チキチキ!しあわせ家族計画   作:支部にいた鯨

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②・後

 

 …………ちょっと変態ぽかったかもしれない。

 

 人と車が溢れる大都会から抜け出し、比較的落ち着いた景色を追いながら、頭の中を占めるのはこんなことである。

 

 なんだよ、「どうぞ、体調には気をつけて」って。むしろお前が不審者に気をつけろよ。俺だけどさ。

 

 肩にへばりついていた低級の雑魚。いくらそれを祓うための演出だったとはいえ、さっきの自分は間違いなく百パーセントの変態。または変質者であった。良い子は全く面識の無い赤の他人からもらったアメなんて食べない。しかもフードを目深に被ったパーカー野郎からの贈り物である。即ゴミ箱に叩きこむわな。

 

 でもさ~、と。誰に言うでもなく、自分自身への言い訳。もとい、精神の安定を図る目的で言葉を重ねる。

 

 だってさ、しょうがないじゃん? コンビニの店員さんは明らかに顔色悪かったし、耳で聞いた足取りも重かった。しんどいのが丸わかり。術式は万が一を考えて使いたくはなかったし、一般人の目の前で堂々と祓うわけにもいかない。呪力を使わず、痕跡さえ残らず、怪しまれず解決するには、【歪曲の魔眼】でひと息に捻じ曲げるのが最適解だったんです。ホントに。

 

 つらつらと出てくる弁明の文章。去り際に見たおにいさんのポカンとした顔がチラつき、ああああああ! と頭を抱えたくなる。

 

 中身はこんなにも冷や汗と後悔の念でいっぱいだというのに、外と中を隔てるガラス窓にはのっぺりとした。感情の起伏が見られない少年が、ただぼんやりと映るばかり。色彩が基本的にふわっふわの薄色なので、かすかに見えるような、という具合ではあるが。幽霊かよ。

 

 後悔後先に立たず。やってしまったことはデリート不可。大人しく心の隅へ沈めるのが吉であろう。そう思わなければもうコンビニ行けない。

 

 どんどん街中を離れ、周囲に緑が多くなる。車体が少しずつ斜めに傾き、人通りの無い山道へ突入。目的地が近い。

 

「峠道に面し、森に囲まれた湖」。それが、今、俺とイジチさんが目指している場所だ。

 

 言うまでもなく、俺にとって。巡にとって、苦い敗北の味を知った決戦の地であり、自らの意思で愛刀を手放した土地。

 

 五体に力が入らなかったベッドの上。朧な記憶と照らし合わせ、【千里眼】による俯瞰で目星をつけていたとはいえ、まさか出会って三日前後の人間と一緒に訪れることになろうとは。人生とは不思議に満ち溢れている。

 

「ここです、停めてください」

 

 静止をかけるとほぼ同時にかかるブレーキ。ぐんと前に引かれた体が揺れ、手入れのされた車体が完全に停止した。

 こう言ってはなんだが、すさまじく手慣れた急ブレーキの踏み方だ。もしかして日常茶飯事だったりするのか。

 

「ここ……ですか? 特に何かあるようにも思えませんが」

 

 助手席側に体を寄せ、小さな窓ガラスから周囲の様子を伺うイジチさん。

 

 そりゃそうだ。他になにかあった方が困る。あの日あの晩、俺とアイツは空箱(からばこ)の中に居たのだから。

 

 イジチさんの車に乗り込み、途中でコンビニに寄るという休憩を挟んで二時間半。道案内の都合上、長時間開きっぱなしであった【千里眼】を閉じた瞬間、じくじくとした熱が脳みそを炙り始める。

 

【六眼】、【魔眼】、【千里眼】、と。得物を振るいながら連続で切り替えた時と比べれば安いものだが、鈍く継続する鈍痛ほど鬱陶しいものはない。

 

 早い話、開きっぱにしていた分のフィードバックだ。処理しきれず積み重なった負荷、と言ってもいい。

 

 どちらにせよ、能力をまだ、モノに出来ていない証拠。使い慣れていない証拠に他ならない。

 

 くっそ……、と。どうせ現実には反映されないのをこれ幸いとばかりに、そう小さく毒づく。

 

【千里眼】とは言ってしまえば、ただただ広い視野を獲得するだけのもの。見渡そうと思えばどこまでも見渡せるが、それだけのものだ。【六眼】のように特別なオプションを秘めてるわけでもなく、【歪曲の魔眼】のような異能を宿しているわけでもない。

 

 ただ視えるだけ。それだけの。その程度の能力すら、俺はモノにできていない。生まれつきの【六眼】はともかくとして、【歪曲の魔眼】はもっと酷い。【六眼】との併用は現時点では不可能。【千里眼】との同時使用は可能だが、負担は相当に大きい。進んだ点を挙げるならば、言葉(トリガー)の省略に成功した程度。

 

【千里眼】、【歪曲の魔眼】。共に瞳に関係する異能であり、能力発動の媒体は【六眼】と大差ない。なのに、このザマだ。

 

