躇もなし、申し訳ないと言う一心で形作られたその姿勢は、なんと惨めで美しいものであるか。

 

 その姿、その言葉に、教師が折れる。

 

 

 

「……そこまで意志が固いのなら無理には勧めん。だが、覚悟はしておけ」

 

「?」

 

「天下五弓は、探弓者をも求めているかもしれんぞ」

 

 

 




続かない。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。