――――プレミアムな私が満足するに十分なトレーニングだったわ。
がくがくと震える膝。閉じきらず痙攣する手。吐瀉物を拭い切れていない口。奇妙なまでに黄ばんで見える表情。トイレから覚束ない足取りで戻ってきた武蔵小杉は、満身創痍疲弊困憊という言葉で片付けてはいけない様子でその言葉を紡ぎ切り、再びトイレに駆け込んだ。
今にも死んでしまいそうな状況に追い込まれてしまっているのか、ことは数か月前に遡る。
小杉は川神学園の数ある部活動の中から弓道部を選んで入部していた。その理由は大きく分けて二つ。一つは、弓道を修めるということは精神力を鍛えることに繋がるというもの。固より、彼女は一度や二度の失敗程度ではへこたれないタフさがあると自負していたが、やはり強者に気迫で圧倒されると気圧されてしまう部分を自覚もしていた。そのためにさらなる精神力を培おうとしたのだ。
そしてもう一つ、川神学園が誇る武人の一人から技術を盗み出そうとしたことが大きな理由である。川神学園弓道部には全国の弓術家が畏敬の対象としている流派、椎名流弓術の継承者である椎名京がいる。当時はまだ天下五弓という括りが存在していなかったものの、そのような肩書きがなくても京の名は弓術家の中では広く知られていた。彼女からできるだけのものを盗み出そうとしたのだ。
後に分かったことだが、椎名流弓術は口伝で継承される独特な技法があるらしく、見よう見まねでは型を崩すだけで何の利点もない。当然、そんなことは当人の口から説得されたところで辞められるはずもない小杉は、何とか取り入ろうと意気揚々と弓道部へ足を踏み入れてしまった。
しかし、弓道部だからと言って最初から弓を持たせてもらえる訳ではない。「ちょっと運動する文化部」だとか「動かない運動部」だとか、どこの誰が広めたか分からない固定観念が若者に染み付いてしまっているせいか、入部希望者の中には本当に運動ができない人間が入ってくることがある。運動ができないから、と門前払いすることはなくとも、しっかりとテストを通過してもらう必要があったのだ。
テストとは言ってもとても簡単なもので、三年生が引退するまでにしっかりと弓道の基礎を作れるかどうか、というものだった。具体的に言えば、背中と下半身の筋肉強化と強固な体幹の確立。腕の力だけあればいいという間違った筋肉達磨がとても強い弓を引くより、すらっとしたプロポーションの女性が一般的な強さの弓を引いた方が美しくよく中る。後者になれるよう、筋肉の鍛え方と使い方をしっかりと頭から叩き込むのだ。
しかし、そう言ったトレーニングは必ず不満が出る。特に川神学園は、もう鍛えているから問題ない、と指導を無視する自称運動ができる人間が出てくる。さらには、文化部なのにこんなにトレーニングをする必要はあるのか、と文句を言ってくる運動音痴が合わさって始末が悪くなることが通例だった。どちらの言い分も「練習なんていらない」、「弓道くらい簡単だ」という意見に集約してしまう。加えてそこに小杉のような経験者が混ざると更に手が付けられなくなるのだ。
しかし、元々精神力を鍛えるためにやってきていた小杉はこの中でも真面目にトレーニングをしていた部類であった。彼女の心の中は、「この程度のことも素直にできないのに弓道なんてできるわけがない」という見下しに染まり、先輩たちの指針に対する不満を押し潰していた。
多馬川の河川敷をランニング、道場の外で腕立て伏せなどのトレーニング、弓を持たされずに行う型の確認。一か月以上経つというのに、一年生に課されたものはたったこれだけ。弓道に対するフラストレーションは、不器用に注がれて泡だらけになってしまったビールのように今にも溢れ出してしまいそうだった。
そんな中、三年生が最後の大会に向けて合宿を兼ねた練習試合を行うことになった。正式な大会ならば二年生が混じるものだが、川神学園弓道部最後の大会は毎年市民体育館で行われる小規模なもの。三年生だけの構成で挑む、言うなれば思い出づくりのような催しだった。この合宿を兼ねた練習試合も、三年間の労いを込めた慰安旅行という意味合いが強い。
三年生が嬉々として道場を後にしたことで、二年生だけでは道場を持て余すことになってしまった。元々川神学園の弓道場は大会などに使われる独立した道場並の広さで、一五人同時に的前に立てる程の面積がある。二年生十数人だけでは空きができてしまうのだ。
――――折角空いてるし、一年生入れてやる? そろそろ触らせないとやばいかもよ?
