気紛れに手にした雪が溶けるよう、気がつけばそこに佇んでいる。
カタリ、カタリ。カラカラと。
乾いた木々を叩くような。誰かが障子を引いたような。はたまた、開いたものを閉じたような、そんな音が四方を囲む。
カタリ、カタリ。カラ、カラ。
ゆっくりゆっくり、大きな瞬きを繰り返し、まだ宙に浮いたかのようにはっきりとしない意識を手繰り寄せる。
カタリ、カラカラ。カタン、カタン。
手のひらに収まった自己意識。もう一度ゆっくり眼を開けば、幾つもの木片が組み合った繊細な模様。
それは薄く伸ばした純白の和紙を背景に、綿密な計算式の元、成り立つ組子が刻々と高らかに鳴り響く。
────────カタン!
上、下、右、左。四方八方から絶え間なく降り注ぐ
背中を押されたようにフと。竜胆から籠目へ。その成りを変えた細工から、己の立つ足元へ視線が下げる。
……カラカラ。カラカラ。カラ、カラ。
骨ばった、白い素足。足蹴にした床に畳は無く、ただただ。紡ぐ繊維を取り上げられた糸車のように、空虚な瞳が回っていた。
カラカラ。カラ、カラ。カラカラ、カラリ。
何を。誰を映すまでもなく、咲いた万華鏡は虚ろに空回る。
カラカラ、
鳴り響く組子を背に一歩、籠目模様のまま静止した障子に手をかける。
貼り付けられた障子紙の向こうには、組子障子にもたれかかった人間のシルエット。
きっと隔てられた先にいるのは、あの日に一瞬。触れ合っただけの隣人の彼。
丹念にやすりをかけられた、滑らかな木材。父親譲りの
カタリ。カタリ。カラカラ、カラ。
開くはずの障子は動かず、仁王立ちした組子細工は無愛想なことこの上ない。
もう一度。そう思った途端、まるでその試みを拒絶するかのように、急激に意識が遠のいてくる。
底へ底へ。深い部分にまで潜った体を無理やり引っ張りあげられるような。そんな感覚。
煩わしい程に聞こえていた組子の音が遠のき、霞んだ景色と共に五体の力が抜け落ちる。
ああ、まただ。また、今日もあえなかった。
ぼやけた人影はやはり、
東京都立呪術高等専門学校。その名の通り、そこら辺を跳梁跋扈する呪い。呪霊と呼ばれる存在に対抗する術を学ぶため、設立された教育機関。または、育成機関。
全国含めて僅か二校しか無い、呪術界の後進を育てるための起点。それがここ、高専なのだそうだ。
呪術高等専門学校と名打っているように、高専のカリキュラムは呪力の扱い方や基礎知識、最低限の体術訓練。そして実践の場に当たる任務等々、まさに呪術師育成に力を入れた方針のもの。世にいう、十六〜十八歳あたりの子どもが学ぶとされている一般教科も呪術関連とは別個に組み込まれているようだが、そこら辺は良いだろう。
基本的に在校する生徒数は少なく、呪術系と一般系の両方を学ばなくてはいけないため、高専の最終学年は四年。その四年間の内に生徒は自分がどちらの道に進むかを考え、卒業までの日々を謳歌する。
人とは違う力を持ち得て高専に入ったものの、この世界に嫌気が差して一般系に。単純に渡り合える才能、身体能力、センスが無かったがため、補助監督や窓といったサポート役に。
このように呪術師となる道から逸れた。あるは断念した者もいる一方、当然ながら本命の呪術師になる者もいる。
呪術師志望の生徒の分類は凡そ四つ。
いち、五条や禅院、加茂など、いわゆる呪術界御三家に名を連ねるもの。
に、上記の三家ほどではないにせよ、古くから呪術師を排出している家系の出であるもの。
さん、一般家系の生まれでありながらも、こちら側に足を踏み入れる資格を有してしまったもの。
よん、呪術界的にヤベェやつを始末しようとしたが、よりヤベェやつが上層部を丸め込み、そのヤベェやつを生徒として迎え入れたもの。
