もう青い鳥は飛ばない 作:チバ
スマホの充電コードが断線していることに気がついた。充電が三十六パーセントになっていて、あ、これ充電されてないな、と思って、習慣のベッドの上での伸びを忘れてリビングにある家族共用の充電コードにスマホを挿した。
「おはよう。どうしたの?」
お母さんが驚いたようにあいさつ。「おはよよう」、スマホの通知欄を見ながら答える。
通知欄には入江さんからのメッセージが残されていて、『明日の土曜日に買い物行くけどついてくる?』と笑顔のくまのキャラクターのスタンプをつけていた。『行く行く』、『行かせていただきます』。この文面だけではそっけがないな。なにかスタンプをつけようかと六秒ほど悩んだ末、サムズアップの顔文字を打ち込んで送る。少し間を置いて既読がついて、熊が大きなハートを持った可愛らしいスタンプが送られた。
* * *
入江さんの家に女性が来た。
というのも、その日は朝に彼の家に行って朝食を作って一緒に食べていた。スクランブルエッグとトースターなんていう、料理と呼んでいいのか首を傾げてしまうメニューだったけど、彼はとても喜んでくれた。冷蔵庫に買い溜めされている缶コーヒーを口にしながら、「あ、アロンソに履歴書忘れた」、彼は思い出したように呟いて寝癖も治さずにすぐに出て行ってしまった。出て行く前にそっと私の頭を撫でるところはさすがといったところだ。
入江さんの帰り待ちながら彼のラジカセで音楽を聴く。ヤプーズの「コンドルが飛んでくる」のサイケデリックな音は、窓から差さる日差しにはミスマッチで、地から足が離れて行くような浮遊感を感じる。
はだしの足が宙にふと浮いて
はだかのうでにのびる太い羽
入江さんの部屋はいつも宙のようだった。地面という確かに触れられるものが無くて、けれども生きているという実感を得ることができる。この宙には形を持った雲がない。空は青ではなくて、グチャリと絵の具の青と白を合わせたような人為的な色をしていて、健やかさや爽快さはではない、人の生きるジメッとした空気が漂っていた。
そんな彼の部屋に、女性が訪ねてきた。
ソバージュをかけた栗色のショートカットをした、私よりも少し背の高い女性だった。Vネックの黒い細身なサマーニットとスキニージーンズが似合うオトナな人だった。
「あっくんいる?」
アックン。聞き覚えのない名前だけど彼のあだ名だということと、彼とは親しい仲の人であるとすぐにわかった。
「今ちょっと出てます」
「こんな早くに、珍しいなぁ。まあアポ無しで来たから仕方ないか」
「少ししたら帰ってくると思うけど、入りますか?」
「いいよ。また別の日に顔出すから。あっくんによろしくね」
最後に柔らかい笑みを作ってヒールをカツカツと鳴らして帰って行った。彼女の瀬を見送って、扉を閉めても、彼女のヒールの音は私の頭の中で鳴り止まなかった。
カツカツ。
カツカツ。
アスファルトを打つあの軽快で、どこか浮世感のある音。
カツカツ。
音は鳴り止まない。山口百恵の「絶体絶命」をあの古い八〇年代色ヘッドホンで大音量で流しても、音は一向に途絶えない。
カツカツ。
カツカツ。
カツカツ。
涙が流れそうになっていることに気がついた。瞼の裏が熱くなってきて、次第に鼻も熱くなってきて、最後は口の中の感覚が鈍くなっていって、唾液でいっぱいになるアレに近い。この溢れ出ようとしている涙はどこからやってくる?恐怖?悲しみ?絶望?