そう一人の二年生が提案した。弓道は無駄のない反復練習が大切であり、効率的に練習を進めたがる者がいる。折角的が張ってあるのに無駄なく使われないというのは、彼らにとって耐えがたいことの一つだったのだ。
勿論反対もいた。自分たちはこんなに早く弓を握らせてもらえなかっただとか、人数が逆に溢れかえって効率が悪くなるだとか、全員が全員賛成とはいかなかった。しかし、三年生がいないことで少し気が緩んだこともあったのか、二年生の中で圧倒的な実力を魅せる二人がいなかったこともあったのか、この日一年生は突然の射場デビューと相成ったのだ。
葡萄酒好きの中年がボジョレーの解禁日を祝うように、一年生はようやく弓を握れることに声を上げて喜んだ。小杉も言葉には出さなかったものの、その表情は嬉しさで綻んでいたことに本人は気が付いていなかったらしい。
運動着姿のまま道場に足を踏み入れた一年生たちは、物珍しいものを見るように道場をフラフラと歩きまわっては弓矢を手に取ったり、まるで新しい玩具をもらった幼児のように欣喜雀躍していた。二年生もその気持ちが理解できるのか、大きな声で注意することはせず、優しく諭すだけにとどめてしまう。
その結果、道場は蹂躙された。
道具の扱いは極めて雑で責め立てられても当然だった。恐らく幾人かは気を配ったつもりであろうが、弓道具は細心の注意を持って扱う物。感謝の気持ちを持って接しなければならないものなのだ。総括すれば、一年生は壊れて当然というような考えのものが多かった。ピンポン玉のようにいくらでも替えが利くから大丈夫だと高を括っていたのだろう。
しかし、弓道具というものは繊細な性質を持っているだけでなく、非常に高価なのだ。個人で買う矢など、学生でも数万円するものがある。当然のように簡単に変えは利かない。練習用の矢は大先輩たちが寄付してくれた古いものであり、その都度買い換えている訳ではないのだ。
それを知っていたはずの小杉も、射場に立てるとは思ってもみなかったために自分の道具を持ってきていなかったせいか、自分の道具よりも安物の消耗品だと決めつけて心なしか雑に扱っていた。矢の手入れも怠慢による汚れや傷が目立つほど。
翌日、一年生は今日も射場に立てるんだと心を躍らせて部活に臨んだ。経験者は自前の道具を持ってきてやる気に満ち溢れており、小杉もその一人だった。
何も悪いことをしたという自覚のない一年生が道場を開けると、そこに一人の弓道家がいた。
――――その足で道場に入るな一年、外で着替えて正門に集合しろ。
一年生全員の首元に白い刃が押し当てるような冷たい声。道場の中央で正座して待っていたそれは、まるで鬼の如き迫力を秘めた化け物の姿をしていた――――。
◇
「おやぁ?」
「っ!?」
武蔵小杉が得も言われぬ恐怖に支配されたのは、熱いものに触れてしまった手を脊髄反射で離すまでの時間よりも短いほんの一瞬の出来事だった。
ラチッタデッラの中を一人で歩いていた小杉は、背後から軽く肩を叩かれて声をかけられた。体操着越しでも伝わる固い掌と毎日のように聞かされている声に、彼女の全身は電撃が走ったようにビクン! と震えてしまう。
驚きのあまり無意識的に距離をとるため前に飛び出し、無様に両手をついて動物のように逃げ、しっかりと数メートルの移動を終えてからようやく振り返った。そこには、小杉の反応に引き攣った笑みを浮かべている藤巴織鶴の姿。
小杉の目には、その顔に一年前の鬼の気迫が滲んで映る。
「武蔵じゃないっすか。奇遇っすね」
「お、おにっ、織鶴先輩!?」
「……何やら失礼なことを口走ったように聞こえたんすが?」
「いいい、いいいいえいえいえいえ!! なんでもありません!!」
「そこまで大声上げなくても」
――――な、なんでよりにもよって休日の完全に気を抜いている所に鬼さん来るかなぁ!?
