001
清水幸利にとって、異世界召喚とは、まさに憧れであり夢であった。ありえないと分かっていながら、その手の本、Web小説を読んでは夢想する毎日。夢の中で、何度世界を救い、ヒロインの女の子達とハッピーエンドを迎えたかわからない。
清水幸利は真性のオタクである。但し、その事実を知る者は、クラスメイトの中にはいない。クラスでの清水は、彼のよく知る言葉で表すなら、まさにモブだ。特別親しい友人もおらず、いつも自分の席で大人しく本を読む。話しかけられれば、モソモソと最低限の受け答えはするが自分から話すことはない。
そんな清水であるから、異世界召喚の事実を理解したときの脳内は、まさに「キターー!!」という状態だった。カインがイシュタルを蹴飛ばしている時も、光輝が人間族の勝利と元の世界への帰還を決意し息巻いている時も、清水の頭の中は、何度も妄想した異世界で華々しく活躍する自分の姿一色だ。ありえないと思っていた妄想が現実化したことに舞い上がって、異世界召喚の後に主人公を理不尽が襲うパターンは頭から追いやられている。
そして実際、清水が期待したものと現実の異世界ライフは齟齬が生じていた。まず、清水は確かにチート的なスペックを秘めていたが、それはクラスメイト達も同じこと。さらに、ずば抜けて強いものが複数いた。勇者である光輝に、不良の彩織とカイン、そして何故か優花。そこに自分の名はなく、望んだ通りではない現実に陰湿さを増す清水は、内心で不満を募らせていった。
そんな折だ。あの悲劇の起きた、オルクス大迷宮での実戦訓練が催されたのは。
チャンスだと思った。誰も気にしない。居ても居なくても同じ。そんな背景のような扱いをしてきたクラスメイト達も、遂には自分の有能さに気がつくだろうと。
しかし、ようやく気がつくことになる。
自分が決して特別な存在などではなく、ましてご都合主義な展開などもなく、ふと気を抜けば次の瞬間には確かに死ぬ存在なのだと。
自分の持ちうる全てが通用しないトラウムソルジャーを見て。
強すぎる怪物を相手に互角以上に、勇者以上に戦う者を見て。
そして、奈落へと落ちていくクラスメイトを見て。
他者を内心で下に見ることで保ってきた心の耐久度は当然の如く強くはなかったのだ。
清水は、王宮に戻ると再び自室に引き篭ることになった。
しかし、日本のようなライトノベルや漫画は一切ない。
当然の流れとして、清水は自分の天職《闇術師》に関する技能・魔法に関する本を読んで過ごすことになった。
浮かれた気分などすっかり吹き飛んだ陰鬱な心で読んだ本から、清水は、ふとあることを思いついた。闇系統魔法は、極めれば対象を洗脳支配できるのではないか? と。清水は興奮した。自分の考えが正しければ、誰でも好きなように出来るのだ。――そう、好きなように。
しかし、そう簡単に行く訳もなかった。まず、人のように強い自我のある者には、十数時間という長時間に渡って術を施し続けなければ到底洗脳支配など出来ない。
肩を落とす清水だったが、ふと、一人のクラスメイトのことを思い出す。
中村恵里だ。
彼女は性格的に、多くの人間と友好的な関係を築くタイプの人間ではない。どちらかといえば、清水やハジメと同じ、交友関係の狭い部類の人間だ。(あくまで学校内での話である)
しかしどうしてか、彼女は集団を操るのが異様に上手い。
ベヒモスとの戦いのとき、彼女は勇者も、騎士達も、パニックになっていた他のクラスメイト達も、自身の一部であるかのように操って見せたのだ。
しかし、同じことができると思うほど、清水はおめでたくなかった。
人間一人を洗脳するのだって一苦労どころではないのに、集団なんてキリがない。勇者や団長のような、集団の長だけを洗脳したところで、すぐに感づかれるだろう。
だが、本能的で自我の薄い魔物ならばどうだろう。
語るまでもなく、成功したと言っていいだろう。大成功と言ってもいい。
僅か二週間と少しという短い期間で、群れのリーダーだけを洗脳するという効率的な方法をとり、数万という群勢を作り上げたのだ。
が、そのとある存在との契約と日々増強していく魔物の軍勢に、清水の心のタガは完全に外れてしまった。そして遂に、やはり自分は特別だったと悦に浸りながら、満を持して大群を町に差し向けたのだった。