 これら三つを使いこなせる日がくるのかどうか。現時点では先の見えない話。地道にコツコツと積み上げていくしかないのだろう。

 

 継続は力なり。便利な言葉だが、やる分には難しい。世の中そう、上手くいかないのが歯がゆい所。

 

 気晴らしのため息をつこうにも、残念ながら体はオートロック。世知辛い。

 

 それでも、愚痴愚痴と上手くいかないことを吐き出す分には自由だ。小さな文句を重ねながら、少しでも早く十全に扱えるようにならなければ。

 どうしたって俺には欠けた肉眼の代わりに。欠けた世界を補うため、この先【千里眼】に頼らざるおえないのだから。

 

 ロックのかかっているバックドアを手動で外し、他に道を走る車が無いかどうかをチェック。

 押し開けたドアから地面へ足をつけ、そのまま身体全体を車体の外へ押し出す。

 

 半月前とは違った空気。夏場自特有のジメっとした空気が蔓延り、佇んでいるだけでも汗が滲んできそうだ。

 

 いつの間にか、梅雨は明けていた。

 

 パタリ。軽い開閉音。続くようにしてフロントドアが開き、ずっとハンドルを握っていてくれたイジチさんが顔を出す。

 

「落とし物、ありそうですか」

 

 周囲を警戒しながらそう問いかけてくるイジチさんに、どうでしょう、と。おざなりにも聞こえる返事を返しつつ、ざっとガードレールに目をやる。

「えぇ……?」と。困惑の二文字をデカデカと表情に記した背広の横を通り抜け、二つ先をいった防止策の足元にしゃがみ込む。

 

 雨風に晒され、ずっと野ざらし状態であったソレ。ゆっくり慎重に、あの夜からずっと。置き去りにしたままだったモノへ手を伸ばす。

 

 白いガードレールの支柱部分に巻きつけられていたのは黒い布。触れた表面はザラリと荒く、ポロポロと固形化した汚れや泥が風に吹かれ飛んでいく。

 しっかりと固く。外れないように結ばれた結び口を解き、軽く手で叩きながら表面上の汚れを地面に。予想以上に積もる固形物にちょっとの苦笑い。

 

 すっかり元の色を失ってしまった縛り紐をなぞり、逆さにした口から転がり出たのは錆の目立つ小さな鈴。

 

 失くさぬよう、内側に組紐ごと縫いつけられているので落ちては来ない。中に入っているはずの玉は無く、音の鳴る器具としては終わった鉛だ。

 

「それは?」

「刀袋です」

「刀袋……」

「抜き身で持ち歩くわけにもいかなかったので」

「抜き身」

 

 中身の無いオウム返しをさっさと切り上げ、回収した刀袋片手に、本命である湖を見下ろす。

 

 クールダウンを挟んだ【千里眼】を再度起動させ、円形の湖を一望できる範囲にピントを調節。【六眼】と併用し、どこかに沈んでいるはずの呪力を探っていく。

 

 一つ、二つ、三つ……。細かく砕けてしまった欠片と思わしき反応を除き、捉えた大きな呪力は三つ。恐らく柄や鍔、はばきの一部が残った状態のものと、折れた刀身部分。そしてそれらが納まるべき場所の鞘だろう。

 

 ────【閻魔刀】。俺が俺の意思で折った、美しい破邪を宿した鋼の名残。

 

 良かった、ちゃんと全部ある。

 

 最悪、アイツに回収されてしまったのでは。とも思っていただけに、胸を撫でおろした安堵の息は大きい。後は湖の中に赴き、直接回収すればミッションコンプリート。

 

 微妙な顔で雑菌やら苔、泥がこびりついた刀袋を横目で見ているイジチさんに向き直り、感謝の意も込めて黒い車体を指さす。

 

「ありがとうございました。俺は回収に向かうので、貴方は先の方で待っていてください」

「え」

「このまま道なりに沿っていくと、幾分もしない内にコンビニが一軒あるはずです。長時間の運転での疲労もあるでしょうし、少し休んでいて」

 

 信じられないものを見た。または、信じられない言葉を聞いた。そんな、驚愕が張り付いた顔のイジチさん。何か変なことを言っただろうか。コンビニでの一軒が尾を引いているので、自信をもって常識人の顔が出来ないのが痛い。

 

 狼狽えながらも、俺を任されたという責任ゆえか。カチカチと眼鏡をしきりに押し上げ、隠された口元からはくぐもった否定の声が耳をつく。

 

 案外、食い下がってくるものだ。どうしよう。

 

 選択肢

▷・いてもいなくても同じなので

 ・エラ呼吸できますか

 ・二度、同じことを言わせないで下さい

 

 前々から気になってたんだけど、この選択肢のラインナップ作ってるの誰だ。あまりにも失礼すぎるだろオイ。

 

 提示された魔の三択に、心の端が引くつく。勘弁してほしい。どれを選んでも角が立つ気がしてならない。もっと穏便なのが何故無いのか。

 

