穴の開いたこの身では、愛はただ零れていく   作:ブラウン・ブラウン

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虐待って許せませんよね。私もそう思います。
数話で終わる予定。


第1話【痛いほどの愛】

「ねえアナタ。アナタはこの子がどんな子に育つと思う?」

 

 病院のベッドに横たわった女性が、大きく膨れ上がった自分のお腹を愛しそうに撫でている。外はすでに日が落ち、窓ガラスが反射して中の様子を映し出していた。

 青い病院服姿の彼女は、隣の椅子に座っている男性に問いかける。

 

「うーんそうだなあ。きっとキミに似て、頑張り屋さんの元気な男の子になるんじゃないか?」

 

「アナタに似て、負けず嫌いな子になるかもしれないね」

 

 間もなく生まれてくる我が子への想像が、2人の間で膨らんでくる。こんな子になってほしい、あんな子になってほしい。これまでも何回も繰り返した、もう何度目になるか分からないほどの討論会。

 交互に互いの想像を話し合って、けれど最後は決まってこの意見で締めくくられる。

 

「そして絶対足が速い子だな」

「そして絶対足が速い子ね」

 

 そう言うと2人はベッドの上にある、あるものに目をやった。

 それは、燦然と輝く2つの銀色のメダル。側面には英語で競技名が書かれている。どちらも陸上種目のもので、男子と女子1枚ずつのメダルだ。

 日頃から大切に扱われているのだろう、表面は一点の穢れもなく、病室の蛍光灯の光を反射して煌めいていた。

 

「結局僕たちは世界を取ることはできなかったけど」

 

「この子なら絶対、輝く金色を掴んでくれるに違いないわ」

 

 今までのやり取りとはどこか違う、想像と言うよりも確定した未来の話をしているかのような喋り方。お腹の中にいる我が子にも言い聞かせているような口調で確信をもってそう言い切った。

 その発言を聞いて何か思ったのか、お腹の中の子が母親のお腹を蹴飛ばしてみせた。

 その出来事に彼女は笑みを浮かべる。

 

「あっ、言ってる傍からこの子、今私のことを蹴ったわ」

 

「はははっ! 銀メダリストを足蹴にするんだから、こいつの将来はスーパースター間違いなしだな」

 

 男性は我が子の明るい未来を確信してとても嬉しそうにしている。

 それから女性の膝の上にある、自分の銀色のメダルをそれぞれ手に取って窓ガラスの方に向けた。窓に反射した銀色のメダルが、2人の目にはだんだんと金色のメダルに変わっていくように見えた。

 2人がそんな会話をした、およそ20時間後──

 

 「おぎゃぁ~! おぎゃぁ~!」

 

 

──両親の期待を一身に背負った、元気な男の子が誕生した。

 

 

 

 

 

 

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 走る。走る。ただ走る。

 ザッザッザッと地面をこする自分の足音だけが耳の中に入ってくる。

 この最後の1周が終わればようやく少し休憩できる。

 

「ほら! もっと強く腕を振らないとダメでしょ!」

 

「ただでさえお前は、ハイハイも歩き始めも他の子より遅かったんだから真剣にやれ!」

 

「ハッ、ハッ、ウオェ……はい、分かりました……」

 

 砂っぽくなった口から胃液が出そうになるのをなんとか堪える。

 今日も何周したか分からないグラウンドで、ボクはうつ伏せに倒れた。10以上は数え方を知らないから何て言うか分かんないけど、10が2回来たところまでは覚えている。

 

 走り疲れて声があまり良く聞こえないけど、2人ともボクのためにアドバイスしてくれているんだからしっかり聞かなくっちゃ。

 うずくまる背中の後ろからは、おとうさんの冷たい視線を感じる。

 またボクのせいで、おとうさんにもおかあさんにも”怒らせて”しまった。

 ボクが生まれてからもう4年も経っているらしいけど、ボクは一度もおかあさんたちに笑顔を向けられた記憶がない。

 

