真剣で私に恋しなさい!S ~無冠の弓聖~   作:霜焼雪

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真朱

 

 

 

「こんにちは矢場部長」

 

 

 

 与一との対話(たたかい)を終えてから二日後、織鶴は放課後に弓道部に顔を出すことにしていた。体育館などに比べると昇降口から少し距離のある弓道場へ歩いて行くと、道場の外には数名の弓道部員が屈んでいる姿が見えた。

 

 数名が集まっているその場所には、初夏にピッタリの気持ち良い冷たさを生み出すようになった水場がある。巨大なたらいと年季の入った洗濯板を用意して、裕に一〇枚以上はある雑巾を手洗いしているようだ。

 

 その中には、そんな仕事は下級生にでも任せておけばいいと注意されてもおかしくない、弓道部の長である矢場弓子がいた。わざわざ胴着からジャージに着替え、率先して雑巾にできる限りの白さを取り戻させようとしている。

 

 

 

 ――――いやぁ、やっぱり部長は矢場部長以外考えられないっすねー……。他の三年生がどうこういう訳ではありませんがね? 相対的にね?

 

 

 

 誰かに聞かれるはずもない心の声にしっかりと予防線を張っていたところ、雑巾の泥汚れがついてしまっても尚美しい腕を止めて、弓子は冷徹の外面を作り上げて挨拶を返す。

 

 

 

「おお藤巴、こんにちは。少し参加率が悪くなるかもと言っておきながら律儀な奴で候。噂をすれば影がさすとは、中々どうして馬鹿にできない故事で候」

 

「いや、もう癖みたいなもんですし……それに今日は京に呼び出されたのも……というか、噂っすか?」

 

「一体どんな魔法を使ったのか、と言う俗な噂で候」

 

 

 

 織鶴自身に噂されるようなことなど身に覚えはなく、「無冠の弓聖」に関しては無視を決め込むことを貫くつもりの彼女にとっては、これ以上の自分の噂は厄介以外の何物でもなかった。

 

 東西交流戦においてあそこまで目立ってしまったのは、天下五弓の二人による祀り上げ方が異常だったということに尽きる。それさえなければ、彼女の暗躍は川神学園の頭脳役二人の心内に留められていたはずだ。彼女自身、荒れた起伏の少ない人生を望んでいる。平坦とまでは言わないが、急勾配はもっての他。

 

 そんな彼女の噂。「無冠の弓聖」を除いて思案し、弓道部で初めてその噂を聞いたことから、残念なことに噂の正体の心当たりが見つかってしまった。

 

 

 

「……ああ、武蔵っすか」

 

 

 

 武蔵小杉。織鶴がこの学園で最初に弓道を説いた後輩であり、織鶴の手によって人生観に大きな亀裂を入れらた被害者である。

 

 

 

「どーっすか、少しは真面目になったでしょう」

 

 

 

 織鶴はあの二人きりの教射以来、指導という指導はしてこなかった。付きっ切りで教えるのは違うという彼女の判断によるもので、小杉が教室で待ち伏せしていても、小杉が校門から家まで尾行してきても、小杉が朝一道場で掃除をしていても、それ以上の指導はしなかった。

 

 そして今日、向こうからのアクションは何もなかった。丁度、織鶴が「あらかじめ見に行くことを決めていた日」と奇しくも被っている。呼び出しを受け、且つ後輩への指導をする、織鶴にとっていつも以上に道場へ行く理由が多かった。

 

 

 

 ――――自分のストーカーになってるくらいなら教本読んでた方がましだと言うのに、そこんところはまだ分かっちゃいねーっすからね、アイツ。

 

 

 

 きっかけは与えた。弓道を始めた以上、小杉は自己研鑽を必須とされるようになったのだ。師の模倣だけでなく、己の模索とが求められていることに、小杉はまだ気が付けていないようである。

 

 

 

「少し? そんな言葉で補えるほど、あいつの変化は生優しくないで候。普段以上に姿見の前で素引きをするわ、ほったらかしにしていたゴム弓を引っ張り出してくるわ、弓道へ向き合う意識が最早別物で候」

 

 

 

