廊下は薄暗く、レンジ以外に対して視認性は最悪の一言に尽きる。
「ほんの少しだけ明るいな」
繫栄実験室の外へ出て、道すがら裸足で歩く。今自分たちのいる場所は白い。壁も床も清潔さを感じさせるほどに。
(塵ひとつないなんて、行き届いた掃除だな。しかしこれでは潔癖、と言うような気さえする)
ぺたぺたと足音を立てて進むこと十五分。探索しつつ、会話できそうな者を探す。ここまでですれ違ったり、出会い頭に接触することはあれど誰もが視線を合わせない。
(見えてねえわけじゃないのに)
レンジがわざと足を掛けて転ばせても、衣類の裾を掴んで引き留めようとしても頑として顔を合わせない。それどころか、表情の一つさえ変えない。
「あ、おはようございます」
「今日も下ですか?」
レンジが妨害しても無関心だった女性は、同僚らしき女性と世間話を始めた。それもレンジの目の前で。当の本人は少しだけ居心地が悪くなり、手荒な手段への移行を考え始めていた。
「ええ、そうなんです。なんでも新しく入った異形の癖が強いのだとか……」
作業服を着た黄色い髪の女性は相槌を打つ。
「それは災難ですね~。ま、どの程度の化け物だとしても子を孕めば、ある程度の価値を付与されますからね~」
クスクス、と笑い合う。彼女たちの会話を聞き、ほんの数時間前にアダムから説明されたことが頭を過る。
改めて状況の整理をしたいと考え、レンジはその場を離れた。
(遺伝子の価値、か。……価値がなければ、どうなるのか? まあ両方処分とかその辺だろうな)
顔を俯かせ、腕を組んで歩く。唸りながら歩く所為か、自然と人が避けていくような気がしたが、どうでもよかった。
気が付けば、人通りの多いところへ出ていた。
「きゃっ! ど、どこを見て歩いてんだ――」
頭の上に柔らかな何かがぶつかり、同時に悲鳴が上がった。
そのまま通り過ぎず、声のする方へ視線を落とす。
「む、すまない。考え事をしていて余所見をしてしまっていた。怪我は――」
紅い髪の女性だった。
上半身には白いビキニ、腰には丈の短いホットパンツ。露出した肌の中で、鮮烈な髪色だけがやけに目を引く。
「ひ、い」
レンジを見てか、唇を固く結び顔を青くさせていた。もうひとつ変化が生じていた。それは周囲の眼差し。
(何が起きたんだ? あれだけ、無視無関心だったのに……今はこちらを凝視している)
女性に手を伸ばそうにも、手が止まる。
拒絶されたらどうしよう、という思いからではない。
(
衆目の視線はレンジではなく、目の前の彼女へ注がれている気がした。
なので、彼女の頭に触れて精神干渉を行う。
ただ催眠の類ではなく、見せたい存在を強制的に認識させる。
「ひぃ……な、なんでそんな顔をしてるんだ?」
周囲を見渡し、訴えかけるように叫ぶ。
レンジは首を傾げるが、よく耳を澄ませて聞こえてきたのは嘲笑。
「くす、次の獲物はあの娘なの?」
「ええ、そうみたい」
「あーあ、ルール違反だね。体も顔も良さげなのに、かっわいそう~」
女性は顔を皺くちゃにさせて、必死にレンジから視線を外そうと試行錯誤を繰り返す。
だが、本人の意思とは反して固定されたように動かせていなかった。
「なんで、なんでなんで!!」
両手で目を覆おうものなら、勝手に指が開かれてレンジという存在を見つめる羽目になる。
(可哀想だな、もうやめてやるか)
仮説の立証はまた今度、と考えたとき。
女性の異常な様子が何かを感知させたのか、頭上に影が重なる
「な、なんでセラフィムがここへ……!」
「セラフィム?」
