真剣で私に恋しなさい!S ~無冠の弓聖~   作:霜焼雪

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檳榔子染

 

 

 

 弓を執り弦を引く、その際にかかる負荷は「重い」とは表現せず、原則として「強い」とされる。

 

 確かに、右腕にかかる負荷は重い物を持ち上げているかのようなものと言える。実際、弓の固さを示す指標は「キロ」であるし、昨今の弓道部では「重い」と表現しても注意されないことがあるらしい。このことは教士や錬士、果ては範士といった弓道に人生の多くを費やしている人間からしてみれば、教養だとか伝統だとか全てにおいて呆れてものも言えぬ体たらくだ。

 

 表現として実感しやすいのは確かとは言え、この間違いは「役不足」と「力不足」を履き違えていることと大差ないだろう。弓が「重い」とは、左手にかかる弓自体の重さのこと。弓が「強い」とは、弓自体の強度からくる弦の引き難さのこと。改めて比べてみると誤用も甚だしい。

 

 「重さ」など弓を引く際に気にならない。「強さ」がそれに優って辛く苦しいものだからだ。

 

 では、その「強さ」というものが大き過ぎると使用者にどのような苦痛を与えているのか。

 

 簡単に言ってしまえば、反発力や復元力と言われるものが強いということなので、身体が縮められようとする内側への圧力がかかる。それは決して体に快いものではない。

 

 確かに、綺麗に強弓を引けば姿勢は矯正され、体幹も綺麗に強化されて言うこと無しだろう。ただし、それは適切であれば、の話である。行き過ぎた「強さ」は弓道における実戦、的前での競射は負担の方が勝ってしまう。

 

 その適切な「強さ」を確かめるための練習方法として、素引きと呼ばれるものがある。

 

 剣道でいうところの素振りのようなもので、矢を番える事無く弦を引くだけの行為だ。的前よりも、鏡や巻藁の前で行われることがほとんどだ。

 

 素引きの大きな利点としては、自身の型を再確認出来るということが挙げられる。鏡の前で素引きをし、右肘の高さや胸の張り具合など要所要所の確認をすることができる。

 

 ただ一つ問題なのは、離れができないことだろう。

 

 弓の反発力に従い弾かれるように戻る弦が保持するエネルギーの大部分は矢の射出に用いられる。そのため、矢がないことで行き場の失ったエネルギーは弓と持ち主を襲うのだ。思わぬ反動で弓を落としてしまい、最悪の場合弓だけでなく人体の破損まで考えられる。耳が切り落とされる、ということがあったなどと都市伝説のように語り継がれているところがあるようだが、弓の反発力が皮膚を切り裂くことなど容易いのは事実。離れの練習がしたいのであればそれ専用の道具を用いろ、と指導者は口を酸っぱくして警告する。

 

 そして肝心なことが、この素引きの際に自身に適切な強さを把握することもできるということ。ただし、素引きは右手に(ゆがけ)をつけずに行うこともあるため、幾ばくかの誤差は生じてしまう場合もある。弓が強すぎて弦が手に食い込んでしまい、痛みのあまりに引けないという自体も発生しうる。そう言った場合はタオルなどを用いるのだが、そうでもしなければ引けない弓もあるということだ。(ゆがけ)で素引きを行うことに恐怖を覚えている者も少なくないという。

 

 また、弓の復元しようとする力は侮ってはいけないもので、ほんの少しでも気を緩めれば体のどこかに異常をきたす。

 

 かつての織鶴も、手痛い反撃を受けたことがあった。

 

 

 

 ――――我が家に伝えられている弓です。僕よりも織鶴の方がこれを使うべきかもしれません。

 

 

 

 当時中学生だった織鶴は父親から弓を譲り受けた。

 

 澄んでいながらも底が見えない奇妙な沼を連想させる檳榔子染(びんろうじぞめ)を基調として、艶を失いくすみかけた真珠のような胡粉(ごふん)の籐が節々に巻かれた弓だった。

 

 あまりにも不気味なその装飾に、織鶴はそれを受け取った直後に僅かに身震いしていた。その弓から尋常でない力の流れ、年季という名の貯蔵されたエネルギーが伝わってくるようだった。

 

 世界の美しさに触れた絵画や彫刻は見る者の脳を焼き尽くすほどの熱を持つ、織鶴はこの弓からそれに近いものを感じ取ってしまう。

 

 とは言え、織鶴にとっては父親からの滅多にない贈り物。嬉々としてその弓の「強さ」を確かめるべく、普段の弓と同じ要領で素引きをしようとしてしまった。

 

