陸翔とパラディーゾは、床の崩落や度重なる振動で落ちてくる瓦礫を避けながら、ようやく冷葉たちがいると思しき部屋へとたどり着いた。
「いると思しき」としたのは、目の前の扉やその付近に壊れも血痕が見当たらないからだ。
不自然だった。
もうひとつ、加えるとしたら扉は絶えず小刻みに揺れていたことだ。
鍋を火にかけて放置したときのような、危なっかしい揺れ方である。
「うわ、これ大丈夫なのか? このままだと爆発しそうな雰囲気を感じるのだが!」
「ふむ? 陸翔殿。出来ればであるのですが、今ドアノブを回す行為は止めた方がよろしいかと……少し遅かったようですね」
――ガチャリ。
錆びた開錠音がよく響いた。陸翔がドアノブを捻ると、隙間から夥しい数の怨嗟を秘めた瘴気が噴き出したのを見逃さなかった。
扉が開くと同時に気体のように噴き出した怨嗟の瘴気を見て、パラディーゾはそれが陸翔の命を脅かしかねないと判断した。
「陸翔様、申し訳ありません」
そう一言謝ると、彼は陸翔の襟首を掴んで自分の方へ引き寄せた。その拍子に木が折れる音と陸翔の悲鳴が響き、濃密な瘴気が廊下に溢れ出した。
黒い砂のような霧が足元になだれ込む。
少しずつ満ちていく瘴気には特定の姿や形はないが、決定的なのは、本能に対して過剰なまでに作用する点だ。
瘴気の満ちた空間へ触れるだけで寒気が走り、自律神経が乱れ、体調が悪化する。長時間曝露すれば精神を蝕まれ、狂気に吞まれる。
多少なら生存本能を呼び覚ます作用は許容される。生物が生き延びるためには必要な反応だからだ。
しかし過剰に本能を刺激されれば、人は凶行に走る。鼻先に浴びれば硬直して理性を失う者もいれば、蝕まれて他人を害する行動に出る者もいる。
実際、パラディーゾが抱える陸翔は青ざめ、小刻みに震えていた。
「え、今何が起きたんだ? 床がっ! 床が腐って崩れて……ああっ! やめろ、やめてくれ! おっ俺をそんな目で見るなああ!!」
陸翔は急に扉の上側を見つめ、次第に甲高い奇声をあげて暴れ始めた。パラディーゾは宥めるふりをしながら、細い腕で錯乱する彼をしっかりと抱え、放そうとしない。
彼が怯えて叫び、暴れるたび殴打やビンタのような行為が生じる。だがパラディーゾは動じず、陸翔を抱えたまま室内へ足を進めた。
「マスター。陸翔様が瘴気に当てられてしまいました。どうされますか」
室内に入ると、芙二の元へ近づいていく。錯乱して赤ん坊のように泣きじゃくる陸翔は、どうしても視界に飛び込んでくる。
パラディーゾに抱えられた陸翔は暴れ疲れたのか、癇癪を起こす幼児のように涙を零していた。
「……成人男性がこうも甲高い声で泣いているとこを見るのは少しきついな。そうだ、パラディーゾ。ゆったりとしたメロディーを頼む。今回は指揮棒を振らずに、演奏してくれると助かる」
埒が明かないと判断した芙二は提案した。
「承知しました。鎮魂歌を、指揮棒を振らずに……そうですね。リクエストに応える都合上、ヴァイオリンでの演奏になりますが、それでもよろしいでしょうか?」
パラディーゾの問いに芙二は頷く。演奏を始める前に彼は陸翔を受け取り、誰かが使っていたであろうベッドの上へ放り投げる。その際、短い悲鳴が聞こえたが気にしない様子だった。
現在の立ち位置は、パラディーゾと芙二が室内の入口。室内右側の壁を突き破って畳に伏せているのが清霜とサラトガだ。
叢雲を睨み、彼女らに寄り添って庇うのがヴェールヌイ、時雨、夕雲である。
