NRC vsゾンビ【前編】   作:りーぬ

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第1話

 

0日目 ディアソムニア

 

息を切らせて走り続ける。

だが、止まってはならない。止まれば全てが終わりなのだ。

 

踏み込んだ瞬間にサンダルのストラップが千切れた。靴底から裸足の足が半分地面にずり落ちて足を捻りそうになる。

なんだってこんな時にサンダルなんか履いていたんだろう。走りにくくて仕方ない。ストラップが千切れた右足を地面につけるたびに甲高い音が鳴る。これではダメだ。音が鳴ればその分“奴ら“に見つかりやすくなってしまう。

ストラップが切れた右足のサンダルを足を振り払うようにして脱いだ。裸足の足を雨で濡れた地面につける。左右の足の高さが変わって余計に走りづらくなった。できれば裸足のまま走る事は避けたかったが、やむを得ない。片足だけ履いていくのは走りに影響してしまいそうだ。

仕方なくまだ壊れていない左足のストラップも外そうとしたが、手が震えたせいでもたつき、うまく脱げずに前のめりに転倒した。雨で濡れた地面に片膝をついて左足のサンダルのホックを外す。ようやく両足共に裸足になって立ち上がる。

この一連のタイムロスの間に、低く呻くような“奴ら“の声は明らかに近くなっていた。

 

時間がない。とにかく、逃げなければ。

 

ヒールのあるサンダルから裸足に切り替えただけで、走りは格段に軽やかになった。大股の跳ねるような動きで“奴ら“から距離を取るために走り出す。

 

しかし、数歩進んだ先。裸足の足がグニュリ、と“何か“を触覚した。

恐る恐る下を見る。暗くてよく見えないが、何か白くて細長いものを踏んだ。ヌルリとした感触。真っ暗な視界を、突如雷が照らした。

 

雷光は、裸足で踏んだ“それ“が、持ち主を失ってなお動き続ける人間の腕である事をはっきりと照らした。

 

《ピロリロ ピロリロ》

 

若い女の悲鳴と、なんとも間の抜けた電子音が同時にオンボロ寮の室内に響いた。

 

「む。ドラコーンの食事の時間だ。」

 

ソファに深く腰掛け、長い脚を組んで座っていたマレウス・ドラコニアは胸ポケットから携帯ゲーム「がおがおドラコーンくん」を取り出して操作する。

 

「ええ…このタイミングでやるの?」

 

マレウスの隣に腰掛けて映画を観ていた監督生は非難するような口調で言う。

 

「何を言うんだ。ドラコーンが空腹のままでは可哀想だろう。」

 

ピロピロという昔懐かしい電子音を鳴らしながら、マレウスは手元のゲーム機を操作する。

 

「もう、緊張感ないなあツノ太郎。今すごく良いシーンだったのに。」

 

監督生は手元のリモコンを取って一時停止ボタンを押す。

テレビの中では若い女がゾンビの群れに追われる阿鼻叫喚のシーンでとまっているが、間抜けな電子音ですっかり恐怖心の醒めた監督生は緩慢な動きでテーブルの上のチョコレート菓子を取って口に放り込んだ。

 

今日は4連休の前夜。監督生と「ツノ太郎」ことマレウスが以前から約束していたゾンビ映画鑑賞会の当日である。

 

オンボロ寮周辺の寂しい雰囲気が気に入っていたマレウスは、監督生とグリムがこの寮を使用するようになってからもしばしばこの場所を訪れていた。

何度か顔を合わせるうちに彼のことを「ツノ太郎」と呼んで話しかけてくるようになった監督生の事も、マレウスはそれなりに気に入っていた。

 

このツイステッドワンダーランドに住む人間であれば大体の者は彼の姿を一目見れば「あの茨の谷の次期王マレウス・ドラコニア」と認識し、一線を引いた態度で接してくるが、異世界から紛れ込んできたという彼女はマレウスの正体を何も知らないために、いつでも気さくな態度で彼と接してきていた。マレウスもそれについて全く悪い気はしなかったし、むしろそんな態度で接してくる彼女のことを貴重な存在だと思っていた。

ふらりと訪ねたオンボロ寮に明かりがついていないと、ああ今日はここにいないのだなと少々残念に思うことすらあった。

 

ここ最近のマレウスの関心は、もっぱら「がおがおドラコーンくん」にあった。ドラゴンを育成する古い携帯ゲームだ。卵から孵ったドラゴンは、ランダムな時間に電子音を鳴らして食事や遊び、果ては排泄の世話まで要求してくるのだ。これらが満たされなくなるとドラゴンは弱り、最悪の場合死んでしまう。

 

何となくこのゲームを初めてみたマレウスは、ドラゴンの要求に振り回される感覚に不思議と喜びを覚えた。

生まれてこの方、彼をこんなにこき使った存在はいなかったのである。

 

実は一度目に育てたドラコーンは、勝手がわからず2日で死んでしまった。

単純なドット絵で示される墓標とゴーストのイラストに、マレウスは大いに落ち込んだ。こんな小さな命ひとつ守れない自分を恥じた。

失意のまま、色褪せた「がおがおドラコーンくん」の取り扱い説明書を開く。箱に入れたままだった説明書は、そういえばまだ一度も目を通していなかった。

説明書によると、ドラコーンの死因はどうやら「あそび」の項目を疎かにしてしまったせいらしい。定期的にこの項目を選択しないと、ドラコーンの「楽しい」感情は減っていってしまうのだ。

 

確かに小さな画面にあるメニュー欄を開くと、はじめのページには「ごはん」「トイレ」という選択肢が2つ出てくるのだが、「あそび」という項目はメニュー欄の2ページ目にあるため、メニュー欄からページを移動して選択する必要がある。この「あそび」の存在を知らずに世話をしていたため、初代ドラコーンは死んだ。寂しさのあまり死んでしまったのである。

その事実に深いショックを受けたマレウスは、今度こそドラコーンを幸せにしてやらねばならないと意気込んで、もう一度卵の孵化を始めた。

そして誕生した2代目ドラコーンを、マレウスは完璧に世話した。肌身離さず持ち歩き、少しでも電子音が鳴れば世話をした。夜中であっても手元に置き、何かあれば甲斐甲斐しく2代目ドラコーンの世話を焼く彼は、さながら子育て中の母のような慈愛の表情をしていた。

 

1週間ほど経つと、2代目ドラコーンは立派な翼竜に進化した。画面いっぱいに飛び回る様に深い充足感を感じていた。

しかし2代目ドラコーンとの生活を始めて2週間目。気になる事があった。

常に完璧に世話をしているのに「楽しい」感情を示す3つ並んだハートの1つが、欠けたまま戻らなくなったのだ。どれだけ「あそぶ」項目を選んでも、ハートのマークは戻らない。

 

一体何故2代目ドラコーンの心は満たされないままなのか。

もう僕と遊ぶだけでは満たされなくなったというのか。僕はお前がいるだけでこんなにも満たされた生活をしているのに。

 

マレウスは不安に思いながら再び取扱説明書を開く。後半のページにはこう書かれていた。

 

《ドラコーンくんが大きくなったら、お友達を作ろう!他のがおがおドラコーンくん本体(別売)を近づけると、お友達ができるよ!》

 

どうやらドラコーンは同じ種族同士の友を求めているらしい。なるほど妖精族も、人の子だってそうだ。同じ種族同士が肩を寄せ合い、支え合って歴史は紡がれてきた。

 

早速2代目ドラコーンに友達を作ってやりたかったのだが、一つ問題があった。マレウスの他に、このゲーム機を所持する者は誰もいなかったのである。

 

このままでは。

 

このままでは2代目ドラコーンは、初代ドラコーンのように寂しさのあまり死んでしまうかもしれない。

僕は、またドラコーンを幸せにしてやることが出来ないのか。

 

涼しい顔の下でマレウスは焦燥していた。

 

そんな折、彼の元を訪れたのがイグニハイド寮長イデア・シュラウドである。

いや、正確には彼の"弟"たるオルト・シュラウドが、兄の代わりであるタブレットと共に現れたのである。

 

今年の「スターゲイザー」として願い星を集めにきた彼らに手渡された願い星に、マレウスは切実な思いを込めた。

 

《がおがおドラコーンくんに友達ができますように》

 

星にでも願わねば叶わないかもしれないこの願いを込めると、普段は内向的でハッキリものを言わないイデアが急に饒舌になって、彼のためにもう一台の「がおがおドラコーンくん」を注文してくれたのだ。今年の願い星とスターゲイザーは、あまりにもあっさりと彼の願いを叶えてくれた。

 

数日後、イデアに頼んで注文したもう一機が到着し、すぐに彼が向かったのはオンボロ寮だった。このもう一機の「がおがおドラコーンくん」を託せる相手として相応しいのは、オンボロ寮の監督生しかいないと思った。

きっと彼女ならばドラコーンと仲良くやれる、という確信があった。このマレウス・ドラコニアとだって仲良くやれるのだ。こんな存在は学園に彼女しかいない。

 

その日の授業を終えて丁度オンボロ寮に戻ってきた監督生に、マレウスは「がおがおドラコーンくん」を手渡した。一通り口頭で簡単な説明をすれば、彼女は目をキラキラとさせて、

 

「すごく楽しそう!ありがとう、ツノ太郎。」

 

と飛び跳ねた。がおがおドラコーンくんの親として相応しいという僕の予想は正しかった、と安堵した。

 

しばらく経って彼女のドラコーンも立派な竜に成長した。彼女の授業が終わった夕暮れに、ドラコーンくん同士の親交を深めるのが恒例になっていた。ドラコーン同士が仲良くなったおかげで、「楽しい」感情のハートマークは常に満たされていた。

 

そうして交流を繰り返してしばらく経ったある日、彼らのドラコーン同士にとある異変が起こった。それぞれのドラコーンの画面がキラキラと輝く。何が起こっているのかと2人とも固唾を飲んで見守っていると、画面に新しい卵が誕生したのだ。

 

「これは…!」

 

「え、子供が産まれたの!?」

 

監督生が素っ頓狂な声を上げる。マレウスもこの時初めて知ったのだが、監督生のがおがおドラコーンくんはメスだったのだ。がおがおドラコーンさんと呼んだ方が適切かも知れない。

同性同士だと親睦を深めるだけのドラコーンだが、異性同士の場合は親交が深まると子を成すことがあるらしい。

頻繁に親交を深めていった彼らのドラコーンたちは、飼い主たちの知らぬうちに愛情を育み、新しい命を創り出していたのである。

 

「すごーい!ドラコーンくんの卵が産まれるのって超レアなんだよ!この前マジカメで画像を見たの。感動しちゃう!」

 

手を叩いて喜ぶ監督生に倣って、マレウスも大きな手を2回パチパチと合わせた。やはり彼女にドラコーンを託したのは正解だった、と思った。

 

ドラコーン夫妻の感動の出産に立ち会ったおかげで、辺りはすっかり暗くなっていた。

びゅう、と冷たい風が吹いてきて、監督生は髪を押さえた。しとしとと小雨が降り始める。木陰で雨を凌ぎながら監督生が呟く。

 

「降ってきちゃった。なんだか不気味だね。ホラー映画みたい。」

 

「ホラー映画?」

 

「そう。ゴーストとかゾンビとかが出る映画。観たことない?」

 

「ああ、そういえば寮の者がゴーストの出る映画を見ていた事ならあるな。」

 

世俗のものに人一倍興味を持つディアソムニア寮の副寮長、リリア・ヴァンルージュが、深夜の談話室で観ていた映画を思い出す。登場人物は、ゴーストに追われたくらいで何が恐ろしいのか、金切り声をあげながら逃げ惑うのだ。

 

ゴーストを恐れる登場人物の気持ちもよく分からないが、もっと分からないのはこんなものを観ているリリアだ。

 

「これを観てお前は楽しいのか?」

 

「くふふ、お主はわかっておらんのう。最近では滅多に味わえなくなったスリルを、映画の登場人物に代わりに体験してもらうのじゃよ。少しは刺激になろう?」

 

リリアは楽しそうに菓子をつまみながらマレウスに共感を求めるが、やはり彼にはその気持ちがよくわからないままだった。

あまりにも大きな音量で再生するものだから、映画の登場人物の悲鳴がディアソムニア寮内に響き渡り、リリアが夜中に談話室で人間を使って人体実験をしているらしいという噂さえも流れた。

 

しかし、ゴーストは馴染み深いが、もう一つの言葉はマレウスでも聞いたことがないものだった。

 

「ゴーストは分かるが…ゾンビ、というのは何だ。」

 

「え!ゾンビ、知らない?そっか、この世界にはゾンビ映画は無いのかな?スマホで検索してみよ…あ、あった!こんな感じだよ。」

 

彼女が操作した端末をこちらに示す。画面には、腐敗した人間らしき形のものが若い男女に襲いかかる画像が表示されていた。

ゾンビとやらは青とも緑ともつかない皮膚の色で、頭に斧が刺さっている。片方の眼球を飛び出させ、首の半分が大きく裂けていた。体液らしき液体が恐怖に怯える男女に滴り落ちている。

通常この状態の人間が生きているはずもないのでこれは死人なのだろうが、これが襲いかかってくるというのはさぞ不気味であろう。恐怖うんぬんの前に極めて不快である。

 

「なるほど、ゴーストの映画よりは恐怖を感じそうだな。」

 

「この世界に来る前は、よくゾンビ映画を見ていたの。久しぶりに見たくなってきちゃった。サムさんのお店に行ったら置いてあるかな。ねえねえ、私が探してみるから今度一緒に鑑賞会しようよ。」

 

随分と楽しそうに言う監督生の言葉にマレウスは興味を持った。と言っても興味の対象はゾンビ映画ではない。魔法も使えずゴーストに対抗する術を持たない人の子が、何故わざわざ自分から恐怖を体験したいと思うのかという所だった。

