チキチキ!しあわせ家族計画   作:支部にいた鯨

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②・前

 

 巡、という少年はひどく静かな子であった。

 

 

 ひっそりとした雪原のような。取り残された湖面のような、そんな白く冷たい静けさ。

 一年生にして二級呪術師、最強の育てた虎の子と密かに噂されている伏黒恵。彼も年のわりに静かな子であるが、あの子ども程ではないだろう。その静けさはどこか似通っているような気もするが、やはり違う。あの子は生物が静まり返る冬であるが、伏黒は生命の芽吹く春だ。

 

 ソワソワと落ち着かない心臓を宥めつつ、補助監督一年目の時に奮発して買った腕時計をチラリ。

 

 だからというか、なんというのか。牡丹も凍る閉じた雪の中に垣間見える、ポツンと独り遺されたような寂寥感。短い青春を駆ける若人には不釣り合いなソレを、あの物静かな子に感じられずにはいられない。

 

 率直に申し上げると、とても心配。すごく心配。実は目を離した隙に死んじゃうんです、と告白されたとて素直に信じられるくらいには心配なのである。

 

 大丈夫でしょうか、巡くん……。

 

 呪術高専東京校、その正面入口。長い石畳の階段が連なる真正面に、高専所属の補助監督。伊地知潔高は色んな意味でドッキンドッキン高鳴る血液ポンプを抱え、照りつける太陽にも負けず上段を見つめていた。

 

 数多の生徒を任務地に送り届け、それ以上に呪術界最強を乗せた愛車(便利なタクシー)を横につけてから十分。チックタックとガラス面の奥にある秒針は休み無く動き、待ち合わせの時刻が迫る。

 

 伊地知に息子を頼む、と任せて日本から五条が離れたのが二日前。

 家入硝子……、五条と同じく伊地知の学生時代の先輩に当たる現女医。彼女以外には学長にも、一つ上の先輩である一級呪術師にもバレてはいけない。上層部やその他呪術界関係者なんて言うに及ばず。もしも何かの手違いであの子の存在が明るみに出た場合、伊地知はこれまで逃れてきた五条のマジビンタを受けること間違いなし。

 

 二十六年間連れ添ってきた頬の危機である。

 

 もしもを想像するだけでも背筋が凍り、両頬が痛みを覚えそうな中。フと、傾斜を描く石畳の軍団に、一つの長い影が下りる。

 

 頭を占拠していたマジビンタを慌てて振り払い、ズレた眼鏡を押し上げ階段先へ。

 

 時計の長針が指すは午後二時。生徒たちが教室内に引っ込み、人影の無い高専敷地の頭上には太陽が輝くばかり。長い石畳を降りてくる高い背の、ふわふわとした白にも銀にも見える髪がキラキラと光を受ける。

 

 一歩一歩階段を降りる度に顔を覗かせる骨ばった(くるぶし)は眩しく、伊地知の心配に反してその足取りはしっかりとしていた。

 

 淡い色彩の水色と、色の失った痛々しいガラスの瞳。爪楊枝どころか、万年筆の乗りそうな長く豊かな淡雪の睫毛がゆっくり瞬き、ホッとした顔の伊地知が表面に映る。

 

 場所が場所なだけにのんびり立ち話をするのは危険だ。色んな意味で。加えて、ここ半月近くベッドの住人であった子どもを立ちっぱなしにしておくというのも、どうにも心臓に悪い。

 

 運転席側のバックドアを開け、五条のお下がりパーカーを着た薄い体がしっかり車に乗り込んだのを確認。自身も運転席へ乗り込み、素早くエンジンをかけアクセルを踏み込む。

 

 よ、良かった〜! 一人で歩けてた〜〜! 

