真剣で私に恋しなさい!S ~無冠の弓聖~   作:霜焼雪

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藍墨茶

 

 

 

 人生で最も彩り豊かと称されることもある高校生時代を絶賛謳歌している織鶴にも、彼女の人格を構成する複雑怪奇な中学生時代があった。

 

 彼女の道標であった弓道の範士、渡辺峯秀がこの世を去ったとほぼ同時に彼女のそれは始まった。織鶴が大嫌いだった弓道の魅力を誰よりも伝え、今の織鶴の弓道に対する意識を誰よりも作り上げた、ある種の育ての親の死。それは十二の少女にとっては大き過ぎる衝撃で、受け止めろと言うにはあまりにも酷だった。

 

 師もいないままに弓を引き続けるその様は、一会に属する他の指導者をして「鬼気迫るとはこういうことか」と言わせるほどであった。既にこの頃から「鬼鶴」と裏で実しやかに畏敬の念を抱かれていたのだが、本人はそれに気が付けないほど弓に没頭していた。

 

 全ては、渡辺範士に追いつくため。全ては、渡辺範士を忘れないため。

 

 しかし、弓道とは師と同一すること非ず。上達にだけ限っていうのであれば、比類か凌駕に尽きる。そんなことは以前の織鶴にも分かっていただろう。しかし、師が旅立ってしまったことによる喪失感は、そんな当然とも言える常識をあっさりと消し去ってしまった。

 

 そんな彼女を救い上げたのは、彼女の実の父、藤巴正成。今までの自分の教育不足を謝罪し、渡辺範士の跡を継がせてくれと希った。彼女をそうしてしまった一因とも言える男の情けなくてみっともないその願いを、織鶴は涙ながらに受け入れることになる。

 

 それからの織鶴は父と共に弓道により一層打ち込むことになる。当時範士の段位を獲得していなかったとは言え、日本を代表する弓道家による高尚な指導は、渡辺範士には及ばずとも相当に密度の濃いものだった。

 

 

 

 ――――視力が落ちましたね?

 

 

 

 ビクッ、と織鶴の肩が震えた。

 

 指導が始まって数日したある日突然、正成が織鶴を蕎麦屋に誘い、注文が終わったあとに確信めいた響きで問い質してきたのだ。織鶴はそう指摘されることを薄々感づいていたのだろうか、蕎麦屋に来てからというもの落ち着かない挙動が見られた。擬音にすれば、そわそわだとかもじもじだとか、萎縮してしまっている表現ができそうな小心的行動だ。

 

 

 

 ――――怒られると思ってましたか?

 

 

 

 こくり、と頷く。織鶴は目を大事にするようにと、渡辺範士にも正成にもきつく言いつけられていた彼女からしてみれば、禁を破ったような罪人の心持であったのかもしれない。

 

 弓を扱う上で、的が見えないということは致命的とも言える。的中は弓道の最終目標に無関係であるとは言っても、まだ織鶴は発展途上。「心で射る」ことを体得するにはまだ早かったのだ。

 

 

 

 ――――私の父は目が悪かったんですよ。織鶴、あなたのお爺さんです。

 

 

 

 正成はそう言うと、怒られることに怯えていた織鶴の肩を軽く叩き、にっこりと笑ってみせた。

 

 絶対に怒られるものだと思い込んでいた織鶴は、きょとんとした表情で正成を見つめている。

 

 

 

 ――――目の悪さは遺伝するものでね。普段の生活を見ていたら、あなたが視力を大事にしていたのはよく分かっていますよ。これは運が悪かった、と思いましょう。

 

 

 

 織鶴の頭を優しく撫で続ける正成は、娘に向ける笑顔を絶やすことはなかった。頭を撫でられている娘はというと、実の親のスキンシップがとても珍しいもので、喜びと戸惑いの入り混じった複雑な気持ちに襲われていた。もどかしそうに体を縮まらせながらも、その頬は僅かに赤らんでいた。

 

 

 

 ――――さ、蕎麦が来ましたね。ここの蕎麦は美味しいですよ。

 

