穴の開いたこの身では、愛はただ零れていく   作:ブラウン・ブラウン

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少々差別的な表現があるので、ご注意ください。


第7話【体から愛が抜け落ちない】

──絶望からはなかなか抜け出せないものだ。

 

 自分では抜け出せたと思っても、他人から見ればそれは未だ絶望の中だったり。抜け出すと言っても抜け出すべきその方角が分からず、結局のところその場に立ちすくんでいるだけだったり。

 絶望は沼のようで泥のようで、それであって這い出ようとする人を飲み込もうとしてくる。飛び立とうとした翼には絡みついて深く沈ませようとしてきて、飛び出そうとした足には縋るようにいつまでもまとわりつく。

 希望を目の前にして、今一歩どころではない途方もない距離で手が届かない。

 

 

──絶望からはなかなか抜け出せないものだ。

 

 

 万が一、何かきっかけがあって絶望から解放されたとしよう。そして逃げのびた先に待っていたのが、誰の目から見ても希望なものだったとしよう。

 それはきっと、とても素晴らしい素敵なことのように思えるだろう。ハッピーエンド、そう呼べるのかもしれない。『絶望に囚われていた少年は、助け出されて幸せに暮らしましたとさ』と。

 

 けれどもそれは気のせいで、希望が見せるまやかしだ。

 絶望に刻まれた傷は希望では癒えることはなく、洗っても洗っても絶望は身体にへばりついている。

 ハッピーな気持ちでは終わらないし、なによりこの物語は終わっていない。

 

 どう抗ってもあがいても、過去の絶望からは逃れられない。

 そう、思った。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 足の感覚が無くなっている可能性がある──。

 そう、目の前にいるお医者さんから告げられた。

 

「────」

 

 静寂が、訪れる。

 無くな……って、え?

 

「…………ぇ?」

 

「どういう、ことですか?」

 

 混乱からいち早く復帰したおばあちゃんがお医者さんに尋ねる。その表情はいつになく真剣そのもので、向けられていない身内のボクでも恐ろしさを感じる。

 その表情に呼応して、お医者さんも神妙な面持ちになった。

 

「走一君がいる前ですが、彼も聞いておいた方がいいでしょう。走一君の足は両親から受けていた虐待の影響で足、特に足の裏側の神経が破壊されてしまっています。今は包帯をしているので見えませんが、走一君の足は黒く壊死もしています」

 

 走一君は分かっていますね、と目で語りかけてくる。

 おばあちゃんは今来たばかりだから、ボクの顔と足とを交互に見合わせ、手を伸ばしては引っ込めてを繰り返している。

 

 確かにボクは知っている。

 そのせいでボクはクラスのみんなに、タイガに……、

 チクリと口元に痛みが走る。どうやら知らず知らずのうちに下唇を噛み締めていたみたいだ。

 

「切除、とまでは症状が進行していないことが不幸中の幸い、とでも言いますかね……。申し訳ございません、私の力が足りないばかりに完全に治すことができませんでした」

 

 もうどうしようもないことだと言わんばかりにボクたちに謝罪をするお医者さん。

 け、けどさ……ちょっと待ってよ……。

 

「い、いや……大丈夫だって心配しないでおばあちゃん……。お医者さんだって、早とちりしすぎだよ……歩けないわけ、ないじゃん。さっきまでボク歩けてたんだよ……? 気のせいだって」

 

 自分でも笑えてくるほど声が震えている。まるで北極にあるかのように唇がガクガクと震え、ちゃんとボクの言葉が伝わっているか不安になる。

 いや、伝わっていなくてもいい、行動で見せてあげよう。だってボクは歩けるんだから……、

 

 

 

 

 

──ガタンッ!