 

 天井にぶら下がるミラーの角度を調整し、そんな小さなことに安堵の息が漏れる。

 

 だがそれも仕方の無いこと。伊地知がこまめに顔を出し始めてから一度も、この子が白いベッド以外の場所で活動している姿を見たことが無かったのだから。

 

 元々は健康体であったらしく、こうなった原因を知っていそうな呪術界最強曰く、

 

 

「え? 大丈夫大丈夫。ちょっと無理を押し通した負荷(代償)を支払っている最中なだけで、あと数日もすればピンピンするよソイツ。というか、その程度で僕の息子がくたばるわけないじゃん。ナイナイ」

 

 

 と。有名どころの水饅頭片手にそう言ってはいたが、やはり気になってしまうのは産まれ持った(さが)だろうか。

 

 滑らかに動き出した車体は速度を上げ、曇りガラスを挟んだ景色はビュンビュンと過ぎていく。

 

 伊地知にとっては見慣れすぎた高専からの道。過ぎ行く葉の生い茂る一本道。

 しばらく進めば人通りの多い、東京らしい交通網へ合流する平坦な道だ。

 

 ぱちりぱちり。真っ白なまつ毛が音を立てる。

 

 代わり映えのないガラス向こう。二色の瞳が物珍しげにジッと、新緑と人工的なコンクリートの車道を見つめている。

 

 その姿は初めて足を踏み入れた土地にはしゃぐ幼い子のようで、伊地知は自然と湧いてきた笑みを口の中で噛み殺す。

 

 山道特有の振動に揺れる銀糸。場違いだと分かっていてもなお、口元は緩むままに綻ぶ。

 

 

「とりあえず、コンビニにでも寄りましょうか。神奈川まではそこそ時間もかかりますし、昼食も必要ですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『なにか、やりたいことはありますか?』

『……やりたいこと?』

『はい。私個人で対応が可能な範囲でなら、

 と注意は付きますが』

『……』

『無理に、とは言いません。私も私で怪しまれない程度に仕事は熟さないといけませんし、息抜きや退屈しのぎ。そういった類だと思って下さい』

『…………ひとつだけ。一つだけ、やりたいことがあります』

『それはどんな?』

『取りに戻りたいんです。俺の力を。俺の剣を。水底に沈んでいる、俺の大切な、美しい鋼を』

 

 そんな小さな、淡々とした。けれどもどこか柔らかいものを含んだ呟き。伊地知が件の子を愛車に乗せ、大通りを走った理由なんて、そんなものである。

 

 

 

 ピロピロピロー。いらっしゃいませーと。もう反射の域で口を突くウェルカムの挨拶。配送された商品の包装を解く手は止めず、最早流れ作業のように軽く音の鳴った入り口へ顔を向ける。

 

 東京の人間は基本的に無関心スタイルだ。コンビニ店員が挨拶しようが何しようがイヤホンを耳に突っ込み、お目当ての商品を取ったら手早くお会計。店員が作業しながら声だけ飛ばしたところで誰も気にしない。

 だけれど極小数、虫の居所がとてつもなく悪かったり、ストレスが天井を突破していたり。そんな余裕の無い人ほど、そういう態度が目に付くらしい。

 

 つまり、絡まれる。

 

 文句を言われる程度ならマシ。酷い時には店長を呼べ! と迫られ、何十分も店員の教育がなってないと怒鳴り散らされることもある。

 だから殆ど意味が無いと分かっているものの、無駄なトラブル防止のために店員はお客様の顔を見ての挨拶を体に染み込ませるのだ。

 

 自動ドアを潜り、入ってきたのはスーツ姿の真ん中分けサラリーマンと、今時珍しいくらい背の高い細身のフードパーカー。

 

 こけた頬と神経質そうな眼鏡がそうさせているのか、なんだかくたびれた様子を受けるスーツ姿の男性だ。

 

 仕事人間ですと公言しているような見た目に反し、軽くコチラを見てペコリ。店内の電灯に反射する眼鏡と前髪は微塵たりとも動かない。

 

 あまりの物珍しさ故に固まっていれば、スーツの後に続いて来店したパーカーが同じくペコリ。顔が大きめのフードにすっぽりと隠れてしまっていて目視は叶わないが、確実に自分に向かって頭を下げた。

 

 ピロピロピロー。また、音が鳴る。センサーが出入り口の二人に反応していた。

 