 

 

 怒りもせず然りもせず、気を落としては蕎麦がまずくなりますよ、と食べ勧めるように促す正成。

 

 この時の蕎麦の味を、織鶴はあまり覚えていない。漠然と美味しかったという記憶はあるものの、そんなことは彼女にとってどうでも良かった。

 

 彼女にとって大切だったのは、父に初めて頭を撫でてもらったということに他ならず――――

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ピリリ、ピリリ。

 

 

 

「………………んんんんんぅ……」

 

 

 

 蕎麦屋の風景を切り裂く様に響く電子音。若干の苛立ちを込めながら、その音の発信源に手刀を当てる。主人を起こそうと奮戦した目覚まし時計は、その八つ当たりにも近い攻撃によって床へと落ちてしまった。

 

 霞んだ視界に映る見慣れた天井に、夢の残滓が砂嵐のように重なる。先ほどまで色彩豊かに思えた情景も、今や薄汚れたアスファルトのような藍墨茶(あいすみちゃ)に脱色されていた。

 

 

 

「……なっつかしー……」

 

 

 

 叩き落してしまった目覚まし時計を元の位置に戻し、ぼんやりと微睡みに浸りながら、頭に残る暖かさを確かめようと自分の頭を触る。当然のように、ボサボサの髪にいつも以上の暖かさはない。

 

 それでも、織鶴は確かに暖かみを感じていた。

 

 

 

「……そういや、もう半年くらいっすか……」

 

 

 

 体を起こし、壁に吊るしてあるカレンダーを見て呟いた。

 

 

 

「…………たまには顔を見せなきゃいけないっすねー」

 

 

 

 朧気になっている夢の中の映像を振り払って、しっかりと記憶の中から二人の顔を思い出す。自分を産んで、自由すぎる育て方しかできなかった、とても不器用な自慢の両親。

 

 ピロロロロロン!

 

 

 

「…………えっ、電話?」

 

 

 

 再び、頭に浮かんでいた両親の顔を引き裂くように電子音が鳴り響く。しかし、その電子音は織鶴が設定したものではなく、織鶴の番号を知る人物からの着信によるもの。メールではなく、電話の着信音。

 

 ちらり、と壁にかかっている時計の針を読み取る。短針は四と五の間、長針はほんの少し傾いていはいるが、ほとんど真下を向いていると言ってもいい。

 

 

 

「……四時半に電話をかけてくる馬鹿がいるとは……」

 

 

 

 ――――そんな時間に電話を取れる自分も、まあどうかとは思うっすけど。

 

 

 

 電話でたたき起こされた訳ではなかったため、織鶴にその電話に対する苛立ちはさほどなかった。

 

 四回、五回、そろそろ取らないと向こうが諦めて切ってしまいそうだったので、折り畳み式の携帯電話を開いてすぐに耳元に当てた。通話相手が誰かを見るのも忘れて。

 

 

 

「はいもしもし、藤巴っす」

 

『……おいおい鶴ちゃん? 藤巴です、ってのはないでしょー?』

 

「………………おや?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「えっ、鶴のお母さんとお父さんが川神に?」

 

「そーなんすよ。昨夜実家について時間が取れたから今日の朝一川神に向かうと電話を貰ったんで、今頃この辺りをぶらついてると思うっす」

 

 

 

 時は進んでお昼時、机を寄せ合って食事をとっていた四人の少女の会話は、一人の少女の両親が帰国したということで持ちきりだった。

 

 

 

「そう言えば、今はよく海外にいると話していたな」

 

 

 

 ひょいぱく、ひょいぱく、弁当箱にぎっしりと詰められたいなり寿司をほぼノータイムで食べ続けるのは異国人であるはずのクリス。

 

 日本に来て暫く経ったからか、いなり寿司のバリエーションが豊富になっている。油揚げに包まれた状態でもどこにどんな味のいなり寿司あるかを把握しているのか、はたまたいなり寿司は須らく好物であるから順番は関係ないのか、迷いなくいなり寿司を選び取っては口に運んでいた。

