一年が経とうとしている。あの雨の日から一年。忌まわしい雨の日。自分の名前が忌々しく感じるようになったのは、あの日以来だ。レインは、指先にどうにか力を込めようとしながら考えていた。
冬の日を思い出す。かじかんだ手で握るスコップは、あまりにも冷たくて。動かしづらい指に、やきもきしたものだった。
どうして指がこんなにも動かないのだろう。もどかしさが募る――そこでやっと気づいたのだが部屋の火が落ちていた。暗い部屋には、外からの冷気が忍び寄っている。壁一枚隔てた向こうで、轟々と唸る吹雪は、近年でも最大級だと白の魔女は、言っていた。、
白の魔女の城は、広い。半年ほど過ごしているが未だにこの城を把握できていない。普通の城ではないのは、間違いなかった。白の魔女は、城の全てを把握しているし、どこにでも居る。だからこの様子も見られているだろう。
暖炉の火が落ちたのは、演出のつもりだろうか? この寒さも演出の一つか。演出過多だ。芝居じゃない。怒りよりくだらないと思ってしまった。失笑が出てしまう。
「リリー……」
何度と呼んだ。返答はない。リリーは、ただ宙に視線を投げたまま。血色の良い頬に、レインの流した涙が浮かんでいる。映り込んだレインがレイン自身を見つめ返してくる。酷い顔だ。今朝もこんな顔だったか? どうだろう。鏡を見た記憶がない。いつからこの状況だったのだろう。
「……ごめんなさい」
力なくレインは、呟くとリリーの首から手を離して、床に腰を下ろすと膝を抱え込んだ。溜息が出る。
「また失敗した」
転がったまま起き上がろうとせず寝転がったままのリリーに、視線を向ける。ぎゅっと膝に額を押し付ける。周囲が明るくなる。部屋の明かり、暖炉の炎が再び灯る。鬱陶しい演出だ。後で、苦情を入れてやろう。予定を一つ決めた。
「あたしは……どうしたらいいのかな」
白の魔女は、いつまでも居ていいと言った。部屋を持て余しているだろうなとは、レインも思った。この城は、一人で住むには、あまりに広すぎる。レインは、端まで辿り着いたことも最上階まで登ったこともない。どれだけ広いのか把握できる日が来るんだろうか。窓の外には、雪原と白く染まった山々が広がっている。最北端の景色は、いつも銀色だ。
長い時間を白の魔女は、ここで過ごしてきた。……あの白の魔女は、寂しいなんて思うのだろうか。
「……まあ、いいか」
立ち上がったレインは、尻をはたいて、倒した椅子を直してからリリーの体を持ち上げる。軽い。いつも感じていた重さを両腕に感じながらリリーを椅子に座らせる。
「ごめん」
リリーの目を見ようとして見れず、レインは、下に視線を逸した。スカートから出たスラリとした白い足が見えた。
今のリリーは、白の女王が用意した服を着ている。白のシャツと青チェックのワンピース。足元には、白い靴下とレザーのシューズ。なめしが美しい。
生地自体がとても精巧にできている。素材も軽くて丈夫。白の魔女は、魔法というにも不可思議な術を使うが持っている物も不可思議だ。簒奪とかをするようなタイプには見えない。作らせているのか作っているのか。見当も付かなかった。
「……どこで手に入れてるのやら」
そういうレインも白の魔女から衣類を借りている。もう貰っているに近いか。大きな胸に押し上げられる簡素なワイシャツと細身のスラックス。着心地がいい。
「髪、崩れちゃったな。ごめん」
不器用なりに編んでいた髪もくしゃりと潰れて、崩れてしまっていた。そっと頭を優しく撫で、埃やゴミを払った。髪を整えるのも少しは慣れてきた。絡んだ髪をほどいて、スラックスのポケットから小さな櫛を取り出すとリリーの髪を梳いた。
「どう? 昔より上手になっただろ?」
