穴の開いたこの身では、愛はただ零れていく 作:ブラウン・ブラウン
話の進行上、ここでの逮捕の仕組みなどは、現実とは異なると思います。
「…………」
ーーーーーー。
『……では……の天気は……しょうか?』
「…………、んっ……」
どこかからか音声が聞こえてきて、鼓膜の震えで目が覚める。
最初に目に飛び込んできたのは、白。これまで見てきた何よりも白い色の部屋が視界を埋めつくす。
『……関東地方では晴れ。最高気温は30℃にもなりますので、今日も熱中症に注意してください。こまめな水分補給を忘れずに……』
だんだんとテレビの音がはっきりと聞こえてきて、おぼろげだった意識も覚醒していく。
テレビから伸びる黒いコードをたどってみれば、ボクの左耳に行き着く。どうやらイヤホンで聞きながら寝落ちをしてしまったみたいだ。
今の状況も徐々に思い出してきた。そうだ、ボクは今、入院中なんだった。
……でも、
『……のコンビニに強盗が入りました。犯人は今も立てこもりを続けており、警察による必死の説得が続けられています……警察によると犯人は……』
でも、どうしてだっけ……? なんで入院してるんだっけ?
寝起きのせいなのか、記憶がまだはっきりしない。
クラスの子から聞いたことしかなかった、生まれてこの方初めて見るまともな朝のニュース番組をなんとなく眺めながら、ひとまず寝ていた体を起こして、足を自分のところまで持って来て体育座りをする。この姿勢が一番落ち着く。
引き寄せた足の先には幾重にも包帯が巻かれているのが見えた。足に痛みはほとんどなく、しかし包帯が巻かれているんだから圧迫感があってもいいのに、何故かほとんど何も感じない。
『……世界最速のリニアモーターカーがついに半年後、ここ○○駅に開通します……』
テレビの音声が頭の中を通過する。映像には"世界最速・最高速度は時速600㎞” の文字が大々的に映し出されている。
初めて見る自分の知らない社会のニュース。気にならないわけは全くないけど、今はそれよりもこっちの方が気になる。
何も感じないわけないだろう。そう疑問に思いもう一度、今度は触るだけじゃなくしっかり握って確かめようとすると、
『……では次のニュースです』
ふと、何かを感じ、うずくまった姿勢から顔を上げる。
そこには、ボクのおとうさんとおかあさんが映っていた。
『○○市で、小学2年生の男の子を虐待したとして、男の子の母親と父親が児童虐待の疑いで逮捕されました』
服で顔を隠した2人がたくさんの人に囲まれている。
『警察によると、母親の……と父親の……は2年間以上にわたって男の子に過剰に運動をさせ、”おしおき”と称して画鋲を足に突き刺すなどの暴行をした疑いが持たれています』
テレビの言葉にズキンと足の裏が痛くなったような気がした。
『容疑者の2人は「私たちが取れなかった世界を取るための教育だった」と供述しており虐待の容疑は否認しています。しかし2人に陸上の大会の出場経歴はなく、精神疾患の可能性も含めて・・・』
ニュースはその後も続いているけど、ボクの耳には入ってこなかった。
「うえっ、ぷ……はあ、はあ……」
吐き気がする。気持ち悪いこの感情を口から全部吐き出したくなる。
けれどここは知らない病院。吐き出そうにもトイレの場所も分からない。汚してまた誰かに殴……怒られたくないから、無理にでもつばを飲み込んで吐き気を抑え込む。
ようやく記憶もはっきりした。
あの日、クラスのみんなが大騒ぎになった後、担任の先生が怖い顔をしてボクの所にやってきて、すぐに着替えて保健室に行くように言われた。いつもは常にメンドくさそうにしている先生がすごく怖い表情をしていたからみんなびっくりしていたのが印象に残っている。
押されるように急かされて、服を着ると先生に抱き上げられた。
『よし、このまま保健室に行くぞ』
『ちょ! 先生恥ずかしいよ』
『いいから。じっとしてろ』
みんなが見ていたからイヤだったのに、抵抗も空しくボクはそのまま運ばれていった。
行く途中、先生はたくさんの質問をしてきた。質問の内容は『その傷はだれにつけられたものか』『いつごろからなのか』『痛くないのか』などなど。
けど、おかあさんから『秘密の特訓だから、誰かに聞かれても言っちゃダメ』と言われていたから先生に『おかあさんから内緒って言われてる』って返した。
そうしたら先生、顔にたくさんしわができるくらい顔を歪めさせて、下唇を嚙んでいてとても痛そうだった。
しばらくそのままの顔が続いて、校舎に入り下駄箱に来た時に、先生は何か思いついたのか噛んでいた下唇を解放させて、
『ちょーっと待っててな』
とボクをゆっくりと地面に下ろした後、ポケットに入れていた携帯を取り出してどこかに電話をかけ始めた。
「ーーはい。はい。ーーでは」
電話の間何をしていよう、と考える間もなく先生の電話はすぐに終わった。
『先生誰と電話してたの?』
と聞いてみれば、
『お前の、利根川のお母さんにちょっと、な』
と返ってきた。
『! 先生おかあさんの番号知ってるんだ!』
『ん、っまあ、な。おう、知ってる……知ってるぞ。んでな……今お母さんから、先生になら言ってもいいって言われたんだ。ほら、先生は利根川の先生だからな』
『へ-! そうなんだ!』
『ああ、だからさっきの質問に答えてくれるか?』
『うん、それだったらいいよ!』
おかあさんの許可ももらったところで、先生の質問に答えていった。
保健室についてからは保健室の先生も加わって質問してきた。先生が言うには、保健室の先生も先生の友達だから言っても大丈夫なんだとか。