いいや、疑念だ。
彼への疑念が、私の中で生まれてしまった。そしてその感情が生まれてしまったことへの悲しみと怒りが涙を押し出そうとしているのだ。
ごめんなさい。
陳腐な嗚咽が漏れる。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
何度絞っても絞りきれない濁音は、やがて啜りに変わって、力が抜けていった。
その日、入江さんは帰ってこなかった。メールで連絡をしてみると、『報告遅れてごめん。ちょっと用事ができて帰れそうにない。帰っちゃっていいよ』と返ってきた。『わかった。頑張って』とサムズアップの顔文字を送る。ハートを持った熊のスタンプが送られてきた。いつも目にする熊に比べて、剥製のように生気がなかった。私の心は、酷くつまらなくなっているようだった。
帰り道に水を買おうとコンビニに立ち寄ると、昼に家を訪ねてきたオトナな女性が雑誌を立ち読みしていた。ガラス越しに立ち尽くしている私に気づいた女性は、「あっくんのとこの」と微笑んで手を振った。
「さっきぶりですね」
「どうしたの。あっくんの家から離れてるけど」
「帰るんですウチに」
「一緒に暮らしてないの?」
「まさか」
意外そうに目を見開く。確かに朝からあの部屋にいたら同棲していると思われても仕方がないだろう。
「あっくん帰ってきた?」
「今日は帰れないみたいです。なんだか忙しそう」
「へぇ…」
意味深に唇に手を当てて考える素振りを見せると、人懐っこい笑みを浮かべて私に手招きをした。
「ちょっと一緒にどう?夕飯奢るよ」
女性の名前はジュンというらしい。彼女は注文したホットコーヒーを口にして、メニュー表を開いて自己紹介を始めた。
「戸川純の純」
「えっ」
「あっくんの入れ知恵」
戸川純の名前を入江さん以外から聞くことになるなんて。少し驚いた。
「戸川純の名前がわかるってことは、キミも戸川純を教えられたんでしょ」
「私は戸川純よりヤプーズの方が好きです」
「気が合うね。私もそう」
私もメニュー表を開いて、オムライスを注文しようと決めたところで自己紹介をする。「浅倉透です」
「透はあっくんと付き合ってるの?」
なんの前置きもなく、純さんはストレートに聞いてきた。答えを探しているうちに、純さんは納得したように「流れか」とつぶやいた。
「何も変わってないんだなぁ。冷蔵庫の中にハイネケンあるでしょ」
「ハイネ?」
「緑の瓶ビール」
「ああ、はい、あります」
「碌に片付けられてないCDの山」
「足の置き場が見えないぐらい」
「そうそう。なんだ、あの頃のままじゃん」
つまらなそうに口を尖らせると、純さんは通りかかったウェイトレスに料理を注文する。手早く終わらせた彼女は、好奇心に溢れた目で私を見つめる。
「純さんは、入江さんの元カノなんですか?」
私の胸の中で戸愚呂を巻いていた黒い疑念を、意を決して聞いてみる。すると純さんはおかしそうに小さな声で笑った後、コーヒーを一口飲んで遠い目をした。
「うん、元カノって言っていいのかわかんないけど、そうだよ。もっとも、付き合い始めた日も別れた日も覚えてない、曖昧なものだけど」
「曖昧?」
「そ。その場の流れでぼーっとそうなったの」
まるで川の水が海へと流れて混じっていくようにね。純さんはストローの袋をくしゃくしゃに丸めた。
それから純さんは私に入江さんのことを色々と教えてくれた。
下の名前が敦也であること。
好物はハンバーグで、子供舌であること。
そのくせ自炊があまりできないこと。
そして––––––
「あっくん、女にだらしがないの」
あっけらかんと、とっくに運び込まれていたコーンスープをスプーンで掬って言い放った。
心臓がギュッと力強く握られたような痛みが胸を突き刺した。この感覚を覚えるのは初めてじゃない。採点されたテスト用紙をランドセルに突っ込んでいたのを母親に見つかって、夕食時のリビングでその事を突き詰められた時の感じに似ている。
固まっている私をよそに、純さんは話を続ける。
「私が別れた理由がそれ。バイトがあるって言って、平気な顔して他の女のとこ行ってるの。バカでしょ」
相当苛ついた出来事だったのだろうか、彼女の怒気は新鮮で生々しかった。
「何も変わってないし、たぶん今もそんな生活続けてるよ。今日帰れないなんてメッセージ、いかにもだし」
純さんからの言葉を聞きながら食べたオムライスから味を感じることはできなくて、べっとりとした唾液が口の中で波を打っているだけだった。
純さんがメイク直しのために席を立って離れた後、入江さんのトークを開いた。ハートを持った熊のスタンプ。
『忙しい時にごめん、お話がしたい』
なるべく攻撃的に捉えられない文面を作って、送信をタッチしようとする。けれど親指は微動だにしなくて、ハートを持った熊が私の俯いた顔を見上げているだけだった。
純さんと別れる間際、彼女は私の肩を叩いた。
「突いてみれば?そしたら存外、楽になるかもよ」
彼女の声音に波はなくて、AIが人の音声を真似た不格好な機械音声に聞こえた。
ツイテミレバ?