 たくさん買い込むつもりなのだろう。入り口のすぐ脇に置いてあったカゴを眼鏡の人が一つ取ると、流れるような動作でポケットから手を出したフードの人がそれを奪い取った。

 

 にょっきりと生えたジーパンが眼前を横切り、サイズが大きいのかダボついたパーカーがやけに目につく。

 

 コンパスの長い足。小さな風と共に通過したパーカーからはフワリと。上品な、大人の男性がつけるような、そんな香りが鼻腔を擽った。

 

 なんだコレ。この二人スゲー良い人だ。しかもパーカーさんスゲーいい匂いする。足長。腕長。股下メジャーで測っても良いですか。

 

 いつの間にか止まっていた両手。「えっ」だとか、「ああ、いけません!」だとか。取ったはずのカゴが手元から消え、パーカーさんが荷物持ちのポジションに就いた事実にアワアワと慌て出すスーツさん。仕事一筋の冷徹サラリーマンというイメージが一瞬で覆る。

 

 わたわたと言葉を並べ、情けない感じでカゴを奪取しようと頑張る姿に遺憾ながらほっこり。会社勤めのパパと大学生くらいの息子さんだろうか。

 

 暖簾に腕押し。まさにそうとしか表現する他ないスーツとパーカーがアイスコーナーを曲がる。

 

 ぼけーっと二人が消えた角を見ていれば、仕事の手が止まっていることに気づいた同僚のアルバイト仲間にペシリと頭を叩かれた。

 

 

「ちょっと、手ぇ止まってんだけど。その品出しやっとかないと、私たちが休憩入る時に引き継ぐ子たちが大変だろ。真面目にやれ」

 

 

 軽く頭を小突かれ、ごめんごめんと謝れば「分かればよろしい」とお許しの言葉。

 

 届いた商品の開封作業に戻りつつ、そうだよなあと気持ちペースを上げる。

 

 あんまり目にしないレベルの良いお客様二人組だったから思わず魅入ってしまったが、この仕事を休憩までに終わらせなければ困るのはバトンタッチした後のアルバイト勢である。

 

 ただでさえ東京のコンビニは忙しい。基本的に利用客が途切れることはあまり無く、昼と夕方にラッシュが発生するものの暇と呼べる時間帯は皆無である。雑用から品出し接客、レジ打ちに至るまで、基本的にコンビニの店員さんは忙しいものだ。

 

 せっせと開封した中身を指定された運搬用のカゴへ移し、商品間違えが無いことを確認。ガラゴロとキャスターを転がしながら、該当の棚の元へ。

 

 特に最近は肩が重く、全身が気怠さに蝕まれ軽いミスを連発する毎日なのだ。シフト上コンビを組んでいる彼女にはかなりの負担をかけてしまっている。

 

 ほっこりする良いお客様にも出会えたのだし、いつも以上に頑張ろう。そう心の中で呟き、かけた襷をキュッと締める。

 

 単純とか言うことなかれ。こういう場所ではそれくらいの小さなほっこりをどれだけ見つけられ、どのように使うかで勤務年数に影響したりするのだ。小さなお子様連れは大歓迎です。

 

 引き締めた気持ちを携え、指定の棚に商品を補充していく。一段二段とカゴを減らしていき、次に向かったのは飲料水売り場の横にあるラーメンなどのインスタント商品が陳列する棚。

 横を見ればおにぎりやサンドイッチ、お弁当といった食品群が並ぶコーナー。昼や夕方といった時間帯は気持ち悪いレベルで人がごった返す場所だが、時間帯の関係上いるのはスーツを着た男性とフードを被っているパーカーの二人のみ。

 

 あ、さっきのスーツさんとパーカーさんだ。

 

 もうレジに並んでいる頃合だと思っていたのだが、どうやらまだ商品吟味の最中だったらしい。

 

 店のロゴが小さく押されたカゴの中身はそこそこ量があり、白い手が苦もなく持ち手部分を掴んでいる。結局、カゴ担当はあのままパーカーさんに落ち着いたようだ。

 