 

「良いだろう。準備が出来たら僕を呼ぶといい。」

 

数日後、監督生はいつものようにオンボロ寮を訪れたマレウスに、一枚のディスクを示してみせた。

 

「じゃーん!ツノ太郎見て!この間言ってたゾンビ映画だよ。サムさんのお店には丁度売り切れだったんだけど、知り合いの先輩に聞いたら貸してくれたの!」

 

嬉しそうな彼女の手にあるそのディスクの表面には、ニコニコと笑う彼女とは対照的に苦悩の表情で手を差し伸べる腐敗した男の顔が印刷されていた。

 

「そうか。では鑑賞会を開こう。ドラコーン達の交流も兼ねて。」

 

「うん!じゃあ今度の4連休の前の夜はどう?お菓子を用意しておくから、ツノ太郎は飲み物係ね。」

 

そうして決まった鑑賞会の当日。マレウスは律儀に茨の谷から取り寄せた最高級の果実ジュースと紅茶を持ってオンボロ寮を訪れた。

 

「おッ、アイツが来たんだゾ。」

 

「はーい、グリム、案内してあげて。」

 

監督生が「グリム」と呼ぶ魔物が尊大な態度で扉を開けてマレウスを入れる。

 

「いらっしゃい、ツノ太郎!さあ、座って座って!」

 

マレウスは監督生の生活するオンボロ寮の談話室の中をまじまじと見回した。

建て付けの悪い扉。所々撓んだ床。上の階に繋がる階段の手すりは所々朽ち果てて手すりとしての意味を成していない。

 

「あ…あはは。外観だけじゃなくて、中もほとんど廃墟だよね。この寮。住めるだけいいけど。」

 

マレウスが室内を見回す視線に気がついた監督生は気まずそうに笑った。

 

「僕は嫌いではない。室内に刻まれた長い歴史を感じる部屋だ。」

 

廃墟が好きなマレウスは率直な感想を述べたが、監督生には慰めにしか聞こえないようで、少々納得のいかなさそうな顔をする。

 

「ものは言いようだね。このカーテンなんて、パッと見は立派だけど、実は裾の方が破れてて、全然カーテンの意味がないんだよ。朝とかすごく寒いし。」

 

監督生は白いカーテンを閉めて見せる。彼女の言う通り、大きな窓を覆うカーテンは下から3分の1ほどが破れており、外の外灯の光が差し込んでいた。

マレウスから言わせればこれも廃墟らしい魅力を引き立たせているとは思ったが、実際に住む人間としては不便なのだろう。彼は腕を組んだままカーテンの近くまで寄った。

 

「このくらいならすぐに直せる。」

 

スゥ、と手をかざすと、カーテンは破れもほつれもない綺麗な布に戻る。新品同様に戻った布には、ジャガード織の花の模様が浮かんでいる。古びて擦り切れていたためにわからなかったが、元はこのような柄入りのカーテンであったらしい。

 

「ふなっ!?カーテンが直ってツヤツヤになったんだゾ!」

 

「ツノ太郎すごーい!これで朝も少しは暖かくなるね。ありがとう!」

 

マレウスはこの程度の簡単な魔法で喜ぶ監督生とグリムが可笑しくて少し笑う。些細なことで感謝されるというのも悪くない気分だと知った。そもそも普段は彼に「些細な事」を頼むような者はいないのだ。

 

「ねえねえ、ツノ太郎、これって色とかも変えられる?こんなボロボロのお部屋でも、ちょっとは可愛くならないかなって思ってて。」

 

「容易い。どのような色に?」

 

「ええとね、華やかな感じのピンク!」

 

マレウスは再度手をかざす。するとカーテンは慎ましいバラのような上品なピンク色に変化した。

 

「可愛い!これなら毎朝気分が上がっちゃう。」

 

「に゛ゃに゛ゃ、これだと甘ったるすぎてグリム様の部屋らしくないんだゾ。オレ様の耳のような爽やか〜な青に変えて欲しいんだゾ。」

 

マレウスがもう一度手をかざすと、カーテンは青色に変化する。

 

「えー、ピンクの方がかわいいよ、グリム。まあ、破れてなければなんでもいいけど。」

 

監督生は不満げに口を尖らせるが、それでもカーテン一つでこれだけ喜ぶという反応そのものがマレウスには新鮮だった。

 

ほぼ朽ち果てているソファに誘われたマレウスは、小さなテーブルの上に広げられた菓子類の横に大量のドリンクを並べる。小さくて古ぼけたテーブルは軋んで悲鳴のような音を上げた。

 

「なな、なんだこの量。いくらオレ様でも飲みきれないんだゾ。」

 

「うわ、本当だ。ツノ太郎これ何人分?」

 

「何人来るのか分からなかったからとりあえずあるだけ持ってきた。こんな狭い部屋にあと何人来る予定だ?」

 

「そ、そんなに沢山来ると思ってたんだ。今日は私たちだけだよ。この映画を貸してくれた先輩も誘ったんだけど、『映画鑑賞会とかそんな陽キャのイベに拙者が行ったらキョドってプギャられるの確定すぎて死しかないですぞ』だって。」

 

言っている内容の半分以上が意味不明のその口調はマレウスにも聞き覚えがあったが、誰のものだったか思い出せなかった。まあ、思い出せないのだから近しい人間でない事は確かだ。

 

「そうか。では僕たちだけの鑑賞会なのだな。がおがおドラコーンくんの魅力を広める機会だと思ったが、まあ仕方ない。今日はゾンビとやらを楽しもう。」

 

古びたソファに座ったマレウスと監督生の間にグリムが入り込む。

 

映画は穏やかな都市の朝から始まった。主人公の若い女は学生で、これから学校へ向かう所らしい。その道すがら、急に自我を失くした人間が通りすがりの者に齧り付き、喉笛を噛みちぎってしまうのを目撃する。すると齧られた人間もまた自我を失って他の者を襲う、という流れが繰り返されていく。事態は各地に広がり、追われる身となった彼女は恋人を探して彷徨う…という話だ。

 

「こ…怖えんだゾ、このゾンビ!集団で襲ってくるなんて聞いてないんだゾ!」

 

小さく丸まったグリムが監督生の膝に乗り上げて尻尾を足に挟む。

 

「まあ、ゾンビといえば大体集団で襲ってくるからね。」

 

「そういう決まりがあるのか。」

 

「決まりって訳じゃないけど、大体展開は似てるかな。この後ショッピングモールに立て籠ったり、その中で人間同士の争いが起きたり。」

 

物語は彼女の説明通りの展開に進んでいった。そしてその度に「ああやっぱり」「ここで出てくるよね」などと、さして驚きもせずに楽しそうに笑った。

 

「ゾンビ自体は怖いんだけど、知っている流れの通りになると安心して、逆に笑えてきちゃったりするんだよね。」

 

監督生は登場するゾンビらに怯えるわけでもなく膝で丸くなるグリムを撫でて、マレウスが持参したジュースを飲みながらニコニコと鑑賞している。人の子とは分からないものだ、とマレウスは彼女の横顔を眺めていた。

 

映画が終了したのは、もうすぐ日付が変わるという時間だった。結局その日は3部作のうちの2本を立て続けに観た。

主人公がなんとか恋人と再会できたものの、どうやら恋人の足にはゾンビに噛まれた痕があり、もしかすると彼もまたゾンビになるのかもしれないと主人公が気付く、という所で最終作に繋がる終わり方をした。

 

「さて。僕はそろそろ行かなければ。」

 

「え、もう一本で終わりなのに、観ていかないの?」

 

彼女が不満げな声を漏らす。

 

「確かにせっかく再会したあの男がゾンビになってしまうのでは、と気になって仕方がないが、生憎これから茨の谷に帰省をしなければならない。大事な用があってな。」

 

側に架けてあった制服のジャケットを羽織り、テーブルに置かれたがおがおドラコーンくんを大切に胸ポケットにしまう。

グリムは恐怖に丸まっているうちにそのまま寝入ってしまった。騒がしい魔物が大人しくなってからは映画の内容がよく頭に入ってきたので、少人数の鑑賞会で良かった、とマレウスは思う。

 

「あら、残念。帰ってきたらまた鑑賞会しましょ!連休明けには戻ってくるんでしょう?」

 

「いや、少し長めに休みをとった。1週間ほどで戻ることになっている。」

 

「じゃあお楽しみにとっておくね。楽しみにしてる。」

 

ああ、と彼女に微笑んでからふと思い立って、彼は再度カーテンに向かってスッと手をかざす。

ピンク色と青色で揉めていた談話室のカーテンをピンク色に戻してやると、彼女は寝ているグリムをチラリと見た後、小さな声で「ありがとう」とマレウスに向けて笑った。

 

転移魔法でオンボロ寮からディアソムニア寮に戻ったマレウスは、護衛を務めるセベク・ジグボルトらが血眼になって彼を探していた事に気がついた。

 

「わ!若様!ご無事で良かった!!皆!!若様が戻られたぞ!!!!」

 

寮内に響き渡る大音量で彼が叫ぶと、シルバーやリリアもマレウスの元へ集まってきた。

 

「マレウス様!一体どこに行っていたんですか。」

 

「ああ、少しな。」

 

「ふむ。その満足そうな顔は。やはりあの場所に行っておったのじゃな。」

 

「親父殿はマレウス様の行き先をご存知だったのですか。皆心配していました。さあ、もう時間がありません。早く行きましょう。」

 

マレウスは騒がしい彼らに誘われるまま鏡の間に移動する。道中、普段はあまり見かけないイグニハイド寮生たちが購買部へと向かっていく姿を見かけた。

 

そうだ、次の鑑賞会にはシュラウドを誘ってやろう、と思った。

あれだけ少人数なら人嫌いなシュラウドも来ることが出来るだろう。がおがおドラコーンくんの件の褒美をまだとらせていないのだ。そしてあのシュラウドは、がおがおドラコーンくんをいとも容易く手に入れる能力を持った人間でもある。彼奴にもやらせて3匹で交流させれば僕のドラコーンもきっと喜ぶはずだ、とマレウスは1人うなずく。

 

《ピロリロ ピロリロ》

 

茨の谷へ向かおうとした瞬間、鏡の間に間の抜けた電子音が響く。手早くドラコーンの排泄物を片付けて満足したマレウスは茨の国へと足を踏み出した。

 

1日目 ハーツラビュル 

 

「でさでさ、急に体育館に入ってきたカリム先輩にキレたジャミル先輩がブン投げたボールが、超遠いゴールに入っちゃったの。ノールックゴール。やばくね!?」

 

休日の食堂は人がまばらだった。いつものこの時間ならば授業を終えた生徒たちでごった返すはずだが、休日である今日はポツポツと食事をする生徒が見える程度だ。皆、各寮や購買で済ませているのだろう。

 

バスケ部の練習を終えたエース・トラッポラと、午後から陸上部の活動を控えたデュース・スペード、そしてグリムと監督生は閑散とした食堂で昼食をとりながら歓談していた。

 

「ノールックゴールはジャミル先輩なら軽くやりそうだけど、ちょっと入ってきたカリム先輩にキレる方がやばいでしょ、大丈夫なの、あの2人。」

 

「確かにウインターホリデー以降、バイパー先輩のキャラがちょっと変わったって、同じクラスのスカラビア寮生が言ってたな。」

 

「あー確かに。なんかさ、カリム先輩の課題が終わらないからって、図書室に籠らせてたらしいんだけど、途中で飽きて出てきちゃったんだって。んで『俺が見ていないと座っている事すら出来ないのか!』っつって。でも前はキレるようなキャラじゃなかったよなー。どっちかっていうと抑え込むタイプっつーか。部活ん時はあんま変わんないけどさ。」

 

「それもこれも、こいつとオクタヴィネルの性悪3人組があいつを散々いじめたからなんだゾ。」

 

「違いますー。いじめてはいません。」

 

急に名指しで批判された監督生は腹いせにグリムが大切に残していた海老フライを奪いとって食べた。

 

「ふな゛ーッ!オマエ、海老フライはもう品切れなんだゾ!オレ様の楽しみが…」

 

「課題を途中で投げ出してしまったアジーム先輩にも問題はあるし、僕はバイパー先輩の気持ちも分かるぞ。」

 

「まあでも、ちょっと心配だね、あの2人。なんだかんだでお互いいなきゃいけない存在みたいな感じあるし。」

 

「それな。特にカリム先輩とか、ジャミル先輩がいなかったら生きていくのも怪しそうだもんなー。」

 

エースはカレーライスを掻き込み、さっさとおかわりを取りに立ち上がる。しょんぼりと耳を垂れさせるグリムを哀れに思ったデュースが、グリムの皿に自分の海老フライを乗せてやった。

 

「デュースはこれから陸上でしょ?何時から?」

 

「陸上部の活動は15時からだから、まだ時間がある。お前…もしかして今日わざわざみんなで食堂に集まった目的を忘れてないか?」

 

呆れたようなデュースの言葉に、監督生は「あ」と間抜けな声をあげる。

 

「連休明けの再テストの勉強会、普通に忘れてた。」

 

週末に行われた錬金術の小テストで、エースとデュース、そしてグリムと監督生は揃って赤点を取った。授業の後にクルーウェルに呼び出された「Bad boy」達は、4連休明けの再テストを命じられたのだ。

せっかくの休みを潰して勉強をする事になった彼らはひどく落ち込んだが、見捨てずに再テストをしてくれるだけ寛大な措置というものだろう。「1人でやっても絶対飽きる」という4人の意見が一致したため、エースとデュースの部活の合間を縫って勉強会をすることになったのだ。

 

「そんな事だろうと思ったよ。クルーウェル先生にまた宿題を増やされるぞ。」

 

「デュースはそういう事、ちゃんと覚えてるのに赤点なんだね。」

 