そして、その結果は――
見るも無残な姿に成り果てて、愛子達の前に跪かされるというものだった。ちなみに、敗残兵の様な姿になっている理由は、引きずるのも面倒になった謎の女、夕空が蹴飛ばしまくったからだ。
一滴血が服に着くごとに、イラついたように蹴飛ばしまくる彼女の姿に、愛子達の表情が引き攣っていたのは仕様がないことだろう。
002
場所は、彩織や愛子達が待っていた場所の反対側。
正面から打って出たカイン・メイド側ほどの量ではないが、それでもかなりの数襲いかかってきた魔物を、優花は一人で全て対処して見せた。
普段使っているミシン糸よりも、柔軟性では劣るものの、丈夫でしなやかな弦楽器用の糸は地上は当然、上空を飛ぶ魔物すら切り刻んだ。
武器や農具を持って待ち構えていた町民達は、あの毎日料理を美味しそうに食べてくれる少女と同一人物なのかと唖然とした。
殲滅し終えると、血に濡れた糸を回収し、彼女はお腹を鳴らしながらあの銀髪の頭領の元へと向かって歩き出した。
皆彩織の元に戻ると、町外れに場所を移した。
流石に、町中に今回の襲撃の首謀者を連れて行っては、騒ぎが大きくなり過ぎるだろうという彩織の気遣いだ。
カインが魔物の骨で即席のバーベキューセットを作り、買ってきたであろう肉や野菜を串に刺して焼いているが、それもきっと気遣いだ。
未だ白目を向いて倒れている清水に、愛子が歩み寄った。血と土で汚れた黒いローブを着ている姿が、そして何より戦場から直接連行して来られたという事実が、動かぬ証拠として彼を襲撃の犯人だと示している。
愛子は悲しそうに表情を歪めつつ、清水の目を覚まそうと揺り動かした。
デビッド達が、危険だと止めようとするが愛子は首を振って拒否する。拘束も同様だ。
「てれれれってれ〜。かーいーふーくーポーションー」
戦争中乱入してきた、三人の彩織の仲間のうちの一人、赤いパーカーを着ている小学生が、カラーボールのようなものを清水に投げつけた。
しかし中身は塗料ではなく、何かの薬品。独特な匂いが周囲に漂うが、そんなことを気にする者はここにいない。
清水の怪我が、まるで逆再生のように、たちまち治癒されていくからだ。
すぐに、清水の意識が覚醒し始めた。ボーっとした目で周囲を見渡し、自分の置かれている状況を理解したのか、ハッとなって上体を起こす。
咄嗟に、距離を取ろうして立ち上がりかけたのだが、頭を何か硬いものが抑えていて、すぐに尻餅をついた。
見上げると、見慣れぬ、しかしどこかで見覚えのあるゴスロリ姿の少女が見下していた。
清水は警戒心と卑屈さ、苛立ちがない交ぜになった表情で、目をギョロギョロと動かしている。
「清水君、落ち着いて下さい。誰もあなたに危害を加えるつもりはありません……先生は、清水君とお話がしたいのです。どうして、こんなことをしたのか……どんな事でも構いません。先生に、清水君の気持ちを聞かせてくれませんか?」
膝立ちで清水に視線を合わせる愛子に、清水のギョロ目が動きを止める。そして、視線を逸らして顔を俯かせるとボソボソと聞き取りにくい声で話、というより悪態をつき始めた。
「なぜ? そんな事もわかんないのかよ。だから、どいつもこいつも無能だっつうんだよ。馬鹿にしやがって……。俺の方がずっと上手く出来るのに……。気付きもしないで、モブ扱いしやがって……。ホント、馬鹿ばっかりだ……。だから俺の価値を示してやろうと思っただけだろうが……」
「てめぇ……自分の立場わかってんのかよ! 危うく、町がめちゃくちゃになるところだったんだぞ!」
「そうよ! 馬鹿なのはアンタの方でしょ!」
「愛ちゃん先生がどんだけ心配してたと思ってるのよ!」
反省どころか、周囲への罵倒と不満を口にする清水に、玉井や優花など生徒達が憤りをあらわにして次々と反論する。
その勢いに押されたのか、ますます顔を俯かせ、だんまりを決め込む清水。
そんな清水が気に食わないのか更にヒートアップする生徒達に、カインが串焼肉を渡して微妙な空気になったところで、愛子はなるべく声に温かみが宿るように意識しながら清水に質問する。
「そう、沢山不満があったのですね……。でも、清水君。みんなを見返そうというのなら、なおさら、先生にはわかりません。どうして、町を襲おうとしたのですか? もし、あのまま町が襲われて、多くの人々が亡くなっていたら……。多くの魔物を従えるだけならともかく、それでは君の《価値》を示せません」