 でも、それもこれも全部ボクのせい。ボクの足が遅いせいだ。僕の足が2人の期待に応えないせいだ。

 

「全く、大して動いても無いのにそんなに休まないの! "世界"は待ってくれないのよ」

 

 お決まりの文句とともに、おかあさんはそう言ってボクの前に立って手を差し伸べてくれた。

 

「ご、ごめんなさい。ありがとう、ございます……」

 

 何もできていない自分を心配してくれるおかあさんに申し訳なさを感じる。

 でも感謝は相手の目を見て伝えろ、と教えてもらっているから、顏に付いた土を腕で拭いてから顔を上げておかあさんを見る。

 手を引かれ、おかあさんと目が合う。

 けどその目はボクには向けられていない。

 おかあさんの目は、いつもボクなんかよりもずっと遠くに向けられているような気がする。多分”せかい”ってやつなんだと思う。

 おかあさんもおとうさんも、よくこの言葉を口にする。"せかい"に勝て、"せかい"に置いて行かれるって。

 

「さあ、30秒も休んだからもう十分でしょ。今日はまだあと4セット残っているんだから早く始めましょ。ほら立って」

 

「……はい」

 

 服に付いた土を払って立ち上がる。足に痛みが走るけど、そんなものは無視だ。

 今日もまた走る。

 ちょっと大変だけど頑張らなくっちゃ。

 

 "せかい"に置いて行かれないように。…………おかあさんたちの期待を裏切らないように。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

──ピッ。

 

 

「──タイムは……はぁ。おいおい昨日のタイムよりかなり遅くなっているじゃないか」

 

「ええっ嘘! どうしてよ」

 

「うーん、食事はきちんと食べさせてるし、睡眠時間も十分だったよな。……ほらやっぱりアレじゃないか? 昨日プロテインを取らなかったから」

 

「えーそれは仕方ないでしょ。昨日は買ってくるの忘れちゃったんだから」

 

「でもほかに原因が思いつかないんだよなあ」

 

 たくさん走って走って走って、一日の最後に100メートルを1本走ってタイムを計る。これがボクの毎日の生活。

 今のでやっと今日の僕の日課が終わった。

 達成感なんて何もない。酸素を体の中に吸収するのが精一杯で、頭の中は真っ白になって何も考えられない。

 走り終えた途端、足の骨が抜け落ちたみたいにグラウンドに頭から崩れ落ちた。足が肉と皮だけの棒状のゴムになった気分で体を支えられない。

 頭を地面に打ったけど、それすらもどうでもよくなるくらい疲れた。

 

 でもまだやることがあるから、いつまでも寝転んでいる訳にもいかない。だけど膝が震えてうまく立ち上がれない。

 目だけ動かして足の方を見てみると、ふくらはぎがパンパンに赤く腫れている。手で触ってみても、足には触られている感覚が無く、赤いところから発せられる熱だけが手のひらに感覚として伝わってきた。

 じんわりと伝わってくるその熱だけが、ボクがここで生きているという実感を与えてくれるものだった。

 

「はぁまあいいわ。それじゃあ今日の分を始めましょ。ええーっと……昨日がこのタイムだから……」

 

 ボクのタイムを記録してあるノートを見ながら、おかあさんは自分のポケットの中に手を突っ込んで何かを探し始めた。

 

 

 

──辺りの空気が一気に冷たくなった気がした。

 

 

 

「あっ、ああ……はぁあ、はぁあ……」

 

 呼吸が乱れる。疲労による震えとは違う種類の震えが、体全体に襲ってきた。周りの音が聞こえなくなるほど心臓の鼓動がうるさい。

 今は9月でまだ気温は高い。空が暗くなってきたとはいえ、寒いわけでもないのに歯がカチカチと音を鳴らして止まらない。

 深呼吸をしようにも、肺が無くなったかのように空気が吸えない。意味を持たない呻き声だけがボクの喉から発せられる。

 なんとか地面を這いつくばっておかあさんの元に行き、その足にしがみつく。

 