 

 

 

「いやぁ、自分が一人暮らしするようになって手が空いたものっすから、それまでに溜まっていた分引っ張りだこっすよ」

 

「有名人とは聞いてたけど、そんなに忙しいのね」

 

 

 

 まぐまぐ、と独特な擬音と共に、一子は川神院の食管理の下で作られた弁当を食べ進める。

 

 普段から食事を求める食欲旺盛な態度を見せつけているが、その弁当の内容は栄養の均整がとれたものであった。肉ばかり、野菜ばかり、魚ばかりとならないよう、栄養素の偏っていない内容は食の優等生ぶりをうかがわせる。

 

 

 

「京の親父さんはそんなことはないのか?」

 

「ないネ。椎名流自体布教するものじゃないし」

 

 

 

 活火山、かつてそう形容されたことのある溶岩のような真紅(しんく)の握り飯を、これまた躊躇うことなく口に運んでいる京はにべもなくそう答えた。

 

 弁当箱全体を見渡してみれば、卵焼き、春巻き、固より真っ赤なトマトでさえも京好みの色に染め上げられている。それを見た彼女の思い人は「目が蒸発しそう」と言って逃げ出していた。

 

 

 

「弓術弓道以前に、多分目的が違うだろうから」

 

「流石京、そのあたり聡いっすねー」

 

 

 

 渦中の人物の娘である織鶴は自作のサンドイッチと、買いだめしてあった缶紅茶を持参しての昼食であった。

 

 胡椒たっぷりのハムサンド、胡椒たっぷりの玉子サンド、全体を通して見れば胡椒サンドとも取れるラインナップに、通りがかったクラスメイトの数名がくしゃみを誘発されている。

 

 

 

「どういうこと?」

 

「弓術を持っていくならそれは「布教」、弓道を持っていくならそれは「普及」ってことっす」

 

「弓術である以上……私のところなら椎名流だけど、弓を執ってもらったところで椎名流が廃れるようなら、布教しても普及しても意味がない」

 

「ところがぎっちょん。弓道は別に流派を乗り換えられようが……いや、しないでくれたら一番ではありますが、ともかく弓を執ってくれれば勝ちなんすよ」

 

「弓道にも流派があるんだろ? いいのかそれで」

 

「本田流とか、小笠原流とか、日置流とか色々あるっすけど……ま、ぶっちゃけどれでもいいっすよ。それも形骸化しているってのは否めないんでね。父の大義名分は、「弓道を始めてくれること」っす」

 

「鶴ちゃんはどこだっけ?」

 

「一応は小笠原流っすね。始めた当初、そんなん知らなかったっすけどね、ぶっちゃけ。まあ、教本第一って言ってる自分は流派形骸化の一端を担ってるようなもんなんで。現代弓道なんてそんなもんすよ」

 

「暴言だね……」

 

「事実ですしー。教本に忠実なだけで範士に成れるとは口が裂けても言いませんが、教本が基礎を作るに最適なのは最早自明の理っすからね。ちょいと難解かもしんねーっすけど――――」

 

 

 

 サンドイッチを作った際に余ったパンの耳で作った砂糖菓子と、二本目の缶紅茶で心の安らぎを感じている織鶴だったが、突然思い出したようにクリスを指差した。

 

 

 

「な、なんだ?」

 

「そうそう。それでクリスに言いたいことがあったんすよ」

 

「だから、なんのことだ?」

 

「ほら、自分の父親に会ってみたいって話があったっすよね? あれ、今晩でいいなら時間作れるそうっすよ」

 

「ほ、本当か?」

 

 

 

 ガタッ、と椅子を倒さん勢いでクリスが立ち上がった。

 

 

 

「クリ、そんな約束してたの?」

 

「ああ! 癒しと清澄を極めた武人が、和弓の達人が身近にいる……そう聞いては黙っていられなかった!」

 

 

 

 両手に拳を作り、興奮を抑えきれずに声を上げるクリスに聞こえないよう、京は織鶴の耳を引き寄せて話しかける。

 