愛子のもっともな質問に、清水は少し顔を上げると薄汚れて垂れ下がった前髪の隙間から陰鬱で暗く澱んだ瞳を愛子に向け、薄らと笑みを浮かべた。
「……示せるさ……魔人族になら」
清水の口から飛び出したまさかの言葉に愛子のみならず、その場の全員が驚愕を表にする。清水は、その様子に満足気な表情となり、聞き取りにくさは相変わらずだが、先程までよりは力の篭った声で話し始めた。
「魔物を捕まえに、一人で北の山脈地帯に行ったんだ。その時、俺は一人の魔人族と出会った。最初は、もちろん警戒したけどな……その魔人族は、俺との話しを望んだ。そして、わかってくれたのさ。俺の本当の価値ってやつを。だから俺は、そいつと……魔人族側と契約したんだよ」
「契約……ですか? それは、どのような?」
一体何がおかしいのかニヤニヤしながら清水が衝撃の言葉を口にする。
「……畑山先生……あんたを殺す事だよ」
「……え?」
愛子は、一瞬何を言われたのかわからなかったようで思わず間抜けな声を漏らした。周囲の者達も同様で、一瞬ポカンとするものの、愛子よりは早く意味を理解し、激しい怒りを瞳に宿して清水を睨みつけた。
清水は、生徒達や護衛隊の騎士達のあまりに強烈な怒りが宿った眼光に射抜かれて一瞬身を竦めるものの、半ばやけくそになっているのか視線を振り切るように話を続けた。
「何だよその間抜面。自分が魔人族から目を付けられていないとでも思ったのか? ある意味勇者より厄介な存在を魔人族が放っておくわけないだろ豊穣の女神あんたを町の住人ごと殺せば俺は魔人族側の勇者として招かれるそういう契約だった俺の能力は素晴らしいって勇者の下で燻っているのは勿体無いってやっぱり分かるやつには分かるんだ実際超強い魔物も貸してくれたし想像以上の軍勢も作れたしだから、だから絶対、あんたを殺せると思ったのに! 何だよ! 何なんだよっ! 何で、六万の軍勢が負けるんだよ! 何で人間二人に全滅させられるんだよ!! 意味わかんねぇよ!! お前らは、お前らは一体なんなんだよ!!!」
最初は嘲笑するように、聞き取りにくい早口で放たれた、殺す、という言葉に呆然とする愛子を見ていた清水だったが、話している内に興奮してきたのか、追加の肉を捌いているカインとメイドに視線を転じ喚き立て始めた。
そして「お前ら一体なんなんだ」という言葉は、その場の大半の思いと一致していた。
003
クラスメイト達の視線が、カインとメイド、そして焼けた肉を渡される、まだ名も知らぬ少女達に向けられた。
清水は、今にも襲い掛からんばかりの形相で彼女らを睨んでいるが、お構いなしと少女達は肉を頬張る。
一塊食べ終えてから、少女達は名乗った。
「妾は
ティオの《のじゃ口調》に近いが、幾らか若々しい口調のゴスロリ少女。愛子や生徒達、ハジメまでもが知っているビックネームに、「おお〜?」という半信半疑気味な声が上がった。
かつてテレビの向こう側にいたはずの少女が目の前に、それも異世界にいるのだから当然だ。
「あたしは
「……あ、これ私も? 私は、
それぞれ一本食べ終えると、三人はカイン達の手伝いをしに向かった。
次いで彩織が話す。
「彼女達は、私の仲間であり、家族のようなものです。異世界転移という、私とカイン、恵里のピンチに駆けつけてくれました」
それだけ言って、彩織もカインの元へと向かう。
004
一度空気が入れ替わったおかげで、衝撃から我を取り戻す時間が十二分に与えられた愛子は、一つ深呼吸をすると、立ち向かう勇気はないようでその場を動かない清水の片手を握り、静かに語りかけた。
「清水君」
「な、なんだよっ! 離せよっ!」
突然触れられたことにビクッとして、咄嗟に振り払おうとする清水だったが、愛子は決して離さないと云わんばかりに更に力を込めてギュッと握り締める。清水は、愛子の真剣な眼差しと視線を合わせることが出来ないのか、徐々に落ち着きを取り戻しつつも再び俯き、前髪で表情を隠した。