「ぁぁ、ごめんなさい……もっと頑張るから……だから」

 

「もう、いつも言っているでしょ。お母さんだって本当はやりたくないのよ? でもあなたの才能を活かし切れない、この悪い足にはお仕置きをしなきゃいけないの。分かるわよね?」

 

 おかあさんがしゃがんでボクの顔を覗き込む。相変わらず、目は僕を向いているのに意識は別のところに行っているように見えた。

 真っ白だった頭の中は、これからのことを思うだけで赤く染まってきた。

 もう何回もこのやり取りをやってきた。もっと頑張るからお願いします、と。そしてボクのこの願いはただの一度も通ったことがない。

 

 故にボクは諦めるしかなかった。

 

「は、はい……分かります。ボクが悪かったです……」

 

「うんうんそうそう。分かればいいの。良い子ね」

 

 ぼくの頭をなでてくれる。以前一度だけ見たバラエティ番組で、おかあさんの手は温かいと言っていた。子への愛情があるからおかあさんの手は、親の手は温かいのだと。

 

 けど、そんなの嘘だ。

 

 だってボクの頭に乗せられたおかあさんの手はすごく冷たいんだから。ボクをこんなに愛してくれているのに、冷たいわけがないんだから。

 そんな嘘つきな番組を見るよりも、いつも点いている世界陸上の映像を見ていたほうが、よっぽどボクのためになる。

 嘘の知識を身に付けるよりも、"せかい"を見ていたほうが2人の期待に応えられる。

 

 言葉だけを聞けばおかあさんは笑っているようにも聞こえるけど、多分おかあさんは笑ってくれていない。

 理由なんて分かり切っている。ダメなボクに向けてくれる笑顔なんてあるわけないんだから。

 

「今日は何本なんだっけか?」

 

「んーと昨日よりも1.7秒も遅いから17本ね」

 

「はぁこれまたずいぶん多いな。しかも割り切れないし。取り出すの大変だろ、手伝うよ」

 

「ん、ありがと。じゃお父さんと準備してるから、先に靴と靴下脱いで待っててね」

 

 ボクに指示を出してから、おかあさんはポケットからあるものを取り出した。

 それは、金色に輝く”画鋲”。持ち手が平らになっていて、奥までしっかり刺し込めるありきたりな画鋲だ。

 ビニール袋の中に入れられていて、合計30本くらい入ってそう。

 それを二人で1つずつ取り出して今日の分を数えている。

 

 半年くらい前から続いている日常の光景を、ボクは震えた両眼で見ていた。

 

 恐怖でお腹の底から冷えてくる。そして、その冷たいものが全身に広がって体温がどんどん冷めていっている気がした。

 気づけばさっきまで火照っていた足も、いつの間にか冷たくなっていた。

 

 ボクも早く準備しないと怒られる。

 疲れた体を無理矢理動かして、どうにかこうにか上半身を起こす。かじかんだように動きにくい手で靴を脱ぎ、靴下も脱いでいく。

 そして足首から下が露わになる。

 

 そこにあるのは大量の"アザ"。

 小指サイズにも満たない、そう例えるなら画鋲サイズのそのアザは、ボクの足首から下に表裏関係なしに無数に点在している。

 全部が黒くなったアザもあれば、周りが墨のようにくすんで中心だけ少し赤銅色になった傷もある。

 走ったときに破けたのか、一部の傷口はカサブタが裂けて血がにじみ出してきていた。

 

「よし、これで17本っと」

 

「それじゃ私は晩御飯の支度をしに先に帰るわね」

 

 もう日は完全に落ちた。辺りも暗く、人の気配もない。

 今から作らないと遅くなっちゃう、とおかあさんは家の方角に帰っていった。

 

「ああ頼んだ。コッチも終わらせたらすぐ戻るよ」

 

