もう青い鳥は飛ばない 作:チバ
家の押入れから、古いポータブルCDプレイヤーを発見した。不恰好で平たいシルバーカラーのボディには少し傷がついていて、お父さんが昔愛用していたのであろうことが窺える。
入江さんから貸してもらったCDをセッティングして、イヤホンを装着して聞く。
ミッシェルガンエレファントの世界の終わり。
世界の終わりがそこで見てるよと
紅茶飲み干して君は静かに待つ
パンを焼きながら待ち焦がれている
やってくる時を待ち焦がれている
軽やかで、それでいて生き急いでいるようなギターの音が心地良かった。
世界の終わりを待つ君と、世界の終わりを目撃しようとしてる私。
世界の終わりの寸前の、ただの日常が浮かぶ。赤みのかかった月が上ってきて、君は笑っている。
私は世界の終わりを目にした時、どうするだろうか。
そんなことをぼんやりと考えてみた。赤みのかかった月というこの世のものではない景色を見て、私はパニックに陥るだろうか。
なんとなく、そんな気はしなかった。どちらかといえば″君″が焼いたパンを齧って、紅茶を啜って、世界の終わりを待つと思う。
その方が私らしいし、理想的な世界の終わり方だと思った。
開けていた窓から冷たい風が脚をくすぐる。外を見てみれば、月は黄色と白の間の、失敗した目玉焼きみたいな美味しそうな色をしていた。
世界が終わるのは、まだまだ先になりそうだ。
* * *
私の新しい日常が始まった。日々が楽しく明るいもののように思えてきて、世界の色彩がより輝いて見えた。
入江さんのバイト先の古着屋––––––名前はアロンソという––––––に入り浸るようになったのだ。
授業を終えて放課後に差し入れとしてコンビニで唐揚げなどを買ってから、フラリとアロンソに立ち寄って、入江さんに声をかけてあの休憩室に二人で唐揚げを食べる。飲み物はウーロン茶で、それが無ければ味気ない、でも美味しい水道水だ。そしてあの白いラジカセで音楽を聴きながら二人で話を転がす。話題は専ら音楽のこと。私は別に音楽を日頃から嗜むわけでも、ピアノやらギターやらの楽器を習っていたり弾いたりできるわけではないが、ただこの音が好き、とかこの歌詞が結構おもしろい、とかの浅くて素人極まりない感想を述べるだけでも入江さんは満足そうに笑顔を浮かべて頷く。私のこの話がそんなに有意義なものだとはとても思えないが、入江さんが楽しければそれでいいのだと納得して心に浮かんだ言葉をツラツラと音色を奏でるように素直に語った。
ここ数週間、アロンソに入り浸ってただ駄弁っているだけでも、入江さんに関する情報はたくさん知った。
入江さんはデザイン系の専門学生らしく、授業が終わり次第実家のお店を手伝っている––––––だからバイト––––––らしい。デザイン系だから、実家を継いで起業転換でもするのかと聞いたら「実家は継がない」とだけ返ってきた。理由はいくら顔でも答えてくれなかった。
一方で趣味が音楽らしくて、ボストンバックに大量に詰め込まれたCDも、中古CD店で漁ってきたものらしく、彼の家にはもっとたくさんあるらしい。ちなみに楽器は弾けないらしく、音楽家になる気はないらしい。
「ここのギターのカッティングが良いんだ」
曲はアジアン・カンフー・ジェネレーションの電波塔。彼の言う通り、途中で一際耳を惹くギターの音があった。爽やかで、やるせない感情を持て余してるような心地が伝わる。
先程から何曲か聞いてるが、このバンドの曲は総じて好きだ。ギターの音がシンプルで、歌詞も聴き慣れた言葉を使ってなくて、地方の図書館で本を読んでいる気分になれる。今度ちゃんと買ってみよう。
「透はさ」
入江さんは最近、私のことを「透」と呼ぶ。初めて名前で呼んだ時はドキドキしていてとても年上とは思えない真っ赤な顔をしていたけど、今はだいぶ呼び慣れたのか、CDのセッティングをしながら何気なく呼べるほどに成長した。
「なに?」
「僕のこういう話とか聞いてて楽しいの?」
「ん、楽しいよ。肩の力抜けれるし、メイクとかSNSとか、あと人間関係?みたいなこと駄弁るより、入江さんの好きな話聞いてる方が楽しい」
「そんなものなの?」
「そんなものだよ」
