「……あれを渡せって……」
織鶴の脳裏に一張の弓の姿が過る。 墨汁にどっぷりと浸されたような
どの弓のことかを指定されたわけでもないが、話の流れから織鶴はあの「
「俺のソドムの弓には劣るとは言え、あんな化け物じみた弓は現世に二つとないだろう。同時期に作られた弓ならば引くことは叶わず、枯れ枝を折るが如く崩壊する」
触っただけで崩れるかもしれない、と与一は長い年月による風化の恐ろしさを神妙に語る。しかし、織鶴は自然の驚異を伝えるはずの弁から奇妙な言葉を聞き取ってしまっていた。
「……ソドム? 旧約聖書かなんかの奴っすか?」
「ほう、詳しいな?」
「いやまぁ、空に浮かぶ島の映画が好きなんで」
「ああ、あの雷か……そうだ。この弓から放たれる破戒の咆哮は、あの聖なる鉄槌にも匹敵し――――」
――――あっ、これ相当重症っすね。
「――――神々の怒りを収束し形をなした神造兵器は退廃の都を!」
「あ、もう結構、お腹いっぱいっす」
旧約聖書の話をつらつらと述べられては溜まったものではない、と織鶴はばっさりと与一の話をたたっ斬った。
「なに……? ま、まあ話が逸れていたことは事実だ。続きはまた次回に」
「打ち切りでお願いするっす」
食い気味に拒絶されたことで、与一の顔に僅かな悲壮感が浮かび上がった。
「…………ところで、あの弓はどうやって手に入れた」
――――落ち込みながらも続けるんすね。
「父から受け継いだんすよ。もとは自分のひいじいさんがどこからか見つけてきたみたいっすけど」
「……見つけてきた……? おかしな話だ」
「何がおかしいんすか?」
分からないのか、と言いたげに与一は鼻を鳴らす。女士とソドムとゴモラの話で少しばかり話せるテーマがあったことに妙に浮ついた彼も、しっかりと煽ることは忘れなかった。
「戦国、引いては江戸時代の強度を誇り、今も尚引くことができるんだぞ? なぜ、簡単に見つけただの拾ってきただの、苦労がなかったような言い草で持ってきた弓が化け物じみていることに疑問に思わない。妖怪のように長生きしていることに好奇をそそられない」
「まあ、一〇〇年単位で「持ってる」のは確かにおかしな話かもしれねーっすけども、弓の寿命は年数では決まんねーっす。矢を放った回数と、持ち主の愛情に左右されるもんでしょう」
弓道における弓の寿命は、何年使用しているかではなく、何本放ったかで語られることがしばしばある。現代でよく用いられているカーボン弓などは、一生に三万本は放つことが出来るという。しかし、仮に一日に総数五十本を三六五日休まずに放ち続ければ、一年で約二万本は放つことになる。極端なものとは言え、この単純計算では二年も持たない。勿論、実際全ての弓がこれほど酷使されるというわけではないが、これ以上放っている弓道馬鹿がいるのもまた事実。
そんなに弓が購入スパンの短い消耗品では浪費癖があると思われてしまう。ゴルフクラブを新調したがる還暦の会社員のようである。
だからこそ、織鶴はしっかりと言葉にしたのだ。弓の寿命を決めるのは放った本数と、持ち主の愛情であると。
織鶴は
貸出弓一四番に愛着がなかったかと言われれば嘘になるが、それ以上に愛情を注いでいるのが今の弓だ。貸出弓は貸出弓で数年は個人専用の弓扱いになるため、個人の色がよく写る。その為握り皮や弦は個人が仕入れ、自分好みに組み立てていくのである。一四番は握り皮に向日葵の柄のものを、弦は艶やかな
そんな様々な人間に扱われている貸出弓でさえも、二年で寿命を迎えるなどということはない。個人弓となればより管理が丁寧となるのが一般的で、寿命はもちろん長くなる。
「弓は一〇年使っても強度は変わらない。変わるのは我々使い手の思い入れの深さである」と、ある弓具店の店主は語る。自身が弓を作り、その弓を引く。誰よりも説得力のあるその理念を何の躊躇いもなく言い放ち、彼は一〇万本の矢を放った弓を一五年以上使い続けている。
また、江戸時代後期に作られた弓が引ける状態で売りに出されたことがあった。弓具店に持っていって張ってもらうことまでことが運んだという。