 しかし、どうやら小杉自身は前に進んでいるらしい。先人の道を手探りで辿っているらしい。

 

 

 

「ちょいと、虐めすぎたっすね」

 

「聞けば、秘密の特訓をしたとか……。実際はどうで候?」

 

 

 

 聞かれてはいけない類の話だと思ったのか、弓子は立ち上がって織鶴に耳打ちするように問いただした。洗濯を続けている生徒は何事かと二人を見るが、織鶴が眼鏡を少し下げて一睨みすると、視線は一斉に手元の雑巾へと戻された。

 

 

 

「そんな大層なことしてないっすよ。弓術と弓道の境目だったのを、自分側に引きずり込んでやっただけっすよ」

 

「熱血指導でもする柄でないくせに、よくやったで候」

 

 

 

 ――――熱血指導なんかしてないんすけどね、ラベル通りの人間なんで。

 

 

 

「で、今日は武蔵いるんすか?」

 

「うむ、精を出しているで候。何せ、昨日一昨日は急な休みだったからな」

 

 

 

 昨日、川神学園弓道部には大掛かりな人員が導入されていた。絵に描いた鼠のような薄梅鼠(うすうめねず)を基調としたつなぎを泥だけにしながら、恰幅のいい中年男性が寄ってたかって弓道場の(あづち)を叩き壊し、再び押し固めて成形してくれていたのだ。

 

 垜は特殊な材質で作られている訳ではなく、土に砂や大鋸屑を混ぜたものを山型に盛ったものをひたすら叩いて固め、ちょっとやそっとでは崩れないような強度になるように作られたものだ。土を盛り、水をかけ、叩いて固める。これを何回何十回と繰り返すことで、相撲の土俵を切り取ったような強固な垜が作られる。

 

 とは言え、この強度がずっと保たれるわけではない。しっかりとメンテナンスをしない限り数ヶ月で瓦解してしまうだろう。毎回使用後には垜の命の源である水をシャワーのように振り掛ける。山の斜面に沿うように箒をかけて、矢が刺さり崩れたものを垜に戻してやると、ある程度の崩壊は抑えられるのだ。

 

 勿論、川神学園には鬼鶴と呼ばれる備品管理の天才がいるため、垜もその管理に漏れずしっかりと手入れをされていた。しかし、彼女は耐用年数が過ぎたものを元に戻せる魔法が使える訳ではない。切れてしまった弦、折れてしまった矢、穴が開いてしまった握り皮、それらすべては供養の対象だ。

 

 川神学園の垜も限界が近く、近いうちに崩して作りなす必要があるのは織鶴自身もよく分かっていた。誰よりも道場に来て、誰よりも練習してきた彼女がそれに気が付かない筈がなかった。

 

 しかし、彼女の目算より早く垜は崩れた。

 

 いや、壊されてしまった。天下五弓が誇る「最長距離の射手」、那須与一によって。

 

 顧問の許可があったとは言え、予定にはなかった事態には変わりがなかった。織鶴を含めた弓道部員全員は、強制的に一回半分の弓道の練習を公的に休むことになってしまったのだ。尤も、ランニングや筋力トレーニング自体が休みになったわけではないのだが、拍子抜けと言えば拍子抜けである。

 

 

 

 ――――だからって、ストーキングされても困るんすけどね……。

 

 

 

「水を得た魚……っすかね」

 

「……私には、まな板の鯉に見えるで候」

 

「え、なんでっすか?」

 

 

 

 言葉を選んでいるのか、弓子はとても言いにくそうに唸った後、やや恨めしそうに織鶴を凝視する。

 

 

 

「お前のそんな愉しそうな顔を向けられていると思うと、な。弄りすぎるなよ?」

 

「……それはちょっと……了承しかねるっすねー」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 カンッ! 木枠に矢が弾かれた音が響いた。

 

 矢を放った本人には、この音が何とも腹立たしく聞こえてしまう。嘲笑っているような、失笑しているような、そんな音だ。

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

 

 そう感じとってしまうのは、弓道を始めたばかりの武蔵小杉も例外ではない。自身が全身全霊を込めて集中した一本が、にべもなく一蹴されているような気分を味わうのだ。無心でいろと言われる方が難題であろう。