 

 

「……それにしても、鶴ちゃんもよく覚えてたね」

 

「……実は、今朝の電話で向こうから時間が取れたと言われるまで忘れてたっす」

 

「……それでこそだよ」

 

「……とても不本意ながら、お褒めの言葉として受け取らせていただくっすよ」

 

 

 

 呆れたような京の言葉に、照れくさそうにはにかんだ織鶴。こうした二人のやりとりを、一子が瞬きも忘れてじいっ、と見つめていた。

 

 

 

「か、川神? どうしたんすか?」

 

「え? いやー、改めて見ると……京がそうやってファミリー以外の女子と話してるの不思議だなぁって」

 

 

 

 京は一子の怪訝そうな言葉に僅かではあるが、ぎくりとした様子で目を逸らす。

 

 

 

「まあ、同じ弓道部ですし?」

 

「……そうそう。不思議なことじゃないヨ?」

 

「うーん……でも、弓術と弓道だし……」

 

「まあまあ、仲が良いのはいいことじゃないか」

 

 

 

 一子が追及するかどうかというところで、クリスが上機嫌に話に割り込んだことで言及はなかった。

 

 安堵した様子を隠しながらも、京の肩から力が抜けたのを織鶴は見逃していなかった。

 

 

 

 ――――まだ内緒にしてるんすか? そんな内緒にすることでもないでしょーに、なんて言ったら怒られちゃいそーっすね。

 

 

 

 京に対して言及しなかったのは一子だけではなかったようで、織鶴もやれやれと言った具合に座り方を崩す。

 

 

 

「あ、そうそう。それで今日時間があるなら、一緒に晩御飯はどうかと母が」

 

「お、お呼ばれしてもいいのか!?」

 

「勿論っすよ。それに、京と川神も来てくれると助かるっす」

 

「え、いいの!?」

 

「助かるっていうのは?」

 

「自分の母のタゲが分散するんで」

 

「タゲ!?」

 

 

 

 ファンタジーなモンスターを討伐するつもりなのかと問いただしたくなるような形容を以て、織鶴は自身の母の危険性を詳らかにする。

 

 

 

「あれはどうなんだこれはどうなんだ、とこちらの疲弊など一切鑑みずに聞きたいことを聞いてくる激しいマイペースな母でして。父がいれば幾分か抑制されるとは言え、やはり危機を感じずにはいられないっす」

 

「そう言われると行きたいって素直に言えないわね……」

 

「まあ、そう言われるかもと思ってご飯は焼肉にし」

 

「行きたい!!」

 

「犬……」

 

「ワン子……」

 

「いやー、予想通り過ぎて逆に申し訳なくなるというか」

 

 

 

 ポリポリ、と頬を掻く織鶴は分かり易い苦笑いを顔に張り付けていた。

 

 

 

「でもいいの? 自慢じゃないけどアタシガツガツ食べるわよ?」

 

「こちらも自慢じゃないんすけど、いろんな事情で金が余ってるんで」

 

「おお……ブルジョワだわ」

 

「と言っても、自分が家族で行くような普通の焼肉屋なんすけどね」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「…………普通の?」

 

「完全個室だぞ……」

 

「これは一人前ウン万円するネ……遠慮しても」

 

 

 

 放課後、織鶴が家族で行くような店だと形容した焼肉屋に連れてこられた三人娘は、その店の厳かさに戦々恐々としていた。正確には、織鶴がこの焼肉屋を「普通」と言い張っていることだった。

 

 学生が好んで行く食べ放題の焼肉屋が中古のトラックとするならば、この焼肉屋は海外製のスポーツカーとでも言えるだろう。それくらいの格差が存在している。

 

 

 

「予約してた藤巴ですけど、多分先に二人入っちゃってるかと」

 

「はい、藤巴様ですね。ご案内致します」

 

「どもっす」

 

 

 

 海外製のスポーツカーを片手で乗り回しているような手慣れた対応に、一子は震えるほどの怯えすら抱いていた。

 

 

 

「な、何だか体が震えてきたわ……」

 