 お母さんに手を振り終えたおとうさんは、それからボクの方に体を向けて、

 

「じゃあ左足からやろうか」

 

 と言った。準備ができたおとうさんに左足を差し出す。右手には鋭い画鋲が一つ握られている。

 

 

──ああ、今日も"お仕置き"が始まってしまった……。

 

 

 何の抵抗にもならないけど、これから来る痛みに備えて、空気をたくさん吸って息を堪え目をつぶる。

 次の瞬間、冷えた異物が足裏に侵入してきた。

 

「くぅぅうう、があああ!!」

 

 ため込んだ空気が絶叫となって口から飛び出ていく。

 痛い痛い痛い痛い痛い。冷たく感じていた足が突如として灼熱を抱き始めた。

 突き刺さったままのソレは、確実にボクの体に穴を刻んでいる。その穴から血とともに、何か大事なものまでこぼれ落ちていくような……そんな気さえしてくる。

 この痛みから何とか逃れようと体をねじるも、足をおとうさんに掴まれて固定されているから動けない。

 

「こらこら、そんな暴れるな。画鋲がうまく刺さんないだろ」

 

 そう言っておとうさんは、2本目の画鋲を足に突き刺した。

 

「あああぁぁいたいいたいいたい!!」

 

 痛 痛 痛。そればかりが頭の中で点滅する。

 自分が絞り出す絶叫の中、聞こえるはずのない足の肉の裂ける音が聞こえた気がした。

 この場所は滅多に人が来ない所だから、どれだけ叫んでも迷惑にはならないし見に来る人もいない。

 そして3本目、4本目、5本目……と先ほどよりも速いペースで次々と刺し込まれていく。

 体の構造的に足の裏側の方が差しやすいみたいで、足の甲にはあまり刺さっていない。

 

「よし、これで8本。ようやく折り返したな」

 

「……ああっ、あ、あぁ……」

 

 6本目を超えたあたりから、ボクの口からはまともな声が出て来なくなった。

 両目から涙が止めどなく流れてくる。痛さを耐えるのに必死で涙を拭う余裕もない。

 左足だけに8本刺さっているから、画鋲の数だけ左足が不自然に重たい。

 

「んじゃ今度は右足をやっていくぞ」

 

 ボクの了承も得ないうちにおとうさんは右足を掴んで持ち上げた。掴まれるところが悪く、昨日の傷の上から押されてしまってカサブタが破れてしまった。

 鋭い痛みがわずかに走る。でもそんなことには全く気が付かないおとうさんは、そのまま強く握って9本目を突き刺した。

 

「うぅ、いたい……いたいよぉ……」

 

「そんな泣いてもお仕置きはやめないぞー。これはお前のためなんだからな。お前には才能がある、確実にな。なにせお父さんとお母さんの子なんだから。世界トップクラスの2人から産まれてくる子が遅いわけがないだろ?」

 

 子守歌よりも聞かされたボクの練習メニューについて語られる。

 

「でもお父さんたちは走り始めるのが少し遅くてな、金メダルは取れなかったんだ。お前にはそんな悔しい思いはしてほしくないんだよ」

 

 説明している間にも、次々と画鋲はボクの足と一体化していく。徐々に重みが増してきて、両足とも自然な重さに統一されていく。

 話を聞くことに集中すれば、ほんの少しだけど痛みが和らぐような気がする。それでも刺される瞬間はどうしようもなく痛い。

 これはお父さんたちからの"愛"だということは分かっているんだけど、なんでだろう……すごく悲しくなってくる。

 

「んで、どうやっていこうかお母さんと話し合ってな、速く走れるようになるには毎日0. 1秒ずつでも速くなればいいって気づいたんだ。これ気づいたのお母さんなんだよ、なかなか冴えてるだろ?」

 

「……ぁぁ、すご…ぃね……」

 

 きっとこの悲しさは、自分の無力さに対する気持ちなんだと思う。

 