例えばこの時間に帰るためのバスに乗っていて、例えば教室に意味もなく居残っていて、例えばどこかをほっつき歩いていたとして、私はきっと今ほど頭を上げて世界を見れてはいないだろう。世界を見るだけじゃ心は震えない。触れて、感じてこそ味わえる何かがある。例えばこの唐揚げは、ここの水道水と合わせて食べるとと塩分がちょうど良くなるとか。
「私ってあまり趣味とかそういうのがズレてるってよく言われるんだ」
「なんかその感じはある」
彼は指で「流行りのヴィンテージものに
興味無し」、「僕の話をずっと聞いてくれる」、「水道水出しても嫌な顔しない」などと数える。
「古着は本当に興味が無いだけ。入江さんの話は聞いてて楽しいから。水道水は……美味しいじゃん」
「僕が透ぐらいの時は午後ティーばかり飲んでたよ?」
「あー、あれ苦手なんだよね、ちょっと」
「苦手な人いるんだ」
午後の紅茶はあまり好きじゃない。何だか作り物だという感じがして。他の紅茶は飲めるのに、なぜがそれは飲めない。
「あ、そうだ。透におすすめしたい曲、この前中古CD店で見つけたんだ」
「私に合うやつ?国家とか?」
「透って国なの?」
「あー、なんとなく?」
こうやって、他人から困惑気味の疑問を口にされるときは、私が何も考えずにただ言葉を紡いでるときだ。普段はある程度人によって言葉を選んでるけど、入江さんなら大丈夫だ。彼は頭が良いし、大人だから疑問を持っても深追いはしない。
ボストンバックに手を突っ込んでガサゴソと音を立てるが、例のブツは見つからないらしい。
「おっかしいな…リュックに入れたままだったかな」
「リュック?ボストンバックじゃなくて?」
「僕がプライベートで使ってるリュック。あれ背負ってる時に買ったからあの中かも」
「ってことは入江さんの家?」
「そういうことになるね」
ああ、それと、最近になって気づいたことがある。
「あ、なら一緒に行く」
「え?」
古着には興味ないけど、彼に興味が湧いてきたことだ。
* * *
入江さんのお父さんから訝しげな目で見送られて、アロンソから徒歩十分のアパートに、入江さんの部屋はあった。
「人気はないけど、別にそういう物件ってわけじゃないから」
「感じます感じます」
「感じなくていいからね?」
入江さんの部屋の玄関扉のノブにはビニール傘が引っ掛けられていた。困ったような顔をしてビニール傘を部屋の前の格子に引っ掛けて、私を部屋の中へと促す。
玄関は靴が綺麗に並べられていたが、多分ちょっとした外出用なのだろうか、クロックスのサンダルだけが乱雑に脱ぎ散らかされたままだった。芳香剤の隣の小さな籠に鍵を入れて、先行こうとする私を片手で制する。「ごめん、片付けるから」、そう言って小走りに奥へと消えていった。明かりがついた、かと思えば騒々しい音が暫く鳴り響いて、鳴り止んだと同時に顔をひょっこりと出して手招きをする。
ついさっき片付けたからというのもあるけれど、入江さんの部屋はとても簡素的で、およそ生活感と呼べる要素は無かった。物は必要最低限しか無くて、目を引くのは床に積み重なったCDの山々と、古い大きな黒いラジカセ。そのラジカセに刺さっているヘッドホン––––––傷だらけの天使でショーケンが付けていたやつに似ている––––––ぐらいだ。
「ヘッドホン、古いやつっぽいね」
「ああ、古いやつが好きなんだ。音質はそんなに良くないけど趣があって気に入ってるの」
新しく買ってもらった玩具を自慢するように鼻息を鳴らす。相当気に入ってるのがわかる。
CDの山々を覗くと、一番上には戸川純の『好き好き大好き』があって、カバーを見る限りこれは中古品だろう、所々に傷が入っている。窓が開けられて、初夏の夜特有の控えめな涼しさを纏った風が汗ばんだ肌をさりげなく撫でる。
「何か飲む?」
入江さんが台所の水切りカゴからグラスを手に取っている。今日は何かご馳走になるとかそんな気はなかったのだけど。
「ううん、いらない」
「そう?いくら初夏といっても脱水症状になっちゃうよ?」
「んー、なら頂こうかな」
最近わかったことだけど、何かを勧めたり世話を焼こうとしたりする時の彼はなかなか引き下がらない。だいたい私が根負けして彼の勧める通りに従ってしまうから、今日は素直に頂こう。