「サラッと酷いことを言うな。これ以上、酷い成績を取って母さんに心配をかけるわけにはいかないんだ。今日はおふざけ無しでやるからな、グリム。」

 

「なんでオレ様だけに言うんだゾ?」

 

エースが大盛りのカレーを手に座席に戻ってきた。続けてデュースも彼とグリムの2人分のおかわりを取りに行く。勉強会が始まる気配は一向に無かった。

 

それぞれ腹が満たされて一息ついた頃、ようやくデュースが赤いペンでことごとくバツ印を付けられた前回のテスト用紙を机の上に出す。

 

「うわっ、お前優等生ヅラしといて1番ひっっどい点数じゃん。」

 

「うるさいな。前日に張ったヤマが外れたんだよ。」

 

「ヤマ張ってる時点で優等生じゃないよ。あれ、でもエースはあともう少しって感じの点数だったんだね。」

 

「そーなんだよ、あと2点足りなかった。このくらいオマケしてくれてもいいのにさー。クルーウェル先生にゴネたら『Stay!』っつってデコをピシャリとやられたよ。だから暗記のテストは嫌なんだよなー。」

 

エースの言う通り、彼の額は僅かに赤く腫れていた。

 

「だから僕の言った通り、語呂合わせで覚えれば良かっただろう。」

 

「お前の語呂合わせ酷すぎて全然覚えらんねーの!つーか、お前が一番酷い成績なんだからな!」

 

「確かにデュースの語呂合わせ、あれ覚えるくらいならそのまま覚えた方が早いかも。」

 

「お、でも監督生も惜しい感じじゃん?あと5点足りなかったんだ。最初はあんなに酷かったのに成長したな!」

 

「何目線よ。ふふ、でもね、錬金術だけはちょっとコツを掴んできた感あるんだよねー。」

 

「でも相変わらず赤点だしオレさまとそんなに変わらないんだゾ。」

 

ムッとした監督生はテーブルの上に乗っていたグリムの首根っこを掴んで雑に座席に放り投げた。

 

「んじゃまあ、オレと監督生は次のテストは楽勝ってことで。デュースくんとグリムくんは死ぬ気で頑張らないとクルーウェル先生の躾直し食らうかもなあ?」

 

全員赤点である以上酷い成績であることは変わらないのだが、何故かエースは勝ち誇ったようにニヤリと笑う。

 

ようやく勉強する雰囲気になってきたところで、食堂の中央に突如学園長であるディア・クロウリーが現れた。

仮面で半分隠れた顔は、それでも十分に伝わるほどに憔悴していた。

 

「み…皆さん、大変です!!ああどうしましょう、私はどうしたら…」

 

「うおッ!まーたあの学園長、突然現れやがって。」

 

その場を右往左往とする彼は、まばらな人出の食堂内の生徒たちの視線を集めた。

 

「学園長、どーしたんすかあ?」

 

頭の後ろで手を組みながらエースが問う。どうせまた学園の評判がどうとか、そういう些末なことで騒いでいるのだろうと思った彼は、とりあえずクロウリーの「聞いて欲しそうな」態度に対応してやろうと思ったのだ。

 

「と…トラッポラ君、大変なんですよ!この学園内に『スプーク』が複数発生したのです…!」

 

「す…『スプーク』…!?」

 

学園長の言葉に食堂内がざわつく。

 

「すぷーく?って、なんなんだゾ?」

 

「わかんない。デュース、スプークってなに?」

 

聴き慣れない言葉に同時に首を傾げたのは、監督生とグリムだった。デュースが目を丸くする。

 

「え、スプークを知らないのか?まあ監督生は仕方ないとして…グリムもか。」

 

「スプークというのは、このツイステッドワンダーランドの中でも屈指の恐ろしい化け物です。いや、化け物と言ってはいけないのか…。彼らは言うなれば『人間の抜け殻』です。ある日突然体の中にある魔力を全て枯渇させてしまった"元"人間です。彼らがそうなる原因についてはまだ解明されていません。理性を持たず、痛みも疲労も感じない。突然そんな状態になった人間を指します。」

 

「それって…ゾンビ?」

 

「ゾンビ?」

 

監督生の言葉をデュースが復唱する。マレウスがゾンビの存在を知らなかったように、この世界ではゾンビ映画はかなりマニアックな部類らしい。余程の映画オタクでもない限り聞き馴染みがないらしいワードに、彼らは首を傾げた。

クロウリーは続ける。

 

「彼らは始めこそ見た目は我々と変わりませんが、生命活動が停止状態にあり、放っておけば腐敗していきます。ですが痛みも苦痛も何も感じないため、腐敗したとしても動き続けるのです。」

 

「いやそれゾンビじゃん…」

 

「そして!1番恐ろしいのは彼らは理性を失い、獰猛な性格となって人間に襲いかかってくるのです。彼らに噛みつかれた人間は、しばらくすると同じようにスプークと化してしまうのです…!」

 

「完全にゾンビなんだゾ。」

 

「ゾンビだね。」

 

「ああもうゾンビゾンビうるさいですね!!何なんですかそれ!!」

 

温厚なクロウリーが苛立たしげにグリムと監督生を一喝する。驚く彼らを見てわずかに冷静さを取り戻したクロウリーは一つ咳払いをした。

 

「と、とにかく。学園内でスプークの発生が確認されたのです。先程十数名の生徒がスプークに噛まれ、気を失っているところを発見されました。彼らがスプーク化しないよう、今は彼らを保健室のベッドに縛り付けて、魔力を注入する治療をしながら回復を祈っているところです。回復するかどうかも分かりませんが…。とにかく、発生源が学園内の生徒なのか、外から入り込んできたスプークなのかは現在教師たちが調査中です。あれに噛みつかれては一大事ですよ。全生徒は各自寮に避難、絶対に寮から出ないでください!」

 

よく通る声で指示するクロウリーの言葉に、監督生だけはパッと顔を明るくさせる。

 

「え!じゃあ小テストも無くなるかな?」

 

「おお〜!それならスプーク様様なんだゾ!」

 

「ちょ、お前ら、んな事言ってる場合かよ。」

 

「まあスプークを知らなきゃ無理もないか…」

 

「あれ、でもちょっと待ってください。私は魔力が一切無いですけど、もしかして私は噛まれても平気だったりします?」

 

クロウリーはおずおずと手を挙げて質問する監督生の肩を掴んで、ユサユサと揺らす。

 

「何を言っているんですか!!スプークは噛み付いた相手の魔力を枯渇するまで吸い取る存在です。良いですか、魔力を吸い尽くせるまで齧り付くということは、魔力のない貴女はただただ食糧として全身の肉を美味しく頂かれた挙句、骨の髄までしゃぶり尽くされてポイですよ!!貴女だけじゃない、学外の魔力を持たない市民も同じです。ですから今、このナイトレイヴンカレッジは敷地内全域を魔法によって封鎖しています。原因がこの学園内にあった場合、スプークが市中に放出されては一大事です。そしてそれがこの学園から広がったと知れたら、この学園はもうおしまいなんですよ!!!」

 

声を荒げるクロウリーに揺さぶられる監督生はガクンガクンと首を揺らす。いまいち事態が飲みこめない彼女はエースやデュースの顔を見る。緊張の面持ちで固まる2人を見て、監督生はようやくこれが相当にマズい事態なのだと知った。

 

「分かりましたね、皆さん。我々からアナウンスがあるまで絶対に寮から出ないでください!これは学園長からの命令ですよ!」

 

そう叫んだ学園長が転移魔法で消え去ると、食堂にいた生徒たちは一斉に立ち上がって我先にと寮へ戻っていく。

 

「じゃあ、オレたちも早く寮に戻らないと!」

 

「ああ。途中でスプークに遭ったら一大事だ。おい監督生、グリム、お前たちも一応ハーツラビュル寮に避難した方がいい。」

 

目の前のプリント類をざっくりとまとめながらデュースが声を掛ける。

 

「あ、確かに!お前ら2人だけじゃあっという間にやられちゃうもんな。リドル寮長にはオレから言ってやるよ。早く行こうぜ。」

 

2人に促された監督生とグリムは、彼らの後についてハーツラビュル寮まで移動した。薔薇の迷路は寮生たちが忙しく動き回っている。

 

「そこ!もっと頑丈にバリケードを作るんだ。ここでスプークを食い止めなければ、寮内に被害が広がるだろう!」

 

ハーツラビュル寮内では、既に寮長のリドル・ローズハートを筆頭にスプーク対策を始めていた。

 

「ああ、エース、デュース!遅かったじゃないか。キミたちも早くバリケード作りに加わるんだ。1年生は談話室の方を。」

 

「あ、はい!あの、リドル寮長。こいつら2人だけだと危ないと思ったんすけど、うちの寮に避難させちゃっていいっすか?」

 

リドルが監督生とグリムに視線を遣る。監督生は控えめに一礼した。

 

「いいだろう、今は緊急事態だ。空き部屋はないけれど、君たちの部屋に避難させるといい。構わないね?」

 

「あざっす!寮長。ほら、急ぐぞ。」

 

デュースに連れられ、彼らの部屋に鞄を置いた監督生とグリムは、他の一年生たちに混じって談話室の大きな窓を塞ぐ作業に加わった。

 

梯子に登ったエースとデュースに、監督生が次々と板と釘を手渡す。

 

「ねえ、スプークってこんな台風対策みたいな感じで防げるの?」

 

「めっちゃ凶暴らしいけど、言っても相手は人間だからな。ゴーストみたいにどこからでも入ってくるわけじゃないから、その辺はゴーストより対策しやすいのかも。」

 

「でも油断は禁物だぞ。あいつらは痛みなんて気にしないし、力も相当強くなっているらしいから、ちゃんと防がないとこんな窓簡単にブチ破られてしまうからな。」

 

ハーツラビュル生達が走力を上げて寮内全ての窓や扉を塞ぎ、家具や戸板を寄せ集めてバリケードを完成させた頃には、すっかり日が暮れて辺りは暗くなっていた。生徒たちは自室に篭ったり、得体の知れぬ不安から大勢で集まっていたい者達は談話室に身を寄せ合って過ごしていた。

 

監督生とグリムは、寮の2階にあるエースとデュースの部屋に籠もっていた。4人部屋の他のルームメイトは隣の部屋の友人たちと共に談話室で過ごしているらしい。

いつも騒がしい4人はじっと黙って時が過ぎるのをひたすら待つ。1秒1秒が妙に長く感じていた。

 

「うう〜退屈なんだゾ。おいエース、スプークってやつはあの寮長のリドルがビビるほど怖えのか?よくわかんねーけど、この未来の大魔法士グリム様が全部ぶっ倒してやるんだゾ。」

 

ゾンビ映画は怖がって丸まっていたくせに、ファイティングポーズをとったグリムは勇ましげに猫パンチを虚空に放つ。

 

「オレも本物は見たことないけどさ。でも何年かに一回くらいスプークが出た、みたいなニュースはテレビで見たことあるよ。まさかこんな近くで発生するとは思わなかったな〜。」

 

「普通は発生しても1人か2人で、すぐに隔離されて魔力を注入する治療を受けられるんだ。既に十数人が噛まれているなんて、相当大きな被害だ。100年くらい前にはスプークによって森の奥の小さな町一つが無くなった事件もあるらしい。」

 

「町一つ無くなっちまうなんてヤベェんだゾ!」

 

威勢の良かったグリムは監督生にひっついて怯える。

 

「あ、それ俺も知ってる。確か狭い町だったから一気に広がっちゃったんだっけ。確か映画化もされてたよな。ええと検索検索…あれ、ちょっと電波悪いな。」

 

エースはスマホを取り出して、検索した映画のポスターを監督生に見せた。どんよりした曇天と霧が立ち込める森の中央にぼんやりと佇む青白い人影が映るシンプルでありながら不気味なポスターだった。

 

「こ…こんなのが近づいてくるのはカンベンなんだゾ…」

 

グリムは監督生の腹にギュウとしがみつきながら恐る恐るエースのスマホを覗き込んで言った。

 

「あれぇ〜?大魔法士になるグリム様が全部ぶっ倒してくれるんだろ?」

 

急に勢いを無くしたグリムをエースがからかう。

 

突如、静まり返っていた階下からドンドン、という音がして、寮全体が揺れるような衝撃を感じた。

 

「な…なんだ!?下の階…談話室か!?」

 

デュースは咄嗟に拳を握って立ち上がる。少し出遅れてエースもマジカルペンを取り出して扉の方に向けて構えた。

 

耳を澄ますと、遠くから大勢の悲鳴が聞こえる。4人は顔を見合わせた。

 

「何かあったのかな…?」

 

くっついてくるグリムを抱きしめながら、監督生が震える声で呟く。

デュースは扉に耳を当てて、外の様子を伺う。

 

「おいデュース。外でなんかあったとしても、こっから出るのはマズいんだゾ…」

 

「確かにここにいた方が安全かも知れない。でも、同じ寮のダチや先輩を放ってシラ切んのは違えんじゃねェか。」

 

デュースの口調が変わり始めた事に気がついたエースが、デュースの腕をとる。

 

「ちょちょちょ、デュースくーん?スイッチ入ってる。ワルスイッチ入っちゃってるから。一回戻ってこよう?」

 

「俺は行くぞ。ダチ見捨てて小さくなってるなんて、優等生のやる事じゃねーよ。おい、エース。そいつら頼むぞ。一発ブチかまして2度と立てねえようにノしてやるよ。」

 

優等生とは程遠い口調になったデュースは、勢いよく扉を開ける。

扉の外では、既にハーツラビュル寮生たちが逃げ惑っていた。

 

「デュース!エース!逃げろ!下の階は危ない!談話室の窓からスプークが入った!!」

 