 目の前のイジチさんは怯みながらも引き下がる気配は無く、委ねられた選択肢が消える様子もない。

 

 お互い黙っているだけ、というのも時間の無駄だ。仕方が無いので、とりあえず個人的に思ってはいるけれど、実際口にするのは憚れる正直な感想を選択。

 

 選択肢

▷・いてもいなくても同じなので

 ・エラ呼吸できますか

 ・二度、同じことを言わせないで下さい

 

「いてもいなくても同じなので」

 

 つまり邪魔です……と。自分がどんな顔で、選択した言葉を口にしたのかは分からない。けれどショックを受けたように凍った細長の顔から、そんな後付けが聞こえるくらいの表情と声音だったと察することはできる。

 自分で言っておいてなんだが、こちらまで胸が痛くなる。後でフォローができると良いのだが、行動の制限を鑑みるに望み薄か。優しくない世界だ。

 

 次の瞬間には剥がれ落ちてしまいそうな、亀裂の入った白色。心なしか、そんな風に見えないでもない煤けた眼鏡に、もう一押しかと期待が高まる。

 

 けれどもその期待は綺麗に外れた。人間は歳を重ねれば重ねるほど、強くもなるし図太くもなるらしい。もしかしたら関わった人種によって、成長度合いは異なるのかもしれないが。

 

「それでも……」

 

 弱弱しく響いた言葉。草臥れてみえるスーツは引く気を見せず、一種の自戒とも。自責とも感じ取れる執念で言い募ってくる。

 

「それでも、きみを置いて私だけ先に行くことは出来ません」

「どうしても、ですか」

「どうしても、です」

「見つかるようなヘマはしませんし、逃げたりもしません。それでもですか」

「それでも、です。きみに何かあってからじゃ遅いんです、巡くん」

 

 忘れた頃に髪をさらう、生温い風が妙に気に障る。標準的な日本人特有の色彩が僅かに靡き、キッチリ前髪からはぐれた一本が影を下ろす。

 

 細いレンズを挟んだ細長の瞳。黒と焦げ茶の混在する中には、何か大きな感情が入り交じっていた。例えるならそう、後悔だとか後ろめたさだとか。そんなもの。

 

 ……うーん、なんかワケありかなあ。

 

 見た感じ、イジチさんは頭の固い人種ではなく、時と場合によって柔軟的に対応出来る人種だ。

 

 そんな人がここまでの頑なさを表し、頑として意見を翻そうとしない。負い目であれ誇りであれ、この行動に見合うだけの想いがあると考えるのが妥当だろう。

 

 強引に押し通すだけの、確固たる理由(想い)があるわけでもなし。退くのが無難かな。

 

 加えて、いくら平日の昼下がり。元々人通りの少ない峠道とはいえ、何時までも車両を端に寄せただけというのも体裁が悪い。前後から別の車体が迫ってきたら事であるし、シンプルに危ない。通報されたらお巡りさんが飛んできそうだ。

 

「……わかりました。そこまで言うのなら、撤回しましょう」

「!」

 

 溜まった息を温い外へ吐き出し、軽く気持ちを切り替える。

 言葉を介した小さなことであっても、負けるのはそういい気分ではないのだ。心が狭いとか言うなよ。

 

「どちらにせよ、車は邪魔です。きちんとした駐車スペースが必要なことに変わりはありません。そこから先は、俺が連れていきます」

 

 片手で掴んでいた刀袋を丸め、パーカーのポケットへ突っ込む。取れやすい汚れは粗方落としたが、まあ汚いモンは汚い。戻ったら真っ先に手洗いせねば。

 

 膨らんだ大口のポケット。「の、のーすふぇいす……」と、聞き慣れない単語を呟くイジチさんの目線は小袋に釘付けである。

 

 なあに言ってんだろうなあ、と。首を傾げつつ、俺は物理的に薄いスーツを運転席へ急かした。

 

 

 

 

 

 

 

 バンジージャンプ、というものをご存知だろうか。何が楽しいのか頼りない命綱を人間の体に括りつけ、正気を疑うレベルの高さから進んで五体を擲つ気の狂った娯楽である。

 

 伊地知は見てくれの通り、危ないと感じる事柄に首を突っ込んだりはしないタイプの人間だ。知らず知らずのうちに片棒を担がされていたり、問答無用で投げ入れられる時もあるが、自分から近寄ったことは無いに等しい。

 

「巡くん」

「はい」

 

 恥も外聞も全て投げ捨て、伊地知は十も離れた年下の子に縋り付く。

 

「やっぱり止めませんか」

「止めません」

「下に降りられる道を探しましょう」

「ありません」

「諦めなければ見つかるかも……」

「イジチさん」

「ハイ」

 

 頭一つ分高い場所。凝視していた下方から無理矢理目線を引き剥がし、そろりと伺えば美しい。淡い色彩のキラキラと輝く空色の瞳が、呆れたように伊地知を映している。

 