 

 

 

 ――――こんな時、あの人だったら……いや、あの人はそもそも外さないわね。

 

 

 

 肩の力を抜き、大きく息を再び吐き出した。

 

 

 

「こら武蔵。露骨に力を抜くな。まだ終わってないっすよ」

 

 

 

 ぽかっ、と気の抜けていた小杉の頭が後ろから小突かれた。思わず振り返ると、そこには小杉の思い描いていた「あの人」が冷ややかな目を向けていた。

 

 

 

「お、鬼つ――――」

 

 

 

 ぽかっ、と振り向いた小杉の額にもう一発。

 

 

 

「その呼び方は止めろと言ったはずっすよ。それと、的前で大声出すなとも入部の際に十分キレた筈っすけど?」

 

「し、失礼しました……」

 

「ほんと、急に従順になりおってからに……」

 

 

 

 呆れたように小杉に言い放つと、織鶴は武蔵から少し離れたところで腕を組み、じっと武蔵を見つめていた。

 

 

 

 ――――め、目を逸らしちゃだめなのかしらね……。

 

 

 

 いつ火花が出てもおかしくないほどに視線がぶつかり続ける。

 

 

 

「…………何ずっと見てるんすか」

 

「え?」

 

「「え?」じゃねーっすよ……。生産性ゼロなことを道場でやるわけないでしょーが」

 

 

 

 ――――ち、違った……。で、でも、多分勝手に目を逸らしたら逸らしたで怒られそうだったし……。

 

 

 

 弓道界の新星、無冠の弓聖、備品管理の鬼、鬼鶴、小杉は織鶴のいろんな面を見すぎている。最早、彼女の中で織鶴という存在はある種の神格化を受けているのかもしれない。

 

 

 

 ――――さわらぬ神には何とやらね……。できるだけ不用意なことは避けなきゃ……。

 

 

 

「ほれ、見てやるから。一立」

 

「あ、はいっ」

 

 

 

 ざわっ……! 道場内に小声の嵐が吹き出した。

 

 

 

「こーら。一年に同級生共、道場でごそごそ騒ぐんじゃねーっす。先輩はお静かにお願いするっすよー」

 

 

 

 ――――先輩本人はどう思ってるのかしらね、この状況……。多分、先輩のことだから――――

 

 

 

「やれやれ、騒ぐほどのことっすかねぇ」

 

 

 

 ――――やっぱり、大したことないように思ってた。

 

 

 

 織鶴が指導をすることは弓道においてほとんどなかった、小杉はそれをよく知っている。小杉たちが入部し、鬼鶴と呼ばれるようになった事件においても、織鶴が率先して教えたのは的前における所作ではなく、筋肉や体の使い方だけだったのだ。小杉にとっても、先日の一対一の教射が初めての弓道の指導であった。

 

 

 

「騒ぐほどのことですよ……。道場に来たら自分の世界に入りっぱなしじゃないですか……」

 

「うーん、だからってここまで――――」

 

「騒ぐほどのことだよ」

 

 

 

 織鶴が納得のいかなそうな表情を浮かべていると、ぬるっ、と一人の女子が後ろから姿を現した。

 

 

 

「ややや、これはこれは京ちゃん」

 

「ちゃん……。恥ずかしくて言えないからって、そんなおちゃらけた言い方をしなくても……」

 

「な、なんのことっすかねー?」

 

 

 

 ――――この二人、絶対反りが合わなそうなのに……仲がいいのよねぇ……。

 

 

 

 織鶴を毎日のように弄る椎名京は、椎名流弓術の達人且つ天下五弓に選ばれている。対する藤巴織鶴は天下五弓への挑戦権を蹴った弓道の申し子である。あまり弓にも詳しくない人間が見たら、弓の使い手同士で仲が良くなるのは簡単そうに思える。

 

 しかし、一度弓道を始めてしまった、弓道のスタートラインに立たされてしまった小杉が見れば、それは思い違いであるとはっきり分かる。

 

 弓術と弓道に存在する大きな差、今の今まで京に対し教えを請いていた自分が情けなく思う程、その差は分厚い壁となって立ちはだかる。

 

 

 

 ――――先輩に「壊され」て、改めて思う。この二人、なんで仲良くできるのかしら……?