別のクラスの1年生が叫びながら走り去る。階段の方からドタンバタンという音と、ガラスの割れる音、生徒たちの悲鳴が入り混じる。

阿鼻叫喚の惨劇に、2階にいた生徒たちはこぞって3階へ逃れようと談話室から遠い奥の階段へ向かって走ってゆく。

 

「…!もう遅かったか…!みんなはもう助からないのか!?」

 

廊下に出た4人は皆と同じように階段へ向かいながらも談話室に繋がる階段の方を振り返った。談話室の方から足をもつれさせながら階段を上ってきた生徒たちも3階へと向かおうとするが、そのうちの1人は階下から追ってきた"何か“に引きずり下ろされ、叫び声をあげながら消えていった。

 

「うげっ…もうすぐそこまで来てんじゃん…」

 

「とっ…とととにかく上に逃げるんだゾ。」

 

「デュースも早く来て!ここで捕まっちゃったら終わりだよ!」

 

監督生はグリムを抱えたまま、その場に留まろうとするデュースの腕を引っ張って走り出す。

デュースは階下から迫る"何か"に舌打ちしながら監督生に従った。

 

上に上がれば、とりあえずは安心だろう。上級生の部屋に立て籠もって、体勢を立て直してから立ち向かえば良い。

そう思っていた彼らは、3階に到着してみて唖然とする。そこに広がっていたのは、我先にと避難してきた生徒たちが、次々と虚な目をした上級生達に首元を齧られている光景だった。

鉄の匂いが充満して、彼らの足元は赤い絨毯を更に赤黒く染める血の海と化していた。

 

「きゃ…あ…!」

 

「うッ…ぷ…おぇっ…」

 

監督生は叫び出しそうな口を必死に押さえて悲鳴を止める。先頭を走っていたエースはあまりにも凄惨なその光景に思わずえずいた。

 

「この階はダメだ、このまま屋上に向かうぞ!」

 

腕を引かれて走っていたデュースが、今度は監督生の手を引いて更に階段を上る。

 

「でっ、でも上に上がってももう逃げ場が無いんだゾ!これ以上どーすんだ!」

 

「下に降りればもっと大惨事だ。広いところで戦うしかない!」

 

デュースはバン、と勢いよく屋上の扉を開け、4人は転がり込むようにして屋上に出た。後ろから他の生徒たちも押し寄せる。

 

「や…やべーじゃん…談話室も3階もダメって、この寮の中だけで何人スプークいんの!?」

 

「キミ達!無事だったか。スプークに噛まれていない者たちは集合するんだ!」

 

大挙する生徒達に混じって、寮長のリドルが屋上に現れる。

 

「ローズハート寮長!無事だったんですね。」

 

「ああ。談話室から侵入したスプークが、ウチの寮の生徒達を次々と襲っている。1階の談話室よりも奥の部屋に居た生徒は皆薔薇の迷路へ逃した。ここはボクが食い止めるから、キミ達はそこの非常階段を使って薔薇の迷路の中に逃げるんだ。ハーツラビュル寮生なら、あの中をどうやって抜けるのか、勿論おわかりだね?」

 

寮服を翻したリドルが階段から繋がる扉の前に仁王立ちする。屋上まで逃げ切った生徒たちはリドルの指示通り非常階段を使って下へ降り始める。

 

「おい、オレ達も早く行こうぜ!」

 

「わかってる。でも、ローズハート寮長はここに留まって大丈夫なのか?いくら強いとは言え、あの数のスプークを相手にするなんて…」

 

立ち止まったデュースがリドルを振り返る。幸いまだ屋上まではスプーク達は到達していないが、3階の惨状を見るにここが同じ状況になるのは時間の問題のように思えた。

 

「そんなこと言ってる場合じゃないんだゾ!早くこっち来い!」

 

グリムが監督生の腕の中で叫ぶ。他の生徒たちに倣って非常階段の方へ向かっていたエースが、にわかに足を止めた。

 

「え…ちょ、待って。階段の下!スプークいんじゃん!!」

 

監督生が屋上の手すりから身体を乗り出して下を見るエースの視線の先を追うと、スプークと化した生徒が、非常階段を降りてきた生徒を次々と羽交い締めにして首や腕に齧り付いている。

 

「ど、どーすんだよ!これじゃどこも逃げ場がないぞ!」

 

監督生も辺りを見回すが、他に安全に下へ降りる術はひとつも見当たらなかった。

 

「こうなっちゃ仕方ねえ。ローズハート寮長と一緒に向かってくる奴片っ端から倒すしかねえだろ。」

 

デュースはマジカルペンを握りしめて走り出す。

 

「おい正気かよ!こんな大群どうにもならねえって!なあ!」

 

絶叫しながらも他に方法を考え出せないエースはデュースの後を追う。

 

「カシラ!俺も一緒に命張るっす!ブチかましてやりましょう!」

 

不良スイッチの入ったデュースの威勢に一瞬気圧されたリドルは、咳払いをして階下からの足音に身構えた。

 

「デュース。なるほど、度胸がおありだね。だけど間違っても彼らを殺してしまってはいけないよ。皆自我はないがこのハーツラビュル寮の生徒たちなのだからね。学園長からの救援があるまで耐えるんだ。」

 

「押忍!」

 

「おいおいマジかよデュース…。おい監督生、グリム離さないようにして引っ込んでろよ。まあ、あいつらどっから湧き出るかわかんねーけど。」

 

戦う術のない監督生はこくこくと頷いてエースの影に隠れる。グリムは耳を垂らしたまま縮こまっていた。

 

間も無くして階段に繋がる扉から、生気のない青白い顔の生徒たちが、俯いて低い呻き声をあげながら押し寄せて来る。

 

「諸君。ハートの女王の厳格な精神にに基づいた我らハーツラビュル寮生が、そのような曲がった背筋で歩くことはこのボクが許さないよ。きっちり正してあげよう。」

 

押し寄せるスプークに怯む事なく立ち向かうリドルは、まばゆい光と共に彼らの足元に魔法を放つ。後ろに倒れ込んだ彼らの後ろに続くスプーク達がドミノ倒しのように折り重なって階段を転がり落ちていく。

 

「ひゅー!さすがリドル寮長!頼りになる〜!」

 

後ろから囃し立てるエースを振り返って、リドルが冷たい視線を送る。

 

「エース。茶化す余裕があるならキミも少しは役に立ったらどうだい。足を引っ張るようなら首を刎ねてしまうよ。」

 

「いや今首刎ねられたらシャレになんないっしょ…」

 

階段で折り重なって倒れたスプーク達の上を踏みつけて、後続のスプーク達が躊躇いなく階段を上って来る。

 

「出でよ、大釜!!」

 

デュースが出現させた大釜でスプーク達の足止めをしたところをリドルが魔法で薙ぎ払う、という戦法を繰り返して下の階から来るスプークたちを押し留める。

 

このまま押し切れば、なにがしかの救援が来るまで耐えられるかもしれない、と監督生は希望を抱く。

 

しかし、非常階段から逃げられずに戻ってきた生徒がにわかに叫び始めた。非常階段の下にいたスプーク達は、捕まえた生徒たちの魔力を吸い尽くし、更なる魔力の気配を感じて屋上に上って追ってきたのである。

 

「げえっ、あっちもかよ…やべえ…。」

 

非常階段を使って降りようとした生徒たちもスプークと化して戻ってきたため、その数は格段に増えていた。

屋上に戻ってきた生徒たちもなんとかスプークを押し留めようと奮戦するが、次々と齧り付かれて生気を失う。

エースは監督生とグリムを後ろに庇いながら風の魔法でスプークらを牽制するが、徐々に彼らは屋上の端へ追い詰められた。同時に、圧倒的な数の差を見せつけてくるかのようにもう一つの階段から押し寄せるスプーク達に、リドルとデュースも追い詰められてゆく。

 

一か所に固まった彼らは、魔法を放って牽制を続ける。気がつけばリドルとエース、デュース、監督生にグリムの5人以外は全員がスプークと化して彼らを追い詰めていた。

 

「くそ、数が多すぎる!」

 

「ふな゛ーーっ!もうお手上げなんだゾ!オレさま、食っても全然美味しくないんだゾ…。食うならオレ様の子分の方が絶対美味しいんだゾ…」

 

監督生はしれっと彼女を売るグリムに突っ込むような余裕も無く固まる。エースは彼女に背を押しつけて彼女をスプークらの視線から隠し、背後に広がる薔薇の迷路の方に視線をやった。

 

「リドル寮長、薔薇の迷路の方ってまだこいつらいないんすよね?」

 

「トレイがあの辺りのバリケード付近を監視しているはずだけれど、今のところ被害報告はない。理性のないスプークにあの場所を抜ける事は難しいらしいからね。」

 

リドルの言葉を聞いたエースは警戒しながら後ろ手に持ったマジカルペンを監督生に向ける。

 

「え、エース?どうしたの。」

 

「監督生、こっから飛び降りて先に薔薇の迷路の中入っとけ。後から追いかけるから。」

 

エースは監督生に視線を流す。いつになく真剣な表情だった。

 

「ちょ、ちょっとエース!?」

 

「ふな゛ッ!?ここは屋上なんだゾ!飛び降りたらペシャンコに決まってるだろーが!」

 

「だーいじょうぶだって。オレの風の魔法で飛ばして、良い感じにふんわり着地させてやるから。お前がいると狭くて戦いづれーんだわ。」

 

「で、でも、みんなは!?」

 

グリムを抱えたままの監督生がキョロキョロとデュースやリドルにも視線を向ける。

 

「大丈夫。ボクを誰だとお思いだい?」

 

「ああ、僕たちなら心配ない。早く行け!」

 

デュースとリドルはそれぞれ魔法を放ちながら少しだけ監督生と目を合わせた。

 

「よし、んなわけで後でな、監督生。あとグリムも。」

 

エースがマジカルペンを振りながら、監督生をひょいと抱え上げて手すりの向こうへ放り投げる。下へ下へと重力のままに落ちていく監督生の身体は、途中で発生した強い旋風によって落下速度を緩め、入り組んだ薔薇の迷路の植え込みの中へと落ちていった。

 

「ふな゛あ゛あ゛ぁ〜〜!ぐえっ!」

 

「良い感じにふんわり」とエースが言った落下は思いの外勢いがよく、監督生は思わずグリムを抱える手を放してしまった。

確かに3階建ての屋上から落下した割には怪我もなく落ちて来られたのだから「ふんわりとした」着地ではあったのかも知れない。

監督生の手から離れて地面に2回バウンドして着地したグリムは、涙目になりながら打ち付けた背中を短い腕を伸ばしてさすった。

 

「いってえ〜〜!エースの奴、後で会ったら覚悟するんだゾ!」

 

監督生はまだ屋上にいるエースらの方を見上げる。下からでは彼らの様子は窺い知ることが出来なかった。

 

「大丈夫かな、エース達。」

 

「あいつらなら、いかにもマズそうな匂いしかしないからスプークも尻尾巻いて逃げるに決まってるんだゾ。」

 

監督生は、放り込まれた薔薇の迷路を見渡す。くねくねと入り組んだ植え込みはまさに迷路といった複雑な道を作り出していた。

 

リドルは先程「ハーツラビュル寮生なら薔薇の迷路を抜けられる」と言っていたが、オンボロ寮で生活する監督生とグリムには、この迷路をどう抜ければ安全な場所まで行けるのか、皆目見当がつかなかった。

 

下手に進んで迷うのも怖いし、スプークに出くわすのも恐ろしい。

 

立ち尽くして戸惑っていると、植え込みからガサガサと音がした。

 

「ひ…っ!」

 

「お、オレさま食われたくないんだゾ!」

 

恐怖に抱き合う彼女たちの前にひょっこりと現れたのは、オレンジ色の前髪を上げた、緑色の瞳の青年だった。

 

「あれ?監督生ちゃんとグリちゃんじゃん。こんな所でどうしたの?」

 

状況にそぐわぬ明るい声で言ったのは、3年生のケイト・ダイヤモンドだった。

 

「ケイト先輩!寮の中が大変なの!エースやデュースも、リドル寮長もまだ屋上に…!」

 

「あー、やっぱそうなんだ。さっきリドルくんから連絡あったんだよね。寮生たちの避難を頼む、こっちには絶対に来るな、ってさ。」

 

「そんな…このままじゃみんながやられちゃう!」

 

「わかってる。でもあれだけの大群、学園長とか先生たちだって倒せるかわかんないよ。とにかく今は1人でも多くみんなを避難させないとさ…」

 

強大な魔力を持つ学園長ですら彼らを助けられるかわからないというのなら、彼らの末路は明らかだった。

 

「どうしよう…やっぱりエース達を残してきちゃいけなかったかな。」

 

「とにかく監督生ちゃんも向こうに避難しよ?うちの寮生ちゃん達も、無事な子はみんなクロッケー場の方に集めてるんだ。みんなガチで逃げ回ってるから探すの超タイヘンでさ…あ、監督生ちゃん見つけたよっと。」

 

ケイトは監督生の手を引き、足早に歩き始める。同時にスマホを起動して手早く監督生と2人で映る自撮り写真を撮りマジカメにアップロードした。

 

「#NRC #VSスプーク #監督生ちゃん発見 #けーくんお手柄 …っと。なんかさ、さっきから超電波悪いんだよね〜サイアク。」

 

「こ…コイツこんな時にまで写真撮ってるんだゾ…」

 

監督生は手を引かれるままクロッケー場の方へ向かう。エース達の事は気がかりだが、ケイトのおかげでこの迷路の勝手も分からず右往左往せずに済んだ事は幸運であっただろう。

 

しかし、軽い足取りで小走りしていたケイトが、突如息を飲んで足を止めた。柔和で明るい顔がピシリと硬い表情に変わる。

 

「ケイト先輩?」

 

「しッ…静かにして。」

 