 

 

 瞬間、それは目線程度まで引いた織鶴の左肩と右肘に容赦無く噛み付いた。

 

 

 

 あまりの激痛に織鶴は弓を落としてしまう。がらんがらん! と竹が床に落ちた音が響き渡り、残響が消えゆくと痛々しい静寂が辺りを支配する。やってしまった、と青ざめた顔を浮かべた織鶴は叱咤の言葉に身構えるが、かけられたのは優しい声だけだった。

 

 

 

 ――――例え素引きでも、この弓を引くには相当な技量と覚悟がいります。針の穴に糸を通すだけの作業を延々と続けるような集中力をもってしてようやくできることです。

 

 

 

 そう言って、彼はその弓を織鶴の足元から拾い上げた。

 

 

 

 ――――この弓の強さは使用者を蝕みます。過度な運用はその身を滅ぼすことになるのです。

 

 

 

 何故そんな弓を自分に譲るのか、と睨みながらの疑問に織鶴の父は苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 ――――適度に使う程度ならば問題はありません。効率のいい引き方を再確認するためには強弓は適していますからね。

 

 

 

 ピン、と弦を指で遊ばせる。それを見ている織鶴は何とも言えない複雑な表情で父親を見上げていた。

 

 

 

 ――――少し、大仰な物言いをしてしまいましたか。別に妖怪やオカルトの類ではありませんよ。ほんの少しだけ長生きしているだけの古弓ですからね。

 

 

 

 ポン、と織鶴の頭に両手を乗せてわしゃわしゃとかいぐる。玩具のように扱われて織鶴は苛立ったのだろう、父親の手を勢い良く振り払おうとするが、彼はそれを読んでいたように素早く手を引っ込めていた。

 

 

 

 ――――僕の祖父がどこからか見つけてきたので、どれだけ長生きしているか分かったものじゃないですけど。

 

 

 

 そう言って、弓を持つ左手の握り方を変えた。それだけで織鶴に対して奇妙な緊張感が襲いかかる。

 

 

 

 ――――今から素引きをしてみせましょう。なに、私も数十年来の付き合いです、嫌われたりはしていませんよ。

 

 

 

 織鶴の父、藤巴(ふじとも)正成(まさしげ)は織鶴に弓を教えることは滅多になかった。と言うのも、正成は殆ど家に帰らず外国へ招かれることが多かったからだ。弓道を普及するべくアジアやヨーロッパ諸国に招かれるのは珍しい話ではないが、それは極めた人間に限ったこと。

 

 藤巴正成は弓道会において教士の称号を若いうちに受有していた。若いとは言っても、実の娘が義務教育を終える頃には俗世間で言うアラ還。織鶴の母親とも大きく年が離れ、織鶴の同級生の父親と比べても一回りは年を食っていることだろう。

 

 海外遠征という多忙を極め、自身の調整で手一杯だった正成は織鶴に弓を教えようとはしなかった。歩む道は苦難と分かっていて、自分の可愛い娘をその道に引きずり込むことはできなかったのだ。

 

 しかし、母親も正成にくっつく形で家を空けることが多かったため、織鶴は祖母に世話を任されていた。可愛い娘ならば弓を教える形で遠征に同行させることが正しかったかもしれないと、両親は後悔することになる。

 

 なぜならば、織鶴が自ら弓の道に飛び込んできてしまったからだ。織鶴は両親を追いかけようと、弓道を習うことに躍起になっていたと祖父から聞いた正成は、やれやれと頭を抱えながらも笑顔を浮かべ、しっかりと罪悪感を受け入れる。実に複雑な気持ちに苛まれることとなった。

 

 正成は娘の意思を尊重しないという訳ではなかった。加えて、織鶴は正成の嬉しいことに形を重視するタイプの弓道家として大成する前兆を見せていた。彼が織鶴に僅かでも弓の指導をしないわけがない。しかし、既に弓道場にて指導を受けていたとなれば正成も多く口出しはできなかった。

 

 織鶴が通っていた弓道場はあまり評判のいいものではなかったが、織鶴が指南を仰ぐ人物の名は正成の信用を勝ち得るのには十分だった。その名を渡辺(わたなべ)峯秀(みねひで)。弓道界において正成の一歩先を行く重鎮とも言えるべき人物で、若くして五段以上の試験を受けようと考えている者にとっての憧れとも言えた。

 

 そんな羨望を掻き集めた星が突然潰えた。

 

