Kenshi -20years later- 作:さわやふみ
初めは、ただの拷問だった。
解放を求めただけで殴られた。
理由などなかった。
拳が頬を砕き、靴底が腹を踏みつける。口の中に広がった血を吐き出すたび、鉄錆の味が喉を焼いた。
意識を失えば水桶へ顔を沈められる。
肺が悲鳴を上げ、苦しさに暴れたところで引き上げられ、また殴られる。
妻を奪われた。
子を奪われた。
怒りも悲しみも、やがて疲労の底へ沈んでいく。
それでも――。
必ず見つけ出す。
その誓いだけは、誰にも見つからぬよう胸の奥深くへ隠した。
やがて毎朝、広場へ整列させられるようになった。
凍てつく空気の中、兵士たちは無言で旗を見上げる。
高く掲げられた帝国旗が朝日に照らされて揺れていた。
「我々は恵まれている。この帝国に生まれたことを誇りに思え」
演壇から響く声。
最初の頃は、ただの雑音だった。
耳に入っても心には届かない。
だが、その声は毎日繰り返された。
来る日も。来る日も。来る日も。
雨の日も、雪の日も。
まるで杭を打ち込むように。
毎日、毎時間、同じ言葉を聞き続けるうちに、その小さな違和感は少しずつ摩耗していった。石が川の流れに削られるように、疑問は丸く、小さくなっていく。
やがて、「正しい答え」が明確になった。帝国を称える言葉を述べれば褒められ、疑問を口にすれば沈黙が落ちた。隣人たちも次第に同じ言葉を口にし始める。
ある日、彼は気づく。かつて抱いた疑問を、もう思い出せないことに。
旗が風にはためくのを見ると、胸が熱くなる。演説を聞けば、自然と背筋が伸びる。隣国への警戒を説かれれば、疑いなくうなずく。かつては教えられてそう感じていたはずなのに、今ではそれが自分自身の考えであるかのように思えた。
「帝国のために」
その言葉は、もはや他人から与えられたものではなかった。心の奥に根を張り、自らの声として響いていた。
窓の外には、同じ隊服を着た兵士たちが整然と歩いている。皆、同じ歩幅で、同じ方向へ向かっていた。
彼はその列に加わり、疑うことなく前を見た。
振り返る理由など、もうどこにもなかった。
――ハウラーメイズ半島の沿岸 船着き場
「ごほ⋯⋯ごほ!」
喉の奥から込み上げた血が甲板を赤く汚した。
特別憲兵隊隊長バードは口元を乱暴に拭い、そのまま震える手でエンジンキーを捻る。
――キュルルルル。
空しく回転音だけが響いた。
エンジンは沈黙したまま動かない。
バードの片眉がぴくりと動く。
「操舵手」
低い声だった。
「なぜエンジンがかからない?」
船室の隅に追いやられていた操舵手は顔を青ざめさせる。
「わ、分からない……」
「分からない?」
その一言に、船内の空気が凍りついた。
バードはゆっくりと刀の柄に手を添える。
「死にたいのか?」
抜き身の刃が鞘から半寸だけ覗く。
「もう一度だけ聞く。答えたほうが身のためだ」
操舵手は唇を震わせた。
だが口を開かない。
次の瞬間。
銀閃。
「うああああっ!」
悲鳴が船着き場に響いた。
切り落とされた耳が甲板の上を転がり、血が飛び散る。
操舵手は耳を押さえながらのたうち回った。
「次は目だ」
感情の欠片もない声だった。
「そ……そこにある部品を外しているからだ……」
操舵手は血に濡れた指で機関部を指差した。
「はじめから素直に答えればいいものを」
バードは刀を納める。
「つけろ」
「わ、分かった……」
操舵手は絶望した表情で立ち上がった。
逃げる気力も残っていない。
震える手で工具を握り、部品を戻し始める。
その様子を一瞥すると、バードは小さく鼻を鳴らした。
「……お前は作業を続けていろ」
そう言い残し、船を降りる。
そして前方へ視線を向けた。
潮風の中を、一人の剣士が歩いてくる。
銀色の髪。片目を覆う眼帯。
抜き身の刃のような眼差し。
ルイだった。
彼女は近づきながら、バードの腹部を見た。
コートの下から滲み出た血が広がり、赤黒く染まっている。