巨大な白い翼を羽ばたかせ、舞い降りたのは仮面を付けた天使。
人よりも遥かに巨きく、白いノースリーブローブを身に纏う。天使は右手に自身と同等の大きさの蛇行剣を持ち、女性目掛けて振り上げた。
状況を観覧する者たちは歓喜の声を上げた。女性は膝をつき、赦しを乞うような姿勢を取る。
(流石に護るか? しかし夕立がいる手前、騒ぎを起こすわけにもいかないよなあ)
レンジはひとり、未知の存在について己が取る行動を思案する。
どこまで己の力が通用するか、不明な為に行動を躊躇う。下手に刺激して、こんな場で戦闘を繰り広げるわけにはいかない。
(万が一、死んでしまったら今回だけ蘇生しよう。こちらの所為かもしれないからな)
レンジはいつでも蘇生の体勢に入れるよう、準備を済ませる。
「粛清対象捕捉。これより、粛清を行います。≪ホーリー・エッジ≫」
セラフィムの蛇行剣が眩い光を放つ。周囲からは期待の声が上がり、女性は恐怖のあまり言葉を失う。
「ひゅ~! やれやれ!」
「いっけえ~! セラフィム!!」
蛇行剣が振り下ろされる直前。
騒ぎに駆け付けたのか――白金色のスーツに身を包んだ壮年の男性が声を荒げる。
「おい、この騒ぎはなんだ!」
この場に現れたのは、アダム。レンジと夕立にこの世界の説明をした張本人。
彼は額に青筋を浮かべ、視線は周囲を見渡す。
(アダムか。何しに来た? 見た感じ、他の客と同じと言う事ではないようだが)
繫栄実験室の異形。呼び出されたセラフィム。
その二つを前に状況を理解したのか、
「止まれ、セラフィム」
セラフィムを指さし命令を下す。
命令が受理され、蛇行剣の発光は消えた。
セラフィムは剣を鞘に納める中でアダムは続けて命令を下す。
「下がれ、彼女の処遇はこちらで決める」
その命令を受理し、小さく頷くとセラフィムは光の粒となって消えた。
アダムの登場により、場は白けたように静まる。
事態は解決されたというのに、未だ群がる衆人。
アダムは呆れたように溜息を吐き、静かに息を吸い込む。
「貴様ら! 事態の解決が見えないのか! そういう目的ならばコロシアムを利用しろと常に伝えているだろうがッ!!」
アダムの言葉はビリビリと空気を震わせる。
呆気に取られた衆人たちは蜘蛛の子を散らすように、逃げていく。
(わーお。すっげえな、あの人。セラフィムに命令をしてるところを見るに権力者かなんかか?)
レンジはただ一人、アダムに感心する。アダムの怒鳴り声を聞きつけてか、彼が出てきた方角からSPのような恰好をした人物が例の女性を連行して去る。
「あ、連れて行かれちまった」
結局女性から話を聞けず、レンジは落胆する。そこへアダムが近づき、声を掛けた。
「おい、貴様。なぜ許可なく繫栄実験室の外へ出てきている。あの娘と共に子を作れと言われているだろう」
不測の事態を引き起こした張本人を前に、苛立ちを隠さず問う。
しかしレンジは、真剣な表情でアダムへ聞き返す。
「その前に大事な事がある。子を成すにも、なにをするにも身を清めたい。なので浴場を教えろください」
アダムは不躾な物言いに腹を立てたが、心を凪ぐように努めた。
小さく咳ばらいをして、ゆっくりと話し出す。
「……ッ! ……分かった、後で係の者を向かわせる。貴様は大人しく繫栄実験室へ戻れ」
レンジは目的が達成できたことを内心で喜ぶ。
アダムに対し、軽くお辞儀をして来た道を辿っていく。
「今後、勝手な脱走は控えるように」
背後から言い聞かせるような、そんな言葉が聞こえた。
言葉に対し、レンジは何も反応を示さない。