「で、独りぼっちで何してるんすか?」
「ちょ、まるで私が孤立してるような言い方はやめてくれませんか!?」
「おっと、これは失敬」
申し訳ない、と言う織鶴の顔は謝罪する人間のそれとは思ず、逆に煽り立てるようなせせら笑いに近いようなものだった。
しかし、小杉はそれに対して強く言い出せずにいる。時折、彼女の視界に映る織鶴の表情がザッピングのように掠れ、一年前の鬼の形相が垣間見えてしまっていたからだ。
「でも、チッタに一人でいるのはやっぱり浮くっすよ? 特にそのブルマ姿だと」
「……ここ以外にも行くところはありますから」
「その割にはちょくちょく足を止めてたっすね。別に初めてここに来たわけじゃないっすよね?」
――――この人、偶然私に会ったのよね?いつから見てたの?
「さ、先の東西交流戦で幹部を担当したみんなと行う予定の反省会の為の店を決めるついでに散歩を……」
「…………一年に限って言わせてもらうっすけど、大いに反省するべきなのは間違いなくお前っすよね? お前一人っすよ」
「うぐっ!」
冗談抜きの駄目だしという鮮鋭な矢が一本、小杉の胸に容赦なく突き刺さる。
「勝手に指示して守り薄くして、それであっさりやられてちゃ擁護のしようがないっすよ。それに――――」
胸を押さえて背中を丸めていた小杉の顔面が、バスケットボールでも掴む感覚で織鶴の両手でがっしりと固定された。そのまま小杉は姿勢を正されるように顔を持ち上げられ、織鶴の親指が髪をかき分けて耳をなぞり、そっと首筋に添えられる。
「お前の采配ミスで私の出番が回ってきたんすよーこのすっとこどっこーい」
ぐりぃっ!! と親指の腹が首筋に深く食い込む。その瞬間、引き裂かれる鋭い痛みでも殴りつけられた揺さぶられる痛みでもない、じわじわと蝕む鈍い激痛が小杉の全身を襲った。
「あだだだだだだだだ!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃいいいいいいいいいいいいいいい!!」
これ以上はやめてくれ、と涙目になりながら懇願する小杉の叫びも虚しく、ぐりぐりっ、と織鶴の親指は彼女の首筋、正確に言えばリンパ節を責め続ける。
姿勢が悪かったり精神的な疲れがあると、首のリンパ節を刺激した時に激痛が走るのだが、どうにも小杉はまだ綺麗な姿勢とは言えないらしい。
「……まあ、そこそこ収穫はあったんでここいらで止めてやるっす」
「おごぉ……!」
「ほらほらそんなに痛がるんじゃないっすよ」
「あ……それ気持ちいい……」
首筋に対する苛めを止め、鎖骨や肩、脇などを優しく揉み押して全体を偏りなくケアしていく温かい親指。突然優しくなったタッチに小杉の顔も緩んでしまう。
その顔を見て、織鶴の口元から乾いた舌打ちが響いた。
「……それにしても武蔵、割と小顔っすね。はははははこやつめ」
「あいだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ!?」
「あ、失敬失敬」
「いきなり力入れるのやめてください!」
「小顔にしてやってるんすから感謝しろっす」
――――首と腕いじって小顔になるの?
不思議と楽になった肩をぐるぐる回しながら、自分が小顔と褒められた嬉しさと、小顔になる奇妙な方法に対する疑問が混ざった何とも言えない感情を処理しようとする。腕や首を回すだけで絡み合った感情が解けるとは小杉当人も思ってはいないが。
「ところで武蔵。散歩ということはぶっちゃけ暇なんすよね?」
「え? ええ、まあ。お店さえ決めてしまえば特に予定も……」
「それならちょいと付き合えっす。なに、悪いようにはしないっすから」
◇
「で、学園ですか」
「そうっすけど」
ラチッタデッラにて、反省会の会場を高級レストランにしようとしていたところ、「お前は学生身分で一食に八〇〇〇円もかけるんすか? いいご身分すね? うん?」と先輩から直々の
最初は織鶴の行く道を着いて行っているだけだったが、校門をくぐって校舎を素通りしていくこの最短経路を小杉は知っている。
「今日、部活は休みだと思ってたんですけど」
「日曜以外じゃ久々の部活のお休みの日っす。先生出張っすからね、珍しいっすけど」
「なんでそんな日に道場行くんですか……?」
――――何か雑用に使われるに決まっているわ……!! プレミアムな私には分かる!!