「このやり取り何度目ですか」

「四度目、でしょうか」

「それだけやったのなら、もう充分だと思いませんか。はい、口を閉じてください。舌噛んだら痛いですよ」

 

 肩に置かれた白い手に力が籠り、革靴の隣にあった新品のスニーカーが一歩。前方へ踏み出そうとする。

 

 肩を抱かれている故、肩に乗った手の持ち主が進めば、伊地知の体は必然的に引っ張られる。

 

 奈落……とまではいかないが、二十六歳になった男の両足が、まるで産まれたての子鹿のように震えるくらいの高低差。

 

 どこにそんな力を隠していたのか、ビクともしない強さで発達途中の。パーカーの上からでも分かる、まだまだ薄い体の持ち主が伊地知を恐怖の底へと引きずりこもうとする。

 

「巡くん」

 

 有無を言わせないような力の発生源の名を呼び、腕を通った胴体丸ごと。両腕でしっかりと抱きつきながら、正に一所懸命、己の全体重をかけたブレーキを踏む。

 

 伊地知の震える呼びかけに、少しの間を置いて子どもの眼が降ってきた。

 

「……はい」

 

 フワフワとした綿毛のような、艶々の銀色。眼下の森が寄せて返す波のように棚引けば、その銀色は不規則に宙を舞う。

 

「やっぱり止めませんか」

「…………」

 

 本能的に分かってしまった。今絶対、伊地知の評価は地に落ちた。下手をしたら地面に埋まったかもしれない。

 

 その証拠にキャッチボールを求めた会話に返答はなく、人間味の薄い端正な顔は変わらずの無表情である。

 

 だがしょうがない。怖いモノは怖い。震えるものは震える。両足だろうが声だろうが、命に関わる警報を本能が鳴らしたからプルプル小刻みに揺れるのだ。

 

 逆らっても良いことは無い。バック推奨。

 

 いや、私間違ってないよね? と。そんな事を考えながら踏ん張っていると、一定の重さを感じていた肩が軽くなった感覚。問答無用、情け無用と言わんばかりの手が退かされたのだ。

 

 大人としての評価をドン底まで落とし、情けない姿を現在進行形で晒している伊地知の祈りが神に通じた瞬間であった。

 最強の先輩は「神サマなんてクソだクソ」なんだと言ってはいたが、そう捨てたものじゃないのかもしれない。

 

 滲んできた景色。辛うじて世間体を守っている顔のまま、冬色の子をふり仰ぐ。

 

「イジチさん」

「はいっ!」

 

 元気良い返事をすれば、背後から回ってきたのだろう。身長に見合った長さの腕が上着ごと、くびれも柔らかさも無いおっさんの腰を掴む。

 

 え? と思う暇も無く、引き寄せられた体は隣のパーカーへ密着。腰にあった腕が腹部へ回ったかと思えばフワリと。

 視界はカクンと前のめりに下がり、しっかりと地面を掴んでいた両足はぷらり。無念にも空中に浮いている。

 

「うるさいです」

「え」

 

 ぽんと気軽に。目の前の段差を飛び越えるような感覚で、伊地知を片腕に抱えた子どもはコンクリートを蹴った。

 

 一瞬の浮遊感。内臓が持ち上がる、あの独特ななんとも言えない感覚。

 

 上を見れば燦々と輝く太陽、青い空。下を見れば消失した道路と、変わりとばかりに広がる鬱蒼とした森。中心に口を開けた湖面が眩しく輝く。

 

「暴れないで下さいね。邪魔だと感じたら落とすので、貴方死にますよ」

「エッ」

 

 伊地知潔高。人生初のバンジージャンプは、人力の紐無しバンジーであった。

 

 落ちる落ちる、落ちていく。みっちり詰まった内臓が落下方向と反対の方向へギチギチに寄り、車の中で食べたサンドイッチがせり上がってくる。ついでに、体の外は元気に育った緑色が迫って来ている。

 

 あ、死んだ。私死んだ。死因は高所からの落下によるショック死です。最高にダサい。

 

 悲鳴なんて出ない。喉の奥で魂の叫びは潰れ、かけていた眼鏡は風圧で吹っ飛んだ。

 

 群生した樹木の表層がどんどん近づき、恐怖のあまり伊地知はカピカピになった両目をギュッと瞑る。

 

 視覚情報を閉ざして直ぐ、封じる術のない聴覚はガサガサと乱暴な。太い枝が連続して折れたような、そんな音を拾う。

 

 いっそのことさっさと手放したい意識を抱えながら手足を縮こませ、いつ来るか分からない衝撃に怯えること暫く。

 何時まで経っても来る気配のない重力の法則。怖々と強く閉じていた両目を開けば、なんと自分の視界は小さく左右へ揺れている。しかもぼやける視界の中、見間違いでなければすぐ下にあるのは緑の散った茶色だ。

 

「……私生きてる」

「なに当たり前のことを言っているんですか」

 