四番目は正直、例外中の例外だと思うので除外。というか、仮にあったとしても何の参考にもならないだろう。
そもそも呪術界とは術式、血統、そして才能を何よりも重んじるカビの生えた骨董サークルだ。
そんな古臭い界隈において、圧倒的不利であるのが三番に該当する者たち。
一、二番目はそもそも生家や血縁といった後ろ盾が半ば自動的に付属し、その価値によって業界内でのポジションを確立してくれる。だが何も後ろ盾が無く、更に特出した力を持たなかった場合は悲惨の一言。
良くて木っ端の任務。悪くて捨て石。才能と力がものを言うピラミッド社会において、その命は藁よりも軽いものとなる。
このような事態を防ぐため。高専は人材育成の他にも、卒業後の生徒がここを拠点に活動できるよう、仕事の斡旋やサポート。更には「高専」という後ろ盾を提供しているそうだ。
まさに大小関係なく、現代における呪術界の要と言えるべきもの。
この要石の配置場所は二つ。一つは東京。主に東日本で起きた呪術関連のゴタゴタを担当し、解決する役目を担っている。略称は東京校。
一つは京都。五条を始めとする御三家が集中していることや鑑みた歴史から、別名「呪術の聖地」の異名を取る主要地点。担当範囲は主に西日本であり、名称は京都府立呪術高等専門学校。略称は京都校。
東京校と京都校。全国に二つしか無いのだから当然と言えば当然だが、両校は姉妹関係に当たる。
姉妹校であれば必然、交流会が開かれる。それは一般の高等学校でも、呪術高専でも変わらないらしい。
ただ、その中身は全くの別物であるが。
呪術高専。
行うのは生徒同士の楽しいレクリエーションではなく、大怪我が隣合わせの呪い呪いあう呪術合戦。
東京、京都の
理由は個人によって様々だが、一年に一度行われる交流会。縦の繋がりが薄い呪術関係者の耳にも入る京都姉妹校交流会とは、そんなものなのだそうだ。
パタン、と。最後まで目を通した冊子を閉じ、目頭を軽く揉む。ちなみに揉むのは現実の目頭ではない。心の目頭である。
本日は晴天も晴天。雲ひとつ無い……とまではいかないが、本格的に鳴き出した蝉の合唱が良く通るお日柄だ。
朝っぱらから気味の悪い人形と、今さっき読み終わったばかりの冊子を手に不審者。もとい、五条悟がドアを潜ってやってきたのがお昼前。
出張先からのお土産だよー、と。とある部族の御守りらしいセンスを疑うピンクマペット。そして「クソガキでも分かる呪術高専入学書」と印字された冊子を押し付けられ、挙句の果てには
「京都校との交流会の初日は今日だから、お前絶ッッッ対に外出ちゃダメだからね! 耄碌したジジイとか牛みたいなピアス付けたジジイとか、ケツの穴臭そうなジジイとかが来てるから。暇だったらその伊地知作のパンフレット読んで大人しくしてて」
などと早口で捲し立て、嵐のように去っていった。その間、時間にしてわずか三分少々。
起きる直前まで見ていた夢が未練たらたらのものであったゆえ、意識はまだうつらうつらとした寝惚け頭。
そんな中バァン! と出てきてバァン! と出て行った人間の言葉なんて、正直半分も覚えていない。
京都にある姉妹校とのイベント初日が今日で、おじいちゃんが三人。
重い頭を引きずりながら洗面所で顔を洗い、いつの間にか用意されていた朝食を黙々と口に運んでようやっと覚醒した脳みそ。
順調に回り出した頭でアイツの言っていた言葉を思い出すも、結局なにも分からなかった。
おじいちゃんが三人ってなんだよ。三人もおじいちゃん来てどうすんだよ。
そんな疑問から寄越された冊子に目を通してはみたものの、おじいちゃんは分からないままだった。幻聴を疑った方が良いのかもしれない。