「あれ、お酒しかない」
冷蔵庫を覗き込んだ入江さんは私に申し訳なさそうに言う。「ごめんね、何か買ってくるよ」長財布を片手に飛び出そうとする彼を、彼のTシャツの裾を引っ張って止める。
「いいよ。私お水で」
入江さんは最初は首を振って意地でも近場のコンビニに行こうとしていたけど、やがて根負けして、砕いた氷を入れたグラスに水を注いで出してくれた。入江さんはエビスの缶ビールで、プルタブを開けるとプシュッ、というCMでよく聞く音が弾けた。
缶ビールを片手に、床に重なったCDの山をぐちゃぐちゃと混ぜるように探して、一枚のCDを私の前に差し出す。
黒い背景に、神妙な面持ちをしたボブカットの女性が写ったジャケットだった。表面には何も綴られていなくて、裏面の左下端に控えめな大きさの文体で『ハル もう青い鳥は飛ばない』とだけあった。
「リサイクルショップでたまたま見つけたんだ。ジャケ写も曲名も、なんか良くて」
入江さんの言うことはよくわかる。
神妙な面持ちをした女性に、背景は黒一色。シンプルだけれども、その一枚を構成するパーツひとつ一つが意味深さを孕んでいる気がする。
曲名も詩的で、それでいてレトロさも感じる。日本語特有の美しさとも言うべきか、色彩を含んだ言葉と後ろ向きな言葉は方程式として綺麗で記憶に残る。
「それ聞いてみて。感想教えてよ」
「入江さんまだ聞いてないの?」
「うん。透の感想聞いてから聞きたい」
ビールで酔ったのか、今まで一度も呼ばなかった下の名前を口にする。
透。この名前がいつもよりも綺麗に聞こえた。まるで磨かれた宝石のように光沢を輝かせている。発泡酒の匂いが鼻を刺した。気のせいか、少しくらりと来てしまう。昔、お父さんの飲んでいた日本酒を興味本位で飲んでみたことがあるけれど、お猪口二杯分飲んでも全く酔わなかったからお酒には強いと思っていたけれど、どうやらビールと日本酒とでは違うらしい。
「ジャングルジムに登ってたことがあったの」
場の雰囲気に酔うとはこういうことを言うのだろうか。私は今まで誰にも話したことがなかった私の寓話を口にし始めていた。
忘れられないジャングルジムを見上げる光景。目にしたことのないジャングルジムから見渡す公園と住宅街の景色。他愛もない子供の頃に誰もが経験したような遊びが、どうしても忘れられなくて、今では夢に出てきてしまうほどだ。
「忘れられないんだ。その時のこと」
きっとこれからも記憶に残り続ける。
缶ビール三本目。入江さんは完全にできあがってしまったらしく、顔を赤くして、ちょっとしたことに笑いながら音楽について話してくれる。
宇多田ヒカルの凄さ。
藤原基央の歌詞の力。
アベフトシのギターの力強さ。
降谷建志の影響力。
たぶん普通に生きていたら聞きも触れもしなかった話題が私の視界を開けさせていく。ジャングルの草木を刀身の大きなナイフで切り開いて行くような確かな開け方。情報収集の速さに脳が熱を持ち始めているのか、氷水を摂取に拍車がかかる。次第にいちいち水を注ぎに行くのが面倒になってきて、彼の手元にあった未開封の缶ビールのプルタブを開けて、グイッと一口飲んだ。口の中に広がる苦味と腹の中で膨張する炭酸。初めての経験に思わず顔をしかめてしまう。
最初、あれだけソフトドリンクを買ってこようとしていた入江さんも、そんな私の姿を見て大きく口を開けて笑う。
ハッハッハッ。
彼の笑い声が頭の中でバウンドする。宙に浮いたような浮遊感が体を覆って、やがて指を少し動かすぐらいの一挙一動にもラグが生じてくる。
「大丈夫?」
入江さんの声は耳に入っていくるけど脳には到達していない。彼の声は言葉に変換されなくて、雨音のようなただのBGMのように聞こえた。
入江さんが私の肩を担いでくれた。彼の首筋から、私が使っているのとは違うシャンプーの匂いがした。ああ、人の匂いだ。私の体を覆う浮遊感と、他人の存在。一見入り混じらないような感覚が、私の嗅覚と脳内に溶け込む。
彼が日頃使っている布団に横にされる。仰向けになると、天井がぐるぐると回っているように見えた。地球は常に回っていて、太陽と月が交互に顔を出し合うこの地球の原理を、アルコールの力を借りて少し理解したような気がした。
万物が廻り廻る