人間の身体と同様に、大切にされた分だけ弓は答えてくれるのだ。
「それにしたって限度がある。あれはどう見ても使い古され過ぎている。既に天寿を全うしていておかしくない逸品だ。文化財扱いされて然るべきだろう」
与一は大仰な身振り手振りを交え、織鶴の考えの狭さを指摘する。
「確かにその通りかもしんねーっすけども、今にも折れそうなこともなく使えてるんだからいいでしょーが。ちょっと御主人様に反抗的なくらい復元力が強いんすけどね。古い弓ながらも音はそこまで気にならない程度っす。新品の安弓なんかと比べたらこっちの方が上等だって言えるっすよ」
使い心地のレビュー。それを聞いた与一はしばらく悩んでいるように眉間にしわを寄せて、
「……それだけか?」
中身が空っぽだと追求した。
「……何がっすか?」
「感じるのはそれだけかと聞いているんだ」
――――いや、握り心地とかそう言う事じゃないでしょうし……。
「それだけも何も……。あ、強いて言うなら弦の消耗が激しいくらいで――――」
「……やはり、あの弓はお前には相応しくないな」
弓の使用感に関しての感想には大して問題はなかっただろう。しかし、与一は呆れかえったようにため息を吐いた。流石にそれには織鶴も激しい怒りを覚えたようで、こめかみに青筋を浮かび上がらせる。
「かっちーん。口に出しちゃうくらいには頭に来たっすよー?」
「事実だ。あの弓がどれだけ異質か、どれほどお前に悪影響を与えるか、そこがわかっていない」
「……?」
「あれは――――悪霊を宿している」
右手で顔を押さえながら、与一はそう呟いた。
「悪霊は人を穿つことを至上の喜びとし、血を吸わせろと呻いている。いずれ、あの弓は貴様を弓術へ引きずり込むだろう。先の交流戦において、あの弓を使った結果がいい証拠だ」
弓術と弓道の境界線をより明確に、互いの領域を侵しあってはならないというこの会合において、これは与一が最も行いたかったことなのだろう。現実味のない馬鹿げているような内容でありながらも、彼の表情は至って真剣だった。
心に抱えてしまった思春期特有の病のせいで口走っている部分もあるかもしれない。しかし、それ以上に迫真めいたものが彼にはあった。
「そして貴様は、あの神なる箭を持つ化物に近づいてしまう。雁を射殺し、人を射殺し、そして最後は世界を射殺す。大陸を驚異の渦に巻き込んだ化物になってな」
与一の目には、織鶴ではない何かが見えているようだった。織鶴の背後に立っている者を見ているというよりかは、織鶴と重なっている何かの姿を捉えているようだった。
「貴様は「あの女」と最も乖離した存在で、「あの女」と最も背中合わせの存在だ」
どうやら化け物とは女であるらしい。あの檳榔子染の弓が相応しい存在と言える女と織鶴が同一になってしまうことを、与一は最も恐れているように悟らせる。
「最後の警告をしよう、その弓を……」
「はぁ…………」
与一が差し出してきた右手を見るや否や、先ほどの与一よりも深く大きく、そして呆れを通り越す寸前のため息が、織鶴の口から盛大に漏れたではないか。
「…………ゲームのやりすぎっすよ、お前っ」
パァン! と与一の右手の掌を叩くようにして弾き飛ばし、胸が空いたところにズイッ、と織鶴は踏み込んだ。互いの距離はもう数センチしかないだろう。
思わず、与一の足が一歩下がる。
「「あの女」とやらが誰かは知らねー。それ以前に、お前が今何言ってるのかも大半分かんねーし知ったこっちゃねー」
「しっ、知ったことではないだと!? 巫山戯るな! これは俺のためだけのことではない! 貴様の行く末を――――」
「さっきから弓道をオカルトオカルトと……これ以上侮辱するんじゃねーっ!!」
胸倉を掴みあげ、激昂の声を与一の顔面に浴びせた。
今の今までのようなごちゃごちゃとした苛立ちは綺麗さっぱり吹き飛んだ、純度一〇〇パーセントの怒り。
「弓道と弓術を極めたなら、互いの領域を侵害しちゃならねーのは重々承知してたつもりっす。それなのに、あの交流戦で少しでも戦果が上がればと目先の欲に眩んだことも、苛立つ相手を仕留めたかった欲に身を任せたのも認めるっ……。けど!!」