「そう身構えなくてもいいっすよ。折角だから、前々からお前に頼まれてたことをやってやろうかと思っただけっす」
「……え?」
「来月の新人戦で良い線行きたいんすよね?」
もう二度とその話が出るとは思ってもみなかった、小杉からすれば断られて当然だと思っていたことを、織鶴はしっかりと覚えていた。
「一朝一夕で中るようには出来ても中り続けるようにするのは不可能なんで、その手のチートは使わないことを前提に……少しでも恥をさらさない程度になるよう、型を見てやるっす」
「ほ、本当ですか!?」
――――せ、先輩の個人指導……! しかも、天下五弓を蹴って無冠の弓聖となった先輩の! 嬉しいけど、何より怖い……!!
「元々精神修行の入部って言ってたような気がするっすけど、まあ強くなって損はないっすよね? いいとこの出なんすから、ちょっとくらい武芸に優れていれば得になると思うっす」
「や、やった……! でも、意外ですね。そういう理由で弓道を始めた人を嫌いそうでしたけど」
「あはははは、良く言われるっす」
――――あんだけ弓とか道場とかに愛着持ってて鬼みたいに怒れば、そりゃあ嫌になるってくらい良く言われるでしょうよ。
立てかけた弓の向きが揃っていなかったから腕立て一〇〇回。鏃に拭き残し泥が付いていたから腹筋一〇〇回。すり足ができず大きな足音を立てたからランニング五キロ。反抗的な目を向けたから背筋二〇〇回。かつての怒りに身を任せたような理不尽な振る舞いを見せた織鶴の姿を思い出してしまった小杉は、指導してもらえることに対して素直に喜べずにいた。
「弓道を始める理由は何でもいいんすよ。弓がかっこいいとか、背筋を良くしたいとか、それこそ武蔵の精神を鍛えたいなんか良くある理由っす」
「それじゃあ、先輩はどうなんですか? どんな理由で弓道を始めたんですか?」
――――この人のことだ。きっと私には理解できないような理由を提示する。弓に呼ばれたとか、矢に好かれたとか、超常現象に準拠した良く分からないことを言うに決まってる。
小杉には確信にも近い何かがあった。無冠の弓聖と言われるまでに弓道を愛している織鶴には常軌を逸した何かがある、一年前のあの日に彼女は恐怖とともにそれを感じ取っていたのだ。
「実は自分……弓道が大嫌いだったんす」
「……はぁ?」
そんな確信めいた思い込みを、織鶴が気恥ずかしそうに放った一言が粉々に打ち砕いた。
「自分の両親は弓道関係でよく家を留守にしてて、いつも婆ちゃんに世話してもらってたんす。自分にとって、弓道は両親を奪ったにっくき敵だったんすよ、これが」
――――し、衝撃のカミングアウトね……。
「けど、ふと思いついたっす。弓道を習えば自分も相手にしてもらえるんじゃないか、なんて。幼い頃の自分がどうしてその発想に至ったのかは未だに疑問なんすけど、婆ちゃんに頼み込んで弓道の学外クラブに入れてもらったんすよ。それで気が付いたら、両親並にどハマリしちゃって」
血は争えないもんすね、と織鶴は感慨深そうに呟いた。
「そんな簡単にどハマリするんですか……?」
「ん? いやいや、どハマリしたのは始めてから二年後っすね。自分に弓道を教えてくれた恩師の影響っす」
「恩師、ですか」
――――どんな人かしらね。人一人の価値観ぶっ壊してんのよ? 親の仇みたいに思ってたのを人生の支えにしちゃうんだから……。
「その人の指導は小学生相手には間違ってると言われて、クラブ――――ああ、「一進手結会」、会員には「一会」って言われてるところでやってたんすよ。その一会での権力というか、発言権が失われつつあったんす」
「ど、どんな教えだったんですか」
小杉の答えを恐れるような問いに、ふむ、と織鶴はわずかに思案する。
「…………小学生って、思うように行かないことが続いたらどうなると思うっすか?」
「……泣き散らしたりして、文句言ったり……」
「そう。そうなるのが正しいとは思うんすけど、まともに練習にならないわ退会者が続出するわ、困ったもんだったんす。昨今のモンスターペアレントとかいう俗称がつく以前から、教育委員会のオバ様方はそういう子供が泣き喚くのに敏感なもんで」
「まあ、容易く想像できますね」
「そこで何人かの指導者が日和ったんす。弓道者としてあろうことか、射型よりも的中を重視し始めたんす。肘が下がろうが、腕が曲がろうが、右手を捻り過ぎようがお構いなし。中ることの楽しさを優先して小学生に植え付け始めたっす。すると――――」
「射型が乱れて、中り続けなくなるんですね」
したり顔で小杉が織鶴の言葉を奪った。これ以上ないくらい最適な解答だと言わんばかりに、彼女の胸がググッ、と張られている。
「……ふぅ」
――――あ、あれ? 溜め息?