誰の歌だったっけな。誰かの歌う思い出せないタイトルの歌詞が浮かんでくる。
入江さんが私の顔を覗き込んで、また小さく笑う。彼の口からお酒の匂いがして、私もまた笑ってしまう。
「なんで笑ってるの」
これはどちらの声だろう。
たぶん両方。
「ううん。なんだか、愛おしくて」
これは私の声。
驚いた。私の口からこんなロマンチックな台詞が出るなんて。
「何が愛おしいの?」
これは彼の声。
いつも通り優くて柔らかな台詞だ。
「たぶん、この部屋にあって、いる全部」
両腕を伸ばした。赤ん坊が産まれた時、助産師さんに母親から引き離される時に伸ばすのと同じ原理で。母親は出産の疲労で腕を伸ばす余裕なんてなくて、赤ん坊は腕を懸命に伸ばしながら泣いて泣いて、体重計に乗せられる。
彼は私の両腕を掴む。掴んで引き寄せて、そっと抱きしめてくれる。彼の硬い胸が私の胸の真ん中に当たる。ドクン、ドクン。微かに聞こえる鼓動の音は、まるでジャズのドラムだ。彼の首筋から再びシャンプーの香りがした。彼の髪が頬に当たってチクチクする。
ダーリン
ダーリン
また歌詞が浮かぶ。
肩を引き離すと、彼の唇が私の唇に触れて、やがて重なった。私の歯の隙間から彼の舌が入り込んできて、やがて私の下に触れる。滑り合う舌の音が鳴り響く。
頭の中が真っ白になっていく。視界には白い泡が弾ける。浮遊感はより増す一方で、口の中は唾液と唾液が絡み合っている。
入江さんが私の中にいるのがよくわかる。今なら彼のことを全て掴める気がする。他人にこんな感覚を抱くのが初めてで少し怖くもあったけど、やがてその怖さすら麻痺していって、彼の身体を愛撫する。
再び布団に身を預けた私に、入江さんは覆い被さる。私の耳を、首筋を、鎖骨を、胸を、脇腹を、太腿を、順に撫でて、時折優しくキスをして再び私を見る。
「いい?」
そう言う彼は、もうTシャツを脱ぎ始めていた。灯る光がやけに白く光り映った。やがて灯りも消して、月光から放たれる僅かな青白い明かりだけが彼と私の肌を映す。
壁に映る彼の影が大きい。でも露わになっている腕は相変わらず細くて、そのアンバランスさが可笑しい。
彼の首に手を伸ばしてそっと撫でる。
「うん」
私の声が青白い光の下に出ることはなかった。
* * *
廃品回収の報せの無機質な声で目が覚めた。
カーテンの隙間から漏れる光は暖かくて、熱を帯びた右の手首をそっと摩る。視線だけを動かして隣を見ると、彼はもういなくて、代わりに『仕事行ってる。お昼過ぎには帰るよ』と、宗教勧誘のチラシの裏面に書き置きされていた。
昨夜の記憶が断片的に蘇る。
熱暴走しそうな脳。
べっとりとした素肌。
カーテンを揺らす冷たい夜風。
なげやりに飲んだ甘い氷水。
ビールのせいで記憶は途切れ途切れだけど、私と彼がしたことは覚えている。
「あー、そっか。そうか」
ざらついた声がくすぐったくって、コップに注いだ水を一気飲みする。潤いを持って少しマシになった喉を鳴らして、昨夜の記憶を脳の奥にしまいこむ。すると遅れて頭痛がやってきて、鞄を枕代わりに仰向けになって目を閉じる。
万物が廻り廻る。
また歌詞が浮かぶ。
今回は本当に頭の中で星と星が廻っている。ぐわんぐわんと頭の中で鼓動が高鳴っている。落ち着かなくて寝返りを打つと、頭痛は治まっていった。私ってば、意外とお酒に強いのかな。そんな的外れなことを思いながらまた立ち上がる。
起床後の軽い体操を済ませて、自然な足取りで冷蔵庫の前に立つ。何か昼食でも作ろうかと思ったけど、中には何も無くて、緑色の瓶ビールが三本あるだけだった。うーん、何か作ろうにも材料もない。
そもそもガスが止まっていてもおかしくないほど殺風景な部屋だから、私の目論見はすぐに割れて消えた。
やることも見つけられない私は、床の上に積み重なったCDを吟味する。一枚一枚手に取って、ジャケットを目に焼き付けて、セットリストを復唱する。その中から適当に一枚取り出して、乱雑に置かれていたラジカセにセットする。
煙のような甘いギターが鳴った。
スローテンポなその曲は、時計の針がチクタクと進んでいくような、やるせなさを感じさせた。
溺れているような
泳いでいるような
浮かんでいるような
沈んでいるような