グイッ、と胸倉を掴む手により力がこもり、与一の首がさらにしまる。顎が上がり、息をすることもつらくなっている与一はそれを引き剥がそうとするが、アドレナリンの影響もあってか、織鶴の握力は人生最大の威力をたたき出していたため、与一の力では簡単には引き剥がせそうにはなかった。
「よくわからん理由まで持ってきて説得されるんなら断固拒否するっす!! 弓術や弓道の話なら考えてやらんこともなかったのに……悪霊? 行く末? そんなん持ち出すくらいならこの話は無意味極まりねーっす!!」
織鶴はある点において、突き詰められた
弓道とは克己の武道であるとは織鶴自身の弁であったが、彼女の恩師の理念とも言えた。弓道を習った者ならば分かる感覚であるが、射を行う際に襲い来る邪念は瞬間的に膨大なものとなる。それを最も表したものこそ、弓道人口の大部分が一度は必ず通過する症候群であり、一度患えば治そうと思っても治せない大病、「
早気とは、両腕を引き下げて弓を引いている最中、まだ体の伸び代が残っているにも関わらず右手を離してしまうこと。射法八節で言うところの「会」が不十分、または全くないままに矢を放ってしまう現象だ。
この病気の恐るべきところは、「的に中てたい」と思えば思う程に症状が悪化することにある。そして性質が悪いことに、この病気にかかっている最中でも一定数の的中を上げてしまうのだ。遅気は技術的にずれている部分もあるので中らないことが多いが、早気は遅気より圧倒的に中る。
織鶴の恩師や父親のように、中ることは美しい射の副産物だ、と当然のように考えられる弓道家は少ない。射形を重視する者はいたとしても、的中を完全に意識の外へ出せる人間は極僅かだ。
弓道における最大の幸福感は的中すること。安心感と言っても差し支えないかもしれない。若い弓道家は特にこれを求める。高い段位を取っている熟練の人間でも、早々にこの多幸感を感じないでいられるものではない。
しかし、それをやってのける者がいるのも事実だ。敢えて醜い射で的中させ、十分に美しい射で敢えて外す、そういう指導を行える者が最もそれに近い。
それは織鶴の恩師然り、織鶴の父親然り、織鶴自身。
偶然中る、ということは織鶴の中ではカウントされない。数えられるのは射形が美しかったかそうでないかの評価のみ。的中など二の次三の次。あの交流戦の日、天下五弓を相手取ろうとしたあの一戦、彼女は「中り」を意識したからこそ、無様な姿を晒すことになったのだ。己の経験を刻んだ手の内を誤ったのだ。
それを、与一は悪霊の仕業だという。
――――冗談じゃねー。あれは、自分の失態っす。
中てたいと願ってしまった。中てられなかったことに悔しさを感じてしまった。弓道家としてあるまじき精神状況であったと織鶴は猛省している。射の結果は、全てその射をした自分自身に責任がある。そこに一切の介入はあり得ない。
中ろうが中らまいが、全て背負わなくてはならないのが弓道だ。
――――責められるべきなのに責められない。これ以上屈辱的なことはねーっす。
道具に愛情を以て接するが、それは決してオカルト的行為ではない。交流戦で指摘された付喪神などというものは断じて信じていない。道具に愛情を注いでいるのは美しい射に必要なこと。万全な状態で射をするための準備にも等しい。
弓道には現実的なことしか起こりえないと、織鶴は極めて冷徹になる。道具のせいにも、他人のせいにも、ましてやオカルトのせいにできるはずがなかった。
「領域侵害に気をつけろ……? お前は壁を作りすぎて、自分が純であろうとしすぎて…………対岸の弓道が何たるかを分かっちゃいねーっ!!」
ガツン!! 額と額が音を立てて衝突する。
「がっ――――」
「あれは自分の大事な繋がりの形っす!! そんな講釈述べられたところで手放す気は毛頭ねーんすよ!! このバーター野郎のクローン野郎!!」
ぜぇぜぇ、織鶴の口から掠れた息が漏れる。精一杯の言葉だったのだろう。
「…………」
