「何か心当たりがあるって感じ…?」
謎の黒液と遭遇してから少しの時間が経った。頁をぱらぱらと
「いつか読んだ。似たのが書いてあった」
「なるほど」
ともあれ、彼女が心当たりを元に探しているのなら、下手に協力しても貢献するのは難しいだろう。そう判断して、こちらは
あの時、腕の断面から生え出た触手が脳裏に浮かぶ。手首を丸々切り離されても痛みに呻くことすら無かった。ただ、代替足り得る様な感覚はあって、違和感というか喪失感の様なこれによって視認せずに負傷を感じ取ることはできそうだ。
触手も身体の一部なのだろうか。これが何か共生関係の生物とかだったらちょっと受け入れられるか心配だなぁ。……いや、身体の記憶が別にある現状を鑑みるに、僕がこの身体に寄生した触手の人格であるみたいな可能性もあるというか、考えてみると大変尤もらしくないかこれ。え、うーん……。
この辺りでもっと差し迫った問題を挙げるなら、記憶のことだろう。死んでも生き返るにしても、何か条件を満たせば思い出が消失する。胴体と首を切り離されたのは2度あるが、派手に離された方のみで記憶が消えている。脳の失血や破損、機能停止に由来するのだろうか。最悪、知識が残っているのは運が良かっただけで、脳を全損すれば綺麗さっぱり何もかも忘れるのかも……。それ不死じゃなくない?
「トム
ふとユーケミニの声が耳に入って、意識が表層に戻った。認識に暫く時間がかかったが、この呼称は少し前に聞いたものだ。つまり彼女は僕に呼びかけている。
……いや、失念していた。そういえば自己紹介なんてものを全くしていない。彼女が名乗った時にでもしておけば。
「あ、あぁ、僕か。いやごめん、そういえば———」
しておけば……?
名前。……何だ?
……うーん、身体とは別な名前が欲しい気が———。
その時だ。考え込みつつ目にした床と、
…………!
床上の状況を目にして、反射的に椅子から飛び上がる。黒に浮く瞳が此方を見ていた。
見れば奥の扉から、床を黒い液体が足元まで達している。既に囚われていた片足を引けば、履いていた靴だけが取り残され、黒液中に飲み込まれていった。これは
「ユ———」
ユーケミニに目を移そうとして、視線が空を切る。そこに彼女の姿は既に無く、彼女が座していた座面には代わりに黒液が這い、液中に浮かんだ "口" が鳴いた。
———
ぎぃ と軋む様な音の連なりが、言語じみたイントネーションを孕んで響く。
…………これ、
唐突な孤立。そして目前に迫る未知の、多分脅威。
———
何某かを発声する "口" に次いでともう片足分の靴も投げ入れてみれば、やはり呑まれて消える。椅子の座面に薄く広がっているだけなはずの黒液が靴一つをするりと呑み込んでしまうのは、明らかに尋常ではない。体積は一体何処へいったというのか。
自身がああなった先に何があるのかは全くの未知数である。そんな博打みたいなことをやりたくは決して無い己の元にゆっくりと這い寄り来るこれは、やはり一種の脅威なのだろう。
はて、ユーケミニ氏はやはり、これに呑まれてしまったのだろうか。それとも別な場所に?
逡巡の内に引っかかったのは、彼女が消える直前、僕に呼びかけていたことだった。あの状況、あの時の文脈で捉えるなら、黒液に関する心当たりの正体を発見し、共有する為に声を掛けたのではなかろうか。
彼女の積んだ本の山に目を向ければ、机上の本の内一冊だけが投げ出された様に転がっていた。黒い装丁のそれが何かの手がかりになるかもしれない。そう思った時には足を動かしていた。
既に黒液が間近に迫っていたのだ。
「っ!」
机の脚元を黒液が這う。すると
「ま、間に合った」
危ない危ない。手の内に収まった本をしっかりと掴みつつ、駆けた慣性を手を突いて殺す。
猶予はきっと余り無い。黒液がこの場所を埋め尽くしてしまう前にどうにかするか、離脱しなくては。考えつつ動こうとして———
突いた手がびくともしない。
目を向ければ、その手に黒液が這い出していた。
———
「ぅ———」
それを認識し、咄嗟に
瞬間、肘から先は引かれ行き、黒液に呑み込まれた。
肘の断面からは既に血が止まっている。代わりに幾本の触手が飛び出し、元あったような腕を形作ろうとしていた。
「………」
………、意図的に切り離せてしまった。あの瞬間、腕から幾つも触手が飛び出すのを目にしたが。つまりはこの触手を操ったのだろうか。
と、兎も角。今は現状の方が重要だ。黒液に捕らえられた手が全くもって動かせなかったのだ。捕まったら抜け出せないと考えた方が良いだろう。
見ればもう、出口への道は占拠されていた。案外広いとはいえここは屋内。洞穴の床面を埋め尽くされるのも時間の問題か……。
周りに多少気を払いつつ、出来るだけの安全地帯に身を寄せて本を開く。腕を成形中の触手君は
手元に取って確信したが、これは前に読んだ『召使入門』と同じ本だ。同じ本であるはずなのに内容は全く以って異なるものになっていた。
紙面には
幾つか
この世界の文字だ。
———『不死の人。そこに居る?』
これは。これは———、
「……ユーケミニ?」
問われたなら、返事がしたい。指先を崩して血を流し、これをインクとして書き込む。
———"居る"
返事は直ぐだった。
———『来て』
何処へ? その疑問も解消される。どうやらこれは、思念の様なものがこの本から伝わって来ているらしい。言語化も難しい独特な情報だが、信じて受け入れられるほどには確かなものとして伝わっている。
だから僕は足を向けた。もう直ぐ其処へと迫っていた黒液に、自ら踏み入るために。どうやらユーケミニはこの先に居るらしいのだ。
黒液へと身を投げ出せば、まるで自由落下の如く身体が沈む。
と。
———
がしり と手首を掴まれた。
顔を上に向ければ黒液中から沸き出た腕が僕を掴んで、この身が沈むのを留めている。
なんだ、都合が悪いのか? さっきまでさんざ這い寄り回して来たくせに。
黒液に胸まで浸かるこの身をその手で引き摺り出せるものなのか、少し気になりはしたが。又もや内からの触手で腕を切り離し、再度
視界が黒で染まった。
暗い。
暗い。
目は開いている。
暗い。落ちる。
落ちている?本当に……?