 心臓の病気だった。弓道をする際には必ず首に心臓発作のための薬を仕込ませていたのだが、弓道場から着替えた時に薬を落としてしまい、それに気がつかず帰宅して発作が起き、間に合わなかった。

 

 弓道場に自分を置いていくような人間だ、と皮肉に言われながらも、彼の遺影となった弓道場での写真は葬儀に参列した関係者全員を涙させた。

 

 範士八段、渡辺峯秀の死は若き芽にも影響を与えてしまう。

 

 目標たる師を失い、織鶴は弓道に対する自分のあり方を見失っていた。まだ教えてもらっていないことが沢山あると、祖母に泣きついていたと正成は半年後に聞くこととなる。

 

 遠征から帰ってきたある日のこと、織鶴の弓道を見て正成は絶句する。何度も何度も渡辺峯秀という憧れの射形を映像として見ていたのだろう、未完成ながらも肉薄するものがあった。しかし、どう足掻いても一歩届いていなかった。

 

 弟子は師にはなりえない。あるのは超越か比類だけ。同一は、弓道において有りえない。

 

 しかし、織鶴はそのことに気が付けていなかった。迷い子のように師の背中を探すその姿を見たとき、正成はようやく躊躇いを吹振り切ることができた。

 

 

 

 ――――良ければ、峯さんのあとを継がせてもらえないでしょうか。

 

 

 

 実の娘に対するものと思えないほど真摯に、正成は頼み込んだ。織鶴は何も言わないまま正成に抱き着きわんわんと大泣きして、教えて下さいと希った。

 

 その涙は父親とようやく心を通い合わせたことによるものか、迷走していた自分に差す救いの光を見たからか、正成は追及できなかった。

 

 それから三年の間、正成は織鶴の弓道の指導を優先し、海外への遠征を知り合いの錬士や教士に任せて暫くの間日本に腰を下ろす。

 

 高校生になるまでに、川神学園という荒波に揉まれる前に、娘の師の遺志を受け継ぎ自分の娘を完成させるために。

 

 しかし、ここで正成には誤算があった。

 

 自分の娘がその内の半年で、渡辺峯秀が到達していた「弓道の最終地点」に足を踏み入れてしまうと予測できなかったのだ。

 

 

 

 ――――その弓には名前がありません。

 

 

 

 その「最終地点」に届いてはいなくとも、なんとか素引きという形で何とか強弓を扱えるようになった織鶴に正成は告げる。

 

 

 

 ――――名前を付けてあげたらどうですか?

 

 

 

 そう言うと、織鶴は呆れたように笑った。

 

 

 

 ――――そうですか。それならば、この弓は――――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 織鶴の左手が軋む。

 

 的となる人物に顔を向けただけで、左手に握る弓が暴れ回るような錯覚に陥った。既に射に入っている織鶴はそれに対して何も感じない。正確にはそれを押し殺しているだけで、左手の肘から先には相当な負荷がかかっている。

 

 織鶴の額に脂汗が滲み出した。それを見た弓は悪戯な笑顔を浮かべるように弦を揺らす。

 

 矢を番えると、弓全体が殺気の塊となる。矢筈から鏃まで殺気を通し、一本の先鋭な凶器を作ろうとしていた。大きく平らな鏃が融けて円錐状の気の塊を精製しているように錯覚させる。ほんの少しでも武術を嗜んでいる者がこれを見れば、弓の不気味さも相まって大きな槍に見えるかもしれない。

 

 しかし、織鶴自身はそのことに気がついていない。というよりは見えていない。あくまでも鏃の変化はイメージであり、織鶴にとっては視線以上に鋭利なものはないと感じているからだ。

 

 静かに息を吐きだし、弓を持ち上げて僅かに開く。

 

 

 

 ――――強い弓を引くときは、殊更基本を意識しなさい。

 

 

 

 突如、織鶴の脳内に声が響く。実の父であり、第二の師と仰ぐ男の声だ。しかし、それで織鶴は弓を引くことを中断したりしない。

 

 聞こえるだけだ、聞き入れているわけではない。織鶴にとって射の最中に聞こえることなど、全てただの雑音に過ぎない。

 

 

 ――――左右の力の配分を間違えては行けません。均一ではありませんよ。そして、右の中でもまた配分を考えなさい。手首と肘は天秤を壊す勢いで偏らせなさい。

 

 

 しかし、その声に応えるように、正確にはほぼ同じタイミングで織鶴の右手首の力が自然と抜け落ち、右腕の上腕三頭筋が膨れ上がった。

 

 

 ――――そう、それでいい。

 

 

 