にらみ合い、そして沈黙。与一の方が僅かに気圧されているように見えるのは、頭突きされた場所を手で押さえているからだろうか。
「……はぁ…………いい。もう……いい」
額を押さえていた手をずらし、顔を覆った与一が折れた。若干上ずった声で、勘弁してやるとのたまった。男としては情けない光景ではある。
「話を聞いて分かったんなら、それでいい。その弓も大事に飾っておけ。どうせ「射させろ」と文句を言ってくるのが目に見えているが、そこまで手放す気がないなら抑え込んでみせろ。それで貴様がこちらに堕ちてきても助ける気はさらさらないし、見捨ててやる。俺だけじゃない、椎名京も龍造寺隆正も見限ると決まっている。それで……いいな?」
「はん。始めっからそのつもりっすよ。自分は弓道からはみ出る気はさらさらねーんすから」
突き放すように与一の胸倉を離した織鶴。これでは最早どちらが男よりか分からない。
「……はっ! 肘を痛めるような強引さを出しておいてよく言うものだ」
「うるせーっすよ」
「……二度目はないぞ」
「肝に銘じておいてやるっすよ。一応、認められているということでもあるみたいですし」
一瞬の瞠目、そして直ぐに満足そうな笑顔が与一の顔に浮かび上がった。
「ほほう、分かっているじゃないか。貴様は弓道界の超新星だ。半世紀は貴様の時代が来るだろう……。くだらんことでその地位を逃すんじゃないぞ」
「ご忠告どーも」
「…………それと、もう一つ話があるんだがな……」
――――……なんすかね。これまた神妙な顔をして……。
「……その…………正成殿に、不肖ながら那須与一のクローンが、一度顔を合わせたいと言っていた……そう、伝えておいてくれ」
――――は?
「は?」
途端に方向性が正反対の話題に、織鶴はただ聞き返すことしかできなかった。
「お前、あの藤巴正成殿の、癒しと清澄を極めた藤巴範士の娘なんだろう?」
「なんでまさく……父を知ってるんすかね?」
「剣を得物とする人間が黛大成に憧れるように、柔術を技とする人間が藤原道行に恋い焦がれるように、俺だって弓を扱う人間として、生きる伝説に会いたいと思って……何が悪い」
――――コイツ……あんだけ弓道と弓術の壁を私に忠告しておきながらっ……!!
「こんっの……お前ぇ!! バーターだけじゃなくてミーハーでもあったかぁ!!」
「わっ、悪いか!? 俺だってクローンとはいえ若輩なんだ!! 「あの」藤巴正成には一度会って射を見せてもらいたいと思って当然だろう!!」
「なーにが壁っすか!! なーにが領域っすか!! ここまでやってきたやりとりほぼすべて意味が薄れちゃったじゃねーっすか!! 馬鹿!? 馬鹿なんすか!?」
「う、薄れてなどいるものか!! これはその…………そう、弓道と弓術の違いを明確に理解するための見聞を広める必要な儀であってだな……」
「さっきの頼みはどう聞いても「お前の親戚にいると聞いたモー○ング娘。のメンバーに合わせてくれ」レベルのミーハーっぷりだったっすよ!!」
「人の趣味嗜好にとやかく言うな!!」
「あー、はいはいそっすか。じゃあ、お前に関することは何も伝えないでおくっす」
「はぁ!? なんでだ!!」
「会わせたくないからに決まってんでしょーが。自分、弓道弓術以前にちょっと痛い人間はスルーしたく」
「痛いとか言うな! ……だがしかし、貴様は既に俺から称号をさずけられているんだぞ?」
「? なんのこと――――」
「ふふん。あの交流戦の後、全校に知れ渡ったはずだ。畏怖と敬意の象徴……そう! 「無冠の弓聖」が――――」
「――――あの痛々しい肩書きはお前の仕業かこんにゃろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
◇
「アンタが那須与一であってるか?」
それは唐突に訪れた。
用意された場所、指定された時間には極めて正確だった。早すぎず遅すぎず、秒針が天を突くよりも数秒早かったかもしれないが、誤差はその程度だったと与一は断言できた。
――――コイツ、どこから沸いた?
