学園は、もはや収拾のつかないパニック状態に陥ってしまっていた。きっかけは一本の放送から。授業中、突然学園中に流れたその放送からは慌てふためく教師の“暴力事件”の発生を知らせる報告と、その背後からは激しく争う音が小さく聴こえ、そして一度放送が無理矢理打ち切られたと思えば、次の瞬間、甲高い大絶叫が学園を震わせた。教師は放送のスイッチをオンにしたまま襲い来る“何か”と激しく争い、『痛い』『死ぬ』という単語を何度も口にし、耳を劈くほどの断末魔が響いたと思うと、ピタリと物音が聞こえなくなった。
石のように固まっていた生徒、教師達がその意味を理解した瞬間、学園は一瞬でパニックに陥った。我先にと教室を後にし、外に逃げようと正面玄関に向かう。途中邪魔する者を蹴飛ばし、殴り飛ばし、突き飛ばしながら、正面玄関は瞬く間に人で溢れかえっていった。
一真はその反対方向──剣道場へと続く廊下を、逃げ惑う生徒達の間を縫いながら駆けていた。目的はもちろん冴子である。彼女もこの放送を聞いたはず。一刻も早く合流しなくては。得体の知れない焦りが、一真の足を早めさせた。そして剣道場に到着すると、一真は勢いよくその扉を開け放った。
「冴子!」
冴子の名を呼ぶ。しかし返事はなく、気配もない。念のため道場内を探してみると道場の隅に設けてある刀掛けから木刀が一本無くなっていた。おそらく冴子が持っていったのだろう。
「早く見つけないと……」
冴子がいないのならもうここに用はない。一真は刀掛けの木刀を一本取って道場を出た。現状を考えて、学園が安全でないことはもはや明白。冴子はまだ校舎のどこかにいるに違いない。
「少々面倒だが、しらみ潰しに探して行くしかないか……ん?」
そう結論づけてから、ふと一真は外から悲鳴のような音が聞こえてくるのに気が付いた。いや、悲鳴の“ような”ではなく、悲鳴だ。一真はおそるおそる窓に近づいて、そこから外を見下ろした。
「なっ──!!?」
目に映った光景に、一真は自分の目を疑い、言葉を失った。
──人が、人を喰っている。
例えなどでは断じてない、文字通りの意味。人間が、人間の肉を貪り食っていたのだ。さながらゾンビ映画に出てくるゾンビのように、体の一部が欠落した男子生徒が、女子生徒の
「くっ……!!」
一真は大きな吐き気に襲われて目を背けた。座り込み、荒くなった息を整える。外の光景はあまりに衝撃的過ぎた。
「か、会長……」
と、不意に背後から声が聞こえた。一真は咄嗟に木刀を構える。そこにいたのは、一真がよく知る人物だった。
「島村……?」
島村祐太。生徒会副会長の2年生で、その聡明な性格から一真が自分が生徒会長を退任した後の後継者にしようと思っていた後輩だ。島村は腕から血を流し、壁をずりながら一真に近づいて来た。
「島村! その怪我はどうした!?」
「あ、あいつらに噛まれて……肉を、食い千切られました……」
「凄い血だ、どこか安全な場所で……そうだ! 保健室に行けば……」
青い顔で力無くその場に崩れ落ちた島村に、一真はすぐに肩を貸す。しかし島村はそれを無理矢理振りほどくと、一真から距離を取った。
「ダ、ダメです! 俺に近づいちゃいけません!」
「ど、どうしたんだ?」
「お、俺、見たんです……あいつらに……〈奴ら〉に噛まれたらどうなるのか……」
「……どうなるんだ?」
一真が問うと、島村は絶望した表情を向けた。
「〈奴ら〉に噛まれたら、〈奴ら〉になって人を襲う……」
島村の言葉に、一真はしばらくの間何も言うことができなかった。そして何とか喉を振り絞って出たのは、乾いた笑いだった。
「は、ハハ……何言ってるんだ島村。人を襲うって……そんな訳ないだろう?」
「嘘じゃありません! 俺、友達と二人で逃げてて、友達が〈奴ら〉に噛まれたんです。そしたらしばらくして、そいつはたくさん血を吐いて死んでしまって……でも急に立ち上がって、俺を襲って来ました……!」
そうして、腕を噛まれてしまったと、島村は語った。すると、突然島村が苦しそうに膝をついて咳き込み始めた。
「お、おい!」
島村の咳は徐々に酷くなっていき、やがて大量の血を吐き始めた。
「グッ……カハッ……! か、会長……あ、あなたにお願いが、あります……」
ヒュー、ヒュー、と虫の息になった島村が、もはや焦点が定まらなくなった瞳をこちらに向けてきた。顔中に汗が噴き出し、口からは血が溢れ出ている。
「お、俺を……その木刀で、こ、殺してください……」
「──ッ!? そんなことできるわけないだろう! お前をこ、殺すなんて!」
島村とは後輩の中では特に仲が良かった。会長と副会長という役職上話す機会が多かったのもあるが、個人的にも親交があり、食事に一緒に行ったこともある。物静かだが聡明で、内に確かな正義感を持っている、人の上に立つにふさわしい器を持った青年である。そんな青年を、この手で殺すなんてことが一真にはできるはずがなかった。
だが……
「お願いします会長!! 俺は人間のままでいたい!! 〈奴ら〉になんてなりたくないんです!! 〈奴ら〉になって会長や他の人に襲いかかるなんてこと、例え死んでもしたくない!!」
彼の瞳には確かな覚悟──死ぬ覚悟があった。それを無下にすることもまた、一真にはできない。
「……分かった……殺してやる。お前が〈奴ら〉になる前に」
だから一真は、彼の覚悟を尊重した。
「ありがとう、ございます……」
「あなたに会えて良かった」と、島村は最期まで笑顔を崩さなかった。
◇
「ハァ……ハァ……ハァ……」
肩を大きく上下に動かしながら、一真は血の付いた木刀を落とし、眼下の島村の屍を見下ろした。彼の頭から流れ出る血がツーと廊下を伝い、一真の上履きに届いて赤いシミを作った。
「これが、『殺す』……」
島村を殺した時の感覚が、未だに手に残っていた。決して気持ちのいいものではない。あるはずない。友と呼べる人間を殺すなど。
「……何だってんだよ、チクショウ……!」
この世界は終わりを迎えつつあるということを、一真は改めて実感した。
「……冴子」
気分が落ち着くと、ますます冴子を探さなければという気持ちに駆られた。ひとまず一真は、島村の遺体を剣道場に運んで頑丈に鍵を閉めた。島村の遺体が他の〈奴ら〉に喰われないようにするためと、彼に対する一真のせめてもの供養のつもりだった。
「……すまない、島村。安らかに眠れ」
呟いて、黙祷する。彼の分まで長く生き残ることが、彼を殺した一真がこの世界でできる唯一の償いだ。
「俺は、死なない」
死んでなるものか。一真は振り返る。数メートル先に、〈奴ら〉と化した生徒達がよろよろと近づいて来ていた。睨み付ける。もはや一真に一変の恐れもない。
「この終わってしまった世界を、何がなんでも生き残る。大切なものを守るために!」
一真は走り出した。戦闘は最小限に、目の前に立つ者だけを排除しながら。
大切なものを──冴子を守るために。
片桐一真は、この地獄で戦い抜くことを決めた。
次回は前半は冴子視点になります。