ソシタラゾンガイ、ラクニナルカモヨ。
生気の無い機械音声は私の脳内をぐるぐると回る。環状線ができあがって、その上をハートを持った熊がステップを踏んでいる。BGMにはジュディマリの自転車。そんな環状線上のパーティー会場には入江さんが笑顔で踊っていて、私の姿はどこにも無かった。そこにはポッカリと穴が空いているとかではなくて、アスファルトに転がっている石ころが風に煽られて草むらに隠れてしまったような、ただの″いつもの出来事″という名のスペースが置かれているだけで。
そのスペースも、数多の足跡に埋もれて、ただのアスファルトへと戻った。
入江さんの家に向かって走った。
体育でもこんなに全力で走ったことはない。真夏のヌルい夜風は冷たく感じる。前髪がパックリと割れてしまっている感覚が額から伝わる。
両耳のピアスが重いような気がする。一度止まってピアスを外して、ポケットの中に乱雑に突っ込んでまた走り出す。
さっきよりも速度が上がったような気がする。
入江さん家の玄関から、背の高い青色のショートカットの女性が出てきた。玄関の奥に向かって微笑みを浮かべて、軽く手を振って階段を降りる。私のことが目に入ったその女性は、「こんばんは」と丁寧に一礼してその場を後にした。
喉が熱い。毛穴が冷たい。胸がぎゅっと締まる。瞳が震える。
こんばんは。
彼女の一言が、私の頬を掠める。掠められた頬からは血が出てきて、けれどすぐに止まって、カサブタになって。
頬が痒かった。
「入江さんって、好きな人いるの?」
その日は、台風が近づいていて天気がとても悪かった。風はこれからの荒れた天気を報せるように徐々に強くなっていて、湿気の入ったヌルい空気が私の脳を萎縮させていた。
「え?そりゃあ透だけど」
「そうなんだ」
「そうなんだって、なにそれ。もしかしてずっと片思いしたた?」
「うーん、どうだろ。片思いしてたのかな」
入江さんは何が何やらといった様子でスマホをいじり始めた。「今回のは結構強そうだなぁ」と、天気予報アプリを見ているのだろう、そう零す。
「純さんに会ったんだ」
「純?」
「そう。戸川純の純って書く人」
「……ああ、純ね」
わざとらしく純、と繰り返す。
「昔の友達。今はほとんど会ってない」
「そうなんだ、ごめんね」
何に対してのごめんねなのか、わからなかった。
「何?疑ってる?」
「ううん、違う」
「純に確認してみれば。本当にしばらく会ってないからね」
「ううん、信じるよ、入江さんのこと」
信じてみたい、の間違いだったのかもしれない。
信用だなんて不確定で形の無いもので私の気持ちを縛ってみる。サイズは少しキツくて、少しでも動くとはち切れてしまいそうだ。
「僕も透のこと信じてるよ。そりゃあ間違いだってあるだろうけど、それでも信じるよ」
入江さんが動けない私をそっと抱きしめる。
ワックスのココナッツの匂い。その匂いは、私の膨張した気持ちを沈静化させるには十分だったと思う。でも今は鎖がある。締め付けるものがなくなった鎖はお役御免と言わんばかりにそこ落っこちて、私の気持ちは空中浮遊を始める。
「うん、そうだね」
その一言を残して、私は部屋を出た。
学校の帰り、抱きしめ返せなかったことをひどく後悔した。きっと否定されたと彼は悲しんでいるだろうか。彼の心臓が冷たくなっていくのを想像すると、歩く速度は増していく。
近くのコンビニでヴォルビックを買った。お店を出てから一口飲んで、カバンの中にしまおうとすると、二つの人影が目に入った。
バスから降りる、入江さんと、あの時すれ違った、青いショートカットの女性。気づかれてしまうと思い、一歩二歩、後退りで再びコンビニの中へと入店する。雑誌コーナーに立って、少し腰を屈めて彼らを見る。
