元気いっぱいに、前へ進む夕立は続かない足音に気づき、振り返る。
興味深く周囲を見渡すレンジの顔を見て、不思議がる。
「レンジさん? どうかしたの?」
彼の表情はどこか郷愁に耽っているように見えた。
レンジは気の抜けた返事しかしない。
(なにか気になることでもあったのかな?)
対して夕立の目には、何もかもが新鮮に映った。目を閉じて周囲の生活音へ耳を傾ける。心と体が踊り出しそうなリズムと音色が鼓膜を震わせ、自然と口角が上がっていく。
「~♪ ~♪」
気が付けば、メロディを鼻歌に乗せるほど、浮かれた気持ちになっていた。
「すまない、夕立。何か言ったか?」
声のする方へ視線を向ける。
眉をへの字にしたレンジと目が合う。
「いいや~? 不思議な顔をしていたから聞いてみただけっぽい」
夕立はくるりと前を向き、香ばしい匂いがする屋台へ足を進める。彼女は人混みを分けて進んでいき、あっという間に姿が見えなくなった。
「ちょ、ちょっと夕立!
レンジは慌てた様子で夕立の跡を追いかける。彼が足を一歩踏み出した瞬間、周囲の人間はほんのわずかに距離を取るのが見えた。
(――あンだと? 認識してはいけないはずじゃないのか?)
白苑の住人は無関心を装い日常へ戻っていく。レンジを避ける衆人をちらりと横目で見る。彼の進路だけ、人波が割れて一本の道ができていた。
~~
「ああ、くそ。夕立! 一体どこにいるんだ」
レンジが向かう先すべて、おかしな空間が作られる。彼が近づけば同じ極同士を向けられた磁石のように衆人たちは離れていく。祭り提灯の明かりが薄暗く見え、表情に影が差す。
(こいつら邪魔だ、邪魔すぎる。いっそこのまま、ここで全員殺してしまえば見つけやすくなるだろうか?)
「レンジさーん」と聞こえていた声も遠ざかる。夕立が群衆の中へ溶け込んだとき、虫の知らせか変な予感がした。
「いいや、ダメだ。今の状態でセラフィムとかいうのが出てきたら守れない」
夕立を探して走り回る中で邪悪な思考を消す。レンジが一歩前に進む毎、人々は引く波のように避ける。夕立の姿が人波に攫われることに痺れを切らした。
「だぁっ! 邪魔をするなぁ!」
大声を上げて、掴みかかろうとする。思考は攻撃性を増す。レンジは干渉する能力を用いて肌や布がぶつかり合う箇所を繋ぎ止め、数珠つなぎにしてしまおうと考えていた。
しかし運悪く、先ほど案内をしていた女性の腕を掴んでしまった。彼女は短い悲鳴をあげて、よろめいた。
(やべ――怪我させちまう!)
レンジはそう思い、紅い髪の女性を支えようと咄嗟に体勢を変える。自分の胸の中へ彼女の腕を引っ張った。
ドン、と強い衝撃が胸に加わり、レンジは思わず尻もちをつく。
(ひとまず怪我はないようだな)
収まった女性の状態を確認して、ほっと胸を撫でおろした。未だ動かない女性に対し、
(腰を抜かしてしまったのだろうか?)
などと心配していた。が、状況は一変する。
誰かが、くすりと小さな笑いを漏らした。
――あはは!