ケイトは監督生の手を握ったまま、姿勢を低くして辺りを見回す。監督生もそれに倣って辺りを見回す。

 

彼女らの左側の植え込みの下から、黒い革靴がチラリと覗いた。よく耳を澄ませば背後の方から足を引き摺って歩くような足音がする。右側の植え込みの木がユサユサと揺れた。

 

「…やば。」

 

低い声で呟いたケイトは、監督生の手をしっかり握り直して全速力で前方へ走った。

監督生が後ろを振り向いてみれば、数体のスプークが、先ほどまで彼らの立っていた位置のあたりに佇んでいた。あのまま留まっていれば命は無かっただろう。

ケイトは走りながらスマホを取り出し、通話ボタンを押して話し始める。

 

「もしもしトレイ?オレ。…うん、迷路まで入って来ちゃった。マジマジ。今監督生ちゃんもいるの。…そう、オンボロ寮の。うん…うん。わかった、さっきの場所ね。」

 

同じ3年でハーツラビュル寮の副寮長であるトレイ・クローバーと通話をしていたらしいケイトは、通話を終えて後ろを振り返る。監督生もそれに倣って後ろを見れば、いつのまにか集まったスプークは10人ほどに増えて彼女らを追ってきていた。

 

「ええ〜〜めっちゃ増えてんじゃん。とりま散らばしておけば時間稼ぎにはなるっしょ。"スプリット・カード"!」

 

ケイトがマジカルペンを振ると、彼の分身が4人出現する。

 

「はーい、オレくんたち、散開〜〜!時間稼いできてー!」

 

「りょーかい!」

 

「おけまる〜!」

 

ケイトの号令に、彼の分身たちはニコリと笑って手を振り、別々の方向へ散らばっていく。ケイトの分身を追ったスプークたちは、それぞれの方向へ分かれて行ったため、ケイト本人と監督生、グリムを追うスプークはいなくなった。

 

「さ、監督生ちゃんこっちこっち〜!」

 

入り組む薔薇の迷路の中をひたすら走った監督生たちは、迷路の中で唯一白いバラの咲く木の前で止まった。木陰からトレイが顔を出す。

 

「トレイ先輩!」

 

「お前たち、よく無事だったな。あいつらにこの薔薇の迷路を突破されるのも時間の問題だが…とりあえず避難しよう。」

 

「なんかやっぱさっきより数増えてんだよねぇ…魔法で誤魔化して撒いてきたけど、けーくんの魔力的にそろそろ限界かも。さっさと逃げよ。」

 

3年生2人に先導されながらついていく監督生は、キョロキョロと辺りを見回す。ケイトの言う通り周辺の植え込みがガサガサと音を立てる頻度が増えてきている。植え込みの反対側にスプークがいるのだろう。暗くてよく見えないが、スプーク達が彼らを探して回っているのは明らかだった。

 

「止まれ!」

 

「わ、どうしたんですか?」

 

突如、狭い道の先頭を走るトレイがピタリと足を止めた。つんのめったケイトと監督生はトレイの背中に追突する。

 

トレイは前方から目を逸らさずに口元に人差し指を当てる。監督生は彼の視線の先を追った。

そこには俯いたハーツラビュル寮生が1人立っていた。

 

「お前は…1年生だな。どうした、クロッケー場で何かあったのか?」

 

彼はトレイの問いかけに答えず、俯いたままの姿勢を崩さない。

 

「な、なんでアイツ、何にも言わないんだ…?」

 

グリムが震えた声を出すが、彼が正常なのか否かは態度からも明らかだった。

ジリ、とトレイが半歩後ろに退がる。その動きを察知した生徒が、目にも止まらぬ早さで一同に向かってきた。

 

「まずい、逃げるぞ!」

 

もと来た道へ引き返すトレイとケイトに、監督生は必死でついていく。

迷路の十字路に差し掛かると、左右の角にいたスプーク達も彼らを見つけて追いかけ始める。

 

「…っ、こっちに行くしかないのか!?」

 

少し逡巡したトレイは、追ってくるスプークを振り切るようにして直進の道を選ぶ。

 

「え、待ってよトレイ!そっちって行き止まりじゃん!」

 

「仕方がないだろう。とりあえず突き当たりまで行って植え込みを登る!」

 

曲がりくねった複雑な道を走る。トレイはふと気づいて横道に逸れ、ぐるぐると渦巻く薔薇のような植え込みの中にしゃがみこんで身を隠した。

 

動きの単純なスプークたちはそれだけの事で彼らを見失い、彼らの横を通り過ぎて行った。

 

「何アレちょーヤバくない!?なんかさっきより足速いし!」

 

「アイツ、確か陸上部じゃなかったか…?元々足が速い奴はスプークになっても速いのかもな。厄介だ。」

 

「ううう…もうオレさま懲り懲りなんだゾ…」

 

息を整えながら周りの様子を伺う。あちこちから足を引き摺るような足音と、低い呻き声が聞こえて来る。それらは徐々に彼らの方へ近づいてきていた。

 

「あ…あの、なんか、もしかして取り囲まれてます…?」

 

「みたいだな。俺たちの気配がバレているのか…。」

 

トレイは周りを見渡しながらマジカルペンを取り出す。

 

「"ドゥードゥル・スート"!」

 

「ふな゛っ…?オメー、今何したんだゾ?」

 

「俺たちの気配を、周りの植物の気配に置き換えたんだ。今あいつらは俺たちの事をただの植物だと思ってるはずだ。」

 

立ち上がったトレイは、すぐ近くを歩いていたスプークが彼に気がつかない事を確認する。

 

「にゃに!?オメー、なかなかやるな!これでもうあいつらに追いかけられなくて済むんだゾ!」

 

「とはいえ効果は短時間だよ。監督生、案内してやるから今のうちに薔薇の迷路を抜けて、鏡舎まで戻れ。向こうもどうなっているか分からないが、ここよりはマシなはずだ。」

 

「トレイ先輩!でも…」

 

「そういえば他の寮ってどうなってるんだろうね?安全なとこあるかな?」

 

ケイトはもう一度スマホを取り出して、電波の状態を確認する。

 

「うわもう圏外じゃん、萎え。監督生ちゃん、この寮以外にも友達いるでしょ?適当に行って、安全そうなとこで匿って貰いなよ。」

 

「で、でも。ケイト先輩たちはどうするの?」

 

「俺たちは他の寮生たちでまだ生き残ってる奴を探して助け出さないといけないからな。とりあえずお前たちだけでも先に逃げろ。」

 

「そんな、危険ですよ!」

 

トレイとケイトが走り出す。監督生も後を追いながら声をあげる。

 

「でも監督生、オレ様たちが残ったところで何にも出来ないんだゾ。ならさっさと逃げた方が賢いってもんだゾ。」

 

「そうそう、そゆこと!どっか良い場所あったらマジカメに載せといて。オレらも行くから。」

 

薔薇の迷路を抜け、視界が開ける。その場に広がる光景に、一同は言葉を失った。

おそらく一足先に鏡舎へ避難しようとしたのであろう生徒たちが、鏡の向こうから侵入してきたスプークたちに足を引き摺られ、次々と齧り付かれているところだったのだ。

 

「…っ、ここもダメか…」

 

彼らの存在に気がついたスプーク達が向かってくる。トレイの魔法の効果が切れたのだ。

背後の薔薇の迷路からも、彼の気配に気がついたスプークが押し寄せてくる。

 

「囲まれたんだゾ!オレ様たち、コイツらのエサになっちまうのか?」

 

「とほほ…しょーがない、監督生ちゃん、グリちゃん、オレの転移魔法で適当に飛ばすから、あとは自分たちで何とかして!」

 

「ケイト先輩!」

 

ケイトがマジカルペンを振る。監督生とグリムの周りを光が包んで、2人はその場から姿を消した。

 

「さーてトレイくん、あとはオレたちで出来るとこまで頑張ろっか。」

 

「ああ…ところであいつらの転移先はどこにしたんだ?」

 

「オレにもよくわかんないんだよね。転移魔法とかこの前ちょろっと習っただけじゃん?」

 

「おいおい…ここより危険な所じゃなきゃいいけどな…」

 

ケイトはトレイと背中を合わせて押し寄せるスプークと向き合う。3年生2人は、マジカルペンを振って、魔力の限り攻撃魔法を放ち続けた。

 

2日目 サバナクロー

 

監督生は、頬に触れる乾いた強い風に気がついて目を覚ました。空気に混じる砂塵の埃っぽさに顔を顰める。

 

「あ、目ェ覚めたッスか、監督生くん!」

 

彼女が起き上がるより先に、彼女を覗き込む明るい茶髪をした獣人の青年が視界に入ってきた。監督生が身体を起こすと、その横には銀髪で目つきの鋭い青年が腕を組んでこちらを見ている。

 

「あ…!ラギー先輩!ジャックも!」

 

「こんな所に寝っ転がってどうしたんスか?風邪引いちゃうッスよ。」

 

監督生はあたりをキョロキョロと見渡した。彼女にはこの場所に覚えがあった。広い空と、岩を積み上げて造ったような建物。風に舞う砂埃。

 

「サバナクロー寮に飛ばされて来たんだ…」

 

監督生が自分の横に目をやると、砂に半分体が埋まっていたグリムが、足をジタバタと動かして砂の中から脱出した。

 

「んべっ!口の中に砂が入ったんだゾ…」

 

「もしかして、オンボロ寮もハーツラビュルみたいに奴らにやられたのか?」

 

サバナクロー寮の1年生ジャック・ハウルは、グリムの首根っこを雑に掴んで身体中にまとわりついた砂を振り落としてやった。

 

「ジャック、ハーツラビュルのこと何か知ってるの!?」

 

「いや、ハーツラビュル寮内にスプークが出たらしいって事しか。つーか絶対に寮から出んなって言われてっから全然情報がねェ。スマホも圏外になっちまったし。」

 

「まあでもあのリドルくんもいる訳だし、何とかなってるんじゃないスかね。先生たちも対策に行ってる訳でしょ?」

 

2人の様子を見るに、ハーツラビュル寮で起こった惨劇については他寮に伝わっていないらしい。グリムと監督生は2人に詰め寄る。

 

「ハーツラビュルはもうみんなスプークにやられちゃったの。たぶん、リドル寮長も。ここだっていつスプークが入ってくるか分からない!すぐに逃げられるように準備をした方がいいよ。」

 

「なッ…!?そんな事になってるのかよ。」

 

「オメーら、スプークを甘く見てたらあっという間に食われちまうんだゾ!」

 

2人の切迫した様子に気圧されながら、2年生のラギー・ブッチは監督生の前に両手を出して制す。

 

「お、落ち着くッスよ、監督生くん、グリムくん。そりゃあすぐに学園外に逃げられる準備くらいはした方がいいんでしょうけどレオナさんが、ねぇ…?」

 

困ったような表情のラギーは同意を求めるようにジャックに目を遣る。ジャックも呆れたように頷く。

 

「アイツがどうかしたんだゾ?」

 

「レオナさん、寮から出られなくなって暇になったからって部屋から一歩も出ずにゴロゴロ寝てるんスよ。まあ、いつもの事っちゃいつもの事ッスけどね。」

 

「そんな呑気なことしてる場合じゃない!今すぐレオナ先輩を動かさないと!」

 

監督生はグリムを抱いたまま立ち上がり、スカートに付いた砂を払い落とすこともせずに寮内へ駆け出す。

 

「あ、ちょっと、監督生くーん?」

 

ラギーとジャックは遅れて彼女の後を追った。

寮の奥にあるサバナクローの寮長、レオナ・キングスカラーの部屋の扉を勢いよく開けた監督生は、尻尾をゆらゆらとさせながら眠るレオナの耳元で叫ぶ。

 

「起きて!レオナ先輩!」

 

「おい!グータラ寝てる場合じゃないんだゾ!」

 

にわかに部屋の中が騒がしくなった事に顔を顰めたレオナは、手元にあった枕で耳を塞ぎながら寝返りをうってうつ伏せになる。

 

「るせェな…オイ、ラギー。部屋に誰も入れんなっつったろ。」

 

極めて不機嫌そうな低い声が枕の下から聞こえる。状況を分かっていないのだと理解した監督生は、眠るレオナの肩を揺する。

 

「ねえ!レオナ先輩ってば!!」

 

「ガルルル!!」

 

身体に触れられたレオナは飛び起きて獣のように唸り、目にも止まらぬ速さで監督生の手首を掴んで寝台に縫い付けた。

 

「…あ?」

 

恐怖の表情で目を見開く監督生を視認したレオナは殺気を収めて寝台に寝転がり、抱き上げた監督生を腹の上に乗せて大きな欠伸をした。

 

「テメェかよ。草食動物が気安く触ってくるんじゃねぇ。」

 

レオナの腹の上に座らされた監督生は所在なさげに戸惑いながらも、もう一度レオナに呼びかける。

 

「レオナ先輩!学園内にスプークが出たんです!ハーツラビュル寮も、たぶんリドル寮長もみんなやられちゃって…サバナクローの皆も、早く避難しないと!」

 

「ハッ。あの赤毛の坊ちゃんが?みんなでニコニコ仲良く茶なんか飲んでるからそんな事になるんだろうよ。」

 

興味なさげに鼻で笑ったレオナはベッドサイドに置いてあった水を飲んで、再び目を閉じた。

 

「ふなっ!オメー、ちょっと強えからってナメてたら痛い目に遭うんだゾ!」

 

「じゃあどこに何が居るかも知れねェ外にわざわざ出てスタコラ逃げんのか?学園外が化け物まみれだったらどうする?どこにいたって変わりゃしねェよ。来たら倒すだけだろうが。」

 

テコでも動こうとしないレオナにやきもきとする監督生は、彼の部屋から小さく見えるマジフト場に視線をやる。

 