「クソガキでも分かる呪術高専入学書」と書かれた表紙部分だけを破り取り、ゴミ箱にボッシュート。表紙と腹立つネーミングはどこぞの最強作なのだろうが、作りこまれた中身は伊地知さん作であろう。
丸めた紙屑は完璧な曲線を描き、ショッキングピンクがはみ出しているゴミ箱にぽすり。狙ったように入ったそれに満足しつつ、腰掛けたベッドに映る影をコツコツと。優しくノック。
「おはよう、かあさん」
とぷり。触れた影に、小さな波紋が広がる。五枚の爪がついた、白い手は出てこない。
高専に張り巡らされている結界の都合上仕方がないとは言え、揺れるだけの影が少し寂しい。
氷のように冷たく、生命の感じられないものであったとしても、それは間違いなくかあさんの手だ。俺を抱きしめてくれる、かあさんの手。
シーツから手を退かせばたちまち波紋は静まり、なんの変哲もない薄墨色に戻る。
まあ俺の主張がどうであろうが、分類的にかあさんは呪霊。その一片でも外に出てしまえば忽ちどデカいアラートが鳴り響き、かあさんどころか俺の存在もバレてしまう。
腰掛けていたベッドから立ち上がり、ぐーっと大きく背伸び。ゆっくりと体の具合を確認するよう、四肢を順々に伸ばしていく。
よしよし。身体機能は完全に戻ってきた。いかんせん半月近くもベッドの住人だったため実践での動きには不安が残るが、基礎能力は良好。
全身の筋肉がほぐれた事を確認し、立て掛けておいた刀剣を手に取る。
黒色の鞘に純白の柄。そして金色の鍔。すっかり元の装飾品。
キチ────と。
鋭い鋼が鞘に音を残し、残響のような。その身に触れた空気を切り捨てたような、そんな余韻が正方形の室内に波打つ。
抜かれた刃。抜いた刀身。本来であれば冷え冷えとした、刃紋乱れる美しい鋼が怪しい輝きを放つのだが……。
すっかり軽くなってしまった【
何度見ても、何度繰り返しても。【閻魔刀】の刀身は無い。俺が最後に見た時のまま、はばきと共に僅かな鋼が残る程度。
『死ね、クソ親父』
その一言と共に振りかぶったこれは、ついぞ届くことは無かったけれど。
自分で言っておきながら急転直下で落ちていくテンション。
軽くなった刀身とも呼べない欠片を戻し、丁度、窓から差し込む光を遮断してくれる位置にある棚に立て掛ける。
ちなみに柄とは別に、鋼の大部分を占める折れた刀身。呪力を喰らうそれは綺麗な布で何重にも保護し、執念で汚れを落とした刀袋の中だ。
上げた腰を再び元の位置へ下ろし、軽く目を閉じる。
【閻魔刀】、【閻魔刀】。俺が俺の意思で折った、力の象徴。これが無ければ、かの最強の首を取るのはひどく難しい。
いや、それ以上になによりも。この美しい破邪の王を。使い手の力量不足により損失した刃をこのままにしておくなど、出来るわけもない。
早く。一刻も早く、元に戻さねば。
…………って、剣士の真似事してる人間ならそう思うじゃん? 俺もね、伊地知さんと一緒に【閻魔刀】回収した時から思ってるんだけど、一向に動かねぇんだわ体が。いや、もう、ね? 積もった意志に反してこの部屋から出ようとしないのよ。
【六眼】先生も沈黙を守ったままだし、すっかりなりを潜めてしまった【メインクエスト】も空欄。八方塞がり。何をしていいのかも分からないし、何が出来るのかも分からない。豚になりそう。
最近ようやく潜れるようになった
本当にやる事がない。日記はかあさんに預けたまま影の中だし、【閻魔刀】も破損中。
かと言ってこのまま無為に時間を浪費するのもイヤだ。人間に流れる時間は有限であり、いつ。どこで。俺の目標を達成出来るチャンスが巡ってくるとも分からないのだから。
吐き出した空気と共に、閉じていた瞼をあげる。
これはもう、なんだかんだと理由をつけていたあの問題をどうにかしろというお達しなのか。お達しなんだろうなあ!
