「そうか」
レンジは左手を引っ込めた。常識的、というか普通ならば相手がいると知れば、身を引いたりするものだが――彼女からの返答で理解できた。
「その時が来れば、よろしく頼みたい」
レンジは伏し目がちに返事をする。これ以上、話を掘り下げても意味などない。
それに周囲に満ちる湯煙で遮られ、夕立の表情を見ることは叶わない。
「そろそろ湯船に浸かろう。
レンジは、にへらと笑う。
気の抜けた表情で、優しく夕立の手を引いた。
「そうする」
夕立は小さく頷いた。そうして進むふたりの足取りは、ほんの少しだけ軽い。
~~
二人は一番大きな区画へ足を踏み入れ、受付を済ませる。そのとき、一斉に人気がなくなるのを感じたが、レンジは好都合だと割り切り脱衣所へ向かう。
「わぁ! 広い、大きいっぽい!」
「走るんじゃあないぞ。あぶねえから」
初めての銭湯。白い壁に、水玉模様のタイルが敷き詰められた脱衣所。泊地のドッグ前の脱衣所は簡素なものだった、とレンジは思い出していた。
「……ッ!」
ふたりの声を聞いてか、衆人たちは急いで着替えを済ませて去る。中には頭を通しただけ、半裸と言っても差し支えない状態で走り抜ける者もいた。そこに男女の差はなかった。
(まあこれならば、気に掛ける必要もないか)
ふう、と息を吐く。夕立へ服を脱いでおくように、指示を出す。当の本人は、目を輝かせて脱ぎ始めた。水兵服を脱ぎ、下着姿へなったそのとき、レンジが動く。
「乙女の着替えを覗くなんて変態な真似はさせないぞ」
二人がいる脱衣所の、その中に設置してある一台の監視カメラ。カメラと夕立を結ぶ直線上へ、レンジは覆い隠すように立つ。
(ほんの少しだけ、だ)
いつぞやの黒いコートを羽織り、その面から開く孔雀の羽根のような目を瞬かせる。カメラのフラッシュに似た動作で黒色と黄色の目が一斉に開かれた。
「わわっ!? なにごとっぽい!!」
レンジの一連の行動に驚いたのか、夕立は悲鳴をあげてしゃがむ。
「……驚かせたか。すまない、ただの虫よけだ」
コートを脱いで、自身の部屋と繋がっている虚空へ放り込む。そして夕立への謝罪を口にしながら、慰めるように頭を優しく撫でた。
「む、虫よけ? あんなので虫が寄り付かなくなる、の?」
あまりの恐怖に目を瞑り、涙声で言う。その姿にレンジは、
(あちゃ~。先に済ませておくべきだったか)
と反省をする。しかし彼は繰り返す。未だ心の奥へある執着がそうさせる。
かつて心の底にあった破滅への渇望は満たされ、今は別の物へ置き換わっていた。
(今の夕立の姿を見ていると、執着を隠せそうにない)
それは救済。以前の、全てを破滅へ導くという渇望は消えた。龍神となり、人の時よりも願望が大きく醜く膨れ上がる。
(いかん、冷静にならないといけないんだが)
心の蓋が外れ、ねっとりとした泥のようなものが意識を蝕む。ぶんぶんと頭を振るって、何度も掻き消そうとするうち、
「レンジさん? どうかしたっぽい?」
そこでレンジは、夕立を撫でる手が止まっていたことに気が付く。
「――あっああ、すまない。そろそろ湯船へ連れて行こうと思っていたんだ。変な心配をかけたね」
「そうっぽい?」
きょとんとする夕立に対し、レンジは誤魔化すように頷いた。
「さて、夕立。これから身体を綺麗にしような」
レンジは浴場の入り口付近にあるタオルを二つ、手に取る。ひとつを夕立へ渡し、前を隠すように伝える。
「なんで?」
「そういう規則」
レンジの説明に夕立は「へぇ~」と頷く。今更だが、夕立は人間社会の風呂文化も忘れているんだっけな、と再認識する。
「
レンジのように、と言うのは姿を変更できる便利な特性に依存するもの。夕立にはそんな特異性はないことも思い出す。
『お客様。頸部および背部の露出を妨げる装飾・結髪は禁止されています』
と、急にアナウンスが入る。ガビガビの音割れ。夕立は驚いて、目を瞑り耳を塞ぐ。対してレンジはアナウンスへ言う。
「それが人間社会の文化だろーがよ!」
そう文句をぶつける。暫くの沈黙の後、アナウンスからは歪な回答が放送された。
『……互いの欲情を阻害するためです。改めて、ご利用の皆様へ、大浴場からのお願いです。髪を結い上げる行為、ならびに肌を過度に覆う行為はご遠慮ください。互いの姿を意識し、日々溜め込んだ欲を水面へ浮かべましょう。欲望は溜め込まず、この場所で洗い流してからお帰りください』
ビリビリ、と鼓膜を刺激する。
(……なんだ、このカスみてえな規則は)
レンジはカメラへ中指を立てて、不満を表す。規則を破ろうものなら、セラフィムが君臨するかもしれない。今は従順に従うふりをする、と苦渋の決断を下した。
「夕立、ちょっといいか?」
そう言うとレンジは夕立に別の
(……このままじゃ不安だな。もういっちょ手を加えるか?)