まさに歌詞通りのメロディーと音だった。そこに確かな形はなくて、ただただふわりと漂っているだけの気分にさせる。
まるで、この部屋のような。
そこに、「ただいま」と呑気な声が飛び込んできた。
振り返ると、玄関でビニール袋を片手に暑そうにTシャツの襟元をパタパタと仰ぐ入江さんの姿がそこにあった。
「よかったまだいてくれて。お昼代が無駄にならなくて済む」
「おかえりなさい。気にしなくていいのに」
おかえりなさい。その言葉が少し照れ臭くて、胸の奥がこそばゆい。
「あー、その、昨日のことなんだけど」
彼は気まずそうに目を逸らす。彼の言いたいことはなんとなくわかって、「ううん」とビニール袋を受け取る。
「いいの。望んだことだから」
お酒に流された若気の至りと言われればそれまでかもしれない。けれど、私は確かにそれを望んで、その記憶を振り払わずに記憶の奥にしまった。また取り出せるように。
「何買ってきてくれたの?」
「コンビニ弁当だよ。唐揚げとカルボナーラ。どっちがいい?」
「カルボ」
「りょーかい」
最初は声を重くしていたけど、私の目を見てやがていつもの入江さんに戻っていった。私の背中にあるラジカセに目が止まって、少し口角が吊り上がる。「何聞いてるの」
「ごめん、勝手にいじっちゃって」
「いいよいいよ。あ、ゆらゆら帝国だ」
ゆらゆら帝国。
聞いたことないアーティストだ。けれどこの曲の浮遊感漂う雰囲気には合っている名前だ。
「僕はアーモンドのチョコレートの方が好きだけどね。透はユラユラウゴクなんだ?」
「わかんない。適当にかけたらこの曲だった」
ユラユラウゴク。
ああ、この浮遊感のある音とうす雲のようにつかみどころのない歌詞にはピッタリな曲名だ。この曲が結構気に入った。
予めコンビニで温めてきたカルボナーラを白いプラスチックフォークで巻く。
「そういえば昨日、聞かせたい曲があるって言ってなかったっけ?」
「そういえばそれでウチまで来たんだっけ」
本来の目的を忘れて情事に及んでいた事実が私の体温を三度上げた。彼も私と同じなのか、少し照れ臭そうに首元をポリポリと掻きながらラジカセの後ろに隠れていたCDを取る。CDのジャケットには私よりも少し短いショートカットの、左頬の涙ぼくろが特徴的な女性が神妙な面持ちで写っている。
慣れた手つきでCDをセッティングする。彼の手は昨夜見たよりも白い気がした。
「これなんだけどさ」
カチャっという心地の良い軽やかな音。前説のような控えめなノイズが少し流れた後、アコースティックギターの乾いた音が私の鼓膜を優しく撫でた。
あなたはやって来て 私を誘うのね
街の向こうの水辺へと
季節と旅に出て いつかは戻るはず
ひとけのない通りにふらりと
水面に反射する青空のような歌声が、漣を立てるエレキギターの歪んだ音に乗って流れ出る。
私にはブルースという概念は理解できないが、この曲はきっとブルースなのだろう。青空の下、何も無い原っぱの上で涙ぼくろの女性がアコースティックギターを奏でながら歌っているシーンが浮かぶ。そのシーンはなんとも詩的で、この世のどの絵よりも澄んでいて綺麗な気がした。
「もう青い鳥は飛ばないっていう曲なんだ。たまたま見つけていいなぁって思って」
彼の横顔はとても穏やかだった。よっぽど気に入ってるのだろう。
「うん、いい曲。好きだな、これ」
「そう言ってくれると思った」
彼は唐揚げをひとつ齧って咀嚼をして飲み込むと私の目を見て微笑んだ。
「透っぽいなって思ってさ」
「歌ってる人が?」
「まあそれも少しあるけど。音とか歌詞とか、そういうのが透っぽいなぁって思って買ったんだ」
耳の温度が上昇していくのがわかった。彼がこの曲とわたしを重ね合わせて、私に送ってくれたのが嬉しくて柄にもなく素直に心が躍った。
「ありがと。嬉しい」
「こちらこそ、喜んでくれて何よりだよ」
ブルースが包む時間を過ごした後、私は家に帰ることにした。
玄関の前に立って、その場の雰囲気で彼と唇を重ねた。昨夜数え切れないほど重ね合わせたのに、ファーストキスの様に新鮮で甘い味がした。
その味は、家に帰って飲んだオレンジジュースが口の中に溢れても消えることはなくて、私昨夜の記憶と一緒にその味も胸の奥にしまいこむことにした。