街へ行くときは、友人のキース・レジェに羊の世話をしてもらっている。例に漏れず今回もキースの家に向かった。彼の家までの距離は歩いて15分といったところだろうか。それなりの距離ではあるが、キースの家はロランの家から3番目くらいには近い。
「キース!」
ロランはドアをノックした。小麦とバターの香ばしい匂いがする。連絡を入れてあるので、すぐにドアの奥から足音が聞こえてきた。ガチャとドアノブがいかにもドアノブらしい音を鳴らした。
「よう。ロラン。あがれよ。お茶は入れてある。」
キースが笑顔で迎えてくれた。彼はロランと同じ孤児院にいた。ロランは幼い時にセアック夫妻に引き取られたので、もちろん彼のことなど覚えてはいなかったが、ハイスクールでできた数少ない友人の一人が孤児院出身で、さらに自分と同じところだと知った時には目が飛び出る程驚いた。
機械工学専攻のロランとは違い、キースは農業経済専攻だった。パン屋になるために、孤児院を出て、ローンを借り、ここに引っ越してきたらしい。
彼の目は、夢や希望に満ち満ちて輝いている。ヴィシニティ1のパン屋になると豪語して、彼は足がかりにこのあたりでは最高のパン屋になった。ロランは自分の手で夢をつかもうとしているキースを尊敬していた。ただ今日の彼はあまり元気がないように見えた。
二人はリビングの中央のダイニングテーブルを挟んで椅子に腰を掛けた。
「今日はなにか買うものはある?」
ロランが聞いた。どちらかが街へ行くときは、留守番をしてくれる方のお遣いもするというのが、二人のルールになっている。
「大丈夫。この前のあまりがあるから。」
そう答えてからキースは少し眉をひそめて話を続けた。
「ところでさ…ロランはハイム家の噂は聞いてるか?」
「噂…?」
全く見当がつかない。
「ハイム家が引き上げるっていうのは…聞いてないか…?」
ロランは背筋が凍った。ヴィシニティの人間は皆ハイム家に雇われている。ハイム家がヴィシニティの経営を辞めるというのであれば、それは市民全員がリストラされるというのと同義だ。もちろん地球に住むことはできなくなり、皆が少しずつ積み重ねてきた生活は崩れ去る。
「鉱山を掘り尽くしたからこの街に要はありませんってことらしい…おかしいよな…そんなこと…鉱山経営をしてるって言っても、それしかしてなかったのはの何十年も前の話だ…今じゃおまえみたいに羊を飼ってるやつだっているんだし…俺だって…」
キースは下を向いた。本当だとすれば、死活問題である。驚きと動揺でロランも言葉が見つからなかった。
「なにかの間違いだよな…ロラン…」
キースは下を向いたまま言った。
「……ただの噂だよ!…たぶん…」
前向きに考えようと明るくした声が沈黙を際立たせた。
「…だといいけどな…」
部屋には時計の秒針の音が響いていた。
ヴィシニティには電車が通っていない。そのため必然的に中心部までは車で行くことになる。未舗装の道を2時間走ったあと、国道に出ててからは3時間走る。田舎道は、凸凹の曲がりくねった道のせいでろくに速度を出せない。これは本当に骨が折れるが、うって変わって幹線道路は軽快で、山脈を背中に疾走するのは快感さえ覚える。
国道を1時間程度走ると、今までの大草原の中に家屋が見受けられ、道端に住宅街や商業店舗が現れ始める。さらに進むと、次第に小さく灰色の建物が見えてくる。草木の量も減り始め、人類の築き上げた科学文明の叡智が姿を現す。空気も幾分か灰色に淀んできて、溶剤が揮発したような匂いが漂ってくる。もっとも、この淀みと匂いは三分もすればわからなくなるのだが。
ロランは都会の空気が好きではなかった。それは単純に大気が、というのもあるが、そこに住む人々の雰囲気が感覚的に気に喰わないのだ。皆何かに操られているかのように常に時計を気にしているし、何よりも、ここの人間は他人との優越を常に気にしているのが居心地を悪くさせる。彼らは道端ですれ違う人やベンチの隣に座っている人より劣っていないかを毎回確認しているように見える。こんな街では落ち着かないのでなるべく早く帰りたいが、買い出しには2、3日かかるので、ホテルを借りてそこに宿泊する。
とりあえずロランはいつものホテルにチェックインした。値段だけを見て選んだホテルだが、ありがちな大げさな装飾が無くそれなりに気に入っていた。むしろ、ロランにとってこのホテルは、乾ききった砂漠の中の小さなオアシスであった。
リュックサックを部屋に置き、中から買い物用のバッグ出し、ポケットに財布を入れた。軽く伸びをしたあと、部屋を後にした。フロントの横を通り過ぎると、エントランスの自動ドアの向こうに、忙しく歩くサラリーマンが何人も見える。
外に出ると午後の日差しが想像以上に体にこびりついてきた。熱を持ったアスファルトのせいで足が蒸れる。いつも以上に都会への不満を感じていることに気づいたロランは、それがハイム家が引き上げるというキースの話が、常に自分の神経を絶えず刺激しているのせいなのだと気付いた。