地下楽園 上層 【繫栄実験室】にて。
一枚の壁、それ以外は三面ガラス張りの部屋で悲鳴が上がる。
「きゃあっ!」
目覚めた視界に、異形の怪物が映った。
掛けられていた布団代わりの布を掴んで、かなり距離を取る。
「あ、あなたは誰なの?!」
亜麻色の長髪の少女は問う。
異形は言葉を発さず、黒紫色の触手を魚のヒレのようなものでいじる。
「お目覚めか、夕立」
そう言いながら、異形は神妙な表情で近づく。異形が足を踏み出す度に、床は水に濡れていく。彼の周囲からは濃い磯の匂いが立ち込めて少女の鼻腔を抜けた。
「う、うう! なんて酷いニオイなの!?」
少女は両手で鼻を覆い、顔の向きを変える。そのとき、ぱさりと小さな音を立てながら布がズレるのを異形は見逃さなかった。
「っ!」
ゴキブリのような素早い動作で床を駆け、一気に距離を詰める。
生暖かな風を浴びた少女は視線だけを向け、驚愕していた。
(なぁっ!? なんでこっちに来るっぽい!!)
ほんの一瞬。目を離した隙に距離を詰めてきている。自分の身の回りには武器となるような物は何もない。その状況に少女は焦り、叫ぶ。
「こっちへ来るなっ! わ、わたしは美味しくないっぽい!!」
その願いも聞き入れられず、異形は少女の身体へ手を伸ばす。先ほど見た腕とは異なり、ムカデのようなものが伸びてくる。
(ひぃっ! き、気持ち悪い!)
それを認識したとき、少女は顔を引き攣らせ硬直する。こんなのと子を作らなければならないなんて、と命令した主を恨んだ。
きゅっと目を瞑ったとき、耳元でささやかれた。
「あぶねえな」
壊れかけた無線機のような、酷いノイズ交じりの声が聞こえた。
びくり、と肩を大きく震わせていた少女は事が終わるのをただ待つしかできない、と悟る。
(早く終わって、早く終わって早く早く早く――)
スルスルと衣擦れの音が鮮明に鼓膜を震わす。ぞりぞり、と直前で見た物の感触が脳に刻まれていく。箒のようなもので肌をなぞられる――そんな異物感の終わりを願う。
「よし、こんなものか」
何かに納得したような声と共に異物感が消える。恐る恐る目を開けると、そこには直立して少女を見下ろす影が一つ。
「ふひ。――満足だな」
黒紫色の垂れ下がる触手の隙間から白い歯が見える。無機質な布が、赤と紺の水兵服へ変わっていた。早着替え、というレベルではない。
「あ、ああ」
あまりの恐怖に言葉を失っていると異形が隣へ腰を下ろす。
胡坐を搔いて頬杖をつく。
「ふむ、そんなに怯えるんじゃあない」
ムカデのような細長い腕が少女の肩へ伸びる。が、弾かれた。
「別に取って食おうなどと考えているわけじゃない」
異形は顔を顰めることなく、逆に笑って流す。
亜麻色の長髪の少女は顔を俯かせ、黙りこくる。
~~
気まずさから異形も視線を外した。
(どうにかして警戒を解きたい。きっとこの世界で彼女の事を覚えているのは……)
直前、ミライの術中に落ちたことだけは記憶している。一瞬のことで己の身しか守ることができなかった事実を悔やむ。
神の位へ上がっただけじゃ、ダメかと認識を改めさせられた出来事。
悶々とする中で邪悪な思考が過る。
(ああ、いっそのこと可哀想だけど潰しちゃって、即蘇生したらもとに戻らないかなあ)
んなことは無理だよな、と内心ほくそ笑む。そろそろ話しかけようかな、と考えた矢先。
「ねえ」
異形の顔を少女の両手が掴む。爪を立てたのか黒い皮膚を破り、異形の顔から赤い血が流れる。
チクチクと痛む中で異形は少女の目を見つめた。
その瞳にはどす黒い何かが煮詰まり、また表情はこわばっていた。
「どうした。殺すなら首を絞めないと意味がないぞ」
そう、真顔で言う。表情を変えるでもなく。
少女の行動は筒抜けと言わんばかりな、余裕の態度。
「ねえ、あなたの名前はなんて言うの?」
至極真面目な問い。
異形の言葉が素っ頓狂なくらいに感じられる程度に。
「名前、だあ?」
異形は悩む。本来の名前を伝えるべきか、と。
ミライによる精神干渉。しかも存在すら書き換える上位干渉を前に下手な行動は慎みたい、それが異形の本音であった。
――ゆえに異形が答えるものはひとつ。
「レンジ、だ」
「レンジ?」
レンジの顔を掴む力が少し緩んだ気がした。証拠に頬へ食い込む爪が他の場所へ移動している。少女が小さく頷く間に傷を癒す。
「そう。あなたはレンジって言うっぽい? ……ぽい? どうして未確定な言い方をわたしは? この状況で嘘を口にすることはないだろうし」
少女は両手を放し、腕を組む。
眉間に皺を寄せ、むむむむと唸り始めた。
「納得したか?
レンジが彼女のかつての名前を口にする。
少女は不思議そうな表情でこちらを見つめた。
「ねえ、さっきからどうしてわたしのことを……その、ゆうだちと呼ぶの?」
この世界の中で唯一おまえを覚えているから、と口にしたくなる。だが、それはこちらの事情に過ぎないのだと理解していた。
「それはだな?」
ほんの少し会話し、共にいたから理解できる。
目の前の存在は過去の記憶全てが欠落している。どこからどこまで欠落しているかは、不明だが艦娘として大事な名前すら憶えていない。
(存在の核だけを残して、上書きしているのか……)
少女は不思議そうに首を傾げ、こちらを見つめてくる。
(酷い。この世界に神はいないのか? あ、
少女の状態をひどく言えば初期化。生物として、最低限の機能だけ残されている。特にここは名前の通り、繁栄を――繁殖をするだけの部屋。
ふいにしな垂れた黒紫色の触手を掴まれ、
「レンジさん! さっきからどうしたっぽい?」
ぷりぷりと怒る視線をレンジへ向ける。
「ああ、すまない。おまえの主からそう呼ばれていた気がする」
ミライはレンジへのサプライズだとか抜かしていた気がする。その時に彼女の名前を口にしたような、そんな気がする。
「うへえ!? ああ、主様がそんなことを!!」
気がする、などと適当に言ったのにも関わらず少女はひどく驚く。
そして自分の名前を覚えるように、何度も執拗に繰り返す。
(別人だな、本当に)
失礼かもしれないが、犬のような可愛らしさが微塵もない。
言動がガサツでなんというか、図太いような。そんな気もしてきた。
(予想以上に深刻な問題かもしれないな――ん? なんだ、こっちを見てくる)
今の少女を見ていると、新たな問題が見えてきた。それは存在の固定。
自我の強さですら防げないような特異な状況。
そのような状況下でも個人を保つ為の手段を得ねば、と責任を感じていた。
「夕立、何か言いたいことがあるのか?」
夕立は鼻を摘みながら、一言。
「レンジさん、言いたくないけどかなり匂うから……どうにかしてほしい」
重苦しい雰囲気から一転。眉間に皺を寄せ、手で扇ぐ姿に笑いがこぼれる。
「そういえばそうかもしれない。感謝するぞ、夕立」
繫栄実験室の外へ足を踏み出す。
(今からどこへ行こうか? 浴場があればよいが)
なければ、適当に身を清める手段を考えよう。そんな考えを前に重い責任感など、どこかへ行く感覚がした。