キエル=ハイムは父の死に直面しても悲しまなかった。正確に言えば悲しむ事ができなかったのだ。父の反対を押し切りグエン=ラインフォード卿の秘書になったあたりから、確実に親子間の確執は明白なものになっていった。時代にそぐわない古い考えに執着する節のあった父は、キエルが一人の大人として働くことを嫌がった。彼の理想の女性像は家の中だけに存在していたのだ。社会に出て就労することを夢に描いていたキエルとの間には埋めることの出来ない溝があった。
それに加えて、父の死は自業自得としか言いようがないことをキエルは知っていた。実はキエルとディラン=ハイムはラインフォードが暗礁宙域で傍受した月の共和国、ムーンレイスのヴィシニティー攻撃作戦の内容を聞かされていたのだ。そしてラインフォード卿から2つ任務を任された。1つ目はターンAをムーンレイスの攻撃の3日前までにはノックスに輸送すること。2つ目はこの一連の事実を市民には一切伝えずに機密とすることだ。ラインフォード卿は傍受した内容と実際の作戦内容との相違を予測し、余裕のある作戦遂行を求めていたのだ。それを父は断った。父は会議でDOCベースに関わる新しい技術的問題が発覚したという見え透いた言い訳をでっち上げたが、実際は街に住む愛人に会いにいくために予定を遅らせたのだ。父が若いストリッパーのもとに頻繁に通っていたことは母もソシエも知らない。
純粋に出来事を感じ取り素直な感情で満たされているロランのことが羨ましいとさえ思った。
そして何よりも街の人を見殺しにしたという罪悪感の前では、巻き起こるどんな感情も些細なものだった。ムーンレイスの攻撃があるという事実は市民に知らされることは無かった。組織の末端である彼女にはその理由はわからないが、大局を俯瞰した際に一人でも犠牲者を減らすためだとは聞かされていた。しかし、この罪悪感は一生ヘドロように体にまとわりつく呪いのようにキエルを苦しめた。
「君は…野生の動物と動物園の動物とではどちらのほうが幸せだと思う?」
ラインフォードの声で半ば上の空だったキエルの意識が戻った。
「…」
ロランは場違いのようにも思われる突然の質問に困惑していた。
「…野生の…ですかね。」
「なぜかね。」
「檻の中でしか生きられないなんて虚しすぎます。自分が動物なら自然の空気を吸っていたいです。それが生き物の幸せだと思います。」
ラインフォードはロランの目を注視しながらも笑みを浮かべた。
「檻の中の動物は檻の中しか知らない。彼らはそこで幸せを見つけ生きていくことができる。野生の動物が共食いで殺されている間にね。」
ロランは依然として困惑した表情を浮かべていたが、キエルはそのラインフォードの言葉が持つ恐ろしさに背筋が凍った。
「家に帰っても良いですか。」
実際ロランはラインフォードの言葉に聞き入るほどの余裕は持ち合わせていなかった。彼は羊やキースのことで頭がいっぱいだった。
「自由にしたまえ。キエル嬢が車を手配してくれるだろう。」
キエルとロランは部屋を出て城のような病院を後にすることとなった。病院の廊下の窓から見える街の景色はロランの不安を煽り続け、耳につく自分の鼓動が不快極まりなかった。それにロランにはキエルに聞かなければいけないことがあった。
「知っていたんですか。」
キエルにとってはロランの口から一番聞きたくない質問だった。
「…」
ロランはキエルと目を合わさなかった。
「あなた達は市民を見殺しにしたんですか。」
キエルは胸が締め付けられるのを感じた。
「…簡単な話ではないのよ。命はかけがえのない物だわ。1人と100人の命でもどっちが大切かなんて誰にもわからない。」
キエルは話を続けた。
「でもそれを決めなければいけない人もいる。それが人の上に立つ人間の代償でもあるのよ。」
「街の人は他の誰かの代償でってことですか…あなた達の代償とは…比べ物にならない…」
「…ラインフォード卿はその覚悟のあるお方です。そして私も、誰かの犠牲になれるなら、その時は…」
彼女の純粋な眼差しに嘘はなかった。
「…ごめんなさい…私には…なにも…」
窓からの煙越しの日差しがキエルの頬できらりと輝いた。
キエルが事を左右させることができるわけではないことは分かっていた。彼女は巨大きな組織の一つの歯車にすぎない。キエルたちを許すことは出来ない。ただ理解することはできた。