しかし、それに対する織鶴の態度は芳しくないものだった。とても残念なものを見るように小杉を見つめていたが、大きく息を吐き出すと叩き斬られた言葉を再び紡ぎだす。
「……まあ、そうとも言えるっすけどね。で、自分を含めた一割未満の生徒と、件の恩師だけは射型重視のままでやってたんすよ。中りは二の次、射型を美しく、その有り様が子供ながらにかっこいいと思って」
「……その頃の先輩、行動理由が割と単純ですね」
「ほっとけっす。それで、一人の指導者が恩師にこう言ったっす」
両手の人差し指を使い、織鶴は目尻をくいっ、と上げて狐のような眼を作った。
「「渡辺さん。いつまでそんな古臭い教え方をしているんですか? 年食って物覚えが悪くなりましたか?」ってね。当時の自分は小六っす。幾ら弓道が嫌いだった当時の自分とは言え、二年に渡って教えてもらった恩師が馬鹿にされたら腹が立つ程度には人ができていて、思わず声を上げて怒鳴り散らそうとしたっす。けど、恩師は自分たちの頭をわしゃわしゃと撫でながら、にっこりと笑ってその無礼者に問いただしたっす」
すると、今度は目尻をぐいっ、と引き下げて七福神のえびすような温和な目を作る。
「「君はいつになったら弓道を始めるんだい?」とね。向こうは何を言っているんだという顔で恩師の言葉を待ってたっす。けど、恩師はそれ以上そのとんちきには何も言わず、弓を取って道場全体の射を止めさせたっす。その時のことは、未だに忘れられねーっす」
「見本でもやってみせたんですか?」
「見本を見せたのは後にも先にも一回こっきり。最初で最後の射だったっす」
見本となるべき先達が見本を見せていなかった、その事実は小杉の目を丸くした。
「い、今までどうやって教えてたんですか、その近藤さんは!?」
「矢を一本持って悪いところを叩いて指摘っすね。射型に関しては教本遵守だったんで、「私の射を見て教本から離れてはいけない」っていつも言ってたっす」
「……その教え方だと、えーっと、親御さんの問題で発言権が失われても仕方が無いような……」
当たり障りのないような言葉を選び、小杉は織鶴の恩師の態度に対して苦笑い。おっかなびっくりといった彼女の態度に、織鶴は喉と腹を使って朗らかな笑い声を吐き出した。
「そう思うっすよね! 全くっすよ! 最初っからやって見せてくれれば良かったのに!」
「そ、それで、渡辺さんはどれくらい綺麗な射だったんですか?」
「そっすねー……。今の自分でも遠く及ばないくらい、っすかね」
柔らかな笑顔の裏に隠れた言葉の深み。嫉妬とも尊敬とも取れないその感情に触れ、無重力上で駒のように回転され続けるような不気味な感覚に襲われた。
背筋に走る悪寒、恐怖。一年前の鬼に見た熱く燃えるような激情とは全く違う、冷たく暗い底なしの泥沼のような陰惨なそれは、吐き気すらも促すほど醜悪だった。
小杉の織鶴に対する認識が音を立てて崩れていく。
「その日から、一会全体が射型重視の雰囲気に変わったっす。今まで的中重視派だった先達たちは考えを改め、ようやく一丸となって弓道を始めたんすよ」
けど、と織鶴は物憂げな表情で一度区切り、大きく息を吸って続きを語る。
「渡辺さんは五年前に遠い遠いお空に旅立って帰らない人になっちゃったっす。だから、今の一会が射型重視のまま指導しているかは分かんねーっすけど……少なくとも、あの時あの場にいた連中は射型重視意外は何も考えられない筈っす」