 

 

 

「自発的に教えてるのなんて初めてだと思うよ?」

 

「自分、そんなハクジョーな気はないんすけど」

 

「嘘。いつもヒラヒラかわしていたくせに」

 

「だって……教えてもすぐ忘れるし……」

 

「子供じゃないんだから、ね?」

 

「でもですね、あの時の三年の先輩は――――」

 

 

 

 ――――ほ、ほんと、なんでかしらね……。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「あの、始めてもいいですか……?」

 

 

 

 京と織鶴が過去話に花を咲かせようとしたところで、小杉から弱々しい待ったが掛かった。

 

 

 

「おっと、すっかり忘れてたっす。悪かったっすね」

 

「い、いえ……」

 

「そんじゃ、どうぞ」

 

 

 

 織鶴が射をするように促すと、小杉は矢と弓を構え直して足場作りからしっかりとやり直す。

 

 

 

 ――――足運びはやっぱり綺麗……伊達に武道やってないっすね武蔵。そこは素直に感心するっす。伊達にブルマが似合うわけじゃない、と主張しているような安定した下半身っす。

 

 

 

 小杉の射に対する評価は、足場作りをする前、的前に入る時からすでに始まっていた。それに対する評価は良いものであり、彼女は感心したように小さく頷く。

 

 

 

 ――――ああ、物見で雑念が入ってるっすね。

 

 

 

 ただ一度的を見ただけで、小杉の肩がくくっ、と上がった。分かりやすく力が入ってしまっているのだろう。

 

 

 

 ――――打ち起こし、第三……こらこら、物見を崩す馬鹿がいるっすか。そうしたいのはわからんでもねーっすけど。

 

 

 

 まだ弓を引いてすらいないのに、小杉に対する修正点は山ほど見つかっている。織鶴の審美眼は一切の淀みを許してはいない。

 

 

 

 ――――うーん、バランスがまだ甘いっすねー。前に力貯まりが見えるっす。それに早気。雑念が抜けきれてないっすねぇ。満ちきってねーっす。

 

 

 

 弓を引き、矢を放つ。そこまでの動作を見終わって織鶴は目を瞑り、うーんと唸って体を横に揺らしている。

 

 

 

 ――――武蔵は盗むよりやってみなきゃだめなタイプなのは間違いない……。言ってどうこう直せるかどうか……。

 

 

 

「やれやれ……」

 

 

 

 軽く腰を叩き、ゆったりとした足取りで小杉に近寄ろうとする織鶴。その鈍い歩みにも、当然のように足音はない。

 

 

 

「鶴ちゃん?」

 

「やっぱり武蔵は盗むタイプではないっすねぇ。努力型なんすよ、きっと何事も。才能にあぐらかいてる阿呆には到底思えんす。いやはや、可愛い奴め」

 

 

 

 ポン、と織鶴は小杉の後ろで射をしようとしていた男子生徒を止めた。

 

 

 

「前失礼するっすよ武田。ちょーっとだけ手を止めてもらえるっすか」

 

「お、おお? 別にいいけど……」

 

「どーも、あとで缶ジュースでもおごるんで」

 

 

 

 後ろで聞こえた織鶴の声に小杉は首を向けるが、それを織鶴に途中で止められてグリッ、と無理やり向きを戻されてしまう。

 

 

 

「そのまま聞け、こっちを向くな、いいっすね?」

 

「は、はい」

 

「後ろで見ていてやるっす。言われたとおりに動くように」

 

「……は、はいっ……!」

 

 

 

 小杉にとっては最上級のプレッシャーがかかるように、二人分の場所を取っての指導を行う織鶴。織鶴にその自覚は恐らくないが、彼女にとって小杉が緊張するのは好都合だった。小杉の良いところと悪いところが顕著に、極端になる。

 

 

 

「…………ストップ」

 

 

 

 足場を作り終えたところで、先ほどの感想を交えて今の小杉を鑑定する。

 

 

 

「足踏み、胴造りは流石の一言っす。さっきも思ったんすけど、体幹がしっかりしてなきゃこうはいかないっすね。後はバランス感覚っすか、ここは才能と武道の賜物としておくっす」