どうやらサバナクロー生達は普段と変わらずにマジフトの練習に勤しんでいるらしい。少し小高い場所にあるマジフト場のゴール周辺を飛び回る寮生達の姿が見えた。

ラギーとジャックは監督生の方を心配そうに見守るが、それはライオンの腹の上に乗せられた草食動物への憐れみからであって、スプークの件は特に何も案じていないらしい。

つまり、このサバナクロー寮全体が、まだスプークの脅威をどこか対岸の火事のように捉えているのだ。

 

「それでも、やれる事はやるべきですよ。後で後悔するような事になっちゃったら…!」

 

ハーツラビュルでの惨劇を目の当たりにしたばかりの監督生は声を荒げて仰向けに眠るレオナの上に覆いかぶさるように寝台に手をつく。

気怠そうに片目を開けたレオナは、監督生の制服のネクタイをグイと引っ張って牙を剥いた。

 

「草食動物がライオンの狩りの方法にケチつけてんじゃねェよ。テメェから喰ってやろうか?」

 

レオナは威圧するように低く言いながら、反対の手で監督生の頬を掴んだ。

 

「ちょちょ、レオナさーん?やり過ぎやり過ぎ。」

 

しかし監督生はそれに怯むことなく頬に触れてくるレオナの指に噛み付く。

 

「あ…!」

 

「マジかよ…」

 

驚いたラギーとジャックが同時に声を上げる。

 

「にゃっはー!ざまァみろなんだゾ!」

 

「ほら、油断していたからこんな草食動物に噛みつかれるんですよ。舐めてかかってレオナ先輩が大変な思いをするだけなら自己責任だけど、他の寮生に安全な環境を与えるのは群れのボスである貴方の役割でしょ。」

 

レオナは毅然として言い放つ監督生を寝台の上から振り落とすと、彼女に背を向けるように寝返りをうつ。

 

「ったく、面倒くせェな。オイ、ラギー。この草食動物共の好きにやらせてやれよ。避難場所でもバリケードでも罠でも、こいつらが満足するまで作らせてやれ。」

 

「えぇ…?ああ、ハイ、了解ッス。」

 

急に名指しされたラギーは少々戸惑いながらも監督生を手招きし、レオナの部屋から退出させた。

レオナは尻尾をパタリと振ると、大きく伸びをして再び寝に入った。

 

監督生は走り出して、サバナクロー寮内を見て回る。ラギーとジャックはその後を小走りでついて回った。

 

「監督生くん、スプークの対策って言っても何をすれば良いんスかね?」

 

ラギーは寮の窓の大きさをひとつひとつ確認する監督生に声をかける。

 

「レオナ先輩の言う通り、今この学園内外にどのくらいのスプークがいるのかはよく分かりません。昨日ハーツラビュル寮にいたときは、鏡の間に繋がる鏡からもスプークが来るのを見たの。という事は、まずは鏡を塞ぐこと、それでも破られた時のためにスプークをおびき寄せる場所を作ること、そこで時間を稼いでいる間に全員が逃げられる安全な場所を作ること、の3つが大事だと思います。」

 

「結構タイヘンそうッスね。スプークって言ったって、元はトロい人間でしょ?オレたちみたいな獣人は何もしなくても充分逃げられると思うんスけどねえ。監督生くんとグリムくんくらいなら、最悪背負って逃げてあげるッスよ。そこのジャックくんが。」

 

「な、なんで俺が。でも、まあ同学年のよしみだ。お前ら位なら連れて逃げてやってもいいぞ。」

 

「確かにサバナクローの皆は普通のスプークから逃げるのにはそれほど苦労しないかもしれない。でも、もしもサバナクロー寮生がスプークに噛まれてしまったら、かなりのスピードを持つスプークになっちゃうかもしれません。それがサバナクローに広がっちゃったら大変な事になる。とにかく1人も、サバナクローから感染者を出さない事が大切です。」

 

監督生は高い位置にある小窓の大きさを確認しようと手を伸ばすが、届かずにジャックに目配せする。ジャックは憮然とした表情のまま監督生をひょいと肩に乗せて立ち上がった。

 

「なんか随分詳しいッスね。監督生くんのいた世界だとスプークはよく出るんスか?」

 

「いえ、スプークの存在は昨日初めて知りました。でも、スプークに似たゾンビっていうモンスターが出てくる映画をよく見ていたんです。もしかしたら、映画で観ていたゾンビ対策が役に立つかもって思って。」

 

「へえ。そんな映画があんのか。」

 

「こっちの世界にもあるけど、あまり知られていないみたいだね。」

 

「ゾンビの事ならコイツに任せておけば間違いないんだゾ。」

 

いくつかの建物が点在するサバナクロー寮内の、ひと通りの窓や扉の位置を把握した監督生は寮の正面に戻る。

 

「それじゃあ、まずは鏡舎につながる鏡と、寮の2つの出入り口以外の扉や窓を全部封鎖しましょう。基本的にはこの寮で立て篭もって、鏡舎と繋がる鏡からスプークが入って来ないか監視します。万一入ってきてしまったら、この寮はスプークの足止め場所として使って、スプークがもたついている間にみんなで別の避難所に逃げるの。

出来れば鏡から寮の入り口までは一本道になるようにバリケードで道を作りたい。スプークがあちこちに行ってしまったら避難先を嗅ぎ付けられてしまうかも知れないから、鏡舎から来たスプークは、全員寮に封じ込めるのが理想なの。

ジャック、寮にある椅子とか机みたいなのを集められる?」

 

「わかった。」

 

「人手が沢山必要になるから、ラギー先輩はサバナクロー生を皆集めて下さい。全員で作業にあたります。」

 

頭の後ろに手を組んでついて回っていたラギーは途端に面倒くさそうな顔をする。

 

「えっ。オレもやるんスか?あんまり気乗りしないッスねぇ…」

 

「ふな゛っ!?オメー、自分の寮のピンチなのに何寝ぼけたこと言ってるんだぁ?」

 

「いやだって、レオナさんのお世話とかあるんで、オレ結構忙しいんスよ。」

 

明らかに楽をしたがっているだけのラギーに、監督生は怒る訳でもなく無表情のまま詰め寄る。

 

「ラギー先輩、よく考えてください。もしこの学園が前代未聞のスプーク事件を起こしたとすれば、この学園の名門魔法士養成学校としての権威は失墜します。そうしたら、せっかく生き延びて卒業を迎えたとしても、そんな問題のある学校の生徒なんて、就職に不利に決まっています。」

 

「ま、まあ…そりゃそうかも知れないッスけど…」

 

「それに。もしラギー先輩が先陣を切ってスプーク対策に貢献した実績があれば、絶対大企業から引く手数多になりますよ。やって損はないと思いますけど。」

 

ラギーは監督生の静かな勢いに気圧され肩を竦める。

 

「はぁ〜…わかったッスよ、やれば良いんでしょ…。」

 

乗り気ではないラギーが寮内とマジフト場を駆け回って声を掛けた寮生たちが監督生の前に集まる。

身体の大きなサバナクロー生たちが監督生を取り囲む様は、さながら肉食動物の群れに追い詰められた獲物のようであった。

 

「うぐぐ、改めて全員集まるとスゲェ迫力なんだゾ…」

 

尻尾を後ろ足に挟んで縮こまるグリムが、監督生の足にまとわりつく。監督生も威圧感に少々固まりながらも呼びかける。

 

「え、ええと。皆さん、スプークから身を守るために、全員で協力して対策をしましょう!」

 

「めんどくせえ。何でこんな事やんなきゃいけねーの。」

 

やや食い気味に声を上げたのは、監督生と同じクラスのサバナクロー生だ。同調した生徒たちがザワザワと沸き立つ。

 

「そうだそうだ、学園長は寮に引き篭もってろっつってたぞ。やるだけ無駄だろ。」

 

「俺別にスプークに噛まれねーし。噛まれたとしても余裕っしょ。スプーク化する奴とか軟弱すぎね?」

 

「つーか俺ハーツラビュルの細い連中がスプークになって出てきても秒で殺れるわ。」

 

気怠そうに腕を組んで監督生に反論する者や、全く関係のない話で盛り上がる者、その場を去ろうとする者。誰一人として監督生に肯定的な態度を取る者はいなかった。

 

「コイツら、ハーツラビュルの連中とエライ違いなんだゾ…」

 

グリムが呆れたように呟く。彼の言う通り、寮長のリドルを中心としたハーツラビュル寮生の統制は見事なものだった。リドルに首を刎ねられたくない、という理由で従っていた者も少なくなかったのだろうが。

 

ガヤガヤと騒ぎだし、監督生の話を聞く気のない寮生たちに、彼女は声を張り上げる。

 

「みんな聞いて!ここにいる全員が生き残るために最善を尽くさないと!!自分は絶対大丈夫、って思ってるその自信の根拠は何!?もしかしたら、今貴方の隣にいる友達や先輩がスプークになって襲ってくるかも知れない。もしレオナ先輩がスプークになって襲ってきたら逃げられる自信のある人はいる!?」

 

監督生の話を話半分に聞いていたサバナクロー生は、レオナの名にどよめく。彼ほどのスピードとパワーを持ち合わせた者に襲われることの恐ろしさは、常に彼と共にあるサバナクロー生たちにはよくわかっていた。

 

「全然知らない人や他寮生だけが相手じゃない。同じ寮の仲間が敵になってしまうかも知れないの。そんなの…」

 

そこまで言いかけた監督生の首根っこを、背後から大きな手が掴んでヒョイと持ち上げた。

 

「オイ、勝手に俺を化け物にしてんじゃねぇよ。」

 

レオナは監督生に顔を近づけてグルルと喉を鳴らす。

 

「あ、レオナさん。起きたんスね。」 

 

レオナの登場に、サバナクロー生たちは水を打ったように静まり返った。

 

「テメェらが騒ぐからうるさくて目が覚めちまったんだろうが。ったく、人の昼寝の邪魔すんじゃねえ。全員さっさとコイツの言う通りに動いて終わらせろ。次にゴチャゴチャ言ったらタダじゃおかねェからな。」

 

監督生を雑に放り投げると、レオナはくるりと背を向けて寮の方へ向かっていく。

呆然とした監督生やサバナクロー生たちは沈黙したまま彼の背を見ていた。レオナはチラリと彼らの方を振り返って一喝する。

 

「オラ、どうした!さっさと動け!!」

 

「は…はいッ!!」

 

「じゃ、じゃあ、寮の窓を塞ぐメンバーと、鏡と寮までの道を塞ぐメンバーに分かれるッスよ!ジャックくんはそっちを頼むッス。」

 

「…っス!」

 

太い声を揃えて返事をしたサバナクロー生たちは、ラギーやジャックの先導でスプーク対策に取りかかり始めた。

 

監督生は小走りでレオナの方へ駆け寄る。

 

「あ、あの!レオナ先輩、ありがとうございます。」

 

レオナの鶴の一声(否、正確には獅子の一声だろうか)が無ければ、荒くれ者のサバナクロー生たちを動かす事は出来なかっただろう。

レオナは監督生の声に耳をピクリと動かすが、監督生の方は見ずにため息を一つついた。

 

「別にテメェのためじゃねえ。テメェらがまた俺の部屋の前で朝までキャンキャン騒ぎだしたら、たまったモンじゃねえからな。」

 

レオナは大きく一つ伸びをして寮の中へ消えていく。振り返って作業に加わろうとした監督生を、ラギーがニヤニヤとした笑顔で見ていた。

 

「シシシ、キミもなかなかの猛獣使いッスね。こんな問題児だらけのウチの寮生を動かすなんて、大したモンッスよ。」

 

「結局私は何もしていません。レオナ先輩がみんなに言ってくれたから動いてくれたんです。」

 

「イヤイヤ、そのレオナさんを動かしたのが凄いんでしょ。レオナさん、ああ言ってたけど、さっきキミに指噛まれて説教されたのが結構響いてるんじゃないスか。痛快痛快。シシシ。」

 

口元に手を当てて悪戯っぽく笑ったラギーは、彼女の横に置いてあった板と釘を抱えて鏡の方へ向かっていく。監督生もグリムを連れて寮の中を回り、寮生たちに窓や扉の封鎖を指示する。

 

「監督生。寮の外は終わった。確認してくれ。」

 

ジャックに声をかけられた監督生は寮の外に出る。元々力自慢の揃うサバナクロー生の手によって封鎖される窓や扉はしっかりと外部からの侵入を防ぎ、積み上げられたバリケードもちょっとやそっとでは崩れそうにない頑丈な造りになっていた。

 

「すごい!さすがサバナクロー!伊達に肉体派謳ってないね。」

 

「このくらい朝飯前だ。獣人舐めんじゃねえ。」

 

ジャックは視線を逸らして憮然とした顔で頭を掻くが、銀色の尻尾は態度と裏腹にパタパタと揺れていた。

 

「だったら何で最初から素直にやらないんだゾ。このグリム様に手間かけさせやがって、まったく。」

 

「こら、グリム。喧嘩売らないの。」

 

監督生はいきりたつグリムを抱き上げて宥める。ジャックはグリムの態度に怒るでもなく、腕を組んで考え込んだ。

 

「いや、いい。確かにその通りだ。お前達が来てこうして動いてくれたこと、俺は感謝してる。お前らが居なかったら、なんの対策もせずにダラダラ時間を無駄にするだけだったからな。被害を最小限にして早くこの騒ぎを収束させねえと、来週からの授業にも響く。」

 

ジャックの言葉で、監督生は今日が連休の2日目だった事に気がつく。

なんて酷い休日なんだろう。予定では今日もエースやデュース達と食堂で錬金術の再テスト対策をする予定だった。スプーク騒ぎでテストがなくなるかもしれない事を喜んでいた昨日が遠い昔の事のようだ。