昔は、髪引っ掛けたり、引っ張ったりして怒られたなぁ……。昔日に思いを馳せながらレインは、すっすと髪を梳く。
「気持ちいいでしょ」
声をかけるのも習慣だった。只々、この時間を空白にしたくないの既に、空いてしまった五年の月日を埋めるためだった。自分を慰めるための行為だ。こんなことでは、何も埋まらない。
……また泣きそうになってしまう。髪に添えてた片手の袖で、目元を拭う。後で、顔を洗おう。そう決めて、レインは、櫛をポケットに戻し、手早く元の形に結い直す。
「よし、できた」
レインは、満足げに頷いた。左右で作った三編みを頭の根本でお団子にした髪型。昔、レインが所属していたパーティの魔法使いがこういうセットをしていて、可愛くてリリーにも似合うと思い、再現した。結っている姿を思い返しつつ、手元で再現するのは、かなり手間取ったがなんとかなった。とレインは、思っている。
「まだまだだな」
ちょっと不格好なのに、苦笑した。なんとかなってないなこりゃ。要練習だ。これじゃあ、リリーに怒られてしまう。
「ごめんな。練習するよ」
リリーの向かいに座って、テーブルに置いたままの飲みかけのマグカップを口に運んだ。コーヒーは、冷めていた。呑み干して、レインは、おかわりをしようと立ち上がった。部屋には、キッチンも小さいがある。残りのコーヒーも冷めているだろうから温め直さないと。
「――――えっ?」
その手を掴まれなければ立ち上がっていただろう。
「……リリー?」
掴まれたというより手の上に、手が添えられていた。戸惑いに揺れる視線をその手の持ち主に、リリーに向ける。リリーは、そこにいる。変わらずぼんやりと視線を空に投げている。
「大丈夫。大丈夫だよ。どこにも行かないよ、リリー」
添えられた手を覆うように、ぎゅっと握りしめて。
「ずっと一緒だよ、リリー」
大粒の涙が頬を伝った。もうだめと俯いて、それでもレインは、言った。
「大好きだよ、リリー」
「――私も好きだよ、レイン」
「……へ?」
間抜けな声を漏らして、鼻水と涙に塗れたレインが顔を上げると微笑むリリーがいた。
「ひどい顔。拭くもの無いの?」
「リリー? リリー、どうして? 嘘、夢? 夢なのがっ……!?」
「夢と現実の区別がこれでつくだろう? ん?」
「て、てめえ……!!」
後頭部からじんわり広がる痛みは、確かにレインに、夢ではないと教えてくれたがそれとこれは別だった。頭部に良い一撃を見舞ってきた白の魔女へ向けて、噛み付くように、勢いよく立ち上がった。
「何勝手に人の頭殴ってんだよ、阿呆魔女!」
「阿呆は、お前だ。阿呆阿呆」
「ガキじゃないんだぞ……!?」
「ほら、もう喧嘩しない」
至近距離で睨み合う二人をリリーは、苦笑して、諌める。やはりというべきかレインは、渋々としつつも大人しく従った。その様子に、くっくっくと白の魔女は、意地悪に嘲笑う。
「嫁には形無しだな」
「嫁じゃねえよ。女同士だぞ」
「なんだ。案外遅れてるな。まだ思春期か」
「五月蝿えよ。とりあえず説明しろ。お前の仕業だろう」
「毎度説明ばかり振って、自分で考えたらどうだ。まったく……」
レインの目元がひきつる。今のレインは、噴火寸前の火山だった。
「簡単な話だ。お前の連れてきた魔族の腹を開いたら中に、消化されずに残っていた魂があってな」
「色々突っ込みたいが、つまりそれが?」
「そこで笑っとる子の魂だったというわけだ。あれが失敗作で、幸運だったな」
以上だ。俺は寝る。そう言うと白の魔女は、最初から居なかったかの様に、部屋から消え去っていた。
「……なんなんだよ、ほんと」
嵐のようだ。いや、吹雪のような女だ。レインは、あまりの急展開に頭を抱え込んだ。
「ね、レイン」
「……何、リリー」
「雪だるま、作ろうよ」
「雪だるま?」