歩道側に立った入江さんは笑顔で女性と歩き始めた。きっとここから歩いて五分ほどのショッピングモールに行くのだろう。やがて私の目線から二人の姿が外れて、ようやく私はコンビニの外に出た。
コンビニの外の世界はさっきよりも眩しく感じた。それはキラキラというより、チカチカしていた。
ショッピングモールに向かう二人の後ろ姿を見送る気にはなれなかった。
部屋に帰ってベッドに横たわると、涙が出た。
さっき飲みきったヴォルビックが涙として私の頬を伝っているのだろうか。スマホで涙、原理の二つのワードで調べてみると、涙は血液から血球を取り除いて残った水分らしい。なら、これは私が昨日食べたレバーから構成されているのだろうか。
そう考えたところで、涙の熱は引かなくて。
胸の痛みもまた治らなくて。
世界も眩しいままで。
チリチリとした指先で彼の声を手繰り寄せる。
『もしもし?どうかした?』
「もしもし。…さっき見たよ」
入江さんは黙ったままだ。
青、の言葉に引っかかったのだろう、姿勢を正す音が聞こえる。
「純さんじゃなかったね」
あの時彼の隣を歩いていたのは純さんじゃなくて、名前も知らない青いヒト。
努めて、冷静な声で言ったつもりだった。
『じゃあね』
返ってきたのは、冷たい声だった。
* * *
世界は終わってしまえばいいと思っていた。
けれどそう願ったところで隕石は降って来ないし、核爆弾が東京で爆発するわけでもないし、突然みんなが各々自由な手順で自殺を始めるわけでもない。
起こらないのなら、起こしてしまえばいいか。
そう思い立っても、実行するほどの勇気もお金も実力も無い。私が持っているのは、他力本願な八つ当たりを起こしたいという願望だけだ。
あれから入江さんとは連絡を取ってない。たまに思い立ってもトークの履歴を見返すことはあるけど、2、3日分のやりとりを遡ったところでいつも止めてしまう。たぶん彼はこのトーク履歴の遡及なんて何の抵抗感も抱かずにやってしまうのだろう。ああ、こんなこと話してたよな。久しぶりに電話でもしよっかな。みたいな感じで。
今後入江さんとバッタリ街中で出会してしまっても、私は知らない人間のフリをするだろう。そしてその時には、ぜひとも彼にもそのフリをしてもらいたい。
そうすれば、いつか訪れる忘却の瞬間が少し早く来てくれそうだから。
おやつ時な十四時のバス停。
ベンチに腰を下ろした私は鞄の中でポータブルCDプレイヤーを再生する。
あなたはやって来て私を誘うのね
街の向こうの水辺へと
季節と旅に出ていつかは戻るはず
ひとけのない通りにふらりと
アコースティックギターの乾いた音は、私の鼓動を落ち着かせてくれる。
自転車を走らせる中学生。走る外回りのサラリーマン。バス停を通り過ぎるタクシー。
瞼の裏で浮かぶジャングルジムのテッペン。
全部が、とても眩しい。
これから私の目の前に現れる鳥の色は黒かグレー。精々白といったところか。
それで十分だ。今の私に残っているのは、もう青い鳥は私の元に飛んでこないという事実だけ。もし仮に飛んできたとしても、そんなのこっちから願い下げだ。
だって、私に青は似合わない。
青い鳥が私に与えたのは、ページをめくる音をBGMとして求めてしまうほどの、どうしようもなくありふれたただの昔話だからだ。
眩しくなった世界は、終わりが見えなくて。
何処に行けばいいのかわらないから、雲の背中を追ってみよう。
どこに辿り着いてもいい。ただ道中が楽しくて、青一色じゃなければ、それで良い。
夢中で彼女の歌声を聞いていたからだろうか、私しかいないバス停に近づく足音に気づくのに、少し時間がかかった。