穴の開いたこの身では、愛はただ零れていく   作:ブラウン・ブラウン

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第2話【擦りむけた愛】

ーーピピピピッ、ピピピピッ。

 

 機械的な音で目が覚める。

 まどろんでいる暇なんてない。早く止めないとおとうさんおかあさんにまで迷惑がかかっちゃう。

 上に乗っかって寝てしまっていたのか、血が止まっていてしびれる腕を無理矢理動かし、寝袋から腕を伸ばして目覚まし時計を止める。

 

ーーピピピピッ、ピッ。

 

「はあ~さむい」

 

 寝袋から出した手が気温の冷たさで熱が奪われていく。4月とはいっても、朝はまだ一ケタしか気温がない。

 まだまだ温まっていたいけどもう5時、起きなきゃいけない時間だ。

 

 寝ているおとうさんおかあさんの眠りを妨げないように静かに寝袋をたたんで、足につけた赤くにじんだバンソウコウを取り換える。それから昨日のうちに枕元に用意しておいた運動服に着替え、玄関で靴を履いて外に出る。

 扉を開けると風がビューっと吹いてきて朝の冷たさを感じる。音をたてないように扉を閉めて、まだ太陽が昇っていない空を見上げて深呼吸する。

 息を吸うたびに外の冷たさで肺がチクチク感じて、吐くたびに温められた空気が眠気とともに外に漏れ出て行く。

 それを何回か繰り返して、完全に目が覚めたら準備運動。

 特に足の部分を入念に伸ばしてから、外に向かって駆け出していく。

 

 今日はいつもよりもたくさん寝たから体が軽い。

 なんて言ったって今日は入学式。初めての学校生活が始まるんだから。

 

 走ることはいつものことだけど、昨日は入学式だからと早めに寝かせてもらえたし夕食はから揚げだったしでとっても嬉しかった。きっと入学式って言うのはすごいものなんだと思う。

 小学校に入ったら、公園で見かけた丸いものを蹴り合っている子たちみたいに、ボクにも友達ができるのかも。

 小学校ってどんなところなんだろう? 何をするんだろう?

 ちょっと不安だけどすっごく楽しみ。早く行きたいなあ。

 

 そんなことを考えていたらもう家の前に戻ってきていた。そこで1つ閃く。

 よし、朝の走り込みを早く終わらせて準備しよう。先月から毎朝始めた、学校に行くのに迷わないようにするための通学路10往復。今ので1往復だから終わりまであと9往復。もう学校までの道順はバッチリだ。

 腕に付けた細い腕時計をちらと見る。うん、このペースだったらいつもよりも早く終わりそう。

 

 ウキウキ気分でボクは2往復目に取り掛かった。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 途中で転んじゃって膝小僧を怪我したから、予定よりも30分も遅れて朝の走り込みが終わった。時計を見ると7時半を過ぎている。これは絶対に怒られる。

 恐る恐る鍵を開けて中に入ると、思っていいた通りおかあさんが飛んできた。

 

「やっと帰ってきた。いつまで走ってるの、早く支度しなさい」

 

「ご、ごめんなさい。あ、あのね、おかあさん……」

 

「何? お母さんも忙しいんだから早くして」

 

 遅くなった弁解をしようと試みる。

 

「えっとね、転んじゃってね、それで遅くなりました」

 

 そう言うと、おかあさんは驚いた表情でせわしなく動いていた動きを止めた。

 

「え?」

 

「足も手もケガしちゃってね、ほら見てよ」

 

 転んだ拍子に擦りむいた手のひらをおかあさんの方に向ける。

 そうすればおかあさんがボクの元まで走り寄ってきて、ボクの目の前でしゃがみ込んだ。

 

「ねえ今、足をケガしたって言った?」

 

 しゃがんだおかあさんは、表情が乗っていない顔をグッとボクの顔を近づけてきた。

 あまりの迫力に1歩後ずさりするも、すぐに扉にぶつかってしまった。

 