臍あたりを起点に負のエネルギーを循環させ、最初はゆっくり。染み込ませるように。巡らせた呪力が一巡したのを確認次第、次は最初のものよりも早く。その次はもっと早く、と呪力の循環速度を徐々に上げていく。
緩く両手を広げ、四肢に流していた呪力を今度は術式へ。体にある回路は流し込まれた動力を感知し、予め書き込まれた能力とは反対の。反転した力を現実に吐き出す。
広げた空間に灯ったのは仄暗い赤色。一つ、二つ。三つ、四つとそれは順調に数を増やしていくも、七を超えた辺りでその輪郭が揺れ始める。
ふらふらと不安定に靡く【赫】。コントロールという手綱から抜け出そうとするソレに奥歯を噛みつつ、慎重に。一つ一つ、丁寧に込めた呪力を解いていく。
ミンミンと騒ぐ虫の声が、空調の効いた部屋を満たす。
最後の無限が空気に溶け消えたのを確認し、スッと。心では頭を抱え、現実では参ったように。緩く開いていた手は米神に移ろう。
この感情を言葉に表すとしたらそう、まさに恥ずかしい。恥ずかしいの極みである。
なんだこの体たらくは。全人類が【六眼】持ってたら指さされて笑われるレベル。【無下限呪術】なんか嫌いだ。特別な付属品が無ければ十全に機能しない術式とか欠陥品も欠陥品でしょう。
【無下限】を扱うには【六眼】は必要不可欠。そう伝え聞いた意味を、今更ながら痛感する。
嵌っているのが一つか二つかで、まさかこうまで違うとは。
当たり前のように持って生まれ、当たり前のようにその恩恵を享受していたから気が付かなかった。
【六眼】。神の瞳と称される淡い輝きの目。踏み込む一歩と引き換えに差し出した片方。
俺と同じ瞳を嵌め込んだ、表情豊かなベビーフェイスが脳裏を過る。
【六眼】が二つ。あるかないかで、呪力の御しやすさが天と地ほどに違う。あんなにも容易く。それこそ息をするように出来ていた無限の制御が、覚束ない。
ニュートラルな【無下限】、本来の性質を強化した順転の【蒼】、発散を司る反転の【赫】。恐らくこの三つは問題なく使える。だけれどそれは、
先程の【赫】から見て分かるように、同質のもであっても複数の同時展開は七……。安定性を求めるならば、五が限界。【無下限】を纏いながら【赫】で攻撃、などの異なる性質をもった無限同士の同士運用は現時点では相当に困難。順転と反転を用いた虚式なんて以ての外。
幸い、残った【六眼】のお陰で術式自体が使えなくなるといった最悪は避けられたが、目を覆いたくなる現実は変わらない。
断言できる。術式を。いや、呪力を用いた戦闘において、五条悟に勝つのは不可能であると。むしろ、同じ領域にまで登れるかも怪しい。
……だからまあ、アレだ。目覚めてからずっと見ないようにしていた問題というのが、この【六眼】欠損による劣化した呪力コントロールなわけだ。
進歩ではなく、復元。上を目指すのではなく、下がった数値をアベレージまで上げる。
つまり欠けた分の【六眼】。それと遜色ないレベルまで、大幅に下がった呪力操作を引き上げなければならない。
二つ揃った【六眼】先生の上で
そんなわけで、何事も小さなことからコツコツと。一気飛びは出来なくとも、一段一段。コントロールの階段を素早く、確実に登っていくのが一番早い。
そう半ば無理やり頭を切り替え、回していた呪力を術式を通さず出力。純粋なマイナスのエネルギーを、形を持った現実として生成する。
蒼い呪いの尾を引き、現れたのは薄く鋭い一本の剣。
ベッド生活の中、手持ち部沙汰に作った剣型の呪力。名前はまだ決まっていないが、油断のバーゲンセールを開催していた最強の頭に刺さる程度には有能な代物だ。
作り方は簡単。外界に放出した呪力を固定するだけ。込めた呪力の濃度によって色彩の濃淡は変わるが、お手軽に作れる。量産出来る。訓練次第ではなんか出来そうな感じのする、の三拍子が揃った低コストのサブウェポン。
唯一の難点は耐久性の低さだが、そこはそれ。
グーの中から選んだ人差し指をくるくると指揮棒のように振り、形を成した剣型の呪力を同様に動かしてみる。
ひとまず、呪力操作のブラッシュアップはこれを使っていこう。
形成した呪力の維持や、外観を崩さないためのコントロール。仮に数を増やしすぎて制御が外れたとしても、込めた呪力次第で被害は出ない等々、中々の優良品だ。術式の場合、暴発したら洒落にならないからね、うん。
少し前の。といっても一週間かそこらなのだが。記憶にある当時の自分に褒め言葉を送りつつ、まずは現時点での限界を知ろう、と。そんな予定を立て、いざ着手しようとした瞬間、
────────っがあ────ーうッ!!! がーう! がーう……! がーう…………!
