Kenshi -20years later- 作:さわやふみ
影から現れたその人物は、仮面を被っていた。目鼻の輪郭すら窺えず、声色だけが妙に冷たい。
常軌を逸した出で立ちに、ホッブスは反射的に一歩前へ出る。老兵の身体から、隠しようのない殺気が立ち上った。
「貴様は誰だ?」
問いは鋭かったが、仮面の者は答えない。代わりに、こちらを値踏みするような沈黙ののち、低く問い返してきた。
「ここの科学技術を担っているのは……お前か?」
その視線はイズミに向けられていた。
仮面の者の左手は、帯刀した長剣の鞘に自然に添えられている。いつでも抜ける――そう言わんばかりの構えだ。
その露骨な敵意に、ホッブスの声は怒気を含む。
「ふざけるな。こちらの質問に答えろ! 何者だ!」
次の瞬間だった。
仮面の者の姿が掻き消えたかと思うと、視界が揺れ、鈍い衝撃がホッブスの脚を貫いた。
長剣の一閃。目にも留まらぬ速さだった。
「ぐぅっ……!?」
呻き声とともに、ホッブスは片膝をついて崩れ落ちる。
間髪入れず、冷たい刃が首元に突きつけられた。
「……ここの科学技術を担っているのは、お前か?」
それは問いの形をした宣告だった。
答えなければ、この男を殺す――そう告げているのと同じだ。
「……そ、そうだ」
イズミは即答した。
迷いはなかった。ホッブスとは長い付き合いだ。口は悪いが、何だかんだで彼女を守り続けてくれた老兵である。
人付き合いの苦手な自分が、愚痴を言い合えた数少ない存在。――ここで死なせるわけにはいかない。
仮面の者は、わずかに首を傾げた。
「驚いたな。本当にこんな若い女が担っているとは……歳はいくつだ?」
「……私に、何の用だよ」
「アッシュランドから持ち帰った技術情報を渡せ」
その言葉に、イズミの背筋が凍る。
アッシュランド。
大陸南東に広がる未踏の地。灰が雪のように降り積もり、巨大な古代遺構が点在する死の領域。
毒ガスが噴き出し、アイアンスパイダーやスケルトン兵が群れを成して徘徊する――人の踏み入ることを拒む場所だ。
ノーファクションは、前回の遠征でその踏破に成功していた。極秘裏に。
(……なぜ、知っている?)
胸の奥で、不安が膨らむ。
やはり内部にスパイがいるのか。
黙り込むイズミに、仮面の者は刃をさらに押し当てる。
「急げ。でないと、この男を殺す」
ホッブスの首筋から、血が一筋、地面へ滴った。
脅しではない。現実だ。
「……私は知らない。情報は共有されてない」
「……他にも科学者はいるか?」
苦し紛れの嘘だった。
だが、相手はイズミの幼さを見て信じたのか、問いを続ける。
「いるけど……それが何だよ」
「名前を言え」
「……」
「三秒待つ。三……」
思考が追いつかないまま、ホッブスの命が数えられていく。
(仲間は売れない……でも、ホッブスが……!)
イズミは非戦闘員だ。
科学と医療を担い、前線に立った経験はほとんどない。
こんな修羅場で、冷静な判断などできるはずもなかった。
それでも――
こんな時、必ず脳裏に浮かぶ顔がある。
ローグ。
困っている仲間がいれば、必ず駆けつける男。
絶望的な状況を打ち破る、彼女にとってのヒーロー。
そして――
彼は来た。
敵の背後、死角から音もなく現れた影。
風を裂くような高速移動。そのまま、迷いのない斬撃が仮面の者へと放たれる。
ガキィン――!
火花が散る。
仮面の者は、イズミの視線がわずかに動いたのを見逃さなかったのか、間一髪で長剣を合わせ、後方へ跳んだ。
ローグもまた、刀を構えて対峙する。
ベテランのホッブスを瞬時に制圧した相手に対しても、その表情は冷え切ったままだ。
「あんた……うちのメンバーに、何してんだ」
「……ローグか」
仮面の者は、攻勢に出なかった。
ローグの放つ気配――底の知れない圧に、一瞬、気圧されたのだ。
「ホリネか? 言っとくが、手ぇ出す奴らには容赦しない」
「……なるほど。報告通りだ」
仮面の者は短く息を吐いた。
「ここは……引いた方がよさそうだな」
そう言うや否や、踵を返し、外壁へ向かって走り出す。
「逃がさん!」
瞬間的に膝を緩め、身体にかかる重さを消す。
落下の位置エネルギーを推進力へと変換する――バーンから学び、ローグ自身の技へと昇華した動きだ。
一気に距離を詰め、太刀を振るおうとした、その瞬間。
仮面の者は懐からクナイを抜き放ち、イズミへ向けて投げつけた。
「――っ!」
だが、ローグはそれを叩き落とす。
視線を戻した時には、仮面の者の姿はもうなかった。
外壁を飛び降りたのだろう。
長剣の鍔を踏み台にして跳躍した――そう推測できる身のこなしだった。
(……内側からでも、電流網を抜けられるのか)
その運動能力に、寒気が走る。
「怪我はないか?」
ローグは駆け寄り、ホッブスを抱え起こした。
「くそ……ホリネだろうな。非戦闘員まで狙ってきやがる」
ローグは少し考え込み、それから穏やかな声で言った。
「イズミ。メンバーの採血は終わってるか? 血液型のデータ、全員登録済み?」
「え? ああ……終わってるよ」
「そうか。じゃあ警護を増やそう。しばらく外出は控えてくれ」
「……分かった」
自由に拠点内を動き回るのが、イズミのささやかな楽しみだった。
だが、命を狙われた今、その甘さを痛感する。
ホッブスも追い打ちをかけるように発言する。