暗い。
何も感じない。
気付けば、其処に立っていた。
赤い空間だ。
広い。左右には壁が見えるが、奥、そして手前の方角に関しては、どこまで続いているのか視認することができない。
幅に比して低く思える天井も相まって、部屋というよりは通路じみて見える。
そんな空間にポツン、と。小洒落たテーブルセットが在った。
2つの椅子は、片方に先客が腰掛けている。見知った顔に少し安堵を覚えながら、その傍までと歩み進んだ。
「ここに来るまでに、何か見えた?」
「……
視界には暗闇しか映らなかった。そう記憶している。
「そう」
座って。そう言ってユーケミニはティーカップを口元へと運ぶ。
はて。"この先は敵の腹の中" とばかり思っていたし、ここは敵地であるはずなのだが。お茶まで淹れて優雅に寛ぐユーケミニ女史は、一体如何なる心持ちでお過ごしか。
状況への混乱と、雰囲気に引かれた落ち着きを精神に同居させたまま、もう一方へと着席して
口元まで持って来たティーカップが香るのを愉しんでいると、ユーケミニが口を開いた。
「
んー、紅茶だ、比較的シンプルなやつ。美味しい。
「呑み、
「それが、
ユーケミニは頷いて返した。
「そう称していい、はず」
曰く、魔のモノの由来にして終点。特異たる普遍。
混沌とは全てを呑み込み
「けれど貴方は、どうやら違う」
ユーケミニは
この空間は
この場所は混沌の内にあって、混ざらずに "在る" 異物。その中にカルキを泳ぎ来た僕が居るなら、僕に混ざったカルキに引かれて今頃此処は闇の中になっているのが道理だと。
けれど壁の向こうは、ただ静か。
「……なっていないということは」
「混沌に嫌われているということ」
だから多分。
「貴方の持つ不死性は完成度が高い」
「完成度、ね」
「混沌と完全性は水と油」
成る程。侵入を拒否されたのは、相手に嫌われていたからか。
……これ、僕は別に何の危機でも無かったんだな。しかしユーケミニ的にはどうだったのだろう。
二人共に口を閉ざせば、認識が周囲の音を捉え始める。微かに耳に入る環境音は、恐らく壁の向こうのカルキの発する、体内を流れる血の様な音。ティータイムの音。衣摺れの音。それと、分からない音。
こつ、こつ、こつ と鳴っている。秒針よりはゆっくりで重い音が、聞こえている。
「この音は……」
問いに、ユーケミニは自身の喉元を指差してみせた。見れば音に合わせて、喉が動いている。
音はそこから鳴っているらしい。
「私が
言って、ゆったりと立ち上がる。
つまり、飲んだ血に
「混沌は遍くを呑む。混ざりものの液体は、内から徐々に嵩を減らされてしまった」
それでも沢山あったけれど。
ユーケミニは此方へ、静かに、確かに歩み寄る。テーブルに指を
気圧されたか、見惚れたか。自身の在り
その顔の、身の近さに胸騒ぐ。重心が後ろに移り上体は背もたれを外れるが、何時しかそこに在った
これで終わり。ユーケミニが薄く笑んだ。
「除く為に使い切った。この空間と、……渇きは、その結果」
広い空間に、身が二つ。
言葉を交わすに、もう囁きで充分な
乾いた喉に、言葉が詰まる。
「ぁ———、名前、新しく……考えることにしたよ」
そう、それなら。囁きが耳朶を撫ぜる。
「私から、"ヨタ" をあげる」
手が触れ、指が首筋をなぞった。
冷たい。
「不死者の血は、どんな味がするのかしら」
「あぁ、不味くないと、いいけどなぁ」
僕はそれに、照れた様な苦笑いを返した。