 呆然と。この世にある自身のライフ生命を呟けば、感情の抜け落ちた声が上から降ってきた。

 

 眼前に差し出された物体。両手で受け取り、まじまじと見てみれば、その正体は馴染み深い視力の補助装置。眼鏡だ。

 

 まごつきながらもツルを両耳へかけ、あるべき場所へ眼鏡を戻す。途端、クリアになった伊地知の世界。

 確認できる範囲で首を巡らせてみると、流れていく景色は見紛うこと無き森であった。上からの森ではなく、至って普通の、下からの森。または森の中。

 

 一定のリズムを保ちつつ、スニーカーが右、左と交互に柔らかそうな土の道を行く。コンパスが長いのか、歩数に対しての距離が長い。

 

 そろりそろり。木漏れ日の通る頭上。伊地知は勿論いるであろう、新緑の中を行く長い足の正体へ顔を向けた。

 

「……巡くん」

「はい」

 

 目線は合わない。天幕のように広がる葉っぱが斑に光を通し、幼さの残るベビーフェイスに明暗の凹凸を描く。

 

「どこですか、ここ」

「飛び降りた先の森です」

「飛び降りたんですか」

「飛び降りました」

「飛び降りちゃったんですか」

「面倒だったので」

「……一瞬、死ぬんじゃないかと思いました」

「そうですね。俺は死にませんが、普通の人なら死んじゃう高さだったと思います」

「…………眼鏡、ありがとうございました」

「いえ」

 

 季節柄、ミンミンと鳴き始めた虫の声。プツリと切れた会話に、今更ながら全身の穴という穴から冷や汗が溢れ出す。

 

 どこぞの最強に振り回され、ノミからミノムシ程度には進化した心臓。恐らく今、伊地知の心臓はミノムシからワンランク上の生物へ進化したはずである。

 

 息切れは無いが動悸が激しい。可能ならば飛び降りる前の心臓にBボタンキャンセルしたい。

 

 強制的に地面から離脱させられた革靴が右へ左へ。治まる様子のない冷や汗で背中にシャツが張り付き、上着を脱いだらどんな絵面になるかなんて考えたくもない。

 

「巡くん」

 

 チラ。眼球の小移動。豊かな睫毛が日傘を務め、水泡のように儚かった水色に濃い影を落としている。

 

「自分で歩きますので、放してもらえませんか」

 

 落ち葉を踏む乾いた音に、小枝を踏み折った甲高い音が重なった。

 

「あれだけお見苦しい姿を見せておいてなんですけど、私もいい年した大人です。自分の足で歩けますし、小脇に抱えられながらの移動はちょっと……」

 

 荷物のように。いや、二六歳の三十路間際の男を抱える子どもにとっては実際お荷物なのだろうが、言外に「この状態は恥ずかしいです」と。オブラートに包んだ台詞を口にした所で、伊地知は重大な事実に気が付く。

 

 抱えられている。荷物のように軽々と。成人男性の平均体重は確実にある体を、伊地知の要求ガン無視で足を動かす最強そっくりな子は苦も無く運んでいる。しかも片手でだ。

 朝、郵便ポストに入っていた新聞を脇に抱えるのと同じくらいのノリで、伊地知の体を片腕一本で運搬している。

 

 逞しいゴリゴリの筋肉達磨ではなく、儚げな。だぼだぼのパーカーを着ていても細身だと分かる、成長途中の体がだ。

 

 特別性の身体だと。それなりの年数を補助監督として呪術界に身を置いているからこそ、不可解に思った時には類似した解答に行き当たる。

 浮かんだのは高専に所属する呪具使いの二年生。彼女と同系列の、天から課せられた呪いと引き換えに、超人的な肉体を獲得した系列(タイプ)

 

 ───────天与呪縛(てんよじゅばく)のフィジカルギフテッド。

 

 意図せぬ所で発見してしまった、閉じた雪色の特異性。名前のついた先天性の特異体質に、また違った意味で息が浅くなる。

 

 それもそうだろう。迷いのない足取りで森の木々を通り抜ける子には、何度確認したって呪力があるのだ。ギリギリ呪霊が見える程度の、ではなく、五条悟と同じような。呪霊を直接祓えるような、呪術師として活動するのに謙遜無い呪力が体内を渦巻いている。

 

 つまり伊地知を片手間に運ぶこの子は、呪力と引き換えにその肉体を獲得したワケではない。そして初めて対面した際の五条の口ぶりからして、対価に術式を取り上げられたワケでもない。

 五体は満足。日常生活に支障は無い。

 

『五条の名以外を背負うお前を認めないよ』

 

 数日経ってもなお、耳に残る言葉。珍しくも執着の片鱗をみせた呪術界最強の声が蘇る。

 

 それはつまり、

 

「巡くん」

「……なんですか」

 

 当たり前だと。あの人以上の化け物なぞ、もう出てこないだろうと。

 

「上から飛び降りた時、私は落下の衝撃も、痛みも感じませんでした」

 