――わはは。ああ、これは良いものを見れそうだ。
その小さな波紋が広がり、やがて周囲の人間は吹き出すように笑う。また軽蔑するような、同情するような視線を向ける。
「なんで、また私なのよ!」
その先はレンジではなく、紅い髪の女性へ向けられていた。彼女はぎゅっと拳を握りしめ、何度もレンジの胸を打つ。
「おいおい、掴みかかったのは悪かったって」
自身の胸を打つ手を止めたとき、紅い髪の女性は顔を上げる。
「なんであんたは私を選ぶの!? ほかにも女はいるでしょう!? 私に恨みがあるのか、この化け物が!! その執着を口で言ってみろ。しょうもない理由なら、今この場でセラフィムを呼んで共に死んでやる!」
衆目の前で泣き叫ぶ。
その様子を見て、レンジは口を開く。
「待て待て。まずは落ち着け。あの時も、この時もたまたまこうなっただけだ。偶然だ、偶然」
困ったように女性を静めようと試みる。だが、紅い髪の女性はショックを受けたように目を見開いて固まった。
「この二度の出来事が偶然、ですって? ――ッそこの、クローンモドキに情欲をぶつけていればいいのに!」
紅い髪の女性が指差す先には、夕立がいた。その表情は青褪めて、委縮する姿が見える。生まれて初めて叱りつけられた子供――よりも酷い顔をして目を潤ませた。
「おい」
レンジは俯き、問いかける。
「何だ、このヒトもどきッ!! 繫栄実験室の家畜ごときが私たち人間様に口を聞いていいとおもっているんかぁーっ!!」
紅い髪の女性は早口に、周囲への同情を誘うような言い方で詰る。実際に彼女の言葉の後に、まばらな拍手が聞こえてくる。
「か、家畜の分際で浴場を自由に使いたいなんて身の程を知らないようだな! お前たちは、臭くて、醜くも我々が裕福に生活できるように子供を作り続ければいい。それも理解できないおつむなら――」
レンジの首筋にしな垂れる黒紫色の触手を鷲掴む。
粛清される恐怖よりも、叫ぶ。セラフィムが君臨し、自身の命が尽きるまで。
「黙れ」
そんな時は、来ない。
レンジの一言が周囲の状況を著しく変えた。
「――は、あ? あんた、なに言って。か、家畜風情が人間様に楯突いていいとおもっているん」
触手を力強く掴み、力のままに引きちぎる。ぶしゅ、と黒い血が噴き出す。レンジは顔色ひとつ変えず、唸るように一言。
「最終勧告だ。今すぐに、どけ」
レンジの言葉に慄いた女性は、吹き飛ぶように距離を取る。そのとき、握っていた触手の束がぶちりと嫌な音を立てるが、誰も気にも留めない。
「……どけ」
ギロリ、と紅い髪の女性を睨みつける。
彼女は肝の冷えた悲鳴をあげ、衆人の傍へ這うように逃げた。
レンジは気怠そうに溜息を吐くや、前かがみになる。
一歩。また一歩と夕立の傍へ歩いて行く。
~~
「れ、んじさん」
たどたどしい口調で彼の名を口にした。夕立はワンピースの裾を握り、目線を下へ向ける。二人の間には空気よりも重い沈黙が訪れる。
実を言うと、夕立もレンジの怒気に当てられていた。身の毛もよだつほどの言葉。それもたった一言。
(レンジさん、すごい怒っているみたい……夕立があんなことしなければ、こうはならなかったのかな?)
心の中で深く反省していると、急に右手を掴まれる。吃驚した夕立が顔を上げた。しかし当の本人は無言のまま、彼女の腕を引いてどこかへ歩き始めた。
「ちょ、ちょっとレンジさん!? どこへいくっぽ――」
力強く引っ張られ、転びそうになったが、寸でのところで踏みとどまる。後ろから横へ移動することが出来た夕立はレンジの表情を見ることに成功した。
「あっ」
だが、すぐに口を閉ざす。
夕立は再び視線を下へ向ける。
――彼の口は固く縛られ、下唇から血を流していた。
(そんなに怒らせちゃったのかな)
夕立に彼の真意は分からない。
彼が何に対して、そこまで憤慨しているのか。自身の行動、あるいは自分たちを案内してくれた女性の言葉に対してなのか。
「ついたぞ。ここみたいだ」
先ほどよりも、幾分か穏やかな声色で到着を伝えられる。そして二人の足が止まっていることに気づく。夕立の視界には【大浴場入口~日々の欲望を浮かせよう~】という暖簾が映る。
レンジが夕立の手を引いて、前に進む。先ほどよりも、人の数が増したことに驚く。だが、脳内へ流される情報は一秒毎に更新されていく。
「欲望を浮かせるってそういう意味かよ。吐き気がしてくるわ」
夕立よりも、先に浴場の正体を見たレンジは気まずそうに目を逸らした。立ち昇る湯気は二人の男女を深く隠す。
レンジはこの場所が夕立へ与える影響を怖れるように、早足で進む。
「夕立、気になるかもしれないが――見るな。いいもんじゃない」
夕立はただ頷くことしかできない。だが、それが自身のすべき事と理解していた。
(わわ、いつかは私もレンジさんとあんなことを――)
薄いアクリル板のような、個室の仕切りの奥から体液と石鹼の匂いが鼻を突く。ある個室の前を横切る。そのとき濃い磯の匂い、ツンとする甘酸っぱい匂いが鼻を抜ける。
条件反射のように夕立は思わず息を吸い込んだ。口の中は濃い磯の匂いが充満し、軽い吐き気と頭痛に苛まれる。が、次第に消え、甘い痺れが残る。
「ねえ、レンジさん」
「なんだ」
「レンジさんは夕立とそういう事――シたくないの?」
「悪いが、それはできない。したくない、とかそういう話じゃない」
レンジは夕立の顔の前に左手を見せる。その薬指に銀の指輪が付けられていた。キラリ、と光るそれは夕立には何を指すのか理解できない。
「そうっぽい? シたくなったら、言ってっぽい。夕立はそれがお仕事だから」
首を傾げ、なんてことのないように呟いた。