「……つらそうだな」
「余計な心配だ」
即答だった。だが息は荒い。
「アイゴアはどうした?」
「倒した」
ルイは短く答えた。
対して一瞬だけ。本当に一瞬だけ。
バードの目が見開かれた。
「あり得ない。お前が倒せるはずがない」
「ああ。一人じゃ無理だった」
バードの視線が鋭くなる。
「増援か。誰だ。カンか?」
「ニールだよ」
風が吹いた。
その名を聞いた瞬間、さすがのバードもわずかに表情を変える。
「……奴は破壊されたはずだ」
「バーンのパーツを使って復活した」
「馬鹿な⋯⋯」
バードは吐き捨てた。
しかしそれを他所にルイが問いかける。
「あんたこれからどうするつもりだ?やはり禁忌の島を目指しているのか?」
「そうだ。止めるつもりか?」
「あたりまえだ」
ルイの声にも迷いはない。
だがバードは薄く笑った。
「ここに来たのはお前だけのようだな」
「それがどうした」
「一人で私を止められると?」
「……ああ」
ルイの即答に対してバードは小さく肩を落とした。
「相変わらず見積もりが甘い」
「それは後で分かる」
ルイは剣の柄を握る。
「その前に聞いておきたい」
「なんだ」
「都市連合を強くして、あんたは何がしたい?」
バードの眉が僅かに動いた。
皇帝に問われた時と同じ質問だった。
「強く安定した国家を築く」
淡々と答える。
「それが我々特別憲兵隊の使命だ」
「違う」
ルイは首を振った。
「私が聞いてるのはそんな建前じゃない」
静かな声だった。
だからこそ重い。
「なんでそこまでして国を強くしたい?」
「……」
「何があった?」
ルイは真っ直ぐ見据える。
「何がお前をそこまで突き動かしてる?」
しばらく沈黙が続いた。
やがてバードは答える。
「私は
感情のない声。
「自身に目的などない」
「だったら――」
ルイは言葉を止めた。
胸の奥に引っ掛かるものがあった。
だがもう追及するつもりはない。どうせ答えはかえってこないだろう。
「ふん。もはや時間がない」
バードが鼻で笑い、ゆっくりと刀を抜いた。
夕日に照らされた刃が鈍く光る。
「さっさと終わらせよう」
ルイもデザートサーベルを抜く。
だが心は揺れていた。
目の前にいる男は仇だ。
両親を殺した張本人。
ノーファクションを崩壊させた元凶。
仲間たちの命を奪った怪物。
本来なら迷う理由などない。
殺すべき相手だった。
それなのに。
(なぜだ……)
ルイは自分自身に戸惑う。
知りたかった。
なぜバードは自分に殺意を向けないのか。
なぜ最後の一線だけは越えようとしないのか。
しかし。
アイゴアを差し向けてきた以上、邪魔になれば排除する方針は変わらないだろう。
この場で迷えば死ぬ。
その事実だけは理解していた。
「行くぞ!」
叫ぶと同時に地面を蹴る。
銀閃が走る。
そして――
勝負は一瞬だった。
「くっ……!」
激痛。視界が揺れる。
気付けばルイの右足から血が噴き出していた。
膝が砕けるように崩れ落ちる。
速さが違った。
技量が違った。
負傷してなお、バードは圧倒的だった。
「馬鹿め。終わりだな」
冷たい声が降る。
バードは見下ろしていた。
しかしルイは諦めない。
「まだだ……!」
血を引きずりながら前へ進む。
そして。
バードの足にしがみついた。
「……時間稼ぎか。無駄なことを」
バードは冷めた視線を向ける。
「アンタ……何で私を殺らないんだ?」
ルイは地面に倒れ伏したまま問いかけた。
血が砂を濡らしていく。
バードなら、今この瞬間にも首を落とせるはずだった。
だが、そうしない。
だからこそ分からなかった。
「……武器も持たぬ相手を斬って何になる」
「私が短剣を隠し持っていたら?」
「その程度なら反応できる」
即答だった。
そこに慢心はない。
事実として言っているだけだった。
バードはルイの手を払い飛ばすと言葉を続ける。