ハーツラビュル寮の屋上から、余裕ぶった笑顔で監督生を放り投げた親友たちの顔を思い出した監督生は、一瞬だけ鼻の奥がツンとするのを感じた。

 

「そうだね。早く戻って再テストの勉強しなきゃ。」

 

「ふなっ!?こんな事の後なんだからさすがにテストは延期になって欲しいんだゾ…」

 

「ああ、そういえばお前ら、錬金術最下位bad boysのメンバーだったな。」

 

「え、何そのダサいアイドルグループみたいな名前。不名誉にも程があるんだけど。」

 

真顔で言うジャックの言葉に監督生は思わず吹き出した。

ふとジャックの足元を見れば、長身の彼の影は更に長くなっていた。もう夕方なのだ。

 

「ねえ、暗くなる前に、寮生全員が逃げられる避難場所を作っておきたいの。場所を探したいからホウキに乗せて貰えないかな?」

 

「別に構わねェが、そこのマジフト場はどうだ?全員入れるくらいの広さはあるぞ。」

 

「出来ればずっと遠いところがいい。サバナクローの人たちはマジフト部も多いし、飛行術はみんな得意でしょ?スプークを寮に足止めしている間にうんと遠いところに逃げた方が安心だと思う。ハーツラビュルは寮に近いクロッケー場に逃げた生徒も襲われちゃってるから。」

 

監督生の頼みを聞き入れたジャックは、ラギーに声をかけてホウキを持ち出す。監督生とグリムはジャックの肩に掴まってふわりと宙に浮いた。

 

「おおおー!良い眺めなんだゾ!」

 

「ほんと!風が気持ちいいね。」

 

ホウキの上からサバナクロー寮を見下ろした2人は楽しそうな声をあげる。

 

「おい、大人しく乗っとけ。落ちても知らねェぞ。」

 

監督生はぐんぐんと上がる高度と共に広がる視界の中を見回し、避難に適切な場所を探し回る。

 

「あ!ジャック、あの辺!あの川沿いの洞窟に下りて!」

 

ジャックは監督生が指を指す先に向かって急降下する。飛ばされそうになったグリムがジャックの尻尾にしがみ付いた。

 

監督生が見つけた洞窟は、入口が狭く、奥に行くほど空洞が広がる大きな洞窟だった。入り口から確認しただけだが、奥の方からは水が流れる音もする。湧水があるのかもしれない。

 

「おおー!広くて声が響くんだゾ!にゃー!ふなーッ!」

 

グリムの声が洞窟の奥まで反響して、耳の良いジャックはその騒音に顔を顰める。

 

「デカい声出すな。でもまあ、これならウチの寮生みんな入ってもまだ余裕ありそうだな。」

 

「良い場所があって良かった。とりあえず今日は入り口の辺りにランプを置いておいて、何かあったときの目印にする。明日、みんなでここに非常食なんかを運び込んで避難場所を作ればひとまず安心かな。」

 

監督生はサバナクロー寮にあったランプを2つ、入り口に置いた。

ジャックのホウキに乗った監督生は寮までの道の途中途中でジャックに声をかけて一旦降り立ち、目印になりそうな木や岩場に一つずつランプを置いていった。

 

サバナクロー寮に戻った頃には辺りはすっかり暗くなっていた。寮全体を上空から見れば、鏡舎に繋がる鏡や寮に繋がる道へのバリケードは完璧な仕上がりだ。これなら寮で立て篭もっているうちに学園長たちが事態を収めてくれる事が期待できそうだ、と監督生は少し胸を撫で下ろす。

 

ジャックが寮裏側の出入り口に向けて降下しはじめた時、ホウキの先が急にガクンと高度を下げた。

 

「きゃあ!」

 

「ふな゛っ!?」

 

ジャックが慌ててホウキを水平に立て直す。

 

「…!?なんだ!?風もねぇのに、安定しねぇ。」

 

ガクンガクンと段差を降りていくように、ホウキは力を失くして降下していく。

 

「ぐっ…!危ねぇ!!」

 

ホウキにしがみついたままでは地面に叩きつけられると判断したジャックは、あと地面まで5メートル程という高さで監督生とグリムを抱えてホウキから飛び降りた。

 

2人を抱えたまま地面に背を打ち付けたジャックは痛みに顔を歪める。

 

「ジャック!大丈夫!?」

 

「ってぇ…くそ、なんで飛べねえんだ。」

 

乗り手を失くしたホウキはめちゃくちゃな軌道を描いて飛び上がり、ややしばらくして地面に落下してきた。あのまま乗っていたらひとたまりもなかっただろう。

 

「ふな゛ぁ〜〜コワかったんだゾ…。あ、もしかしてコイツが重かったからホウキが怒ったんじゃねえのか?」

 

「ちょっと!失礼な事言わないでよ!!」

 

「いや、いつもウチの寮生乗せて飛んでるんだ、お前らくらい何ともねぇ。…しかし、妙だな。急に魔力が弱くなったみてェな…」

 

ジャックは訝しみながらホウキを拾う。寮の入り口までまだ200メートルほど離れていたが、3人は仕方なく歩いて寮へと向かう。監督生は、寮に近づくにつれて、中から何やら言い争うような声が聞こえてくる事に気がつく。

 

「ねえ、ジャック。なんか寮の中、騒がしくない?」

 

「ん?ああ。誰かが喧嘩してんだろ。別に珍しくもねえ。」

 

「さすが不良ばっかのサバナクローなんだゾ。」

 

サバンナの夜の冷たい向かい風が吹いて、砂塵が顔に吹き付ける。監督生は腕で目を覆った。

 

「ん?なんだ。中から鉄みてえな匂いが…。」

 

ジャックは吹いてきた風にスンスンと鼻を鳴らす。

 

「鉄?」

 

「オイ、子分、それってもしかして…」

 

首を傾げる監督生は、ハッとしてグリムを見る。

二人の脳裏には、昨日のハーツラビュル寮での血にまみれた惨劇が浮かんでいた。

突然、サバナクロー寮内から大勢の悲鳴や怒号が聞こえ始める。昼間封鎖した窓を塞ぐ板が割れて、中からホウキに乗ったサバナクロー生たちが飛び出してくる。彼らの乗るホウキは先ほどのジャックのホウキと同じようにヨロヨロとした軌道で高度を上下させていた。

 

「なッ…!?何が起こってる!?」

 

「戻ったッスか、ジャックくん、監督生くん!スプークが…スプークが出たんスよ!!」

 

ホウキを片手に寮裏手の出口から走ってきたラギーが2人に向かって叫ぶ。

 

「ふな…ッ!?」

 

「で、でも!寮の入り口はちゃんと塞がれていたのに!」

 

「オレたちもそっちはしっかり見てたッス。でも、急に寮の1年生の部屋が騒がしくなったと思ったらその部屋の全員がスプークになって出てきたッスよ!」

 

ラギーの背後にある寮内からは怒号が飛び交い、パニックになった寮生たちは封鎖した窓を破って出て来たり、作ったバリケードを崩して寮から退避していた。

 

「足止めに作ったバリケードが壊されちゃってる…これじゃあスプークが広がっていっちゃう!」

 

「と、とにかく全員をさっきの洞窟に避難させねぇと…」

 

「それが、そこんトコもみんなバラバラで…窓も扉も封鎖したんだから寮内にいようって奴らがまだ中に大勢立てこもってるんスよ。」

 

監督生はサッと血の気が引くのを感じた。急ピッチで進めたスプーク対策の目的やおおまかな非常時の対応については作業を進めながら寮生達に説明してはいたが、一つ一つ細かく解説するだけの時間は取れていなかった。

彼らがその説明をどれだけしっかり聞いていたのかは怪しい所である。レオナの一喝で仕方なく始めた作業であって、突然転がり込んできた監督生の言う事を聞くつもりなど無い、という生徒だって少なくは無かったはずだ。

 

「スプーク化した生徒が増えれば、どれだけ頑丈に扉を閉めてあっても押し開けられる可能性が上がっちゃう。ジャック、先にホウキで逃げた生徒を集めてあの洞窟に誘導して。私は寮内にいるまだ無事な寮生たちに声を掛けてくる。」

 

「お…おい!それはさすがに危険過ぎんだろ。寮での封じ込めは諦めて、逃げられる奴だけでも逃がすぞ!」

 

ジャックはホウキに乗って飛び上がる。フラフラとした不安定なホウキを支えながら、同じように不規則な軌道で飛ぶ寮生たちを誘導し始める。

 

「オイ監督生、オレ様たちも早く洞窟に向かうんだゾ!」

 

監督生の頭の上に乗っていたグリムが彼女の髪をくいと引っ張る。

 

「待って、そういえばラギー先輩、レオナ先輩はどうしてるんですか?」

 

「そっちも問題なんスよ!部屋まで行ったのに『逃げたい奴だけ逃しとけば良いだろ』って部屋から出なくて。あーもうレオナさんは放っといて良いかな。あの人なら死なないっしょ。」

 

ラギーは投げやりに言ってホウキに跨る。

 

「ほら、監督生くんとグリムくん、乗せてあげるから一緒に行くッスよ。」

 

ラギーが寮の方を注視しながら監督生たちをホウキに乗せる。彼の視線はサバナクロー寮の一番奥にあるレオナの部屋の方を向いていた。部屋の明かりは消えている。

 

2人が乗ったことを確認すると、ラギーの操るホウキはふわりと浮かび上がり高度を上げる。他の生徒たちが低空をヨロヨロと飛んでいる様子を上空から見下ろしていた。

 

「みんなどうしちゃったんスかね?ビビって暴走しちゃってるのかな。」

 

「ジャックは急に魔力が弱くなったみたいって言ってました。そんな事ってあるんですか?」

 

「んー、どうッスかね。スプークは魔力を吸うって聞くけど、それと関係あるのかな…」

 

ラギーは寮を見渡せる高度まで上昇して、旋回しながらレオナの部屋周辺を見回していた。「放っておく」と言いつつも、常に行動を共にするレオナの事が気がかりであるらしい。

 

サバナクロー生たちは目を見張るようなスピードで追いかけてくる同じ寮服の生徒たちから逃げ惑っている。中には四つん這いの獣のような姿で彼らを追うスプークもいる。

 

「サバナクローの奴ら、スプークになったら動物みてェな動きになってるんだゾ!」

 

「うわあ…あんなのに追いかけられるのはゴメンっスね。オレもあんなになるのは嫌だわ。」

 

見知った顔の者たちが理性のない獣のように他の生徒達を襲う姿にラギーは思わず目を背ける。

 

「みんな!ここに立てこもってはダメ!ジャックに続いて避難所へ逃げて!!」

 

監督生はホウキの上から出せる限りの大声でスプーク化していない寮生たちに呼びかける。

 

パニックになっている寮生たちはその言葉が耳に入らないのか、ただただ走り回ってスプークから逃れようとする。

一方で、理性を失っているスプーク達の方は監督生の大声に敏感に反応して動きを止め、一斉に上空を飛ぶ彼女の方を見た。

 

「げっ、監督生くん、大きい声出したらアイツらにも気付かれちまうッスよ!」

 

ラギーは慌てて進路を変えてスプーク達の視線の範囲外へと逃れる。

 

「で…でも、無事な人はみんな逃げなきゃ!このままじゃ寮に残ってる人たち全員スプークになっちゃいます!」

 

「監督生くん、ここはサバナクローっスよ。油断してる弱いヤツが喰われるのは当然。みんな分かってる事ッス。」

 

「そんな…!」

 

非情に突き放すような言葉を吐いたラギーは無表情のまま、それでも後ろ髪を引かれるように寮の方を何度も振り返りながらホウキの方向を変えた。

 

「オレらだけでも逃げないと、このままじゃ本当にみんなやられちまう…うわッ」

 

高く飛行していたラギーのホウキが急に力を失くして急降下する。

 

「なな、何だ!?ジャックのホウキみてェに落ちるんだぞ!」

 

「わわわ、おー、よしよし、ホウキくん、落ち着くッスよー。」

 

ラギーはホウキの柄を子供をあやすように撫でる。ホウキは緩やかに動きを落ち着かせ、少しずつ高度を保ち直した。

 

「あービックリした。確かに急に魔力が不安定になったみたいッスね。大丈夫ッスか、監督生くん。」

 

「は、はいっ!」

 

ラギーにしがみついて目を瞑っていた監督生がそっと目を開ける。寮の方からバキッ、という大きな音が聞こえて、彼女は寮の方へ視線を向けた。

 

そこには寮内に立てこもると主張していた寮生たちが封鎖していた部屋の窓を破って次々と飛び降る光景があった。スプークの数が増えてきたために、立てこもりにも限界が来ていたのだろう。飛び出てきた寮生たちはスプークに気がつかれないよう裏の出口に向かおうとするが、それを察知したスプーク達がヨロヨロとした足取りながら素早く彼らを追う。

 

「早く!逃げるんだゾ!もっと走れー!」

 

もつれる足で必死に走るサバナクロー生達にスプークが迫る。元々身体能力の高い生徒が集まるサバナクロー生達も、この混乱の中ではその能力を活かすことも出来ずにただ逃げ惑うだけである。一気に出口に押しかけた寮生達は我先にと押し合い、先頭の生徒が転倒した事で全員が将棋倒しのように折り重なって倒れていく。

 

「あ…!大変!あのままじゃ…」

 

スプークに追い詰められた生徒達は折り重なって下敷きにされている生徒を構うことなく踏みつけて外へ逃れようとする。しかし踏みつけられた生徒も見捨てられまいと必死で逃げる生徒の足首を掴む。

混乱でなかなか先に進むことのできない彼らの姿を見つけたスプーク達が追いついて、今にも飛びかかろうとしていた。

 

「危ないっ!」

 

監督生は目を背けたが、その瞬間にスプーク達をまばゆい光が包んだ。

 