「あ、ここのコンビニ当たりですね」

 

 神経質そうな男の声。そろっと横目で伺えば、たまごサンドを手に取ったスーツ姿が見えた。

 

「当たり……ですか」

 

 まだまだ年若そうな声。しかしビックリするほど、感情の起伏が感じられない人形のような声だ。

 

 ギョッとして思わず首ごと動かしてガン見をしてしまう。

 

「ええ、お昼時のラッシュが終わったあとのこの時間、ほとんど商品が残ってない方が多いんです。立地的に客入りが悪いという事は無さそうですし、純粋に仕事能率が良いんですね。滅多に無いんですよ、こういうコンビニ」

「……なるほど」

 

 あ、どうせなのでハムカツサンドも買ってしまいましょう。

 

 気軽に伸ばしたスーツさんの袖口。シミひとつないシャツと腕時計が電灯の光を反射する。

 

 神経質そうな声はスーツさんだ。間違いない。ならば必然的に、あの人間味の薄い平坦な声は話し相手であるパーカーさんなのだろう。

 

「どれにしますか? 麺類は車的に厳しいものがありますが、どれでも好きな物を選んで下さい」

 

 スーツさんがパーカーさんを促し、塞がっていない方の手が迷うようにサンドイッチの棚をウロウロと彷徨う。

 

 うっそだろおい……と。驚愕に染まる頭。半ば自動的に商品の補充をしてくれる手が、この時ばかりは有り難かった。

 

 アニメやマンガじゃねーんだぞ。普通の若者はあんな声出さねーだろ。等々、つい脳内で早口に捲し立ててしまう。

 それでも最後には、「まあ、人間だもんね。色々あるわな」と。早々に切り替えスイッチを押し、ひっそりと立てた聞き耳を続行しているのだから笑える。

 

 ポツポツと続く会話のキャッチボール。

 

 互いに向ける言葉は敬語。残念なことに親子では無いらしい二人。どちらかというと、ベテラン社員と新入社員とかそこら辺だろうか。それにしてはパーカーさんの服装が謎であるが。もしや叔父さんと甥っ子。はたまた遠い親戚か。

 

 人間関係分かんねー、などと脳みそは盗み聞きした情報を元に、性懲りも無くそんな事を考える。

 

 少しの間を置き、パーカーさんが胃袋へ入れるものが決まったらしい。

 

 どれにしようか決めあぐねていた色の薄い爪が苺のフルーツサンドを摘み、ついでとばかりに隣にあったブルーベリーサンドも攫っていく。

 

 パーカーさんは甘党か。分かる、時々無性に食べたくなるよね、フルーツサンド。

 

 補充の終わった空のボックスを折り畳み、後ろ失礼しまーすとひと声かけ二人の背後を通過。

 

 キラキラと。積もった雪から覗く空のように、目に悪い蛍光灯が眩しく感じる。

 

 パーカーさんからはやっぱり良い匂いがした。

 

 レジと店内のお客様用通路の境界となっていた仕切りを上げ、軽くなったキャスターとコンパクトになったボックスをバックルームに押し込む。

 

 ぐるぐると両肩を回し、うんと背伸び。

 

 パーカーさん、ハーフの人だったのか。

 

 同じような体勢でいたため、固まってしまった体をほぐしながら、ちょっとした興奮が体内を巡る。

 

 横切った際に垣間見た色彩。顔の造形は変わらず目にすることはできなかったが、あれそれと商品を選んでいる内にズリ下がったのだろう。フードからは目を剥くような艶々の銀糸が覗き、安っぽい店内の光を受け輝いてい見えた。

 ブリーチを繰り返して人工的に染めたものではなく、柔らかそうで透き通った。それこそ、天然物のような雪色の糸束と呼べるものであった。

 

 サンドイッチを選ぶ手もかなりの色白であったし、ロシア系統の血でも流れていてもおかしくはない。身長だって日本人では数の少ない部類の高さだ。足も長い。胴長短足と自虐ネタの宝庫である東洋人ではない。絶対に。