「う? うん。あ、でもね! ちゃんと言われた通り練習はして──」

 

「あんた何してるのよ!!」

 

──パン。

 乾いた破裂音が聞こえてきた。それと同時にボクの視界は反転する。

 体は弾き飛ばされ、そのまま直線状にあった靴入れに頭をぶつけて床に崩れ落ちた。

 すぐさま硬い衝撃が頭にきて、見慣れた不快な赤い液体が右の鼻から流れ出ている感じがする。

 

「ぶっ……っあぁ」

 

 かすれた視界でおかあさんのほうをみれば、ひどく慌てた様子でボクのもとに駆け寄ろうとしていた。

 

「あんたの足は世界の足なのよ! 大丈夫? まさか折れたりなんかしてないでしょうね」

 

 倒れているボクのズボンを無理矢理引き抜いて脱がされ、足を掴まれおかあさんの方に引っ張られる。その際に床に置いてあった靴に顔をぶつけ、再度頭が何度も何度も床に打ち付けられる。

 ちょうど片足で宙づりになっている操り人形みたいな格好になった。

 

「あああこんなにすりむいて! 血が、血が! 世界が、私たちの世界が傷ついているじゃない!」

 

「ん―どうしたんだ、そんな大声出して」

 

「お父さんこっち来て見てこの足。 この子ったら転んで足を擦りむいたのよ!」

 

「あ? なんだって!?」

 

 リビングで朝食をとっていたおとうさんも慌てて駆け寄ってきた。二人に揉みくちゃにされているボクは、頭が下になっているからだんだん血が上ってきて、思考がうまくまとまらなくなってボーっとしてきた。

 

「大丈夫か、折れてないんだろうな!?」

 

「たぶん大丈夫だと思うけど、早く消毒しなきゃ」

 

「お、おう分かった。すぐ持ってくる」

 

 駆け足で去っていく音が聞こえる。

 鼻血が眉毛の辺りまで流れてきて気持ち悪い。おぼつかない動作で顔をこすると、嗅ぎ馴染んだ鉄の臭いが広がった。

 気持ち悪さを取り払うために上体を起こす。頭にあった血がじんわりと、痺れに似た感覚が体全体に流れていく。起き上がるときに傷ついた手のひらをついて起き上がったから、ヒリヒリと両手が痛む。

 

 まずおかあさんに謝らなきゃ。怒られた時はごめんなさい。あんまり怒られている理由がよくわからないけど、とにかく言わないと。

 

「おあ、おかあ、さん……」

 

「何、今あなたのことでお母さん忙しいんだけど」

 

「えっとね、その転んで? ごめん、なさい……」

 

「本当よこんな忙しい時に。いい? 今度からは足をケガしたら何よりもまず先にお母さんたちのところに来るのよ」

 

「うん」

 

「あなたのこの足はね、私たちにとっての宝物なの。世界を取るための、いえ最早この足は世界なのよ」

 

 怒りを含んだ表情が、話が進むにつれだんだんと嬉々としたものに変わっていく。

 世界。2年くらい前から言われ続けているこの言葉。よくわからないけど、おかあさんが言うにはボクの足は世界なのらしい。

 ボクの足はおかあさんたちの宝物。その愛の言葉だけでものすごく嬉しくなってくる。朝の寒さのせいだろうか、冷えていたボクの心も今のでポッカポカに温まってきた。

 自然と笑顔になる。

 

「うん分かった! 大事にするね」

 

「おい、消毒ってこれでいいんだよな?」

 

「ええそうよ。ありがとう」

 

 消毒を探しに行っていたおとうさんが帰ってきた。それを受け取ったおかあさんによって、すりむいた膝小僧が消毒されていく。じくじくと傷口に染みて痛い。

 

「いてててて」

 

「これに懲りたらもう転んじゃだめだからね」

 

「はーい」

 

「消毒だけじゃ心配だから包帯も巻いておくわよ」

 

 そう言って、ぐるぐるぐるぐると何重にも包帯が巻かれていく。

 