「ホントうちのお母さんは天才だよ。でもな、お父さんだって思いついたんだ。少しくらいは緊張感があったほうが伸びやすいってな。ほら受験勉強とかそうだろう? って言ってもまだ分からないか。はははっ」

 

 涙でにじんだ目から見えたのは、誇り気に自慢げに話すおとうさんの姿だった。

 

「そこで2人の案を合わせて今の形になったんだ。"毎日0. 1秒以上ずつ速くなる。なれなかったら遅くなった分お仕置きをする” ってな。今日はいつもよりも多いお仕置きの量だけど、これはお父さんたちからの ”愛” なんだからな、お前のことを想ってやっているんだ」

 

「……ぁりが……ござ……ぅ……」

 

「鉄は熱いうちに打てって言うだろ? ってことは早ければ早いほど良いってことだ。こんな早い頃からやってる奴なんてまずいない。期待しているからな、頑張れよ。……よし! これで最後だ!」

 

「っが、ああ!!」

 

 終わりの合図のように、計17本刺さった両足をぺちんと叩かれて、電流のごとき痛みが体を流れる。

 少し雑なその扱いに、もう出尽くしたと思った涙がまた出てきた。

 お仕置きが終わって、ほんの少し息つく間ができる。

 

 

 

──けれどもまだ終わらない。

 

 

 

「ほら、最後に”誓いの言葉”を言ってお母さんのところに帰ろう。今日はカレーなんだってさ楽しみだ」

 

「うん……」

 

 "誓いの言葉"。これはボクがお仕置きを受けた時に最後に言う、明日の自分に対する誓い。

 

「あっ、あぐぅ……うっぅ……」

 

「そーだ。いいぞ、ちゃんと立って言わないとな」

 

 "誓いの言葉"はしっかり自分の足で立ってから言わないといけない。

 自分の重さで足の裏に刺さった画鋲がさらに深くねじ込まれていく。なんだか絵本で見た針山地獄に似ている。針がズブズブと体を突き刺さる。結果を残せなかった悪いボクにぴったりだと思う。

 だから泣いちゃいけない。どんなに痛くっても終わるまでは泣いちゃいけない。

 だって悪いのはボクなんだから。

 

「"ボ、ボグは……ひぐっ…ぁ明日、もっどもっど、もっど速ぐ……なります"……うわあああぁぁんん!」

 

「お―しおしおしよく頑張った。泣かずに言い切れたな。それじゃ早く抜いて、お母さんのところに帰ろう」

 

 ボクをひょいと抱き上げ地面に座らせて、刺したばかりの画鋲を抜いていく。

 予防接種のときの注射と同じで、刺される時よりも抜かれるときの方が痛みが少ない。

 赤い色をした命の液体が、じんわりと足元から流れ出ていく。

 

「今日はいつもよりも多かったからな、おんぶで帰ろうか」

 

「……やったぁ」

 

 滅多にしてもらえないおとうさんのおんぶ。やっぱりおとうさんは優しい。この優しさに応えられるようにボクももっと頑張らなきゃ。

 おとうさんが取り出してくれた包帯を足に巻きつけて、おんぶしてもらう。

 月の光がボクたち親子の影を作る。ボクをおんぶしてくれる優しいおとうさんの影。

 前に見たバラエティ番組でも似たような写真がでていた。父親が子をおんぶして、その隣を歩く母親の3人仲のよさそうな写真。今の僕たちにそっくりだ。

 そこだけはホントのことを言っているな、と昔のことを思い出していると、だんだん眠くなってきた。

 

「……ねぇ、おとうさん。なんだかねむたくなってきちゃった」

 

「ん? ああ寝てもいいぞ。着いたら起こしてやるから」

 

「んーありがと……」

 

 おとうさんの広い背中の上でまどろんでいく。やっぱりおとうさんの背中は落ち着くなあ。足にはもうほとんど力が入らないので、腕の力だけでギュッとおとうさんに抱きつく。

 