 

 休憩前に済ませておかなければならない仕事は一通り片付き、備え付けの時計に目をやれば交代の時間にはまだ早い。

 

 他にやる事はないか、彼女に聞いてみようか。そう思いながら閉じた扉を潜る。

 

 控え場所であるそこから顔を出せば、構造的に仕方ないとはいえ、真っ先に鉢合わさるのはお会計に並ぶお客様の姿。

 

「あ」

 

 人影のあったレジ。零れた口に慌てて蓋をし、研修生の頃から使い込んでいるスマイルを披露。いつもなら義務として作る表情だが、気に入ったお客様を相手にするのならば別である。店員さんにだって、密かなお客様贔屓があるのだ。

 

「お待たせしました、お会計ですね」

 

 会計台に乗せられたカゴを引き寄せ、かつては無償であったビニール袋に手をかける。

 

 並んでいたのは先程の二人。神経質そうな眼鏡のスーツさんと、フードを目深に被り直したらしいパーカーさん。零れ落ちていた綺麗な銀色はしまい込まれ、レジ横のオススメ商品を吟味しているのか微動だにしない。

 

「レジ袋は有料となっておりますが、どうなされますか?」

「お願いします」

「かしこまりました」

 

 ポケットからお財布を取り出すスーツさん。

 

 レジ袋に入れる順番をどうしようかなと考えつつ、慣れた動作で商品のバーコードを捌く。

 

 一番大きいサイズのビニール袋。ピッと押して詰めてピッと押して詰めて、と繰り返すうちに埋まっていく袋の中身。バーコードの読み取り待ち物品は順調に数を減らし、いよいよ残すはあと一つ。

 

 最後のお買い上げ商品を読み上げ、ピッタリ満員となったレジ袋の中へ投下。表示された合計金額に目を通そうとした時、スッと。目の前に出されたのは棒付き飴。しかも二つ。

 

 手品のようにポンと視界に映ったソレ。球体状の飴部分に巻かれた包装紙と飛び出す細長い持ち手部分を辿ると、大半が黒い布地に隠れた真珠の指。ハッとして上方向を仰げば、物理的な影の中で光る、宝石のような瞳が二対。こちらを見ていた。

 

 睫毛の内にあるまあるい眼球の中。不思議な輝きを放つ、ルビーのような。けれども時折、砕けたエメラルドにも見えるような、そんな偏光を宿した綺麗な瞳。

 

 宝石のような、美しい目だった。

 

「……これもお願いできますか」

 

 静かな、落ち着いた声。カサリと擦りあった青色の包装紙が揺れ、平坦な調子で落とされた呟きが遅れて耳に通る。

 

「かっ、かしこまりました! それではお会計が変わりまして」

 

 ─────円になります、と。咄嗟に読み上げた液晶の数字は、上擦っていたかもしれない。

 

 設置してある金銭受け渡し用のトレーに野口さんが数枚乗り、しっかりと指でお札を弾きながらお預かり金額を入力。引き算によって提示された差額分を手早く集め、軽いチェックを入れてからレシートと共にお釣りを受け渡す。

 

 ありがとうございます。そんな一言と共にスーツさんの動かない前髪が下方向を向く。

 

 来店した時のような横槍を防ぐためか、上等そうな腕時計の嵌る手は素早く膨らんだレジ袋を掴み、すぐさま回れ右方向。

 

 よれてみえる背広の後ろ姿に、慌てて頭部を前方に倒す。

 

 ありがとうございましたー! またのご来店をお待ちしております! 