これまた急な提案に、顔を持ち上げたレインの頭上には、クエッションマークが大量に浮かんでいた。リリーといえば楽しそうに外を見ている。レインが見慣れた銀世界がそこにある。だけどリリーにとっては、そうではないのだろう。きらきらした目で、外を見ている。今日は、珍しい晴天。雪原は、日の光で輝いている。
「約束したでしょ? また雪が積もったら雪だるま作ろうって」
「ああ、そうだな。したな。してた。うん」
そうだ。何を忘れてるんだ。約束だ。約束した。五年間ずっと塩漬けだったレインは、勢いよく立ち上がった。
「作ろう、雪だるま」
「そうこなくちゃっとっと……」
「大丈夫? リリー」
椅子から立ち上がって、蹌踉めいたリリーをレインは、体で優しく受け止めた。体の硬さ柔らかさは、やはり変わらない。戻ってきたのは、まだ魂だけだ。それでもレインは、こうして話せるだけで幸せだった。
「大丈夫大丈夫。なんだか上手く歩けないだけだから。……あれ、どうしてだっけ。そういえばここってどこ?」
レインは、言葉に詰まってしまう。どうしたらいい。どこから話せばいい。そもそもリリーは、どこまで覚えている?
「あ、レイン、おっきくなったね。身長もすっごく伸びたし、体も固くて鍛えてる――きゃっ」
「ごめん」
堪えきれなかったレインは、リリーを強く抱きしめていた。ぎゅっと抱きしめるとぽんぽんとリリーの手がレインの背中を叩く。
「レイン、ありがとう」
「あたしは、何も……」
「レインが頑張ってくれた事は、分かるよ。約束、守ってくれたんだよね。私は、守れなかったんだ」
胸元から嗚咽が聞こえる。聞いているだけでレインは、胸が張り裂けそうだった。
「はは、涙でない……。どうしてだろう。ねえ、レイン。私ね、なんにも覚えてないの。あの日、約束した後、王都に行って、学校に入って、そこからなんにも覚えてないの。気づいたらレインは、こんなに大きくなっていて、私は、何にも無いの。今の私、何にも覚えてない。魔法のこと、覚えて無くて……ごめんなさい。約束、全然守れなかった」
「いいんだよ。いいんだ。あたしは、リリーが居てくれるだけでいい。それだけでいいんだ」
「でもっ……!」
「それでもだ」
レインは、腕を解いて、リリーの小さな両肩を掴んで、視線を合わせた。
「あたしは、リリーが居るだけでいい」
「でも! 私、何にもないの。五年間どころかもっと前から、覚えてたことも交わした約束も何にも……! 虫食いみたいで、思い出せないことがいっぱいで!」
「あたしが覚えてる。あたしが一緒に思い出す。何もかも、欠け落ちたことも、抜け落ちたことも、失ったものも、全部あたしが埋めてみせる」
「でも、そんなの……」
「でもじゃない。無理じゃない。あたしは、絶対にやる」
にっと笑って、レインは、自信満々と言う。
「あたしは、リリーを守る剣士なんだ。それくらいしなきゃな」
「……そっか」
「そうだ」
「じゃあ……何からしてくれるの? レイン」
「雪だるまだよ。決まってるじゃん」
「はは、そうだね。そうでした」
ぷっと吹き出して、互いに声を上げた。失った時間を埋めるため、二人は、まず笑うことにした。楽しい思い出で、満たしたいから。
「じゃあ、行こう。まずは、服だ。この城、馬鹿みたいに色んな服があるんだ。あたしに選んでよ、リリー」
「それはそれは、楽しいことになりそうですね、レイン」
「……お手柔らかに頼むよ」
肩を竦め、戯けるリリーの手を取りエスコートするレインの言葉に、リリーは、ぱっと咲き誇る華のように笑った。
「嫌よ! 私の剣士様ならかっこよくなくちゃ」
「剣士様って……」
「好きなんでしょ? 私のこと」
「ああ、大好きだよ」
「私も、好き。レインのことが大好き」