初めて入った保健室はとてもきれいで、あれで寝たらきっと気持ちよく寝られるだろうな、と思わせられるベッドが3つ置いてあった。
保健室の女性の先生に案内されて、そのベッドの一つに腰かける。上履きと靴下を脱がされて、ちょうど今見ていたニュースに出てきた事に似た質問をされた。
『それで、この足は誰にやられたものなんだ?』
『おとうさんとおかあさんだよ。でもこれは”おしおき”だから二人は悪くないよ?』
『…………どういうことだ?』
『だってボクが速く走れないのが悪いんだもん。おとうさんもおかあさんも走るのがとっても速かったって言ってたから、ボクが速く走れないのは悪いことなんだって! だから悪いのはボクなんだよ』
『…………いったん次に行こう。それで、その”おしおき”はいつからなんだ?』
『ええっと、小学校に入る前からだったと思うけど……よく覚えてないよ。ずっと朝5時とか6時から起きて遅い日は夜の2時とかまで走ってたし』
『…………』
先生はさっきみたいに、くしゃりと顔を歪めさせていた。
そのまま何も言わなくなった先生に代わって、今度は保健室の先生が聞いてきた。
『その……足を見る限り、なにか細いものを刺されたみたいだけど……って聞いて大丈夫かな?』
『うん? おかあさんから良いよって言われてるんだよね?』
『え? ……ちょっとどういうこと?』
『詳しくは後で説明するから……ああ、ちゃんと良いって言われてるぞ』
『そうだよね。えっと、画鋲だよ? 毎日成長できていない分だけ刺すんだ。すっごく痛いんだけどね・・・』
などと話していると、そのうち校長先生が来て、またしばらく話した後、先生に病院に連れて行かれた。
そうしたらとんとん拍子に入院が決まって、先生にお母さんたちのことを聞いても何も教えてくれなくって……、
その日も次の日もたくさんの知らない大人に囲まれて質問をされたから、少し熱が出たんだっけ。
ボーっとしてたから、大人たちが帰った後、誰かが来て看病してくれたような気がしたんだけど──、
──コンコンコン。
病室の扉がノックされた。
こんな朝早くから誰だろう? おかあさんたちかな?
「は、はーい?」
「──走一くん!? 起きたのかい?」
「うわっ! ……びっくりした、おばあちゃんか」
勢いよくガラリと開けられた扉から入ってきたのは、おばあちゃんだった。
おかあさんのおかあさんで、年に数回しか会っていないけど、おっとりとした性格で優しい大好きなおばあちゃん。
「昨日来たときはフラフラしていたけど、熱は下がったのかい?」
「久しぶりって思ったけど違うんだね。うん、もう大丈夫。心配かけてゴメンね」
「そうかいそうかい、それはよかった」
安堵する表情から、本当にボクのことを心配してくれていたことが伝わってくる。……おかあさんたちからは一度も向けられたことのない顔だ。
「昨日の夕方のニュースで馬鹿娘が捕まったってみてね、車をすっ飛ばして来てみれば走一くんは熱を出してるしで……」
そう言いながらおばあちゃんはボクの背中に両手を伸ばしてギュッと抱きしめてくれた。
「まさかあんなことをしていたなんて……気が付けなくってごめんね…………」
とても、とても優しい温もりを感じる。
「熱で頭は回らないだろうけど、一人で無音じゃ寂しいだろうと思って、テレビカードを買って置いておいたけど、気づいたかい?」
「うん。たぶん、聞いたまんま寝ちゃってた」
「おおそうかい。それはよかった……ほんとうに、よかったよ…………」
次第にか細くなってくるおばあちゃんの声。
「もうここにはあの馬鹿たちはいないからね、安心していいからね……一人にしてごめんね………」
ぽたぽたとおばあちゃんの目からこぼれ落ちる優しさの結晶。それが頬に垂れてきて、ボクの心に染みてくる。
生まれた時からぽっかり空いた心の穴に、優しさが注がれていく。
気がつけば、なぜかボクも泣いていた。
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「えへへ…………泣いちゃった」
「泣いたっていいさ。男の子だからって泣いちゃいけないわけじゃない。泣いた後にどうするか、何事もやった後のことが肝心さ」
二人して赤くなった目をこすっていると、再び病室の扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
「失礼します。お目覚めになられたのですね、利根川走一さん。おからだの調子はどうですか?」
入ってきたのはお医者さんだった。きれいな白衣に身を包んだ背の高いお医者さんだ。
「どうも先生。お邪魔しています。走一の祖母です」
「先日もお越しになっていましたね。改めまして、担当医の石原です」
「よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
3人してぺこぺことお辞儀をすると、先生からお話が始まった。
「ではお婆様もいらしたのでご説明しますね。走一さんの足の件ですが……ちょっと失礼します」
包帯が巻かれている足の甲をお医者さんが触る。けれどさっき自分で触ったときと同じようにほとんど触られている感覚がない。
「今触っていますが、分かりますか?」
「い、いえ……あんまり感じません」
「ではこれは?」
今度は軽くポンポンと手のひらを広げて弾ませる。けれどこれも感じない。
「いや……」
「先生、これは今何をやっているんですか?」
おばあちゃんが心配そうにそう尋ねると、お医者さんは神妙な面持ちで、
「検査が途中なのでまだはっきりとは申し上げられませんが、走一さんの足はひどく神経を損傷して、足の感覚が無くなっている可能性があります」
──そう告げた。