「清水君……。君の気持ちはよく分かりました。特別でありたい。そう思う君の気持ちは間違ってなどいません。人として自然な望みです。そして、君ならきっと特別になれます。だって、方法は間違えたけれど、これだけの事が実際にできるのですから。……でも、魔人族側には行ってはいけません。君の話してくれたその魔人族の方は、そんな君の思いを利用したのです。そんな人に、先生は、大事な生徒を預けるつもりは一切ありません。……清水君。もう一度やり直しましょう? みんなには戦って欲しくはありませんが、清水君が望むなら、先生は応援します。君なら絶対、天之河君や彩織さん達とも肩を並べて戦えます。そして、いつか、みんなで日本に帰る方法を見つけ出して、一緒に帰りましょう?」
清水は、愛子の話しを黙って聞きながら、何時しか肩を震わせていた。
生徒達も護衛隊の騎士達も、清水が愛子の言葉に心を震わせ泣いているのだと思った。
が、そんなに簡単に行くほど甘くはなかった。肩を震わせ項垂れる清水の頭を優しい表情で撫でようと身を乗り出した愛子に対して、清水は突然、握られていた手を逆に握り返しグッと引き寄せ、愛子の首に腕を回してキツく締め上げたのだ。思わず呻き声を上げる愛子を後ろから羽交い絞めにし、何処に隠していたのか十センチ程の針を取り出すと、それを愛子の首筋に突きつけた。
「動くなぁ! ぶっ刺すぞぉ!」
裏返ったヒステリックな声でそう叫ぶ清水。その表情は、ピクピクと痙攣しているように引き攣り、眼は狂気を宿している。先程まで肩を震わせていたのは、どうやら嗤っていただけらしい。
愛子が、苦しそうに自分の喉に食い込む清水の腕を掴んでいるが引き離せないようだ。
周囲の者達が、清水の警告を受けて飛び出しそうな体を必死に押し止める。清水の様子から、やると言ったら本気で殺るということが分かったからだ。みな、口々に心配そうな、悔しそうな声音で愛子の名を呼び、清水を罵倒する。
「いいかぁ、この針は北の山脈の魔物から採った毒針だっ! 刺せば数分も持たずに苦しんで死ぬぞ! わかったら、全員、武器を捨てて手を上げろ!」
清水の狂気を宿した言葉に、周囲の者達が顔を青ざめさせる。
しかし、騎士達以外武器を捨てる様子が見られない。
というか、武器を持っている様子がそもそも見られない。
「おい、お前、そこのメイド、お前だ! 後ろじゃねぇよ! お前だっつってんだろっ! 馬鹿にしやがって、クソが! これ以上ふざけた態度とる気なら、マジで殺すからなっ! わかったら、魔物ぶっ殺してた武器を寄越せ!」
清水の呼び掛けに、つい好奇心で後ろを振り返って「自分じゃない」アピールをしてみると予想通りに突っ込んでくれて、楽しそうな顔をするメイド、神刺刹那。
刹那は、それを聞いて、ニタァと笑いながら清水を見返した。
「あっはははは。……ご注文ありがとうございますお客様。しかし当店ではそのような物騒なものは取り扱っておりませんので、どうかお引き取りくださいませ」
笑ったかと思ったら、突如笑みを消して事務的というか、接客的な対応をするメイド。
いくつものクレーマー客やセクハラ、食い逃げ、強盗を対処してきた彼女には慣れたものだ。同じく接客経験のある優花が尊敬の目で刹那を見つめている。
「うるさい、うるさい、うるさい! いいから黙って全部渡しやがれ! お前らみたいな馬鹿どもは俺の言うこと聞いてればいいんだよぉ! そ、そうだ、へへ、お前のご主人様にもなってやるよ!」
更に喚き散らす清水。追い詰められすぎて、既に正常な判断が出来なくなっているようだ。
「生憎と、私は休暇中です。もしメイドをご所望なのでしたら、是非とも知っておいてください」
刹那は地面をトンと蹴り、刹那の間に清水の背後に立った。
「主人無きメイドは、神羅万象何よりも自由なのです。法律にもルールにもマナーにも常識にも人質にも、縛られることはないのであります」
店員から商品を受け取るような自然さで愛子を掠め取り、抱き抱えると、針を持つ手を蹴った。
手首から先が、骨を失ったかのように歪み曲がる。
刹那は愛子をカインの元に下ろすと、町の外へと歩いていく。
「あなたのメイド、神刺刹那をご利用いただきありがとうございます。当方は終業時間が近づいてきましたので、これにて失礼いたします。またのご利用、お待ちしております♪」
そう言って、姿を眩ませるメイド。
005
「……し、清水君……どうか、話を……大丈夫……ですから……」