「日本の焼肉屋の大半はファミレスのようなテーブルが多いとチカリンが言っていたが、ここはその情報から行くと異質だな」

 

 

 

 どうやら焼肉屋に来ること自体が初めてのようで、物珍しそうにきょろきょろと店内を見回すクリス。クラスメイトの小笠原千花に、焼肉屋は常に煙で充満していて、その煙と安っぽい脂を食べるものだ、と教わっていた彼女だったが、今訪れている焼肉屋に煙っぽさも安っぽさも一切感じ取れていないようだ。

 

 

 

「無駄に煙も漂ってないし、明らかに高級店だよこれ」

 

「そんな畏まらなくってもイイっすよ。学食行く気分でいてくれれば」

 

「いやそれは無理よ!?」

 

 

 

 勢いよく否定した一子であったが、焼肉屋の高級感に飲まれて声量自体は全く上がっていなかった。

 

 店員の案内に着いて行くと、既に二組の靴が出船の向きに揃えられている部屋へ到着した。その時、

 

 

 

「遅いぞー!」

 

 

 

 バァン! と扉が開け放たれた。開け放ったのは店員でも織鶴たちでもなく、既に焼肉の準備をしていた織鶴の母親と思しき女性。

 

 

 

「は、母っ!? 何してんすか!?」

 

「いやー、若々しい気配を感じたから……お出迎えっ!」

 

「うわっ、もう酔ってる……」

 

「んー? おお! 本当に三人連れてきたか!」

 

 

 

 女はビールの大ジョッキを片手に、織鶴の後ろで畏まっている三人に狙いを定める。猛禽類のような鋭さを持った眼光に、武神を義理の姉に持つ一子でさえも身震いしてしまう。

 

 

 

「ちょっ、ちゃんと紹介するから! 先に中に入れてくれないっすかね!」

 

「はいはーい! 四名様ごしょうたーい! マサくーん! 聞いて聞いて、みんな可愛いよ!」

 

 

 

 鋭利な視線をしまってくるりと華麗に回り、織鶴の母は部屋の奥へ戻っていく。僅か一瞬の衝突で呆気にとられてしまった三人に、申し訳なさそうに織鶴が頭を下げる。

 

 

 

「……なんか申し訳ねーっす。まさか既に酔ってるとは思わなくてですね……あれはもう軽く大ジョッキを三、いや五は空けてると見て間違いないっすね」

 

「まるで軍人だな……ドイツのビアガーデンでもそうそう見ない酒豪振りだぞ……」

 

 

 

 ビールの本場とも名高いドイツ出身のクリスでさえ驚く織鶴の母のうわばみっぷり。織鶴は苦笑いを浮かべて目を逸らすことしかできなかった。

 

 

 

「……そ、そう言えば、クリスはビールは飲んだことあるんすかね? 向こうじゃ保護者同伴なら飲み放題と聞いたっすけど」

 

「まあイギリスみたいにいちいち年齢確認なんかしないとは言え、飲み放題という訳ではないぞ? 昔、一度マルさんにねだったらまだ早いって諭されてしまったから強いかどうかも分からん」

 

 

 

 いつかはマルさんと飲み比べしてみたいものだな! と将来のことを待ち遠しく語るクリスには聞こえないように、京が織鶴に耳打ちする。

 

 

 

「……クリス、下戸だよ」

 

「……えっ、まじすか?」

 

「……川神水であっという間」

 

「……あちゃー……となると、飲み比べは叶わぬ夢かもしれないっすねー……」

 

「何話してるの?」

 

 

 

 こそこそとしていた京と織鶴に割り込んでくる一子。その眼はギラギラという擬音がぴったりで、口も若干半開きになりつつある。今にもよだれが垂れてしまいそうなその様は、言葉無く「空腹だ」と主張している。

 

 

 

「ちょっと十年後の話をですね。まあ中でもできることっすから、さっさと入りますか。また母がお出迎えに来る前に……」

 

 

 

 そう言って靴を脱いで部屋に入った織鶴だったが、くるりと踵を返して一言。

 