 

「……ここ「は」?」

 

 

 

 ――――そう、ここから。

 

 

 

「手を止めるな、続けろ」

 

 

 

 ジロリ、と織鶴が半分ほど振り向いた小杉を睨みつける。

 

 

 

「取り掛けが高いっす。もう少し下……そう。手の内も意識して……肩上げんな、力入りすぎっす」

 

「は、はい」

 

「返事はいらないから、集中しろっす」

 

 

 

 ピシャリ、小杉の精一杯の従順さが叩き落とされた。

 

 しかし、気を落としてはいられない状況は変わらない。

 

 

 

「……ふぅ……」

 

「呼吸を大きくしては駄目っす、あくまでも自然な呼吸で力を抜くこと。そもそも力を抜くって意識すること自体が……まあ、「まだ」それはいいっす」

 

 

 

 小杉の両肩に手を添えて、力の入れるポイントが違うことを指摘する。そうすると、小杉の背中にくくっ、と力が移った。肩から、背中から引くということを体に教え込もうとしている。

 

 

 

「物見で的を見てもいいっすが、ここで的を見るのは中てるためではないっす。的中より型……射型……意識を的中から外せ……いー感じっすよ」

 

 

 

 ――――まったく、教えがいのある……。一回壊れたとは言え、思った以上に飲み込みがいい。やっぱり性格がネックだったんすねぇ。

 

 

 

「打ち起こし……左腕は伸ばしきるな、溜めろ溜めろ溜めろ。こら、視線を外すな、自分の腕なんぞ見たところで射はいい方向には変わらねーっす。肘の角度手首の角度手の内の入り(ゆがけ)の具合、全部見て認識するな。的場だけ見てろ……。違う違う、腕で下ろすな肩で下ろせ。無駄に力を入れて得はしないっすからね。そして会、溜めろ溜めろ伸ばせ伸ばせ。おいおい右腕開きすぎっすよ、寄せて寄せて、胸を開け開け、矢が曲がっちゃ――――」

 

 

 

 タァン!! 小杉という発射台から放たれた矢は僅かに撓りながらも、心地の良い音を立てて見事的中する。

 

 

 

「…………ふむ。まあ、これくらい直すところはあるんすよ」

 

「あの……取り敢えず一つ、いいですか?」

 

 

 

 ゆっくりと弓をおろし、射の体勢から完全に解放された小杉は織鶴に真剣な表情を向ける。

 

 

 

「何個でもいいっすよ」

 

 

 

 実に深刻そうな顔を向けられてしまうと、織鶴もしっかりと答えてやりたくなってしまう。どんな質問が来ても精一杯答えるつもりでいた。

 

 

 

 

 

 

 

「……頭がパンクしそうでした。特に最後」

 

 

 

 

 

 

「あー……うん。そう言われると、自分も少しやり過ぎたかと」

 

 

 

 吐き出された言葉は、破裂寸前の脳みそが必死にひねり出した危険信号。

 

 最後に畳み掛けるように綴られた言葉たちは、小杉の耳から入って抜け出ることはなかったが、脳みそを巡り巡って膨れ上がり爆発しそうだった。流石にそう言われると、教えた側の織鶴も申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。

 

 

 

「けど、あんなん考えてちゃ本当はいけないんすよ。あくまで教えるときにはこーしろあーしろ言ってるんすけど、お前は最終的にあれを無意識でできるようにならないと駄目っす」

 

「は、はい」

 

「例えば……そーっすね。ルーティーンをやる野球選手は逐一こーしてあーして、なんて考えないっすよね?」

 

「癖みたいなものですし……」

 

「それっす」

 

 

 

 ビシィッ! と勢いよく指を突きつけられたからか、僅かに跳ねてしまうほど驚いてしまった小杉。そんな後輩のちょっとした怯え方など、織鶴は歯牙にも掛けずに話を続ける。

 

 

 

「簡単に言っちゃうと、癖をつけるんすよ。今の内に完璧な射の癖を。反復練習してこれを無意識で完璧に行えるようにする必要があるっす」

 