唖然とし、歯噛みする清水に愛子は尚、言葉を投げかけるが、その声を聞いた瞬間、清水はピタリと歯噛みを止めて愛子を睨みつけた。
「……うっさいよ。いい人ぶりやがって、この偽善者が。お前は黙って、俺のために――
そこで、清水の言葉は止まった。
蒼色の水流が、清水の胸を貫通して、射線上にあった優花の肉を吹き飛ばし、レーザーの如く通過したのはほぼ同時だった。
「カイン!!」
彩織が叫ぶより早く、カインは射線を辿るようにして駆け出した。
優花はまだ血に濡れている糸を放ち、ハジメも銃のようなものを抜き、連射する。
数メートルまで近づいたカインの前では、黒い服を来た耳の尖ったオールバックの男が、大型の鳥のような魔物に乗り込もうとしていた。
「横槍入れてんじゃねぇぞクソ野郎!!」
足元の石を蹴飛ばし、魔物の足を吹き飛ばす。
直後、発砲音が鳴り響き男の片腕も吹き飛び、フラフラと低空で町を迂回しようとしたが、空中で細切れになった。血と肉の残骸となり、他の魔物の残骸と区別がつかなくなる。
突然のことに、場が静まり返った。
「……香織」
「何かな、彩織」
何もできず、ただ見ていることしかできなかった香織に、彩織は声をかけた。
「それの治療、お願いします」
「いいの?」
「お願いします。愛子の望みが、いまだ叶っていませんから」
「うん、わかった。いいよ」
香織は、清水に治癒魔法を使う。気を失っているが穴はすぐに塞がり、顔色も幾らかよくなった。
騎士や町の重鎮達がその効果に感嘆の声を漏らす。
「ハジメ」
「……なんだよ」
次いで、ハジメに声をかける。
「香織はあなたの役に立つでしょう。まだ私に何かしらの恩義を感じているのでしたら、あなた達の旅に連れて行ってやってください」
「……了解。無事で返す」
「帰さなくていいですよ。嫁にもらってください」
「ちょっと彩織!?」
治療を済ませた香織が突っ込む。
「なんですか。夜這いもしておいて今更、怖気付きましたか?」
「そっ、そんなんじゃないけど……」
「香織。妹から見て、あなたはいい女です。自信を持ちなさい」
「……はい」
ハジメ達は魔力駆動四輪に乗り込んでおり、遅れて香織も乗り込み、すぐさま走り去って行った。
006
「さて愛子、どうするのですか?」
「……わかりません。先生は、先生なのに、……なんと言ったらいいのか、わからなくなってしまいました」
唇を噛み締め、俯く愛子。
「そうですか。…………愛子」
彩織はクラスメイト達から離れたところで岩に腰掛け、冷めた肉を噛みちぎりながら愛子に話す。
「なんでしょう」
途中で抜け出して、町から食べるものをもらって来た生徒達が、カインに材料を渡している。
「私は前世、天使だったんです」
「えっ?」
彩織の突拍子のない話に、愛子はポカーンとなる。
「多くの人間を救ってきました。多くの人間の助けになってきました」
「はぁ」
「多くの人間と手を取り合いました。多くの人間の手となり足となりました」
「えっと、」
「多くの人間を殺してきました。多くの人間を苦しめてきました」
「何を……」
「多くの人間を犯してきました。多くの人間を裏切ってきました」
「なんのお話、なんでしょうか」
「先の魔物の群体よりも多くの人間を殺しました。傷付けました。苦しめました。前世の私は悪だったのでしょう。神という絶対正義が背後にいるだけの、悪人だったのでしょう。……でも、今私は仲間に、家族に恵まれています」
「……そう、ですね。祈和君も、問題児ではありますが、いい子です」
「そうでしょう。でも、カインも人を傷つけて生きています。私も、人を傷つけて生きています」
「……! なら、それなら、清水君だって!」
希望を見た。愛子はそんな目で彩織を見る。
しかし彩織の目は、彩織の目が語るのは、そんな綺麗なものではなかった。
「根本的に、人は悪人だと思っています。七つの大罪、というものを知っていますか?」
「えっと、確かキリスト教の、カトリックの用語でしたね。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰」
「さすが、社会科教師ですね。大罪、なんて言って、さながら禁忌のように聞こえますが、でも犯さずにはいられないものでしょう?」
「えっと、それってどういう……」