 どうしてか分からないけど、お父さんの背中は冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「おかえりなさ〜い。今ちょうどカレーが出来たところよ。ほら手を洗ってきて」

 

 出迎えてくれたおかあさんに従い、おとうさんと一緒に手を洗いに行こうとする。

 玄関でおとうさんに下ろしてもらった時、足に痛みが走った。穴が開いたばかりだし、そんなこと気にしても仕方ないから無視をすることにする。というか、こんなのいつもの事だから何の疑問にも思わない。

 足を引きずりながら席に着くと、冷えたお腹が温まりそうな、温かい匂いのするカレーが運ばれてきた。今日は野菜が大きく切られたゴロゴロカレー。

 中に入っているお肉はもちろん鳥のササミだ。これには"たんぱくしつ"っていうものがたくさん入っているらしい。"せかい"を取るためには絶対欠かせないものだとおとうさんが言っていた。

 

「みんな席に着いたね? それじゃ、いただきまーす」

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 スプーンで掬って食べていると、テレビがつけられた。いつも見ている録画した世界陸上の番組。

 腕の振り方はこうしたほうがいい、スタート合図に対する反応速度を上げよう、などと、見ながらボクにアドバイスをくれる。

 そのアドバイスをカレーと共に咀嚼してよく味わってから体内に取り込む。自分の体に定着して欲しい、そう思いながら食べていく。

 カレーだからそんなに時間もかけることなく、お腹も心もいっぱいになった。

 

「おかわりはいいのか?」

 

「うん、今日はもういいや」

 

「ならもう少し食べようかな」

 

「それなら私がよそってくるよ。ちょうどお茶も飲みたいし」

 

「お、それじゃお願いする」

 

「ボクは先にごちそうさましておくね。ごちそうさまでした」

 

「はい、お粗末様でした」

 

 一足先に空になった食器を台所まで持っていく。水に漬けておくと洗いやすいらしいから、水を出して食器をすすいでおく。

 それが終わった後、石鹸で手を洗ってからコップが入っている棚の前に立つ。

 その引き出しを開けて、自分のコップとお目当てのものを取り出す。

 

 取り出したのはプロテイン。お父さんが言うには、これを飲めば筋肉がついて速く走れるようになるらしい。

 ココア味の粉末状のプロテインを底の深いコップに三杯くらい入れて、そこに牛乳を少しだけ入れる。スプーンでよく混ぜて粉っぽさが無くなったら、ラップはしないで電子レンジに入れて2分10秒加熱する。

 するとプロテインがどんどん膨らんできて、コップ型のスポンジケーキみたいに形作られる。下に皿を敷いてコップをひっくり返し、中のプロテインを取り出せば、筋肉がつく温かくて美味しいケーキの出来上がりだ。

 

 前はいちいちシェイカーに入れて振ってから液体状のを飲んでたけど、おとうさんに飲みづらいと相談したらこの方法を教えてくれた。

 ボクでも1人で作れて、しかもおいしいからよくオヤツで食べている。原因はよく分からないんだけど、ボクはよく吐いちゃう癖があるから、たくさん食べて吐いた分を取り戻さないと。

 ボクには友達がいないけど、もし友達ができたからこの食べ方を教えてあげたいと思う。

 

 カレーで使ったスプーンでプロテインケーキを食べ終わったら、台所の隣に置いてあるランニングマシンに乗り込む。

 今日はこれから3時間走らないといけない。今は9時だから終わるのは針が真上に来る頃か。

 今日はいつもと違って、足に包帯しているから少し走りにくい。穴は開いたまんまだし、普通にズキズキ痛むけど休んでる暇なんてない。

 

 だって”せかい"は待ってくれないんだから。

 

 

 

 

 

 

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「ハァハァっ……ハァ……」

 