 

 

「あんな母なんで疲れるとは思いますが、その分は食事で補ってもらえると……」

 

 

 

 質問攻めにあう代わりにいくらでも食べてくれて構わない、織鶴の言葉はそうとれた。

 

 それを了解した上で、織鶴の後に続く三人。中に入ると、キムチをパクパクと食べ進めながらビールを煽る織鶴の母と、袴姿で背筋を正した白髪交じりの男が向かい合わせで座っていた。男は彼女たちに気が付くと、にっこりとほほ笑んで会釈する。

 

 

 

「は、初めまして! 川神一子です!」

 

「く、クリスティアーネ・フリードリヒです!」

 

「椎名京です」

 

 

 

 三人が会釈につられるように首を垂れると、織鶴の母がジョッキをテーブルにダンッ! と叩き付けて笑い出した。

 

 

 

「あっはははははは! いやいや、そんな畏まらなくていいさね。一子ちゃんにクリスちゃんに京ちゃんだね。私は織鶴の母親の藤巴愛李(あいり)! よろしくね! いやー、織鶴が友達三人連れてくるって聞いた時にゃ涙が出るかと思っ――――」

 

「――――愛李さん」

 

 

 

 立ちっぱなしの女子学生に間髪入れずに話し続けようとした愛李を、袴姿の男が苦笑しながら制した。

 

 

 

「先に座ってもらいましょう。立ったままでは疲れてしまうでしょうし」

 

「おっと、それもそうだね。ささ、適当に座っちゃって! えーっと、織鶴は私らに挟まれた方がいいかな?」

 

「他人の両親の間に初対面の人間入れるっすか? 普通ありえないっすよ?」

 

「だよねー、あっはははははは!」

 

 

 

 ごくごくごくごく、まるで水でも飲んでいるかのようにビールを胃へ流し込む様は、大酒呑みのことをうわばみと形容する理由を見せつけてくる。

 

 

 

 

「あー、遠慮なく頼んじゃっていいっすよ。全部自分らの奢りなんで」

 

 

 

 席に着いた三人に織鶴はメニューを手渡した。暫くそのメニューを眺めているが、いつまでたってもオーダーは飛び交わない。

 

 

 

「と、とは言っても……」

 

「流石にこの値段見せられると……」

 

 

 

 ほぼ全ての商品に四桁の値がついているメニュー表は、女子学生の言葉を詰まらせるには十分すぎる力があった。

 

 この日本の生活で金銭感覚が幾分か苦学生寄りになっているとは言え、普段からブルジョワだの甘やかされているだのと裕福な生活を送っていたクリスでさえも、他人に支払わせるには結構な額であると思わせているようだ。

 

 

 

「なんだいなんだい、若いのが遠慮してるんじゃないよ! 取り敢えず若いんだしライス大人数分と、特選霜降七点盛を五人前ずつ頼んどくからね!」

 

「えっ!?」

 

 

 

 それを見かねた愛李が適当に――女子が敢えて見ようとしなかった高級なメニューが載っているページを意図的に開きつつ――注文していった。

 

 いつものこととは言え注文が適当すぎるだろうと呆れた織鶴は、愛李に向かって苦言を呈す。

 

 

 

「ちょっと愛ちゃん、何言ってるんすか」

 

「おや、何か悪かったかい?」

 

「それじゃあ足りないっすよ。多分」

 

「そう? じゃあこの特選稀少五点盛とやらを五人前追加しておこうかな」

 

「ちょっと鶴! そうじゃないって!」

 

「そんな笑顔で言われると説得力がないっすよ」

 

「あ、あの、お母様……」

 

「クリスちゃん、その呼び方はこそばゆいからやめて! 友達感覚で愛ちゃんとか呼んでいいんだよ?」

 

「因みに父は正成というので、気がるにまさくんとでも」

 

「……こらこら織鶴」

 

「おっと、良いタイミングでお肉が来たわね! さあ戦争よ! 遠慮せず奪い取りなさい!」

 

「……しょーもない」

 

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