「例えば色欲がなければ、少子高齢化が常に付き纏い、人間は今頃絶滅危惧種でしょう。強欲でなければ、地球のように、この世界のように、他の生物と比べて発展することはなかったでしょう。傲慢でなければ、今頃人間は魔物や猛獣の餌になっているでしょう」
「そうですね。言われてみれば、そうだと思います」
愛子はなんだか学生時代に戻ったような錯覚を覚えながら、彩織の話に聞き入る。
「それならと、私は思うのです。それらは罪ではなく、生きる術なのではないかと。罪を犯すことこそ、生きるということなのではないかと、私は罪を犯しながら思うのです」
「…………」
「幸せになることを、まるで悪いことのように言う人間はそれなりにいます。特に女性なら、カロリーが高いスイーツを食べると罪悪感を感じる、なんて言ったりするでしょう? 逆にカロリーが少ないと罪悪感がなくて食べやすいとも」
「はい。生徒達からも、時々聞きます」
「幸せになりたいのなら、理想を追い求めるのなら、努力したいのなら、何かを成し遂げたいのなら、その分罪を犯さなければなりません。それも、なるべく少なく、コスパよく」
「……ライフハックみたいな話ですね」
「すると彼、清水はどうかといえば、彼は罪を犯しすぎました。悪魔に魂を売りすぎたと、言ってもいいでしょう」
「そう、でしょうか」
「彼は傲り高ぶり過ぎました。《傲慢》彼は多くのものを求め過ぎました。《強欲》彼は他者を憎み過ぎました。《嫉妬》彼は不用意に憤り過ぎました。《憤怒》彼は己の欲求に正直過ぎました。《色欲》彼は無闇矢鱈と受け入れ過ぎました。《暴食》彼は為すべきことから逃げ過ぎました。《怠惰》」
「あ……」
「彼は無駄に、罪を重ね過ぎました。悪魔は魂をぼったくり、それでも彼は悪魔を信じてしまっている」
「どうしたら、いいのでしょう」
「どうしようもありませんよ。……愛子、なぜ七つの大罪にあるべき罪、殺人が無いのか、わかりますか?」
彩織の問い掛けに、愛子は少し悩むようにして答えた。
「……七つの大罪はどれも、ある程度は犯さないと人は生きていけません。三大欲求がどれか一つでも欠かせないように。でも、殺人は違います。人を殺さずとも、人は生きていけます。殺人は罪という高尚なものではなく、禁忌です」
「それもあるのでしょう。だからこそ、チームには基本的に殺人を禁じさせています。でも、大罪に数えられないのには他の理由もあると思っています」
「他の理由、ですか?」
「七つの大罪全てが、行き過ぎれば殺意に繋がるのではないかと、私はそう思っています。逆に、殺意の元を辿れば七つの大罪のどれかしらにたどり着くのではないかとも」
「……」
「ならば、愛子が結論を出したように、清水は禁忌を犯しました。人に殺意を向けるという、罪を超越した禁忌を」
「私は死んでいません! 彼はまだ、罪を、罪……、あ……」
「殺意を抱くということが、誰かを殺したいという思いが、それがどのようなものなのかは、私にはわかりません。それがわかるのは、行き過ぎて向けた者と向けられた者だけでしょう。清水や、ハジメのように」
「……」
「殺意を持つ人間を救うことは神にだって出来ません。地獄に落とすことしかできません。恵里なら騙すことで誤魔化すこともできるかもしれませんが、あるいは精神治療なんて全て騙して誤魔化しているだけかもしれませんが、それもその場凌ぎでしかありません」
愛子は顔を伏せてしまう。遠くでバーベキューをしている生徒達が心配そうに見守っている。
「……彩織さん、私はどうしたら、一体どうしたら、清水君を救えるのでしょう」
「愛子、それは傲慢というものです。悪魔から魂を買い取ることはできません。罪を無かったことにはできません。死んだ人間が蘇らないように。……あなたは教師であって、神でも魔王でも無いでしょう」
「そんな……」
落ち込む愛子を尻目に、彩織は立ち上がる。
「私はお腹が空きました。愛子、考えるより先にご飯を食べましょう。食べないと生徒達が心配しますよ」
「……あまり食欲がないのですが」
それは清水云々ではなく、単純にカインと刹那の殺戮現場と解体現場を見てしまったからである。
「生徒のためと思って、無理にでも胃に肉と野菜を詰めなさい」
「……はい!」
く〜っと、愛子のお腹から音がなった。
「うぅ……」