 今日はいっぱい愛してもらったからか、いつもよりも疲れるのが早い。何度か間に合わずに転げ落ちてしまった。さっきも顔からぶつかって鼻血が出た。

 なかなか血が止まらなかったから、お母さんに助けてもらおうと思ったんだけど、もう11時を過ぎたからおかあさん達は寝てしまっていた。

 どうすれば止まってくれるのか分からなかったから、とりあえずティッシュで鼻血をかんで、出てこようとする血を出し尽くしてみた。

 何とかうまくいって5分くらいで血は止まったんだけど、鼻の血管がやけにドクンドクンと脈打ってて、なにか間違っちゃったことをしたんじゃないかと緊張した。

 

 眠くなってきたのか、視界が白くなってきて意識がだんだん遠のいてきたとき、ピーピーとアラーム音とともにランニングマシンのタイマーが切れた。

 

「ヒュー、ヒュー……ゲホゲホッ」

 

 うまく止まれずに転げ落ちて、壁まで飛ばされる。幸い毎日のように飛ばされているから、受け身はバッチリだ。

 この時間になると下半身の感覚が消え失せる。ちゃんと足がついているのか見てみると、足に巻かれた包帯は赤い靴下みたいになっていた。

 どおりでいつもよりもコケるわけだ、と原因が分かってスッキリする。

 いつもならこのまま電気を消してから床で寝てしまうんだけど、今日は包帯も取らないといけないし、この鉄っぽいにおいもどうにかしないと明日臭いって怒られちゃう。

 

 ……でも今日はちょっともう無理かもしれない。まぶたが重たすぎる。電気も点いたまんまだし片付けだってしないといけないのに。

 体が少しも動かない。意識が、だんだん遠く、な、る。なにもかんがえ、られ…………

 

 

 

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「──」

 

 暗闇が揺れる。大きな波の揺れを感じる。

 

「──い。おき──」

 

 体に衝撃を感じる。暗闇が徐々に晴れていく。

 

「おい、起きろって」

 

「──がッあ!?」

 

 鋭い痛みに跳び起きると、目の前にはおとうさんがいた。どうやら痛みの原因は、足をつねられたからだったみたい。

 

「? あれ、ボクは……」

 

「まったく電気も消さずに散らかしたまま寝て……、さっさと起きて片付けろ」

 

 寝ぼけまなこをこすっていると、昨日のやり残しが目に入った。辺りには鉄の臭いが充満している。眠気は一瞬にして吹き飛んだ。

 

「ご、ごめんなさい! すぐにやります!」

 

「5時からの朝の走り込みもサボって、もう7時だぞ? 分かってるのか?」

 

「はいごめんなさいっ!」

 

「片付けなかった分は今日の夜に2時間、今日の分の走り込みをサボった分は明日の朝に2時間追加でやるんだぞ」

 

「はい、分かりました」

 

 昨日のボクなんで寝ちゃったんだ! 本当にダメだなボクは。

 今日の夜に2時間多く、明日の朝に2時間早く起きて走らないと。2つもやらなきゃいけないことをやらなかったのに、明日1時間も寝させてくれるなんて、おとうさんは本当に優しいなぁ。

 ……っておとうさんの優しさに感動している場合じゃない、早く片付けないと。

 

 その後起きてきたおかあさんにも怒られて、気が沈んだ状態で今日が始まった。

 今日もまたいつもの練習をして、2人の期待に応えようと頑張る。

 今日も明日も明後日も、”せかい”に負けないように走っていく。

 疲れてても、眠くっても、足が痛くっても走り続ける。

 

 よく風邪をひいてしまう秋も走り続けた。

 寒さで意識が遠のいてくる冬も走り続けた。

 お花見を楽しむ人がでてくる春も走り続けた。

 暑さで汗が止まらなくなって何度も倒れる夏も走り続けた。

 ひどい雨と台風が来る秋も走り続けた。

 あかぎれがひどくなる冬も走り続けた。

 

 走り続けて走り続けて走り続けて──

 

 

──そして季節は春になって、ボクは小学校に入学した。

 

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