 

 何百回と口にした決まり文句。今日もその一言を舌に乗せようとした瞬間、ギュンと。馴染みのない変な音。例えばそう、まるで空間そのものが捻じ曲がったかのような、歪な音がした。

 

 ふわり。もみ上げが小さく、風に攫われたように宙を泳ぐ。

 

 え、なに? と。疑問が頭に住み着くよりも早く、被せるように向けられた言葉と視覚情報。

 

「おにいさん」

「ハァイ!?」

 

 顔近くに現れた一つ四十円前後の棒付きキャンディー。フードの奥にある綺麗な赤色に、虚をつかれたような顔をした自分がいる。

 

「どうぞ」

「エ……」

 

 何を言われているのか分からない。

 

 手、出してくださいと。そう言われるがまま利き手を差し出せば、ポトリと落ちたキャンディーが二つ。

 

「疲れた時は糖分が良く効くそうです。よければ休憩の時にでも、ご友人と一緒に食べて下さい」

 

 どうぞ、体調には気をつけて。

 

 要件は済んだとばかりに後腐れなく自動ドアを潜る長身の体。

 

 ピロピロピローと閉じたガラス。ポカンとその場で呆けていれば、今度は背中に軽い衝撃が走った。

 

「なにしてんの。ホラ、休憩時間。お疲れ様! ……ん? あんたソレ何持ってんの?」

 

 恐る恐る握った拳を開く。コロリと転がった のはコーラ味の棒付き飴二本。

 

「ちょっと何でレジ横の商品をあんたが持ってんの。店員が窃盗とか止めてよね。やるならそんなちまっこいモノじゃなくて、もっと大きなモノ盗んで人生台無しにしなさいよ」

「いや、違うから」

 

 相方のあんまりな言い様にちょっと目からラムネが出そうになる。

 

「じゃあそのアメなに。どうしたの?」

「……貰った?」

「貰ったぁ? 誰によ」

「お、お客様のから?」

「いつ、どのお客様から」

「今さっき自動ドアから出た、パーカー着てフード目深に被ったお客様から」

「なんでよ。知り合い?」

「分かんないし、全然知らない人」

 

 ……完全に変人じゃん。そう失礼なコメントを残し、不要のレシートボックスを漁る相方。

 

 スーツさんが捨てたお買い上げリストを引っ張り出し、ちゃんと該当商品が記載されていたのを確かめたのだろう。途端、固くなっていた表情がみるみる内に安堵を含んだ緩いものに変わっていった。

 

「あ、本当だ。よかったー」

「どんだけ信用ないの」

「口先だけならなんとでも言えるじゃん、人間って。もしもアレだったら店長の責任問題にもなっちゃうし、一応の確認だってば。証拠はあるに越したこと無いでしょ」

「ド正論」

「貰い物なら食べちゃえ食べちゃえ! 食べなきゃくれた方にも失礼ってもんよ」

 

 肩を回しながら控え室に消える背中。手の中には何度見ても、青色の包装紙が不安定にコロコロと転がっている。

 

「あ、そうだ」

 

 ヒョイとドアから明るく染まったショートカットが覗き、標準的な黒い目が茶目っ気たっぷりに弧を描く。

 

「ダルいの治った? 良い顔色してるじゃん」

 

 それだけ言って満足したのか、今度こそ相方 の五体は揃って内側に引っ込んでいった。

 

 手の中のキャンディーを見て、空いている方の手で顔周りをぺたぺた。

 肩を回し、その場で軽くジャンプを数回。五体の調子は良好。指摘されて気がついた。ここ最近苛まれていた肩の重さ、全身の気怠さがサッパリと消えていることに。

 

「これが糖分効果か……、まだ食ってないけど」

 

 久々に軽いと感じる五体に嬉しさを感じつつ、「糖分スゲー!」と嬉しさ余ってグルリと無意味に一回転。

 

 停止した先にあったのは、レジ横に並んだ商品タワー。

 

 パーカーさんがくれた商品と同じもので作られた簡単な塔には、店員イチオシ! と書かれた小さなポップがおざなりに貼られている。

 

「あ」

 

 自分の胸についている名札と、ポップに書かれた雑な文字。同じ苗字がアクリル越しにくっきりと見え、ぶわっと全身の血液が沸騰した。

 

「まじかー……まじかぁー……!」

 

 疲れた時は甘い物! 糖分が良く効く! 

 

 鮮やかなカラーリングに踊る文章には、自分と同じ苗字が書かれていた。

 

 


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