 打ち止めされていた化け物の認識が、覆される気配。

 

「どうして、でしょうか」

 

 歩み続けていた両足がピタと止まり、ずっと空中を行き来していた伊地知の足が地面へ下ろされる。

 

「俺たちに当たらなかった(・・・・・・・)から。いえ、貴方にはこう言った方が分かりやすいのか」

 

 当然のように信じていた。享受していた常識が、音を立てて崩れる予感。

 

「無下限呪術。今、この瞬間にでも世界に内在する無限を、俺と貴方を囲うよう、現実にもってきました。衝撃も、木の葉や枝も。そこにあった無限を越えられなかった、というだけの話です」

 

 息をするように。罅の入ったガラス玉が自身の術式を謳いあげる。生まれたと同時に握っていた、特別な術式を。

 

 伊地知に据えられていた水色の瞳が逸れ、柔らかそうな銀色が白い肌にかかる。

 

 ひと目見た時から痛々しいと。そう感じた欠けた瞳が、今ではひどく恐ろしい。本来であれば二つ揃った、五条悟そっくりであったという淡い色彩が恐ろしくてたまらない。

 

 無下限呪術。世界に遍く無限を、現実に構築する術式。五条悟だけが持ち得る。最強だけが持ち得ていた(・・・・・・)、呪術界御三家が一つ。五条家に伝わる相伝術式。

 そしてソレを使いこなすために必要不可欠な特別性の瞳、六眼。淡くも美しい、キラキラと輝く万華鏡のような泡沫の水色。

 

 ああ、ああ! こんなことが。こんなことが、あるものなのか。あっていいものなのか。

 

 相伝術式の無下限呪術。呪術界における神の瞳、六眼。天から与えられた呪縛と引き換えに獲得した、常人のはるか上をいく超人的な身体能力。

 

 この子どもは。最強の代名詞である五条悟の息子であるこの子は、本当に自分と同じヒトであるのか。そう、伊地知は思わずにはいられない。

 

 時折り吹く風に髪を遊ばせる、まだ年若い子は。どれだけのモノを授かってこの世に生まれ落ちたのか。

 

 そして────

 

「後は俺が直接下に潜ります。水の下まで着いてくる、というなら連れていきますが、あまりオススメはしません」

 

 どうしますか、と。問うてくる特別な瞳に、伊地知はゆっくりと首を振る。

 

 ────どれだけの重荷をこの先、背負うことになるのだろうか。

 

 所詮、伊地知潔高という人間は特別でも選ばれた存在でもない、日本中探せば三人に一人は転がってそうな平凡なヒトだ。

 そんな平々凡々な人間にだって、世界はちっとも優しくない。

 

 崇高な理念を掲げ、世界のため人のため、身を粉にして奉仕していた二個上の先輩。彼だって最後には背負った重荷と理想に押し潰され、世界そのものに殺された。

 

 世界は誰にでも平等だと。残酷だと、皆は口を揃えて言う。だけど伊地知は「いいえ」と。問われれば首を横に振るだろう。

 

 世界は平等なんかではない。誰にでも等しく悲しみは降りかかるけれど、味付けされた悲劇の濃度は不平等だ。

 

 特別を持つ人ほど背負った荷物は重く、世界はより、残酷な選択を迫るのだから。

 

 

「……いいえ、お気をつけて」

 

 開けた視界に見えた丸い湖にゆっくりと。ガラスの球体を水槽に押し込むように。父親のお下がりを着たパーカーが水底へと沈んでいき、たっぷりと溜った水は不自然な円を描きながら避けていく。

 

 そう遠くないうちに、何度も見送ることになるであろう背中。

 

 辛うじて捻り出せたのは、無事を祈る当たり障りの無い言葉。それ以外、かけられる言葉を伊地知は持ち合わせていなかった。きっとこれから先も、見つかることは無いのだろう。

 

 同じ土俵にすら立てない凡人の言葉など、かけた分だけ、いつかの重荷になるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポタポタ。ぺっとりと肌に張り付く銀糸を伝って滴り落ちるのは、この季節には縁遠い水滴。

 雨に降られる紫陽花の葉のように、ぱたぱたと含んだ水が下へ下へと足を進める。

 

 毛先から滑り落ちた過分な雫は重力のままに落下し、何度も何度も。同じ軌跡を描く水分は足元に溜まり、定期的な波紋を鳴らす……わけではない。確かに落下の軌跡を描く雫は波紋を呼ぶが、それらが重って積もるのはシートの引かれた足元ではない。体とその他の接触を阻むよう構築した、無限の上だ。

 

 フッ、と。諦念にも似た溜め息が口から漏れる。

 

 …………知ってるか? 自分の術式を得意気に語り、「後は俺が直接下に潜ります」ってキメ顔かましながら潜った湖でびしょ濡れになった阿呆がいるらしいぜ。

 

 ひんやりとした、金属特有の冷たさで象られた金色の鍔。純白を表す柄はしっとりと濡れ、繊維の隅から隅まで水が染み込んでしまった柄巻が妙に落ち着かない。

 