「今度、私が戻ってくる時、お前たちはアリのように踏みつぶされて終わるだろう。せめてそれまでの余生を過ごさせてやる」
確定だ。
これまでの冷徹な性格とはかけ離れた明確な意思。彼はやはり自分を殺す気がない。
しかしルイは自分の使命を全うしなければならなかった。
「⋯⋯ごめん」
短く呟かれたルイの言葉はバードを困惑させた。
絶句している彼の心境を他所にルイは続ける。
「私はやはりお前を止めるために殺さなければならない」
「ふ⋯⋯どうやってやるつもりだ。もはや立って⋯⋯」
空気が変わった。
風が止む。波が止む。
世界そのものが息を潜めたようだった。
バードも異変に気づいたのか、ゆっくりと空を見上げる。
「⋯⋯何だ?」
雲が割れていた。
遥か上空。
蒼穹の彼方に、太陽とは異なる光が生まれている。
「⋯⋯ジ・アイ」
ルイがボソリと呟いた。
「なに?」
「ジ・アイだ。お前はここで死ぬ」
「何を言っている⋯⋯」
ジ・アイ
古代文明が使っていたと思われる天空に浮かぶ破壊兵器。遥か上空から地上に向けて高エネルギー波を放ち、全てを無に返すほどの圧倒的な力で焼き尽くす。かつてルイはヴェンジ地方で暴走するジ・アイの力を目の当たりにしている。
神の雷。
あるいは、人類が触れてはならなかった禁断の火。
「ノーファクションの遺産だ」
ルイは静かに続けた。
「バーン、サッドニール、アグヌ。3寄宿のスケルトンの承認が揃った時だけ、ノーファクション元メンバーに限って私が裁きを下せる」
バードの顔色が変わる。
「何だ……何だそのふざけた仕組みは……」
震える声で空を見上げた。
「あれを……使えるというのか……?」
「昔、メンバーとして血液採取したことがあるはずだ。その情報を照合して、対象の位置へ光撃を撃ち込む」
「⋯⋯!!」
「ローグは軍事技術を持ち帰っても人が使わないよう封印した。でも万が一ノーファクションメンバーが暴走した時に備えて用意していた」
「ふざけるな⋯⋯やはり、あいつは軍事技術を⋯⋯」
ルイは何も答えない。
すると、バードは突然笑い始めた。
「くくく⋯⋯はははは!」
狂ったような笑い声が船着場に響く。
「バカな奴だ。当時からここまで制御できていたのならアイゴアも容易くに退けられただろうに!いや、簡単に世界を統一することも出来た⋯⋯!誰も逆らえぬ絶対の秩序を築けた!」
その声には怒りよりも、悔恨に似た熱が混じっていた。
ルイは静かに頷く。
「だろうな⋯⋯。私も聞いた時はそう思ったよ。でもそれじゃダメだったんだ」
空を見上げる。
ローグ。
誰よりも強く、誰よりも人のために動いていた人。
「ローグは……父さんは、誰もが笑顔になれる世界を目指していた。そんな世界に、ジ・アイなんて要らなかった」
「それが綺麗事だと言うのを、あいつは分かっていなかった!」
バードが初めて感情を露わにする。
「だから滅びたのだ!!」
怒声が響く。
しかしルイは、その叫びに怒りよりも別の感情を感じ取っていた。
「……あんた、もしかして後悔してるのか?」
「馬鹿な!」
バードは即座に否定した。
「私には揺るがぬ信念がある!力を使わなかったローグたちが愚かだったと、改めて確認しただけだ!」
声は強い。
だが、その瞳の奥にはわずかな揺らぎが見えた。
だからルイは、ふと思ったことを口にした。
「なぁ⋯⋯アンタが目指した世界ってさ。ローグが思い描いていた未来と、どこか重なってたんじゃないのか?」
バードの眉がわずかに動く。
「貴様は何を⋯⋯」
「……いや、いい」
ルイは小さく首を振った。
「こんな話、もう意味ないか」
やがてバードが空を見上げた。
「あれは……私に向けて放たれるのか?」
「ああ」
ルイも空を見上げる。
小さかった光は、今や太陽のような輝きを放ち始めていた。
「アンタを中心に半径30メートルらしい。もう止められない」
「ならばお前も巻き添えではないか」
ルイは苦笑した。
「私も一緒に食らうよ。発動方法が『
「なぜだ……」