与一は自分の戦闘能力に幾分かの自負があった。それは那須与一のクローンであるという信じがたい出自や虐待に近いスキンシップを除いた、十数年の月日で培われた圧倒的な感覚の発達。視力はそれこそ鷹の如し、聴力も常人の数倍は発達していた。
故に、存在にすら気づけず背後から声をかけられるなど、動揺しないでいられなかった。
「なあ、確認してんだけど」
「…………ああ。俺のことだな」
出来るだけ平静を装う様に、普段から纏っている「鎧」を身に着けて対応する。あくまで冷静に、あくまで冷徹。自分は「特異点」である、自分は「特別」である。暗示にも近い妄執に自ら囚われ、偽りの安寧に逃避する。
「そうかそうか。そりゃあよかった」
与一は目の前の異物に対しての分析を遅れながら開始した。
双眸は鮮烈である。春雷を想起させるほどに鋭い目つきは、鷹の眼とも称された与一の眼にも匹敵しうるものであった。
輪郭は流麗である。その美しき体の線を辿って見るだけで、相対する者が女性であると理解できるほどだった。
弓手は幽美である。隠匿されるべき自らの手の内を無防備にさらしているようで、その実左の掌には白銀の靄のようなものがかかっていた。
脊柱は頑強である。真っ直ぐ一本の杭が打ち込まれていると錯覚してしまう程に、彼女の身体には確固たる芯が存在していた。
闘気は濃密である。どろどろとした乳製品の濃厚さに打ち負かされたような気味の悪さが、与一の器官を犯していた。
総括して、目の前の女は与一にとっての得体の知れない脅威であった。
「……一度でいいから俺に会いたい、と九鬼に直談判した物好きはお前か。九鬼に対してメリットになるであろう何かを差し出してまで、俺に会いたいと願ったのがお前か。まだ世間に公表されていない俺のことを知っているとは……まさか、組織の者ではないだろうな……?」
「組織? 一応組織っぽいものに属しちゃいるけど、今回は別件だ」
まさか素直に組織と返されると思ってはいなかったのだろう。与一はその女から一歩飛ぶようにして距離を置いた。
「うおっ……。どうしたいきなり。アタシ、何か悪いことした?」
対する女も驚いた様で、飛び跳ねるとまではいかない者の僅かに目を大きく開いて苦笑いを浮かべていた。
「……お前、組織の人間と言ったな? 生憎と、お前らに賛同する気はこれっぽっちもなくてな」
「警戒心ビンビンじゃんか。そんなにビビることでもないだろ? アタシら梁山泊に」
梁山泊。与一はその言葉に聞き覚えがあった。歴史的な事件が起きれば、裏で必ずと言っていいほど暗躍していたとされる伝説の武闘派集団の名前である、彼は無駄に蓄えられた歴史の知識からその情報を呼び起こした。
「……梁山泊だと……?」
「あれ……見て分かんなかったのか。九鬼の従者どもはこの服で気付いたんだけどな」
そう言って、彼女は腰に巻かれたパレオのような見た目の黒い装飾布を掴んで見せた。
梁山泊の統一色であろう真っ黒な生地でできたその服装は奇抜なものだった。あわや右の乳房が飛び出しそうなほど、襟口は斜めに叩き切られている。それとは正反対に、左半身はこれでもかと布地ばかりだった。左腕はその形が分からないようになっているためか、和服のように袖が弛んでいて露出が少ない。