 

 

 

「……ぅぶっ」

 

「走一君!」

 

「大丈夫ですか!?」

 

 

──世界が反転した。

 

 頭が、痛い。

 病院の床に突っ込んだ衝撃で、意識にヒビが入る。

 鼻柱はその衝撃で折れ曲がり、奥の方から慣れ親しんだ赤い熱が流れてくるのを感じる。

 

 覚悟していなかった衝撃の影響で、視界が暗転しだす。

 倒れ伏したボクに駆けつけるおばあちゃんとお医者さんの気配を感じながら、

 

──ああ、本当に変わっちゃったんだ……。

 

 そう思ったところで、ボクは意識を手放した。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

──幸運が度重なるように、不運も連鎖する。

 

 

 あれから杖を使った生活が始まった。杖といっても松葉杖だ。

 結局のところ、ボクの両足は地面を踏みしめる感覚を失っていた。けれども他の部分、膝とかは普通に動くから変な感じだ。

 お医者さんの話だと、今までも徐々にこの症状は進んできていたんだとか。言われてみればところどころ思い当たる節があったりする。

 

 足が動くとはいえ、地面の感覚が感じられないというのは、地面のない水の中を歩いた時と似ているんだろうか。まぁボクは結局プールに一度も入れなかったから分からないけど。

 

 おばあちゃんに支えてもらいながらの歩行練習は、おばあちゃんの温かみが伝わってきて、今までやってきたどの練習よりもやりやすかった。

 転んだ時に謝る癖はおばあちゃんを泣かせてしまうけれど、やめようと思っても身に魂に刻み込まれているのか止めることができない。いや、やめるなんて思考が挟まる余地なんてないほど、気がついたら謝り続けているような感じだ。

 そしてこの自己の矛盾に吐き気がして、病院の廊下で嘔吐してしまうという流れが最近ルーティーン化してきた。

 

 

 そんなボクの様子を見かねて、おばあちゃんが車いすを持ってきてくれたけど、それすらもボクの身体には合わなかった。

 

 車いすに乗っていると、吐き気がする。

 

 今まで車いすには縁もゆかりもなく、見たことすらなかったはずなのにどうしてなのか。

 数日間にわたって今までのボクの日常をお医者さんに伝えたり検査をしたりすると、ある一つのことが判明した。

 

 どうやらボクは、“回転するもの” がダメになっているらしい。

 

 お医者さんが言うには、そんなに長時間ランニングマシンをやる事は本来ありえない事で、お仕置きのことも相まって体が拒絶反応を出しているからだと言う。ランニングマシンの回転する音やモーター音に似た音を聞くたびに体が拒絶反応を感じて、今回の場合は車いすの車輪の回転する音に拒絶反応を示して吐き気につながっているらしい。

 ひどい場合にはアナログ時計にも反応してしまうかもしれないと言うお医者さんに、時計を見て違和感を覚えたことがあると伝えると、眼鏡の奥から哀れむような視線を投げられた。

 その話をした10分後にはもう、おばあちゃんの手によってボクが目につく時計は全てデジタル時計に変更された。

 

 

 お医者さんや看護師さん、それにおばあちゃんから散々言われて、以前のボクの生活は異常だったのだと教えられた。

 実際に病室の窓から眺めてみれば ”世界” となんて戦わず、本気でもなんでもない追いかけっこをして遊んでいる子が目に入る。自分の体が傷ついたって笑うか泣くだけで、謝りもしない。

 

 今はおかあさんもおとうさんも、どっちもいない。

 本当だったらおばあちゃんの願い通りに、自由になったんだからあの子供たちのように自由に遊んだほうがいいんだと思う。

 けれど……、

 

「助かって……よかったの、かな…………?」

 

 病室で一人でいる時、思わず口から思いが溢れる。

 囚われていた前よりも、解き放たれた今の方が苦しい。

 痛い事はあったけど、前は1人で歩けていた。

 辛い事はあったけど、前は隣にタイガがいた。

 吐く事はあったけど、世界が歪んで見えてなかった。

 

 解き放たれてなお、檻に繋がっている。

 鳥籠は取り外された。けれどその足は止まり木と鎖で繋がれたままで飛び立つことはできない。

 空を知らない以前よりも一層、空に焦がれてしまっている。

 でもこの鳥は翼を折られて、飛び立つことは夢のまた夢になってしまった。今のボクはそんな状態だ。

 

 助からないほうがよかったのか。

 助けられてなお頭に浮かぶのは、助けてくれたおばあちゃんではなく、おかあさんとおとうさんのことだった。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 そんな気持ちのまま、さらに数日が経った。