「って言っても包帯なんてやったことないしな……確かこんな感じだったような……これで大丈夫よね?」

 

 巻きながらおかあさんが何かぶつぶつ言っている。

 

「おかあさん?」

 

「ううん大丈夫よ。はいこれでおしまい」

 

「わぁありがとう」

 

 少し涙目になりながらお礼をしたとき、ポタリと太ももに鼻から鼻血が垂れてきた。

 

「あっ鼻血」

 

「さ、時間もないし早く準備しましょ。急がないと入学式に遅刻しちゃうわ」

 

「おかあさん鼻血出た。どうしよう」

 

「あー服には付けないでよね、洗い落とすの大変なんだから」

 

「あっうん」

 

「そんなもの放っておけば治るだろ。そんなことよりほら、食え」

 

 お化粧をしに洗面所に向かっていったおかあさんに代わって今度はおとうさんが来た。手には茶色いプロテインが入ったボトルが握られている。

 それのフタをおもむろに開け、握っていないほうの手をボクの顎に当ててボトルを思いっきり口の中に突っ込んできた。

 

「うぐっ……ッ!」

 

 口を塞がれ呼吸ができない。声にならない声を上げて苦境を訴えるも、おとうさんはお構いなしに液体を流し込み続ける。

 

「いつも言ってるだろう? 運動した後はプロテインなんだよ。ちゃんと飲めよー」

 

 有無も言わせずに飲まされていく。肺から空気が漏れ、代わりに液体が流れ込んでくる。ただの液体ではないドロッとした舌触りのせいで、飲み込もうにも喉に絡みついて離れない。

 

「ごぶぉっ、げほっげほ……」

 

「おいおいこぼすなよ。牛乳も入れているんだから床に臭いがつくだろ」

 

 肺の変なところに入ってむせてしまった。そのせいでボトルに入っていた3分の1くらいの量を床に吐き出してしまった。

 うずくまってなんとか肺から出そうとするけど全然出て行かない。

 

「ごほ……っかぁ……」

 

「ま、これで朝ごはんも取れたし良かったろ。父さんも着替えたりしてくるからお前もそろそろ着替えてランドセルとか用意しとけよー」

 

「…………」

 

「あ、床の掃除ヨロシクなー。自分で出したごみは自分で片づける、これ小学校に入っても大事なことだからな」

 

 自分の咳が激しいせいで、おとうさんが何を言っているかよく聞こえない。咳をするたびにさっきぶつけた頭が痛む。全身に力を入れているから、足裏のカサブタが裂ける。

 これだけ騒いでいるのに、なぜかカサブタが裂ける音がやけにはっきりと聞こえた。

 しかし、その痛みに喘ぐことも今はできない。

 ようやく呼吸が落ち着いたころには、玄関にいるのはいつの間にかボクだけになっていた。

 

「あー……」

 

 むせて興奮したから、さっきよりも勢いよく鼻血が出る。ぽたぽた、ぽたぽた。床に撒いたプロテインの上に一粒一粒落ちていく。

 とっさに上を向いて鼻血を止めようと、転んだときに手をついて汚れ擦りむいた両手で鼻を覆う。けれども、ぽたぽた、ぽたぽた、何かが落ちる音が聞こえる。

 気づけば目からも液体が流れていた。

 悲しくない。悲しいわけがない。悲しいと思うはずがない。なのに涙があふれてくる。涙は痛いときに流れるものなのになんで今なの?

 愛されてこんなにも心が温まっているはずなのに、目からは冷たい涙が落ちてくる。

 喉が震える。視界がぼやける。

 さっきまでの楽しい気持ちが、冷たい涙によって流されていく。

 声は出さない。前に声を出して泣いたら近所迷惑だと怒られたから。だから喉だけ震わせ、心の中でだけ大声を出す。

 なんで泣いているのか、この気持ちは一体何なのか。何もわからない。

 

 涙でしみた手のひらの傷がやけに痛かった。

 

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