「……そこまでですか」

 

「真剣と書いてマジっす。そんじゃあ……巻き藁でやってやるっす。喋りながら的前で弓を引くのは嫌なんで」

 

 

 

 そう言うと、金糸雀(かなりあ)の弓を手に取り、的前で使う矢とは違うものを取り出した。本来あるべき三枚の羽根は極端に細く、鏃はまるで尖った弾丸のような形をしている。巻き藁に使用される矢は、決まって特殊な形をしているのだ。

 

 直径五〇センチほどの藁の塊、真正面から見れば太鼓のようにも見えるそれの前に立ち、織鶴はしっかりと足場を作る。

 

 

 

「足踏みと胴造りはほぼ完璧なんで割愛するっす。自分がちょっかい出して壊れちゃうのは……ちょっと憚れるんで」

 

 

 

 そう言うと、小杉はちょっと照れたように体をもじもじさせている。

 

 

 

「鶴ちゃん、甘やかしてない?」

 

「いや、まさかこんな露骨な反応をするとは思ってもみなかったんで……」

 

 

 

 ――――気を取り直して。

 

 

 

「そんじゃあ武蔵。その奇妙なダンスやめてこっちをしっかり見るんすよ?」

 

「べ、別に踊ってませんよ?」

 

「まず、取りかけ位置っすけど」

 

「聞いてくださいよっ」

 

 

 

 訴えかけるような声ではあったが、先ほどの注意が効いているのか、小杉の声に力は籠っていない。

 

 さらに訴えかけようとした小杉であったが、それを京が肩を掴んで止めた。京は口に対し垂直に人差し指を立てて、黙れ、と無言で命令している。叱られた小杉が恐る恐る織鶴に向きかえると、声を発しながら射法八節を行っている彼女は、既に自分の世界に入ってしまっていた。

 

 

 

「お前の取りかけは位置が高いっす。帽子と筈の空間には矢が一本は入らねーと駄目っすよ。そいで……物見。この時にあの的に当てるんだな、なんて考えんなっす。ただ首を横に向けただけ……っつーのは言い過ぎっすかね」

 

 

 

 ――――自分はそれでいいんすけど。

 

 

 

「漠然と矢の飛ぶ方向を確認。あとは弦に顔をやられないようにしっかりと首を横に向ける作業と思えばいいっすよ。一種の保身みたいなものっす」

 

 

 

 ――――眼鏡が吹っ飛ぶのは痛いなんてもんじゃないっすからねー。

 

 

 

「打ち起こしでもそれは揺るぐな、耐えて耐えて……。さっき武蔵の射はここが少し低い気もしたっす……。もう少し、上げて……ここで大三。左腕の高さに気をつけて、張りすぎずに適度な柔らかさを保持しておくっす。ここで伸ばしきるとベタ押しっす。醜いっす」

 

 

 

 ――――何事にも余裕を、っすよ。

 

 

 

「引き分け……腕で引くんじゃないっす。肩、背中で引き降ろす……肩甲骨を第一優先……猫背になるなんて論外っす。右肘、左の二の腕は第二優先……。口割で止める……けど心は止めんなっす。あくまで引き分け続ける、会は完成じゃないっすよぉ……っ」

 

 

 

 ドンッ!! 道場を揺らす音が響いたかと思えば、巻き藁の中心に突如矢が瞬間移動したような錯覚に陥るほど速く、弓から放たれた矢は巻き藁を貫いている。

 

 残心を解き、ゆっくりと足場を崩して巻き藁矢を抜きに向かう。

 

 

 

「この離れ、すっ……と抜けるようわぁっ!?」

 

 

 

 巻き藁に刺さった矢を真っ直ぐ抜き取って振り返ると、道場内で練習をしていた部員全員が集まっているという異常事態。あれほど大きな声を出すなと叱っていた織鶴も、思わず大きな声を出して驚いてしまった。

 

 

 

「鶴ちゃん、道場じゃ静かに」

 

「ととっ……ってか、なして皆さんこちらに……?」

 

「いやぁ、鶴の教射なんてレア中のレアだし。普段無感情じゃん?」

 

 

 