「おいおい、こんな所で何じゃれついてやがる。情けねェな。」

 

「あ…レオナさん!」

 

気怠そうにホウキの上から魔法を放ったレオナが、スプークの動きを止める。寮生たちは転がるようにして寮の外へと逃げおおせた。

レオナの姿を認めたラギーはすぐに彼の方へホウキを寄せる。

 

「レオナさん、ようやく部屋から出る気になってくれたんスね。」

 

「ラギー、テメェ、何で俺のホウキ部屋に置いておかなかった。おかげで探すのに手間かかっちまっただろうが。」

 

「ええ〜?レオナさんが逃げる気ゼンゼン無いからじゃないッスか。また理不尽なこと言って。」

 

不機嫌そうに頭を掻くレオナは上空へ飛び上がって寮の外へ逃げた寮生達の姿を確認する。

フラフラした軌道で飛んでいたサバナクロー寮生のホウキは徐々に高さを失くして地面へと降り立つ。

スプークに対して「高さ」という強みを失った寮生達は腰を抜かしながらも追いかけてくるスプーク達から逃れようと走り出す。

 

「ちっ、あれじゃあ逃げるどころじゃねぇだろ。オクタヴィネルのタコ野郎の方がまだマシな飛び方なんじゃねェか。」

 

レオナは既に役割を果たさなくなったバリケードの間を抜けてくるスプーク達の足元に魔法を放ち、彼らがサバナクロー生達に追いつくのを防ごうとするが、同時に寮内にいたスプークが寮の塀をよじ登って出てくる。彼らが外に出てきたという事は、寮の中の様子は確認しなくても明らかだった。

 

「みんなやられてしまったの…?」

 

サバナクロー寮内から出てきたスプークたちが一挙に寮生たちに襲いかかる。

ジャックはヨロヨロと不安定で使い物にならないホウキを放り投げて、飛べなくなった寮生たちを庇いながら走るが、動きの素早いスプークたちがその最後尾を走る寮生に噛みつき、次第にスプークを増やしていく。

 

「うげぇ…なんだかヌーの大群が襲ってきたみたいッスね。」

 

レオナとラギーはそれぞれホウキの上から魔法を放ってスプークの足止めを図るが、既に彼らの力だけで抑え込むのは到底不可能な人数になっていた。

 

「ちっ、ワラワラとキリがねえ!…うおっ!」

 

息を切らしながら魔法を乱れ打っていたレオナのホウキが、急に力をなくして急降下する。

 

「レオナさん!…うわっ!」

 

レオナに手を伸ばそうとしたラギーのホウキも、大きくぐらついて彼らを振り落とそうとした。

 

「ふな゛っ!!ぎゃあああ!!」

 

監督生の肩にしがみついていたグリムが手を滑らせ、ホウキの上から転落する。

 

「グリム!!」

 

咄嗟にホウキから身を投げ出してグリムを拾い上げようとした監督生は、バランスを崩してホウキから真っ逆さまに落ちていく。

 

「げッ、監督生くん、グリムくん!!」

 

ラギーはホウキの高度を下げようとするが、いう事を聞かないホウキはラギーを乗せたまま上下左右へと大きく揺り動く。

レオナは不安定なホウキをピシャリと叩いて安定を保たせ、監督生を拾い上げようと急降下した。

 

「オラ、掴まれ!」

 

しかし空中でグリムを抱き抱えた監督生は差し伸べられたレオナの手を取ることが出来ずに落下する。

 

「うっ…!」

 

監督生は背中に受けた衝撃に大きく咳き込みながら立ち上がろうとする。

しかし監督生の目の前には、落下してきた彼女の存在に気がついたスプークが虚ろな表情のまま獣の如き四つ足で駆け寄ってきていた。

 

「いや…きゃああ…っ!」

 

例えばゾンビ映画なら。

 

主人公は、ゾンビの隙を突いて華麗な動きですり抜けて逃げ切る事が出来るのだろう。

あるいは、目の前に落ちている石や動物の骨を手にして、目にも鮮やかな大立ち回りを見せる事が出来るのかもしれない。

 

だが、現実はそう上手く行かないものだ。

 

グリムを片腕で抱きしめた監督生は上半身を起こした体勢のまま、石のように固まって動くことが出来なくなっていた。

獣のように牙を剥いて襲いかかってくるスプークの向こうでジャックが何か叫んでいるが、何と言っているのか、言葉として頭に入ってこない。

ぐっと奥歯を噛み締めると、いつの間にか口に入り込んだ砂がザリッという音を立てた。

 

監督生が終わりの時を覚悟して、グリムを抱えて身体を縮めた瞬間、

 

「平伏せよ、"キングス・ロアー"!」

 

監督生の頭上から、まさに獣の咆哮のような低い声が響いて黄金の光がサバンナの夜闇を照らす。

監督生に襲い掛かったスプークはその黄金の光の渦に飲まれて姿を消した。

 

「レオナ先輩…!?」

 

ゼイゼイと苦しげに息をしながら着地したレオナは、強い風に舞っていく金色の砂塵に茫然とする。

キラキラとした黄金の砂が風に乗って消え去った後には、サバナクロー生の証である黄色の魔法石を嵌め込んだマジカルペンと、彼らの寮服の一部である黒色のノースリーブジャケットの切れ端だけが残った。

 

「れ…レオナさん…それ、スプーク、だけど…ウチの寮の、2年のヤツで…」

 

暴れるホウキから降りてきたラギーが、震える小さな声で呟く。

咄嗟の行動とはいえ寮生を手に掛けてしまったレオナは表情こそ変えないものの、言葉を失ったままマジカルペンを拾う。

 

その時、バキバキという木材の割れる音がして、監督生はサバナクローと鏡舎を繋ぐ鏡の方に視線をやる。

鏡の前にはスプーク化したサバナクロー生たちが押し寄せ、鏡の封鎖に使っていた戸板を力任せに次々と剥がしていく。

 

「ふな゛!?サバナクローのスプークが外に出ようとしてるのか!?」

 

「ち、違うみたい。あれは…」

 

戸板が半分以上剥がされた鏡の向こうから、フラフラした足取りの学生たちが押し寄せてくる。

彼らは昨日襲われたハーツラビュル寮だけでなく、オクタヴィネルやスカラビアなど、あらゆる寮の寮服や運動着、部活のユニフォームなどを身につけていた。どうやらスプーク被害を受けたのはハーツラビュルだけではないらしい。

 

「他の寮もみんなやられちゃったの…!?」

 

他寮生のスプーク達は混乱の中で半壊状態だったバリケードを完全に破壊し、走って逃げるサバナクロー生達を追い始める。

レオナはため息をついて手に握っていたマジカルペンをポケットにしまい込む。

 

「あー、もういい。もう辞めだ。めんどくせえ。ラギー、そいつら連れて逃げろ。」

 

レオナは威力の弱まった魔法をスプークの足元に放って牽制をしながらラギーに視線を向ける。

 

「めんどくさいって…何言ってんスか!こんな所で諦めてたまるかよ!」

 

「だから言ってんだろ。このサバナクローの寮長、レオナ様が直々に足止めしてやるッつってんだ。ありがたく避難所とやらでも鏡の外でも好きに逃げやがれ。」

 

半ば投げやりにスプークに飛びかかり、素早い動きでスプーク達を蹴り飛ばす。

監督生に手を貸して立たせたラギーは、監督生の腕を引いて自身の後方に立たせた。

 

「オレ、今のレオナさん放って逃げるの嫌ッス!それっ、"ラフ・ウィズ・ミー"!」

 

ラギーがマジカルペンをかざすと、レオナに襲い掛かろうとしていたスプークたちは急に方向を変えて後続のスプークに突進を始め、彼らが前進するのを阻害した。

しかし、ジャックが逃がそうとしていた寮生たちが次々と噛まれてスプーク化し、監督生たちの方めがけて走り出す。

 

「うげ、これ以上の人数は操れないッス…監督生くん、逃げて!」

 

ラギーが苦しげに片目を瞑りながら監督生に呼びかける。

監督生はラギーの指示通り逃げようとしたが、すぐに足を止める。もし彼女が逃げてしまえば、ラギーとレオナの背後はガラ空きになってしまうのだ。

監督生はやや逡巡してから、目の前に落ちていたラギーのホウキを拾った。

 

「ラギー先輩!大丈夫ですっ、こっちは私たちが!」

 

「ええ…!?あ、ちょっと!」

 

「ふな゛ーーっ!やらないとやられるんだゾ!!」

 

監督生はホウキを拾って振り回し、グリムは炎を発生させて寄ってくるスプークを牽制する。

 

「オイ!すっこんでろ、草食動物共!」

 

四つ足で迫ってくるスプークに、監督生は思い切りホウキを叩きつける。

スプークは一瞬動きを止めたが、彼女が手を滑らせて落としてしまったホウキを拾うために屈む姿勢を取った瞬間に飛びかかってきた。

 

「危ねえ、監督生!」

 

スプークと監督生の間に滑り込むようにして割り込んできたジャックがスプークの右足を掴んで地面に叩きつける。

 

「ジャック!助けてくれてありがとう。」

 

「べ、別に助けに来たわけじゃねえ。喧嘩慣れしてない癖にしゃしゃり出てくんじゃねえよ、先輩達の迷惑だろうが。」

 

ツンとそっぽを向いたジャックは、続けて襲ってくるスプークに拳を叩き込んで吹き飛ばした。

 

「相変わらず素直じゃねーヤツなんだゾ。」

 

「ジャック、逃げたみんなは!?」

 

「逃げられる奴は逃したが、ホウキで飛べねえんじゃ時間の問題かもしれねえ。追いつかれて何人か噛まれちまってる。」

 

ジャックは監督生がホウキを振り回すよりも前に素早い動きでスプークを追い払うが、徐々に集まってくる他寮生のスプークたちが迫り、行き場をなくしていく。

 

「くそ…俺たちだけじゃ手に負えねえのか…?」

 

ユニーク魔法でスプークの動きを止めていたラギーがふらふらと脱力して魔法が解除されると、足止めをされていたスプーク達も一気に押し寄せる。

 

「あーダメだ。もう限界ッス…ジャックくん、監督生くんたちと一緒に鏡の外に逃げるッスよ。」

 

「ラギー先輩!俺も…」

 

「グズグズしねぇで早く行け!1年坊がチョロチョロしてると目障りなんだよ。」

 

レオナは悪態をつきながらも鏡舎につながる鏡への道を阻むスプークに続けて魔法を放つ。

ジャックは少し考え込んだ後、レオナとラギーに小さく頭を下げた。

 

「…っす!先輩方も無事で。」

 

「え、ちょっと待ってジャック!」

 

「"アンリイッシュ・ビースト"!」

 

有無を言わせず監督生の腕を掴んだジャックは遠吠えと共に白銀の狼に姿を変えた。

ジャックは監督生とグリムを放り投げるようにして自らの背中に乗せて走り出す。

 

「オイ、草食動物。」

 

レオナがチラリと監督生を振り返って声をかける。

 

「レオナ先輩!一緒に逃げましょう!」

 

「ハッ、酷ぇ顔だなオイ。俺は最後まで戦う。群れのボスの役割全うしてやるよ。どうだ、満足だろうが。」

 

ニヤリと笑ったレオナはラギーとともに立て続けに攻撃魔法を放ちながら、鏡舎への鏡とは反対方向に走ってスプーク達を引きつけていった。

遠くなっていく彼らの姿はスプークに飲み込まれながらも時々光と共に魔法が放たれて、まだ彼らが戦い続けていることだけが窺えた。

 

グルルと唸ったジャックは本人曰く「トナカイには負ける」速さで次々と追いかけてくるスプークたちと距離を離す。

鏡舎とつながる鏡は外に出ようとするスプークと中に入ろうとするスプークが入り乱れて双方から渋滞を起こしていた。

 

「ジャック!無理だよ!スプークが多すぎて出られない!」

 

ジャックは監督生の言葉に反論するように高く遠吠えをあげると、大きく飛び跳ねてスプーク達の頭を踏みつけるようにして鏡の外へと飛び出していく。

 

砂埃の混じる強い風が止んで、風のない古い建物特有の匂いが漂う。

サバナクロー寮から鏡舎に飛び出ると、まるで寮へ戻る生徒たちでごった返している放課後のように大量のスプーク達が集まっていた。

 

「な、なにこれ。全員スプークにやられちゃったの!?」

 

ジャックの背の上に必死にしがみついていた監督生は驚嘆の声をあげる。

高く飛び跳ねてスプークの上を飛び越えるつもりだったジャックは、急に低い唸り声をあげて目を見開いた。

 

「グルルッ…」

 

「ふな゛!?オイ、どうしたんだ…」

 

ジャックのふわふわとした白銀の毛の感触がスッと溶けるように消えて無くなる。監督生がふと背後を見ると、サバナクロー寮の鏡から半分体を乗り出したスプークがジャックの左足にしがみ付いていた。

 

「ジャック!」

 

ジャックは自由な右足でスプークに蹴りを入れるが、しつこくまとわりつくスプークはジャックの動きを封じた。

 

「問題ねェ。先に進め!」

 

人間の姿に戻ったジャックは監督生の腕を両手でグイと掴み、勢いをつけて投げ飛ばす。

 

「ま、待って!ジャックも…」

 

「俺はいい。行け!」

 

勢いよく飛ばされた監督生とグリムは背後にあった鏡に吸い込まれていく。

 

「…あのエースとデュースが命張って守った奴だ。サバナクローで喰われちまったら格好つかねえ。」

 

鏡に吸い込まれていく二人を確認して満足したジャックは小さく呟いて足元に視線を遣る。スプーク化したサバナクローの2年生と3年生がそれぞれジャックの脚を抱え込んで彼をサバナクローの鏡の中へ引きずり戻していった。


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