バードの声がかすれる。
「なぜお前がそこまでする必要がある⋯⋯」
ルイは自嘲気味に笑う。
「本来この手段は使わなかったはずだけど私がしくじった。お前はここで確実に仕留めなければならない」
「それで自爆か」
バードは鼻で笑った。
「見上げた心意気だが、貴様の信念とやらはその程度だったのだな」
その言葉を聞いてルイは、ようやく理解した。
父と母。イズミ。
そしてノーファクションの仲間たち。
皆、どんな思いで死を受け入れたのか。
何を残そうとしていたのか。
「……ケジメなんだろうな」
ルイは静かに笑った。
「皆が使わないって決めた危険な力を、私は使うんだ。責任くらい取るよ。それにさ⋯⋯」
ルイの表情には、不思議なほど穏やかな清々しさが宿っていた。死を目前にしているというのに、そこには恐怖に飲まれた者の顔はない。
むしろ、長い旅路の果てにようやく答えへ辿り着いた者のような、静かな安堵すら滲んでいた。
失ったものは多い。
アウロラも、イズミも、そして志半ばで倒れていった仲間たちも、もうこの世界にはいない。
けれど、彼らが願った未来まで消えたわけではない。
誰かが倒れれば、また誰かがその想いを受け取る。
そうやって人は、願いを託し、祈りを繋ぎながら未来を築いてきた。
だからこそ、終わりではない。
たとえ命が尽きようとも、意志まで消えることはない。
ルイは静かに微笑み、真っ直ぐバードを見据えた。
「アンタはさっき、ノーファクションは滅んだって言った。でも違う」
胸の奥に宿る温もりを確かめるように、そっと自分の胸に手を当てる。
「イズミ達から受け取ったものは、ちゃんと私の中にある」
脳裏には笑っていた彼女の顔が浮かぶ。
厳しくて、優しくて、未来を諦めなかった人。
そして、その前には父と母がいて、さらにその前には多くの仲間たちがいた。
彼らが紡いできた願いは、一度も途絶えてなどいなかった。
ただ、次の誰かへと手渡され続けてきただけなのだ。
「今度は私が、残された皆に託す番なんだ」
ルイは小さく息を吐き、どこか誇らしげに笑った。
「私の信念は……ちゃんと引き継がれる」
それは遺言ではなかった。
終わりを告げる言葉でもない。
過去から受け継いだ希望を、さらに未来へ繋いでいく者の宣言だった。
たとえここで命が尽きようとも。
自分の願いは、仲間たちの中で生き続ける。
そしていつの日か、その先の誰かがまた新しい未来を築いていく。
人は死ぬ。
だが、想いは死なない。
それこそが、ノーファクションが最後まで守り続けた――本当の強さだった。
「⋯⋯」
バードはもう応える気はないようであった。
地面が乾いていく。
枯れた木の葉が宙を舞い小さくなって散っていく。
もうすぐ死の熱線がこの地上に向けて一直線に振り注ぐ。逃れる術はもうない。
横を見ると操縦士が肩を震わせている。
彼には悪いことをした。
死ぬ覚悟はしてこなかったと思う。
そしてバードは⋯⋯天を仰いでいた。
もはや諦めたのかもしれない。
最後まで目的を聞き出すことが出来なかった。
この者と分かりあえる未来もあったのだろうか。
今となってはもう全て塵となり分からなくなる。
「う⋯⋯」
喉から声が漏れた。
熱い。
肌が焼けるようだった。
空間そのものが灼熱へ変わっていく。
鼓動が速くなる。
痛みはあるのだろうか。
一瞬で焼き尽くされるのだろうか。
死ぬ。今度こそ本当に。
イズミの顔が浮かぶ。
仲間たちの笑顔が浮かぶ。
出来ることなら生きたかった。
もっと皆と冒険し馬鹿話をしていたかった。
それでも――。
「いまいくよ」
ルイは小さく呟いた。
その時。
天が裂けた。
夜明けにも似た白光が、一直線に大地へ降り注ぐ。
世界から色が消える。
音が消える。
そして全てを飲み込む閃光だけが残った。
その光は駆けつけようとしていたトゥーラたちからもはっきりと見えていた。
次回、完結です。
長い間、お付き合い頂きありがとうございました