 法定速度ギリギリを攻めた速度で車輪が回り、少しでも早く水気が飛ぶようにと全開にされた窓から風が生温い風が流れ込む。

 

 元気に輝いていたお天道様は傾き、空にはすっかりオレンジ色が広がりを見せている。

 

 日没だ。

 

 風の入る方向へ身を寄せればカタリと。抱えていた長物が軽い音を立て、黒漆の鞘が夕日を吸い取る。

 

 人にとってはたかが半月。俺にとっては長らく離れていた破邪の一刀が、今日ばかりは憎らかった。

 

「あと三十分もすれば高専に着きます。日が落ちてきましたが、寒くはありませんか?」

「……大丈夫です。夏なので」

「寒気を感じたら直ぐに言って下さい」

 

 打算無く純粋に。バックミラーから顔色を確認し、こちらを気遣ってくれる姿勢がひどく胸に刺さる。

 

「……すいません。本当なら近場の銭湯にでも寄るべきなんでしょうが」

 

 申し訳なさそうに眉が下がり、赤い針が右肩に振れ、速度メーターが上がった。

 

 選択肢

 ・お気になさらず

▷・自業自得なので

 ・大丈夫です

 

「自業自得なので」

 

 本当に気にしないでください俺の羞恥心がそろそろタオルぶん回しそう。

 

 済ました声音に聞こえるが、()()も恥ずかしいの大乱舞である。その証拠に抱えた柄に隠れた耳朶はジワジワと熱を帯び、真っ赤に色づいていることが鏡無しでも容易に想像出来る。

 

 ええ、そうです。何を隠そう穴を掘ろう、自分の術式を得意気に語ってキメ顔を披露した挙句、びしょ濡れで湖から這い上がってイジチさんを絶叫させた間抜けは俺です。

 いっそ笑ってくれ。最高にダサいし恥ずかしい。顔が上げられんわ。

 

 僅かに視線を落とし、バックミラーに映る自分から目を逸らす。

 代わりに入ってきたのは重厚感のある金色の鍔と、それを縫い止めている淡い黄色。

 

 鍔の上を通り、何重にも巻き付けられたそれは下緒だ。鮮やかな黄色は色褪せた様子は無く、鍔と鯉口が離れぬよう、柄と鞘をしっかりと結んでくれている。

 本来ならば下緒とは装飾品の一種なのだが、事情が事情なため、今ばかりはその役目もお休み中。

 

 一見、何の変哲もない日本刀に見えるが、中身がアレなのだ。

 

 鞘の内側は刀身とはばき含める柄部分に中身が分かれ、軽い衝撃を与えただけで中身がポーンッと飛び出てしまう。言うなれば刀剣危機一発。

 そのため、鞘の(こしらえ)である下緒を巻き付け、鞘走りしないように固定しなければ危険極まりない。飛び出た中身が俺に向かうならともかく、イジチさんに向かったらジ・エンド。(イジチさんの)人生が終わる。

 

 なんと言ったって、艶やかな黒漆の鞘に納められている白刃の鋼は破邪の王。刃紋乱れ咲く美しい刀身に宿るは、あらゆる呪力を喰らう力の象徴、そのものに他ならない。

 

 ────────【閻魔刀(やまと)】。光の遠い底のそこから引き揚げた、一振りの刀。

 

 俺の大切な、力の(しるべ)と言えるもの。刀身が折れていようがなんだろうが、人間の首程度ならばスッパリ綺麗にスライスできる。現に一度、イジチさんの首がスライスパンになりかけた。危ない。

 

 まあ、全身ずぶ濡れ、パンツまでびっしょびしょになった原因もコイツなのだが。

 

 ジトリ。心にある正直な双眼を半目にするも、腕の中に胡座をかく特級呪具は涼しいものだ。

 

 俺も俺で、水底に佇んでいた【閻魔刀(やまと)】を発見し、久しぶりの再会にテンションがぶち上がったことは認めよう。

 最初に拾ったのははばきを含む柄部分。次に見つけたのは下緒の靡いていた鞘。そして最後、手に取ったのは刀身部分。……もう一度言おう、刀身部分だ。呪力を喰らう特性を宿した、かの最強を守る無限すらも平らげる大食いの鋼。

 水中を進む必要があったゆえ、纏っていた【無下限】は俺を中心としたシャボン玉型。 つまり俺が破邪の刀身に触れるよりも先に、外壁の役割をこなしていた無限の層が【閻魔刀(やまと)】に当たるということ。

 

 ハアアア!! 【閻魔刀(やまと)】! 【閻魔刀】! いやほんとマジごめん、あの時はアイツの命とお前を天秤にかけてお前を折ったことは後悔していないけどそれはそれとして寂しかったし落ち着かなかったしもしも知らない奴に回収されたりしてたらどうしようとかもう色々と気が気じゃなかったんだからもおおおお!! 