なんて考えているうちに、扉が開く。気付けば目の前から夕立は消え、浴場へ続く扉の前に立っていた。
「レンジさん、夕立は先に行くっぽい!」
言うや彼女は湯煙の奥へ消えていく。彼が伸ばした手は、すぐに下ろされた。迷子になる心配はないと、思ってのことだった。
~~
レンジが浴場へ足を踏み入れた時、彼の姿を発見したのか、
「レンジさーん、こっちこっち!」
夕立の声がトンネル内のように木霊する。ぴょんぴょん、と跳ねるせいか胸が揺れていた。周囲の利用客は何度も見ていたが、レンジが近づくや蜘蛛の子を散らすように去っていく。
「そんな大声を出さなくても聞こえている」
呆れたように溜息を吐く。
夕立は「えへへ~」と気恥ずかしそうに笑う。
レンジは夕立に隣へ座るよう、指示を出す。ちょこん、と椅子に座る彼女へ向き直る。
「それじゃ髪から洗っていくぞ」
丁寧に彼女の身体を隅々まで洗い、整える。脂、汗、謎の液体に汚れていた彼女の髪と身体は綺麗になった。
「むふー! 夕立、いい匂いになったっぽい~!」
彼女は自身の身体の匂いを嗅いで、ご満悦な様子にレンジは微笑む。
「
そう夕立に伝えると、黒紫色の髪を掻き上げて乱暴な手つきで洗う。泡立てたタオルも、ゴシゴシと古傷を傷つけるように擦る。
最後にお湯を頭から被り、完了。
「ふぃ~……すっきりしたあ」
ボディソープを濯ぎ、水気を絞ったタオルで顔を拭く。何日かぶりの風呂はいいもんだ、と改めて実感していた。
「あ!」
ふと隣にいた夕立が何かに気が付いたように、声をあげる。
「なんだ? 何かあったか」
レンジは夕立の方へ視線を向けた。すると、夕立はおもむろに顔を近づけて鼻を鳴らす。
「くんくん……レンジさん、臭くないっぽい」
鼻を摘まんだ時とは違い、密着しそうなほどに近い。
「あぁ……? そりゃあ身体洗ったんだから汚れは取れてンだろうがよ」
夕立の突拍子もない発言に困惑する。それよりも、だ。
「おい、仮にも年頃の乙女が裸の野郎の懐に近寄るな」
レンジは未だに離れない夕立を叱る。
「それにこんなところ見られたら、社会的に死ぬ。あとあいつに知られたら、物理的に死ぬ」
などと、冗談交じりに笑う。理解したのか、夕立はレンジの身体から顔を放す。すぐに腕を組み、うむむむと唸り始めた。
「まだ考える事があるのか?」
「さっきまでのレンジさんの匂いは……臭いっていうよりも、本能的に嫌な感じだったっぽい」
そう眉間に皺を寄せたまま、答えた。
真剣そうに答える彼女を前に、レンジは笑いが込み上げてきた。
「おいおい、ゲノハラか?」
「ゲノハラ? なにそれ」
「ゲノムハラスメント」
宇宙猫状態の夕立を見て、レンジはくつくつと腹を抱えて笑う。夕立は口を尖らせて、頬を膨らませる。
レンジはひとしきり笑った後、夕立を連れて湯船の方へ進む。二人が浸かる頃には、浴場には彼らしか残されていなかった。