などと思えば下半身は無防備である。パレオのようなものがあるとはいえ、きわどい角度の下着のようなものが一枚だけ。大胆というよりは独創的。色気もあるが不気味でもあった。ところどころに施された銀の装飾が、純銀製の食器のような艶がある
「ま、所詮裏方同士って奴か。アンタらみたいに武勲や文学で名を馳せられたら多少は違ったかもしれないがな」
「……皮肉のつもりか? 俺からすれば、余程お前らの方が有名だと思うがな」
「そりゃ初代の話だろ? アタシらみたいな襲名式の連中なんて、初代以外は「なんてことない」。名が知られているのは宋の時代に終わった連中だ」
――――コイツ、同じ臭いがする。
「……お前、弓使いか」
「流石、源平合戦で名を遺した弓兵の観察眼は伊達じゃないってか。どこで気が付いた?」
「異常に真っ直ぐな体幹で武人というのはすぐに分かった。だが、それだけでは何を得物としているかまでは分からん。その左手と、太腿。あとは重心の位置か。弓を扱い続けている者の「それ」だ」
「そんな分かり易いつもりはこれっぽっちもないんだけどな」
「万人に一人が気が付くかどうか、といったところだろう。だが、忘れたか。俺は那須与一だぞ。弓兵の体つきなぞ、輪郭をなぞる程度で大体分かる」
「御見事。いやはや、伝説上の偉人のクローンってのはすごいもんだ……そんじゃあさ――――」
どすっ。
「――――ッ!!」
真正面から堂々と、腕ほどの太さはあろう槍に穿たれた感覚、錯覚。与一の目の前にいる女は、ただ笑って何かを提案しようとしただけ。それだけで、与一の身体は穴だらけにされた気分だった。
「ちょっと、手合せしようぜ? 弓使うんならどんな種目だっていいや」
どろり。
「なっ――――」
彼女の左手から、銀色の泥が零れ落ちる。どろどろ、と彼女の腕自体が溶けているようにも見える。
「なあ、やろうぜ? そのためにわざわざ
彼女の足もとには泥溜りができていた。水銀にも近い色をした輝かしい泥が、これでもかと彼女から溢れては地面に溜まっていく。
彼女の身体は、左腕はしっかりと形を保ったままだ。決して溶けている訳ではないと断言できるようになった。
しかし、その銀色の泥が何なのか、与一の理解には遠く及ばない。
「そういえば、自己紹介まだだったな。「臨戦態勢」に勝手に入って悪かった」
――――この、この奇々怪々な光景が「臨戦態勢」だと言うのか!?
「アタシは、梁山泊が序列九位――――」
◇
「塩もみキュウリ? 食べたいのか?」
「…………なんだ、義経か」
「さ、探しに来たのにそんなふうに言わなくたっていいじゃないか!」
「あー、悪かった悪かった」
「……何か、今日の与一は素直だな!」
「この程度で素直とか俺は小学生か……」
「いや、普段に比べればすっきりした感じだぞ! あ、そうだ! 食べたいなら義経がキュウリをもんでやろうか?」
「……塩もみキュウリじゃない、序列九位だ」
「序列九位? 何か誰のことだ」
「嫌な奴だ。まったく、嫌なことを思い出した」
――――あれから、もう一年か……。
「嫌な奴、嫌なこと……寝てて夢でも見たのか? 屋上で寝ると気持ちよさそうなものだけど……」
「寝て……いやまあ、昏睡させられたというか、意識を奪われたというか…………まさか腹パンで気絶するとはな……」
「何?」
「……なんでもない」
――――「あんな女」になるなよ藤巴。あれは正真正銘の「化物」だ。
「義経が与一のキュウリをもんでやるぞ!」
「……その言い方、二度とするなよ」