「……その話を聞くと、一度その渡辺さんに会ってみたかったですね」
「……全くっす。亡くなる数年前から「私が死んだら」とか「死ぬ前に」とかぐちぐち言ってたんで、寿命より早くお迎えが来ちゃったんす。享年七〇ピッタリっすよ?」
「……残念ですね」
「……大分話が逸れに逸れっちゃったっすね。ええと、つまりは……そう。弓を握った理由は何でもいいっす。弓道を始める理由が大事なんす」
――――随分とまあ哲学的な。
「渡辺範士はかく語りき、「弓を握るのは誰にもできる、弓を引くことも誰にもできる、弓道は自覚した人間にしかできないんだよ」と」
――――話の流れから、私は自覚してない部類かしら。
「まあ、弓道を始める理由だけの話ならここまで話す必要はなかったんす」
「……?」
「渡辺範士はかく語りき、「探弓者は布教者であり先達、弓道を現世に繋ぎとめ後世に伝えていくことこそが肝要なんだよ」と。今は武蔵より私の方が先達で、武蔵はまだ弓道を始めていない」
再び背筋に走る悪寒のようなものを感じ、小杉はようやく自分が犯してしまったことの重大さに気が付いた。
今自分が足を踏み入れてしまっている領域は、生半可な気持ちで挑むようなものではなかったと後悔する。この先の残った寿命すべてに、恐ろしくも美しい反射とも言える慣習が埋め込まれると察してしまった。
「さっき、お前が射型が悪いことは恒久的な中りに結びつかないと言ったっすね? そこがまだ弓道を始めていない確固たる証拠っす。弓道は、「中って当たり前の武道」っすよ。自分が言いたいのは、射型が悪いことは弓道の真髄に至れない、所謂資格がないということになるっす」
弓道は的中を目標とするものではない。弓道は如何に美しく、如何に正しく、如何に善く射を成せるかという理念が基盤となっている。的中は完璧な射をすれば中ってしまうのだ。的との距離など零になってしまう程に、目を閉じていても的中してしまう程に、絶対的な的中だけが存在する。
的と鏃の密着、融合。それは織鶴に無冠の弓聖の称号を与えたあの天下五弓が恐れをなした、因果律の逆転と奇しくも近似してしまっていた。
一体どこまでその領域に近づくことができているのか、それを明確にしたものが段位であり、称号なのだ。だからこそ、弓道界の頂点に鎮座する存命の弓道家を指折り数えても、拳の一つすら作れはしない。
恐らく、織鶴は日本にいる弓道家の中で最も早く、その眩くも恐ろしい頂点を目指した異端児である。
「
「最終、地点……?」
「全ての角度から違和感をなくし、全ての筋肉から力みを消し、道場という聖域に体を溶け込ませて世界を掴む。矢飛びに迷いもブレもなく、一切の動揺なく平静に、自然から溢れる美しさを体現する。そうすることで――――」
三度走る悪寒に小杉の下腹部が緩みそうになってしまう。歯を食いしばり、ぎゅっ、と股を絞めてそのあふれ出てしまいそうな愚かさを押し戻す。
織鶴の教授を受けてしまえばもう二度と取り返しがつかない、そう頭では分かっていても、彼女はその最終地点へ憧れを抱いてしまった。
羨望で煌めく瞳を見た織鶴は不敵に笑う。
小杉の視界に既に鬼はいない。映るはどんな宝物も霞んで見える
「お前の人生観をぶち壊すんすよ」