 声は満足そうに笑っているようだった。それでも、織鶴の射は淀みを見せない。

 

 

 

 ――――次は背中です。腕だけで引けば骨が折れますよ、その言葉通りに。

 

 

 

 肩、肘、手首、更には肩甲骨が音を立てて軋み始めた。左肩と右手首は甲冑模型の様に簡単に取り外されそうだと震える。常識外れの反発力を耐えている音が悲鳴となって織鶴の白い世界を穢そうとする。

 

 その雑音を、圧倒的な集中力でかき消していく。

 

 織鶴を噛み砕こうとしている怪物の顎を食い止めるように、織鶴はゆっくりと弓を引いた。

 

 

 

 ――――肘を張りすぎてはいけない。あらぬ方向に腕が折れる。

 

 

 

 クイッ、と左手が内側に修正される。

 

 

 

 ――――ゆっくりゆっくり、落ち着きなさい。

 

 

 

 織鶴の脳内、彼女の視界を通して見える景色は常に白い世界と的一つ。それ以外は完全に取り払っているのに、何故かこの男の声だけはきっちりとその世界に存在している。

 

 この声は、反復練習の副産物だ。

 

 織鶴は声に従っているのではない、声と彼女の動きは同時だ。反復練習の際に何度も何度も思い返した父の言葉が、行動と共に浮かび上がってしまうだけ。

 

 この声こそが、織鶴の血の滲むような努力の証明。ただし、それを確認することは他人は愚か本人にもまともにできない。

 

 

 

 ――――右肘が地面に対して並行すぎる。学校の廊下で先輩に出会った時の会釈、それくらいは優しく下げてやりなさい。

 

 

 

 音もなく右肘が下がり、弓の反発力を全身で受ける形になった。織鶴の体の軋みに拍車が掛かる。

 

 

 

 ――――胸を張りなさい。堂々としなければ弓にも的にも嫌われる。

 

 

 

 決して豊満と言えない胸が張り出されたのと同時に、織鶴に第二の試練が降注ぐ。

 

 ブチブチ、と音が聞こえるような痛みが織鶴を襲い始めた。右腕の上腕三頭筋、左腕の上腕二頭筋、双方の三角筋と大胸筋、更には下半身の大腿筋までもが泣き叫ぶ。

 

 全身が、引き裂かれる。噛みつかれ、食い破られていく。

 

 織鶴の目が見開かれた。ここで織鶴の射に初めて動揺が滲んでしまう。白い世界が歪み、虫食いの様に開けられた世界から、パイプで埋め尽くされた工場地帯と排気ガスが浮かび上がる。

 

 織鶴の世界が、崩れていく。

 

 

 

 ――――痛いだろうけど、弓はまだ満足していないよ。

 

 

 

 ここに来て、その身に貯蓄してきた鬱憤という鬱憤を晴らす様に、弓が意地悪げに撓る。それと同時に襲いかかる、織鶴の左の手の平の違和感。

 

 

 

「――――」

 

 

 

 織鶴の射形が、ずれた。

 

 完璧な手の内をしていた筈の左手が、水分を急速に乾燥させた弓の握り皮によって僅かに強く押し出された。何百万と射続けたはずの織鶴にとっては、ここ数年考えもしなかった大きなミス。

 

 このままの離れ、つまり右手から弦を外すと左手が安定しなくなり、矢飛びが安定しなくなってしまう。ましてや、織鶴が握っている弓は現代において随一を争うじゃじゃ馬振り。手痛いしっぺ返しを受けることも考えられる。

 

 

 

 ――――さあ、時が満ちます。

 

 

 そんな織鶴の試練などお構いなしに、第二の師匠の言葉が続くが――――

 

 

 

 

 

 ――――いいかい? 完璧な射を、それこそ毎回完璧にできる人間なんていやしないんだよ。弓の事情、体の事情、見落としてしまうところは必ず現れる。

 

 

 

 

 

 そうはさせじと、第一の師匠から待ったがかかった。

 

 温和な声だ。まだ冷ややかな気候の中で道場を照らして弓道家を温める太陽の様に朗らかな声は、織鶴の左腕に手を添え温めるように語りかける。

 

 

 

 ――――手の内がずれた? 弓手が伸びきらない? ひねりが足りない? 肩根が下りない? どれもこれもよくあることだよ。しかしね、それ一つ失敗したからと言って、全てが崩れ去るような脆弱さじゃ弓道はできないんだよ。

 

 

 