 

 なーんて。何も考えず頭空っぽにして走り寄った場合、どんな事が起きるでしょうか。はい、答えは簡単。刃部分に接触した瞬間、水圧やら水そのものやらを押し止めていた【無下限】が消えました。

 

 気づいた時には手遅れ。見事に頭のてっぺんから爪先、パンツや靴下まで水浸しである。

 

 くっそー、と。最後に振るったあの月夜の晩から何一つ変わらず、美しいままの【閻魔刀】が何とも腹立たしい。

 

 大型のトラックを追い越したのか、風の出入口が妙にガス臭い。

 

 八つ当たりを兼ねたソレに【閻魔刀】は当然ながらうんともすんとも言わないし、道路を走る車は法定速度ギリギリのままだ。

 

 コンビニの件もそうだし、【閻魔刀】を回収した時のやつもそうなのだが、なんだか今日は調子が出ない。

 いつもの調子ってなんだよ。そう突っ込まれても返答に困るのだが、「なんだかなあ……」という気分なのだ。分かってくれ。

 

 だけれど、良いこともあったと言えばあった。

 

 手元の【閻魔刀】から前方へ。眼球のフォーカスを変えれば、熟練の職人を連想させる手つきでハンドルを切る運転手が飛び込んでくる。

 

 イジチ。イジチさん。名前は忘れた。丁寧な自己紹介をしてくれた気もするが、どっち側なのか分からなかったので覚えてない。

 

 散々あの人(五条悟)に、俺の存在を隠し通せ。誰にもバレるな、と。半ば脅しの入った口調で言い付けられていたというのに、警戒しながらも俺を外に出してくれたお人好し。

 いや、お人好し、とまでは言えずとも、根本的に善性の比率が多い成人男性。

 

 ただし呪力を持った、という注意書きが付くが。

 

 だからどっちなのか。人であるのか、はたまた呪術師(蛆虫)であるのか。今日まで判断を保留にしていたが、ようやく分類がついた。

 

 車道をコントロールする信号機は折り良く赤色。停止のサインだ。

 

 チラチラ、チラチラ。レンズを挟んだ細長い目を小刻みに動かし、バレないよう逐一。こちらの様子を確認しては前、確認しては前、と。繰り返す黒色の目にタイミングを合わせ、バックミラー越しにイジチさんの意識を捕まえる。

 

 ヤベェ、バレた。そうありありと分かるギョッとした表情だった。

 

「イジチさん」

「は、はい……」

 

 後ろめたいことでもあるのか、返された返事はやけに小さい。

 

「貴方はとても、弱いですね」

「え」

「感じる呪力は出涸らしよりも薄いですし、身体能力もほぼ一般の人と変わらない。精々が、同年代の中ではちょっと運動が出来る程度でしょう」

 

 で、出涸らし……と、ショックを受けたような呟きが聞こえるが無視を決め込む。

 

「俺なら今すぐにでも、素手で貴方を殺せます。手を伸ばして頭部を掴めば、苺のように簡単に潰せる自信があります。そこら辺にいる呪霊でも、貴方を殺すのにそこまでの労力はかかりません」

 

 次から次に届く情報。行きと帰りを通し、あまり口を開かなかった俺の行動に、細いフレームの眼鏡は白黒と大忙しだ。

 

 この人は弱い。弱くて脆くて、この世界で生きるにはあまりに力不足だ。それこそ、何故、この呪い呪われる世界に身を置くことを決めたのか分からないほどの圧倒的弱者。

 公的機関であれ個人であれ、何かしらの庇護が無ければすぐ死んでしまいそうな、搾取される側の人間。

 

 (たか)る虫を駆除する事もままならい、弱くて脆い、そんな存在。

 

「ねえ、イジチさん」

 

 返事は無い。ミラーに映る細長の瞳はちょっと水分が多かった。

 

「名前。もう一度、教えてもらえますか」

「なまえ」

「はい、貴方の名前」

 

 赤く灯っていた三色の丸が黄色へと変わる。

 

伊地知潔高(いじちきよたか)、です」

 

 混乱の残る声で示された名前を、頭の中で転がす。

 

「漢字ではどう書くんですか」

「伊豆の"伊"に地面の"地"、知識の"知"で伊地知です。潔高は(いさぎよ)い高台と書きます」

 

 イジチ キヨタカ。伊地知、潔高。

 

「伊地知さん」

「なんでしょう」

 

 黄色に赤色。そしてまた、黄色。信号機の中では中途半端な、気をつけてのサインが光る。

 

 戸惑った様子の男性。俺の見つめる彼は呪力を持ちながら呪術師になれず、平凡から逸脱出来なかった凡人に他ならない。

 

「貴方はどうしようもなく、人ですね」

 

 かあさんと同じ、ただの人間。俺が守らなければならない、小さくともあたたかな。幸せを享受するべき、一個の人だ。

 

 三つ目の信号機の中。次に発光したのは青色。安全を示す進めのサインに、車輪が動いたのはすぐのことだった。

 

 

 


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