エアコンから吹き出る冷たい空気を逃がさないよう、ピッチリ閉めていた窓ガラスが震えた。
それと同時にシンクロするかのごとく響いたのは、獣の雄叫びのような。我慢ならない事柄にキレたような、凄まじい音波の揺れ。
……びっくりした。なんだなんだ、何事だ。高専には突然変異したゴリラでも住んでんの?
鼓膜を殴り去っていった絶叫に殺意が芽生える。全身を通して聞こえる鼓動の早さが尋常じゃない。俺の心臓をなんだと思っているのか。トレンドじゃねーんだぞ。
維持していた剣型の呪力を一旦解き、聞こえた叫び声の発生源らしき方向に目を向ける。
開くのは千里を見通す古き瞳、【千里眼】。
一種の懐かしさを覚える神社仏閣。それに近い建築物の並ぶ高専を越え、スクロールしていった目が辿り着いたのは森。季節柄、最も青葉生い茂る頃合いというのもあるのだろうが、本当に森なのだ。
学校の中に、森がある。これは野生のゴリラいますわ高専やべえな。
眼下の木々。所々建築物も混じってはいるが、それら全体を一望できる高さに視点を固定し、興味本位で【千里眼】の上から【六眼】を被せる。
途端、映ったのは各地でぶつかり、弾け、その力を遺憾なく発揮する数多の呪力。それらは基本的に森林地帯を中心に散らばっており、ソロ活動のやつもいるが大体が二人。または三人くらいで一塊になっている。
なんだこれ、と。なんとも不思議な光景に首を傾げたとき、ポッと蘇ったのは起き抜けに聞いた情報。
京都校。交流会。
……なるほどなあ。三匹のおじいちゃんのインパクトが強すぎて忘れかけていたが、伊地知さん作のパンフレットに書いてあった「京都姉妹校交流会」ってコレのことか。
なら、今この瞬間にもぶつかり合ってる呪力、術式の類は京都と東京に在籍している高専生徒のもの。そして盗撮は犯罪です。【千里眼】による観戦も一種の盗撮です。解散。
俺以外このことを知る人間がいるはずもないのだが、なんとなく。他人の私生活を意図せず覗いてしまった。そんな後ろめたさに襲われ、もごもごと心の中で謝罪の言葉を流す。
通りすがりに俺の鼓膜を殴ってきた極悪人を見つけることは叶わなかったが、これ以上、眼下に広がる森をウォッチングするのは気が引ける。鼓膜通り魔は正体が判明次第絞めるが、今回は撤退である。回れ右。
行きとは逆に、今度は森から校舎方面へ景色をスクロール。多数の呪力反応が点在する校舎まで戻り、【千里眼】を解こうとした所でふと。まるで引き寄せられるかのように、ある一か所がどうにも気になって仕方がない。
どうしようか。気にはなるけれども、今さっき興味本位で覗いてごめんなさいしたばかりだ。ズームして詳しく見るか、無視を決め込むか。
迷っている間にも俯瞰景色はどんどん縮小していき、ミニチュアサイズであった件の場所が鮮明に現れる。
そして唐突に。なんの前触れもなく脳裏に響いたのは、男とも。女ともつかないどっちつかずの声。
───補助システム【六眼】:起動───
───【千里眼】との同期を開始───
───脳部負担、演算機能、共に正常───
───クリアー ───
バツン! と。久方ぶりに出て来た【六眼】先生の宣言と共に、ただただ。在るものだけを映していた視界がガラリと移ろい、特別性の瞳からもたらされた情報が流れ込む。
何がどうなっているのか。
拡大を続けていた視界が捉えたのは、みょいーんと。頭部が不細工な感じに伸ばされた死体と、鼻歌を歌いながら敷地内を歩く継ぎ接ぎの皮。
いつかどこかで。地上から身を隠していた地下道で。臓腑の底から溢れる嫌悪の感情と共に、【閻魔刀】で打ち上げたはずのモノ。
「……は?」
知らず知らずのうちに漏れ出た声。
上機嫌に地面を歩く特徴的な縫い目。呪力。術式。そしてなによりも、知覚した瞬間に溢れ出す正体不明の嫌悪感。全身が訴えて止まない汚物のごとき反応を、一体誰が忘れられようか。