 取り返しのつかない傷以外の傷はほとんど癒えて、完璧とはいえないが多少は松葉杖にも慣れてきた。

 

「本当に大丈夫?」

 

「大丈夫だよー。もう、今日これで何回目?」

 

「でもね……」

 

 渋るおばあちゃんをよそに、車から降りる。

 今日何回言われたか分からないおばあちゃんに笑顔で返す。

 ……ちゃんと笑えているだろうか。

 

 今日から久しぶりの学校だ。

 最後にまたみんなの顔。それが頭から離れない。

 またあの目を向けられたらどうしよう。みんなの前で吐いちゃったらどうしよう。

 そんなことを延々と頭の中で繰り返すも、それでもやっぱりみんなに会いたいという気持ちが勝って今日ここにいる。

 着替えとかの準備に手間取って、またいきなりだと他の生徒もびっくりしちゃうからと2時間目からの登校になっているから周りには他に誰も生徒がいない。

 

 校門までおばあちゃんに送ってもらって、下駄箱までたどり着く。

 感覚のないならない足で手探りに上履きを履いて、一階にある自分のクラスまで杖をついていく。

 

キーン コーン カーン コーン

 

 ちょうど1時間目の授業が終わったみたいだ。

 

「あっ、先生!」

 

「おお来たか! 松葉杖はもう慣れたのか?」

 

「んー、まだ微妙ですね……」

 

 先生は入院中に一度お見舞いに来てくれていたからボクが松葉杖をしているのも知っている。練習に付き合ってもらったくらいだ。

 

「っと、先生と話すなんかより友達と話したいよな。みんな待ってたぞ」

 

 前の方の扉を指差してそう言う先生。

 

「先生は次の授業の準備があるから、また後でなー」

 

「は、はい!」

 

 手をひらひらとはためかせながら先生は2階にある職員室へと消えていった。

 それを見届けてから今一度教室に耳を寄せる。

 ざわざわとして一単語ずつは聞き取れないけど賑やかなのは分かる、いつも通りのクラスの雰囲気だ。

 

「ふぅー、……っよし!」

 

 一度深呼吸をして教室の中に入る。

 

「お、おはよう…みんな」

 

 緊張と幾ばくかの不安で想定よりも声が上ずった。

 やっちゃった、と気恥ずかしさに顔に熱が入り赤くなるのを感じる。

 

 と同時に、血の気が引いた。

 

 1年間一緒のクラスで過ごしてきた人が、久しぶりに病院から帰ってきたのだ。みんなとは言わないまでも誰か、それこそタイガなんかはあんな事があったけど、すぐに声をかけてくれるはず。

 そう思っていた。思っていたんだ。

 

 ボクが教室に入った瞬間、クラス全員がこっちを見てきた。かと思うと今度は一斉に目を逸らされ、中には体ごと反対向きにする人までいた。

 そして始まる得体の知れない不快な囁き声。

 

「あ……おはよう、タイガ」

 

 そのうちの一人、タイガに声をかける。

 ……ちゃんと笑えているだろうか。

 

「こっち来るなよ “靴下” 」

 

「くつ、って……えぇ?」

 

 くつした、って靴下? あの足を履くやつ?

 タイガのその言葉に意味がわからないでいると、タイガは汚物を見るような目でその意味を教えてくれた。

 

「お前のことだよ、気持ち悪くって汚い足した “靴下” 野郎!」

 

「ーーーー」

 

 ボクの足を指差しながら声を張り上げる。

 一歩でも接近を許さないと言った激情の眼差しでボクを見つめてくる。

 

──あぁ、最初に入った時に感じた違和感はこれだったのか。

 

 見渡せば、その強度に違いはあれどみんな一様にタイガと同じ目をしている。

 緊張は吐き気へと変化し、不安が心から漏れ出てくる。

 

「それになんだよその杖。 “棒人間” じゃねぇか」

 

 続くタイガからの中傷。

 “棒人間”。自分の足で立つこともできない人間。まさしくボクぴったりの言葉だ。

 

 仲が良かった、友達だと思っていたタイガからの罵声に心が震える。その震えはすぐに実際に体の震えへと変化していった。

 震える足は宙に浮き、ぷらんぷらんと小刻みに揺れていた。

 

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