「部外者の立ち入りも規制したほうがいいかもな。やはりスパイが紛れ込んでそうだ」
「ああ、それは目星はついてきた。皆、大変な局面だがもう少しだけ踏ん張ってくれ。必ず乗り切ろう」
ローグの優しくも力強い鼓舞にはいつも勇気づけられる。根拠と説得力があるからなのだろう。出頭すると言い出した時はどうなることかと思わされたが、皆に促され戦う決意をしてからの表情には迷いや不安がない。
この戦いは勝てる。そしてまた平和な日常が訪れる。これからも色々な発明をしてルイとたくさん遊んで過ごせる。そのためにも今は我慢の時なのだ。イズミは自分に言い聞かせて戦いに備えることにした。
そして時が過ぎ、運命の日を迎える
その日は、いつもより風が強かった。
砂嵐が断続的に吹き荒れ、視界は薄茶色の膜を被せられたように曇っている。
毛皮商の通り道では珍しくもない天候だ。
本来なら、誰も気にも留めない――はずだった。
だが、この日ばかりは違う。
ホーリーネーション上級審問官セタ。
彼が率いる、“天罰”と称された遠征部隊が到来予定の日に、ローグの姿が拠点から消えていた。
「……ローグは、まだ戻らないのか?」
不安を抑えきれない声が、城壁の上で漏れる。
「どこに行ったんだ……まさか、逃げ――」
誰かが口にしかけ、その言葉は途中で消えた。
だが、その「あり得ない選択肢」は、確実に皆の胸に広がっていた。
普段は畑に立つ農耕部隊の者たちまでが城壁に張り付き、慣れない手つきでボーガンを構えている。
指先は震え、矢を番える音すら硬い。
その空気を断ち切るように、低く太い声が響いた。
「慌てることはない!」
声の主は、巨大な体躯を持つシェク人だった。
「ローグがいなくとも、やることは変わらない!
練習通りに動けばいい、それだけだ!」
拠点防衛の指揮を任されているシェク四人衆――
レーン、オロン、ルカ。
筆頭のカンは遠征で不在だが、残る三人もまた、並の兵では太刀打ちできない実力者だ。
さらに、老将クランブル・ジョンが大剣を肩に担ぎ、静かに気勢を上げる。
彼らが正面を固め、その背後から城壁のボーガン隊が敵を射抜く。
何度も想定し、繰り返してきた防衛陣形だ。
――それでも。
(ローグがいない……)
その事実は、想像以上に重かった。
少数派の猛者が奮い立とうと、一般兵の動揺は抑えきれない。
やがて、砂嵐の奥に異変が現れる。
濃く、重たい砂埃。
それは風ではない。集団が動くことで生まれる、意思ある砂塵だった。
(……来た)
数百――いや、それ以上。
偵察からの情報と一致する規模だ。
盲信に囚われた教徒たちが、理解不能な使命感を携え、ここへ迫ってくる。
野戦になれば、数分と持たないだろう。
(……何をしたら、ここまで……)
イズミは、ふと考える。
ローグは過去を語らない。だが、自分と出会う以前に、彼の人生にはきっと――
取り返しのつかない何かがあったのだ。
(ローグ……どこへ行っちゃったんだよ)
拠点内には、ルミとルイもいる。
彼が彼女たちを置いて、逃げるはずがない。
そう信じたい気持ちと、不安がせめぎ合う中、
ホーリーネーション軍は、ついにその全容を現した。
先頭に立つのは、上級審問官セタ。
その背後に高位パラディン、無数のパラディン、歩哨、選ばれし者、御使いたち。
城門は、もって数刻。
ボーガンだけで削り切るのは不可能だ。
焦燥が、胸の奥に芽生えたその時。
「イズミ、ちょっと……こっち来て」
横から、ルミが声をかけてきた。
「あ……ルミ。どうしたの?」
導かれるまま歩くと、拠点で最も大きな建物――
普段は食堂として使われている場所へと辿り着く。
そこは、城門突破後の最終防衛拠点だった。
かつては、兵たちの笑い声と、温かなスープの匂いで満ちていた場所。
今は、割れた皿と倒れた長机が防壁代わりに転がり、空気は重く沈んでいる。
戦えない者、動けない者、そして――幼いルイ。
ルミは何も言わず、部屋の奥へ進むと、仕切りの下の床をこじ開けた。
「……これは?」
舞い上がった埃の向こうに、薄暗い抜け穴が口を開けていた。
「外に通じてるわ」
ルミは静かに言う。
「もし……本当にダメだったら。ルイを連れて、ここから逃げて」
「はぁ!?」
思わず声が荒ぶる。
「それはルミの役目だろ! ごめんだね、冗談じゃない!」
守りたいのは、この親子だ。
自分が守られる側になるなんて、受け入れられない。
「私も非戦闘員が抜け出した後に追うわ。先に行ってて欲しいだけよ」
「だから、それを私がやるって言ってるの!」
言い争う二人の間に、短い沈黙が落ちた。
そして、ルミはイズミをまっすぐ見据える。
「……イズミ。私にとって、あなたは家族なの」
柔らかな声だった。だが、芯は揺るがない。
「ルイのお姉ちゃんなのよ。
離れずに……守りきってくれない?」
それは、命を託す目だった。
いつもの、少し天然で穏やかなルミではない。
母親として、覚悟を決めた大人の顔。
イズミは、言葉を失った。
胸の奥が締め付けられ、喉が震える。
それでも、ルミの視線から逃げることはできなかった。
(……守るよ)
心の中で、そう答える。
この場所を。
この人たちを。
そして――帰ってくるはずのヒーローを。
嵐の向こうで、戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。