見知らぬ人物の登場に、彼女たちの緊張は高まる。
上下二段のベッドは崩壊し、二つのベッドが床に散らばっていた。そのうちひとつに簡易結界が展開され、中心に冷葉が正座している。冷葉の隣には、錯乱した陸翔が気絶している。
扉正面の窓は枠ごと変形し、粉々に砕け散っていた。壊したのはテロリストの仕業でもあるが、追加で破壊した張本人は入ってきた見知らぬ人物に対して換装した主砲を向けている。
「あら、あんたは誰かしら? 司令官を、マスターだなんて洒落た呼び方するの? 言っておくけれど、私に対して危害を加えるなら……その楽器と頭を吹き飛ばしてあげるわ!」
深海化した叢雲が告げる。かつてモイストシルバーの長髪だったが、今は金色の毛が混じった銀色の長髪。橙色の瞳は、丸い瞳孔から猫のような縦長の瞳孔に変わっていた。
ワンピース状のセーラー服に身を包み、首には赤白のストライプ柄のネクタイをしている。
「これは困りました。マスター、私はどうしたらいいでしょうか? 痛いのは嫌ですし、演奏できないのも嫌です。実に困りました」
パラディーゾはヴァイオリンを取り出し、芙二へ向き直る。パラディーゾの弱々しい所作を見た叢雲は、
「ふん! そんなことを言って騙しても無駄よ! 司令官をマスターなんて呼ぶやつは不意打ちが得意だって知ってるもの! だから一発、いくわよ?」
――ドォンッ!
叢雲の周囲を浮遊する小型要塞が空砲を撃ち鳴らす。
彼女を護衛するように見える四つの生体兵器が計八つの砲口を作動させ、装填はされていないが、その衝撃音と風圧が彼女の服の裾を煽る。
影となる部分から、ちらりと黒いタイツを履くやや筋肉質な足が見えた。
「むっちりとした素晴らしい美脚だな。おっと、そんなに熱い視線を向けられるとても困るよ。なにせ、
芙二の口ぶりは悪戯っぽく、場の緊張を軽く撫でる。
「あんたはこの状況でさらっと気持ち悪い冗談を言えるくらい余裕があるのね。確か龍神というものになったのでしょう? その神様パワーで何とかしてみたらいいんじゃない? このままだとあんた以外は死ぬわよ!」
芙二の失言に、叢雲は殺気を滲ませて睨む。
彼は軍服の姿から紺桔梗の神官服の姿へ変える。
叢雲は彼の本気度を目の当たりにして表情を曇らせた。
「余裕だなんて思っているのか? 違う。誰も死なせない。叢雲の言う神様パワーで何とかできるが
やり取りのたびに、叢雲の表情は曇り、殺気が増す。護衛する浮遊型小型要塞の数も比例して増えていった。
返答を終え、しばしの静寂が訪れる。
だが、静寂は彼女の心の声によって破られる。
叢雲の顎から鼻へ、青筋が稲妻のように浮かんだとき、彼女は叫んだ。
「そんなもの、決まっているでしょう! 私はあんたがとても憎いのよ! 殺したいくらい!!」
彼女が発した言葉の真意は掴めぬまま、芙二は胸に数百の刃が突き刺さるような幻覚に襲われた。
幻覚とはいえ、実物が刺さったかのような激しい痛みが胸を締め付ける。
患部はじわりと熱を帯び、足に力が入らなくなった芙二はおぼつかない足取りで叢雲に近寄る。
「叢雲? それはいったいどういうことだ? そんなに――」
距離が縮まる中で、彼女は叫ぶ。
「近寄るな! 司令官の姿をした化け物め! あんたなんて深海棲艦以上の悍ましさを感じずにはいられないったらないわ!」
ぴしゃりと言われたその言葉は芙二の顔を歪めるには十分な理由であった。