 気が付けば、最前列に並んでいるのは織鶴の同期たちばかり。ニヤニヤと口角を上げている者もいれば、真剣に織鶴の射を観察している者までいる。

 

 そして、その中には仮面をうっかりと落としてしまっている者も。

 

 

 

「参考になるなぁ……」

 

「キャプテン、素が出ちゃってるよ」

 

「もう今日はこれでいいわ、教えてもらう立場だしね」

 

「自分は武蔵に教えてるつもりだったんすけど……?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「それで、今日は何の呼び出しだったんすか?」

 

 

 

 小杉に対する――中ごろから終盤にかけては弓道部全体に対するものになってしまっていた――教射を終え、織鶴は自分を呼びだした張本人と道場前の掃除をするという名目で二人きりになっていた。

 

 

 

「もう一週間どころか五日もないんだから、話す内容は分かっていそうだと思ったけど?」

 

「……まあ、そういうことっすよね」

 

 

 

 あと五日もない。それは、織鶴が岳人とデートの約束を取りつけた日曜日までのタイムリミットのこと。織鶴は頭の中では分かっていたのだろうが、京に指摘されたことでそれを再認識させられてしまい、困ったように後頭部をガシガシと掻いた。

 

 

 

「そういう訳で、告白大作戦は三つ目のフェイズへ移りました」

 

「えっ……二つも段階踏んでましたっけ……?」

 

「一つ目、ガクトにデートの約束を取り付ける。これは惨憺たる過程であったものの、結果は中の上というところ」

 

 

 

 京は頭の中で思い返す。織鶴(おんなのこ)が勇気を振り絞ってデートのお誘いを絞り出したのにも拘らず、岳人の後輩男子に誘われたような対応の仕方。

 

 

 

 ――――結局、肉汁プロテインを真っ赤にしておいたから制裁は済んだけど。

 

 

 

「二つ目、改革の方向性を決める。この間助っ人たちと一緒に決めたよね?」

 

「……いや、決めたというか、決まっていたというか……」

 

「グループトークで決めたんだよ?」

 

「自分が見てなくて返事する前に決まってたんすよ!? ほら!」

 

 

 

 織鶴はポケットから携帯電話を取り出し、件の改革の方向性を決めた瞬間の会話内容が表示された画面を突きつけた。

 

 メンバーは五人、その内の二人が京と織鶴。しかし、会話をしているのは織鶴を除いた四人であった。

 

 

 

「だって鶴ちゃん早寝なんだもん」

 

「そう言われましても……この、深夜一時から始まる会話に自分以外反応できている方がおかしいっすよ!?」

 

「女子力さえあればこれくらいは余裕なんだよ」

 

「じょ、女子力……っ!」

 

 

 

 ――――正直、女子力あんまり関係ないけど。

 

 

 

「おのれ、また女子力……! ヘビースモーカーに対する禁煙、ぽっちゃりさんに対する飯抜きみたいな存在っすよ……」

 

「えっ、そこまで?」

 

「た、多分! もう概念的すぎて正直分かんなくなってますが、イメージはこんな感じっすよ!」

 

 

 

 ――――これはまずい、ちょっとからかいすぎたかもしれないネ……。

 

 

 

 女子力アレルギーでも発症してしまったような毛嫌う様子に、京は僅かに反省する。

 

 

 

「と、とにかく。鶴ちゃん改革案はついに実行に移されます。女子力は意識しすぎないで行こう、うん」

 

「……それなら助かるっす……。ところで、実行とは……?」

 

「…………ちょっと失礼」

 

「ひゃっ!?」

 

 

 

 京は一言断りを入れると、織鶴がかけている眼鏡をスパッ、と抜き取った。他人に真正面から眼鏡を外される、その何とも言えない感覚に織鶴が素っ頓狂な声を上げてしまう。

 

 眼鏡という一種の仮面を外した織鶴の顔は、夕日のような真朱(しんしゅ)に染まっていた。

 

 

 

「なっ、なななななな何を!?」

 

「……よし、金曜日の放課後から実行しよう」

 

「何がっすか!?」

 

 

 

 

 

「鶴ちゃん、別に目薬とか怖くないよね?」

 

 

 

 

 

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