 声に耳を傾けるように、織鶴の動きが停止する。正確には、自ら動こうとする自発的行動が無くなったように見えたのだ。あまりにも強い弓の影響で、彼女の両腕は次第に小刻みに動き始めてしまう。

 

 もう、彼女の視界に移っていた真っ白な空間は半分以上も食われている。

 

 

 

 ――――小さな失敗の一つ一つを確実に、ゆっくりと修正してあげるんだよ。手の内を入れ過ぎたのなら、ほんの少し肘で調整してやったりもできる。右肘を大仰に下げてやってもいい。弓手で主導してあげる方法もあるし、妻手で補助してあげる方法もある。

 

 

 

 限界が訪れているのか、織鶴の視界が再び白に染まり始める。

 

 酸素欠乏に近い視界の奪われ方だった。既に織鶴の射は会の段階に入っている。会に至ったことで呼吸を行うことを無意識に遮断してしまう彼女の身体は、十分な酸素を全身に巡らせることができずに警告(アラート)を鳴らしている証拠だ。

 

 疲労、酸欠、限界の壁が迫ってくることを示す様に、織鶴の視界は曇っていく。

 

 

 

 ――――ただ、これは弓道の中でも若い内に見られる技術。これをやるようじゃ到底完璧には到達できない。完璧に、受け入れられる射をしよう。世界の美しさに飲み込まれる受動的な射をしよう。私だって、そうしてる。

 

 

 

 ガリリッ!! 織鶴の奥歯が断末魔を上げた。それと同時に彼女の視界が僅かに晴れて、再び射が開始された。弓がさらに引かれ、矢が彼女の口元に添えられる。左肘もほんのわずかに直線から脱し、右肘は僅かに落ちている。

 

 悔しさが表情に現れていた。集中力と言うより、最後の力を振り絞っている様だ。

 

 全速力で戦場を駆け抜け、強姦魔のような男に襲われ、心身ともに極度の疲労に襲われていた織鶴は、この射に全てを乗せている。

 

 

 

 ――――すべては経験と反復なんだよ。失敗が起きる前に反射で修復できるようになってこそ、だ。何万何億、人生で射てきた矢が積み重なって、道ができる。最終地点は皆同じ、しかし道のりは人それぞれ。織鶴くん、私は君に――――

 

 

 

 第一の師匠の声はもう聞こえない。ここまでくれば、後は第二の師匠の言葉通りの、反復してきた射で完成されるから。

 

 最後の試練が始まった。

 

 

 

 ――――右手首の捻りが強すぎます。矢が折れてしまいますよ。

 

 

 

 満足したように天からの声は消え、先程まで織鶴の動きを支配していたような声が戻る。

 

 陸に打ち上げられて飛び跳ねる鮮魚のごとく撓ろうとしていた矢が元に戻った。これで狙い通りの矢筋を出すことが出来るだろう。右肘を下げたことによる弊害を含め、大きく修正がかかる。

 

 

 

 ――――さあ、あとは離れです。分かってますね?

 

 

 身体は既に限界に近づいてきているが、織鶴に休みはまだ与えられない。最後の仕上げが残っている。

 

 真横からくる重力に従い落下させるように、肩口からスッパリと切り離すように、朝靄が太陽の熱で晴れるように、右腕が役目を終えた。

 

 弦が戻る。その瞬間に襲いかかる左腕への莫大なエネルギー。輝く鉄が溜まった溶鉱炉に左腕が突っ込まれていると錯覚するほどの衝撃、激痛。織鶴の意識はもう、それらを正確に認識することは叶わなかった。

 

 そこに、後は任せておけと言わんばかりに、弓が翻って織鶴の左腕の内側を弦で強く打ちつけた。矢を射放した勢いをそのままに弦が肘の外側に回ることを弓返りというのだが、それは腕に打ち付けられるほど回転するものではない。無理くりに修正した影響か、はたまたこのじゃじゃ馬があまりにも力をため込んでいたせいか、弦がぶつかった腕には蚯蚓腫れのようなものが浮かび上がっていた。

 

 弓はこれを狙って悪戯をしたのだろうか。自ら動くことのできない弓の、織鶴の射を失敗させない程度の優しい反撃かもしれない。

 

 

 

 ――――眼鏡を吹き飛ばさなかっただけ、褒めてやるっす。

 

 

 

 織鶴の目の前に眩い光が広がる。チカチカと点滅する光は何色にも色を変えて世界を彩っていき、彼女の世界を侵食していった。

 

 抵抗することはできなかった。織鶴にできたのは、弓を抱えて傷つけないようにし、背中から倒れ込むことだけだった。

 

 

 

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